弥終の蓮

にっこ

第1話

――湖面に咲いた蓮花のような女性だ。

 猛爾元もうじげんが張文玲と引きあわされた時、砂漠の砦の一室は瞬く間に蓮の葉の海と化した。



 女が供を連れてよう国の西の果て、遠沙えんさ郊外の砂門関さもんかんを尋ねてきた。

 ほとんど曇りといって良い、薄ら晴の白んだ空のもと、礫砂漠の赤茶色ばかりが目を惹く。曄の国土を守るよう、砂門関の城壁は龍のような体を西に向けて伸ばしていた。

 城壁に建てられた二層の砦に入る。灰色の石造りの回廊を抜け、天井を支える乾いた木の梁をくぐって、彼女たちは猛爾元の執務室の戸を叩いた。

「もし。曄国の猛爾元将軍はいらっしゃいますでしょうか」

 落ち着き払った若い女の声がして、猛爾元は床几に腰を下ろしたまま、筆を墨壷に立て掛ける。そして、急な来客に怪訝な顔をしながら、書きかけの木簡を半分まで畳んで隅に置く。

「いかなるご用件でしょうか」

 ため息を一つ吐いてから、猛爾元は尋ねた。

 傑の寵がある故に拝命した此度の“西方将軍”は名ばかりであったが、仮にも将軍に目通りを願うならば事前に文書で日時を取決めるのが習わしとなっていた。

 異民族出身の猛爾元はこういった手順をよく省かれるので、別段むっとすることはないが、女人にさえ侮られているのかと諦めに似た気持ちがこみ上げる。

「曄今上皇帝の求めに応じて馳せ参じさせていただきました」

「傑王の?」

「左様にございます」

 怪しい、と猛爾元は床几から腰を上げた。褐色の眉間を寄せて、銀糸のような髪を揺らす。

 ここは軍事要塞である。ただの女たちがすんなりと入れる場所ではない。面会の約束もないのに平然と砦に入り込めるのは不自然だ。ましてや将軍の執務室まで通すとは、兵たちは一体どのような警備をしているというのだ。

 この地はつい先日反乱を鎮圧したばかりである。よって、鎮圧されたブグラ族の女の報復かもしれなかったし、単に猛爾元や曄国をよく思わない暗殺者かもしれなかった。

 戸の前まで移動すると、脇に立った部下に手で開門の合図を送る。銀色の具足が西日に当てられて白く反射し、深紅の外套が翻る。戦いがなくとも猛爾元は勤務中、有事に備えて具足姿でいた。

「お初にお目にかかります」

 だが、懸念は懸念に過ぎなかった。戸の向こうの声の主だった女が挨拶する。

 女たちは遠沙の村人がよく着ている襟の詰まった服に太めの帯を巻き、ゆったりとした着物を羽織っている。敵意はなさそうだ。

「あなた方は?」

 一目見て主従だろうと分かった。独特な雰囲気の女性だ、と猛爾元は主らしき女を見て思った。

 理由はないが、猛爾元は何となくみやこ・凰都にある王宮の蓮池を思い浮かべた。女を形容する場合、曄国では花や鳥、それに動物などに例えるのが一般的だが、この女は不思議と蓮の葉が繁り、薄紅の花が咲く蓮池――そんな光景を彷彿とさせた。

 彼女の顔つきがいかにも曄人の凹凸に欠けるものだったからかもしれないし、天が猛爾元に与えた霊感かもしれなかった。

「曄傑王が六十四番目の御子、公主・張文玲様であらせられます」

 供の女が一歩前に進み出て主を紹介した。

「公主……?」

 猛爾元は慌てて――反射的にといってもよかった――石畳の床に跪き、こうべを垂れた。

 ――まことに皇上の公主でいらっしゃるか、という言葉が喉元まで上がってきたがぐいと飲み干した。

 公主にしてはいかにも供が少ないし、曄の王宮内で一度も見たことのない顔だ。

 無論、王以外の男は後宮に足を踏み入れることは許されないし、猛爾元とて王宮に出入りしている人間全ての顔を把握しているわけではない。

 文玲の顔は特徴的であった。黒の絹の覆いの裏に下弦の月のような目をしていて、目尻には筆先から墨をこぼしたようなほくろがひとつ。決して普遍的な美人とは言い難かった。むしろ、宮中の花咲き誇る美女たちを見知っていれば、新月に現れる幽鬼のような女と断じられるかもしれない。曄の公主が斯様な容貌とあらば少しは噂話が立っても良いはずだった。

