16-⑥:目覚めの気配

 眠い。ひどく眠い。

 ふよふよと水の中を漂う心地。その気持ち良さに、いつまでもそうしていたい気分になる。


―君の名前は…?

 だけど、誰かの問いかけが聞こえた。だから、眠いけれど、きちんと答えないといけないと思った。


―オレの名前は、セシル。セシル・フィランツィル=リートン…

 口を開くと、こぽこぽと口から泡がでる。それは透明な水の中を、ふよふよふよと水面の方へ浮いていく。

 その幻想的な光景を、オレはぼんやりとみていた。



**********


「……」

―どうしてこうなった


 それから2日後の朝。テスは宿屋の部屋で、熱を出して寝込んでいた。


―絶対に先輩たちにキレられる


 今日は本当だったら、仕事に出なければならない日だった。通信機は無くとも、一応電報に似たサービスがありがたいことにこの世界にもあったので、それでに頼んでマナに事情は伝えてもらった。しかし、帰ったらきっと、代わりに仕事に入ったおば様方(先輩看護師たち)から、延々と嫌味と愚痴を聞かされるだろう。面倒くさい仕事が増えることに、テスは布団の中ではあとため息をつく。


―あんなやつ、見捨てて殺しておけば…

 と、その時、部屋の扉がノックされた。


「おはようございます。入りますよ」

「…はい、どうぞ」


 噂をすれば、とテスは舌打ちをしたい気分になる。ぎいと開いた扉の方を向けば、ひょろっとした長身で灰色頭の代理人―あの時の酔っ払いが、重そうな肩掛け鞄をし、お盆を片手に部屋に入ってきた。


「具合はどうですか?」

「……」

 テスはふんと鼻を鳴らすと、布団にもぐった。顔など合わせたくもない。


 あの後テスはこの男を拾い、近くの宿屋に入った。しかし、帰宅難民達が押し寄せていたせいで部屋がどこもかしこも満室で、雪の中男を抱えて(重力魔法を使えるだけましではあったが)他の宿屋を回る羽目になり、やっと空き室がある宿屋を見つけたのはすっかり夜になった頃。しかも、唯一残っていたのは一人部屋だった。酒臭い奴と一緒にベッドで寝るのはごめんだと、テスは床で毛布一枚巻いて寝ていたのだが、朝起きたらこの様だ。それから丸1日経つが、一向に熱は下がる気配がない。


「ごめんなさい。僕が酔っぱらって倒れていたせいで、こんなことに…。にしても、すごい雪でしたね。ホリアンサでこんなに雪が降るのなんて、めったにないことですよ。さっきそこで宿屋の旦那さんに会って聞いたんですけれど、宿屋という宿屋がこれは大変だってなって、最終的に布団部屋や廊下まで貸し出したらしいですよ。お断りして、凍死者でも出したら大変だって」


 宿屋という宿屋がもっと早くにそう判断してくれたなら、俺はこんな目には合わなかった。最初の宿屋が廊下にでも泊めてくれれば、板張りの床で体が冷えることはあれど、体の芯の芯まで冷やしながら宿屋を回る羽目にはならなかったのだ。


「ほら、台所を借りて、お粥を作ってきてあげました。どうぞ食べてください」

「……」

 テスは能天気にも思える男をあらん限りの言葉で責めたくなるが、いかんせん風邪で体力がなかった。だから、素直に体を起こすと、男からお粥の乗せられたお盆を受け取る。


「…それにしても、本当に綺麗な銀髪ですね。セシルさん」

「…昨日も言ったが、誰かに他言したらぶち殺すからな」

 テスが男を睨むと、男は「はいはい」と苦笑交じりに両掌を上げて見せた。その真剣味の無さに、テスは少し心配になる。



 テスは昨日の朝、目覚めた時、熱で意識が朦朧としていたらしい。というのは、テス自身、熱でうなされていたので、ほとんど記憶がないからだ。そして、寝ている間にどうやら鬘が脱げていたらしく、そしてその時には素面になっていた男の呼びかけに、本名―セシルの名を言ってしまったらしかった。


