名字の歴史① ローマ時代と初期中世

 名前をつけたら次に考えたくなるもの、それは名字。


 現代のイタリアで最も多い名字は「赤」を意味する「ロッシ」さん。ほぼ全国的にいると思われますが、地域によって綴りが違い、南部ではルッソやロルッソになります。


 イタリア人の名字は地域性がとても強く、名字を聞いただけで例えば「あ、ナポリの人かな」という感じにルーツを推測できる場合が多いのだそうです(大抵はそれ以前に訛りで出身地が丸わかりですが)。


 だから自分が16世紀イタリアの時代小説を書くにあたり、登場人物の名字は地域性も考慮したかった。社会的地位も反映されるだろうし、好きな名字を適当につけるだけではいけないような気がした。


 そこで当時の資料を調べると、どうも姓がない人がいる。姓ではなく地名だったり、あだ名だったり、父親や祖父の名前だったり。


 なぜこのような表記法なのか。


 フィレンツェの場合は15~16世紀の市政府の役職者の名簿と国勢調査の資料があり、データベースが膨大なのでネーミングに困ることはありませんでした。


 でもやっぱり名字の成り立ちや歴史をちゃんと知りたかった。


 名字とはそもそも何なのか。


 現代の我々にとって「名字」とは親から受け継いで通常は一生変わらず(日本では夫婦別姓が認められていないので結婚で一方の名字が変わる)、子供に継承されるもの。


 しかし、かつてはそうではなかったらしいのだ。



 *



 イタリア人の名字の歴史はローマ時代にさかのぼります。


 ローマ市民権をもつ男性の名前は、


 ①プラエノーメン(個人名)

 ②ノーメン(氏族名)

 ③コグノーメン(家族名)


 の三部構成。


 プラエノーメンは両親が子供につける個人名で、ノーメンは共通の祖先で結びついた氏族、コグノーメンは氏族の中の家族を表します。


「賽は投げられた」の名言で有名なユリウス・カエサルの名前は


 ガイウス・ユリウス・カエサル


 で、ユリウス氏族の分家であるカエサル家のガイウス君という意味になります。


 一方、女性には個人名がありません。カエサル家に娘が誕生したら、氏族名のユリウスを女性名詞化したユリアという名前になります。女児が複数いるならユリア・マイヨル(年上のユリア)、ユリア・セクンダ(2番目のユリア)等で区別したようです。


 意味を聞いてもピンとこない氏族名ノーメンは置いておいて、家族名というからにはこの家族名コグノーメンが発展して現代の名字になったのかと思いたくなりますが、ことはそう単純ではありませんでした。


 この形式の名前はローマ史でずっと続いたわけではなく、全盛期は紀元前2世紀から1世紀の100年間で、その後は衰退の一途を辿ります。


 なぜか。


 プラエノーメンはバリエーションが極端に少なかったのです。現代に伝わっているもので56種類、うち17種類を共和制時代から帝政時代の99パーセントのローマ市民が使っていました。そのせいか普段の会話ではほとんど使われず、個人を区別する名前としては家族名コグノーメンが使われたそうです。もともと公文書では省略して頭文字で書かれていたらしいプラエノーメンは紀元2世紀頃から衰退し、ローマ時代末期の混乱のなかで消滅していきます。


 カエサルのプラエノーメンであるガイウスも人名としては消滅しました。しかし氏族名のユリウス(JULIUS)と家族名のカエサル(CAESAR)は、それぞれジュリオ(Giulio)、チェーザレ(Cesare)という個人名として残っています。


 有名なファッションブランドのヴァレンティノ(Valentino)は創業者のファーストネームですが、もとはウァレンティヌス(VALENTINUS)という家族名コグノーメンだったようです。



 *



 5世紀、最後の皇帝が廃位されて西ローマ帝国は滅亡。領域内にゲルマン民族が居住するようになります。


 イタリア半島にはランゴバルド族が移住し、それに伴って古代ゲルマン諸語に属する外国語の名前が大量に流入しました。キリスト教の影響でヘブライ語起源の名前もすでに普及していましたが、そこにゲルマン系の名前が加わり、音韻変化しつつ溶け込みます。


 グリエルモ(Guglielmo)というイタリア語の名前は4世紀頃から記録に登場しますが、もとはゲルマン起源でドイツ語だとヴィルヘルム(Wilhelm)。一見まったく別の名前ですが、ゲルマン系の名前が各地に伝わる過程でラテン語と混ざって変化したためだと考えられます。


 こうして父親が例えばゲルマン語系の名前、母親がラテン語系の名前、生まれた子供はヘブライ語系の名前だったりして、家族の中でルーツの異なる名前が混在している状態が普通になりました。

 ひとつのコミュニティに多言語の名前が共存している現象、どこか最近の異世界ファンタジーの傾向を彷彿とさせます。


 前回で取り上げた人名ではアルベルト、カルロ、ベルナルドなどがゲルマン語由来です。

(英語ではアルバート、チャールズ、バーナード)


 ヴィンチェンツォ、コスタンツァ、ドメニコ(英語ではヴィンセント、コンスタンス、ドミニク)はラテン語由来。


 ジョヴァンニ、スザンナ、ミケーレ、エリザベッタ(英語ではジョン、スーザン、マイケル、エリザベス)はヘブライ語起源でユダヤ・キリスト教に由来します。


 アガタ、カテリーナ、ジョルジョ、ステファノ(英語ではアガサ、キャサリン、ジョージ、ステファン)はギリシャ語由来。


 アントニオ(英語ではアンソニー)はローマより先にイタリア半島で栄えていたエトルリア人の言語が由来だと言われています。


 英語では聞き慣れた名前もあるかと思いますが、ルーツは多様なんですね。



 *



 名字がテーマなのにファーストネームの話ばかりしています。


 というのも、古代ローマではラテン語が公用語でしたが、ラテン語が属するインド・ヨーロッパ語族の文化圏では名前を1つしかもたないのが主流でした。古代ギリシアでも、ペリクレスやアリストテレスなどの例で分かるように1つです。


 3つ(またはそれ以上)もあるローマ市民がむしろ特殊だったのです。


 ゲルマン民族もインド・ヨーロッパ語族に典型的で名前は個人名のみ。ローマ帝国の崩壊に伴い、イタリアでもそれが主流になります。


 とはいえ、複数の名前を使う習慣は古代の栄光と共に忘れられたわけでも、捨て去られたわけでもありませんでした。


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