 この男はセシルの事情について―それはサーベルンの人質となり、敵方の男に手籠めにされたという表面的な話だが―噂などで知っていたらしく、意識が戻ったばかりのテスに、気の毒そうに話しかけてきてくれた。


「医者には患者の守秘義務がありますから、安心してください。よほどの罪人でない限り、密告とかそんな馬鹿なことはいたしませんよ。それにツンディアナに囚われているはずのあなたがこんな街で働いているという事は、きっと敵の元から逃げてきたんでしょう。大変だったでしょう?なんなら、リトミナまで送ってあげますよ」

「別にいい。自分で帰るから」


 リトミナに連れて行かれるのは困る。だから、帰る気はさらさらないが、そう言わないと本当に送っていかれると思ったからテスはそう言った。すると、男は「そうですか、けど何か力になれることがあれば言ってくださいね」と親切にも言ってくれる。




 テスは、サアラ然りアーベル然り、またあのややこしい人間関係に巻き込まれる気がしないでもないから、こうやってリトミナには帰らずにヘルシナータで市井に紛れている。

 それに、リトミナに帰ったら、どうラウルたちに説明すればいいのだ。レスターとの関係の事は当然、マンジュリカや初代女王の事、そしてアーベルの事に、あの山での一件のこと。例え、ラウル達はわかってはくれたとしても、国王や側近たちはそうはいかない。それどころか、もしもアーベルを殺したことが知れれば、有無を言わさず処刑だ。


 かといってツンディアナに帰ったところで、自身はもうセシルとしての人格は一切持ち合わせていない。今更レスター達にどう接すればいいのか分からない。


 テスは、もう余計なことは考えたくともないし、関わりたくともなかった。普通の人間としてのんびりと暮らしたかったのだ。




 あの山での一件の後、テスはあの水色の石―初代王妃の本体を持ち、山を下りるとそのあたりの民家にこっそり忍び入り、適当な服と少しのお金を拝借した。そして、港まで身を隠しながら向かい、ヘルシナータ行の船に乗ったのだ。そして、その航海途中、深い海溝がある辺りで、船から石を投げ捨て沈めた。永遠に出て来るなと願いながら。


 あの女が宿る石は自身が精神干渉したことがきっかけで、図らずも封印状態になってしまった―眠ってしまったようだった。だが、だからといって安心はできない。いつかは目覚めるかもしれない。だから、身を隠すためにもテスは、こうやってリトミナにもツンディアナにも帰らずにいると言える。


 ちなみに、レスター達3人は重傷を負ったものの、無事回復したと風の便りに聞いた。そして、サーベルンはあの襲撃事件で、セシルがマンジュリカの手の者(厳密に言うと初代王妃だったのだが)に攫われて行方不明になったことは伏せていたらしかった。きっと大騒ぎになるからだろう。


 更に、公には、ラングシェリン公爵はセシルを取り返しに来たリトミナの者―セシルの侍女サアラ・ホールに襲撃されたという事になっていた。最初はセシルを傷つけないために、そしてセシルを取り返すために真似事をされてはたまらないからサアラの事は黙っていたのだろうが、大事となった以上、死んだ彼女に罪をすべてなすりつけることで仔細を隠すことにしたらしい。


 リトミナの王都の山地も、未だに裸のままだそうだ。あの事件は、未だに世間では謎の怪奇現象と言われている。謎の巨大な渦が発生し、一夜にして山地が裸となった事件。山に青い柱が立ち、それを中心として雷を発生させながら大きな渦が巻いていたのは、多くの王都民に目撃されていた。さらに、その夜は大量の流れ星が山地に落ちたとか、獣の咆哮が聞こえたとも言われている。サーベルンのメルクト郊外の山に起こった現象とよく似ているという者もいて、案外勘の良い奴もいるんだなとテスは感心していた。


 もしかしたら、リトミナ王家の方では、それが王家の最悪の事態と気づいているかもしれないが、そこまで発現できる者は居るはずもないという結論になっているだろう。だから、未だにツンディアナにいることになっている自身セシルがあの現象を引き起こしたとは疑われないはずだ。




「さあ、今日も診てあげますからね」

 お粥を食べ終わったテスにそういいつつ、男は自身の肩掛けの鞄をごそごそとあさりだす。そして、聴診器などを準備していく。


「……」

 テスが拾った男は何の偶然か、医者だった。アンリ・ワードという名前で、この辺りの病院で働いているらしい。そして、自身がテスに風邪を引かせてしまった責任を取るために、一日に何度か、こうして職場からこの宿屋へと足を運んでくれていた。もちろんテスが居る間の宿代も全部、この男―アンリが持つと言っている。当然治療費や薬代もタダだ。普通の人なら恐縮する所だが、テスはこれぐらいしてくれて当然だろうと思っている。


「……」

 診察が終わった後、テスは渡された薬を飲んだ。しかし、アンリは診察を開始した先程からがずっと、どことなく興味津津とした表情でテスを見ていた。まるで、実験用のモルモット扱いされているような気分で、至極気分が悪い。だから言ってやった。


「お前、さっきからやたらと嬉しそうだな?」

「…えっ、どうしてですか?」

 アンリは戸惑った。


「さっきから、何を興味深そうな顔をして、人の体や顔を見ているんだ。気持ち悪い」

「…え、それは、その…」

 アンリは目を泳がせる。しかし、テスにはっきり言えと目で睨まれて、小さくなって口を開く。


「実は、僕、ジュリエの民に昔、興味を持っていた時期がありまして。だから、実際に実物を目の前にして、ものすごくどきどきしていると言いますか」

「…」

 テスはジュリエの民というものを思い出す。リトミナ王家の祖先、リトミナよりもはるか北方の地に住むという民族の事を。リザントの村長の家には、色々と彼らについての伝承の文書が残っていると、セシルが聞いていた。もしかしたら、『神の涙』に関する情報もあるのではないかと、ふとテスは思う。


「本当に銀髪なんですね…肌もすごく色が白い。すごいなあ…へえ…」

 アンリは聞かれたことで、今度は遠慮なくテスの顔と体をまじまじと見始める。なんだかこう人から見られるのは居心地が悪いが、気がすんだら解放してくれるだろうとテスは我慢する。



―そう言えば、前の世界では銀髪は病気の症例だったな…

 テスが前に住んでいた世界の、生まれ育った土地では、水色の目も白い色の肌もさして珍しくは無かったが、銀髪は珍しかった。だが、それは年々増えていた。黒髪黒目の地域の者ですら、銀髪に水色の目、そして白い肌となる先天性の遺伝的な病気として。

 テスのかつての親友ジュリアンもその病気だった。病気とは言えど健康に全く障りはなく、外見だけの突然変異だった。


 その病気の原因も解明されている。それは化学兵器に搭載された特殊な物質で、それが戦争に使用される度大気が汚染されているからだった。その物質は人工的に作った放射性原子で、どうやらそれが人間の遺伝子を傷つけていたらしかった。



「ねえ、セシルさん。その髪、触らせてください!」

 アンリが思い切ったように言った。

「はあ?!」

 厚かましい。テスは即答で断るが、するとアンリはひどくショックを受けた顔をした。


「わかってましたよ…女性の髪を触るなんて大変失礼なことですもの…だけどちょっとぐらい…」

 アンリはうつむいて、小さくいじけはじめた。幾つの子供だ。テスは、遠慮なく聞こえよがしにため息をつく。


「…わかった、一回だけだぞ」

「ホントですか!!」

 仕方がないのでそう言ってやると、打って変わってアンリはぱあっと顔を輝かせた。そして、恐る恐ると言った風に、セシルの頭に触れる。


「うわあ本物だ…すごくやわらかい。さらさら…気持ちいい…」

「……」

 アンリは最初の内は遠慮がちだったのが、次第にさすさすさすと、感触を堪能するかのように撫ではじめる。



「…」

―いかん、止め時がわからなくなってきた


 制止の声をあげるタイミングを失い、テスはしばらくそうして、わしゃわしゃと頭をかきなでられていた。何分たった頃だろう。ふと部屋がノックされた。


「テスー!迎えに来たわよ~」

―えっ、この声…


 テスは咄嗟にアンリを押しのけると、ベッドわきのカツラをかぽりと装着した。それとほぼ同時に、ドアが勢いよく開けられる。


「初めまして、アンリさんですね。マナ・タンストールです。わざわざご連絡ありがとうございました。すみませんねえ、うちの子がご迷惑をおかけして」

「いいえ、僕の方がせし…テスさんに迷惑をかけたんですよ。…酔っぱらって行き倒れていたところを助けてもらわなければ、僕は今頃はきっと凍えて死んでいたでしょうから」


 アンリは、テスがセシルの身分を隠すために偽名―本当は本名なのだが―を名乗っていることを、マナへの連絡を頼まれた時に告げられていたことを思いだし、咄嗟に名前を言い換えた。


「それにしてもあんたが人助けするなんて珍しいわねえ。屋根から落ちかけていたお隣さんでさえ、見捨てようとしたあんたが」

「…自己責任にかまっている暇なんてない。屋根の修理をする時に、命綱を用意しない方が悪い」

「そんなあんたが、今回は酔っ払いと言う自己責任野郎を助けたんでしょ?あんたもちょっとは成長したのねえ」


 マナは「さすが私の教育!」と肘でこづいてくる。さらに、あろうことか頬に唇を寄せてきたので、テスは「至極気持ち悪い」とマナの顔面を押し返す。



「…仲が良いんですねえ…」

 アンリがほのぼのと取っ組み合う二人を見ている。

「よくない」

 テスは即答する。

「あらあ?照れちゃってこの子は可愛い!」

「可愛くなんかない」

 テスは、マナの鳩尾をごすと肘で撃った。うぐと床に膝をつくマナに、テスは仕事は終わったとでもいうかのように、手のひらをパンパンと払った。


「…ははは」

 アンリは苦笑しながら、テスを見た。


「ひどいわ…わざわざホリアンサの端っこから中央のここまで、雪の中苦労して駆けつけたって言うのに!」

「お前、馬鹿か?患者をほっぽいて、跳んで出かける医者がどこにいる?」

「大丈夫よお。後の事はおじいちゃん先生にぜーんぶ任せてきたから」

 マナはバッチグーと親指を突きだしてウインクして見せる。舌までペロッと出して。


「……」

 この不真面目な女医マナは、何かという時には隣町の診療所の元医者(息子が跡を継いだため、引退したおじいちゃん先生)を引っ張り出して、自身の診療所を任せている。彼はマナの死んだ父親の友人だった上、『まだまだ現役には負けん!』と快く引き受けてくれているが、もし自分が彼だったら頼みに来た時点で頭を一発どころか5発殴ってやっている所だ。


「ってことで、私もしばらくこの街で観光しちゃうから、喜んで寝込んでいてね」

「……」

 もしかして本気で心配して迎えに来てくれたのか、と心の片隅で感動していた自分が馬鹿だった。こいつは俺を迎えに来ることを口実に、遊びたいだけだったのだ。テスは心底、深いため息をついた。


「ははは…テスさん…安心してください。君の事は僕がちゃんと見ますから…」

 事情を理解したアンリはそんなテスの肩を叩き、同情めいた視線を送ったのであった。

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