 それに、ここは王都・凰都こうとではなく、曄国の西の果て。ブグラ族自治領との国境くにざかいだ。埃と砂まみれで富んだ大都市はなく、ブグラの言葉でさえ「アクサ」――即ち「遠い」と呼ばれる辺境の礫砂漠だ。

 果たしてつい先日反乱を鎮めたばかりの危険な辺境にまことの公主がやってくるものだろうか。

「どうぞ顔をあげていつも通りになさってください」

 訝しむ猛爾元をよそに、公主・文玲は喜怒哀楽の分からない表情で小さな口を開いた。猛爾元は疑惑の色を瞳に浮かべぬよう努める。

 見上げた公主の顔はやはり特筆すべき美人ではない。しかし、下弦の月のような目はどこか神聖で清浄な気を孕んでいるように感じられた。凰都の寺院で見た女神にょしんの像を仰ぎ見た時の様相に似ているからかもしれない。その証拠に猛爾元は、文玲の尖った靴の先端が己に向かって一歩一歩進むたび、足元から鬱蒼とした緑の茎が生える幻覚を覚えるのだった。

 しばらく跪いたままの猛爾元に、文玲は手を差し伸べた。立ち上がれということだ。

「いえ、お手を煩わせなくとも」

 そういって立ち上がり、再び文玲を見れば、曄のどこにでも居そうな小柄で素朴な若い女にしか見えなかった。緊張のあまり思い違いをしたかもしれない。

 文玲は猛爾元が心の内に抱いた感想など知る由もない。彼の思考の往来を無視し、澄んだ声で告げる。

「わたくしはあなたに嫁ぎに参りました」

 唖然として立ち尽くす。

「は。今、何とおっしゃいました」

「わたくしはあなたに嫁ぎに参りました」

 文玲が一歩前に出る。蓮の芬芳が二人を包む込み、猛爾元の世界は緑の海に断絶された。途端に酷暑にやられたかのような眩暈が襲ってきた。

 凰都に凱旋する支度を終えた矢先の出来事だった。



 凱旋の列が連なる。騎馬隊が大河のように流れていく。

 一行は猛爾元の姓である「宝」字の書かれた旗を掲げて一路凰都こうとへ向かう。女たちが来てから二日。王都からいかなる通達もなく、凱旋の列が花嫁行列になるも、再び遠征軍となることもなかった。ただ、期日通りに帰る。

 猛爾元は疑心暗鬼のまま公主と名乗る文玲と宮女と名乗る杏鈴きょうりんを輿に乗せ、自身は馬を駆って輿の横につく。果たして、真偽が明らかになったのは傑王の御前に至ってからだった。

「皇上、西方将軍・猛爾元、ただいま帰還いたしました」

 猛爾元は赤い房飾りのついた兜を脱ぎ御前に立った。

「よく無事で戻った」

「は。有難きお言葉にございます。して、曄西方国境の遠沙郊外におけるのブグラ族の反乱ですが……」

「その報告はよい。貴様が文に書いてよこしていたではないか」

「は」

 反乱鎮圧のくだりを報告した猛爾元に、傑は興がそがれた口ぶりをした。

 昇り龍を彫金し貴石散らばる王座の肘掛けに傑はけだるげに肘をつく。相変わらず髪を整えるのを拒んだようで、山犬のように茫々と生えた髪を己で乱暴に纏め上げたようだ。

 胸元は肌蹴、大国の王にしては乱雑な身だしなみをしている。それなのに眼光の奥に蓄えられた鋭い光と、彫像のように均整のとれた目鼻立ちが只者ならぬ威圧を与える。

 猛爾元にしてみれば、反乱についての報告文を主がしっかりと目通ししていたのが意外だった。傑は曄の版図を広げ、曄に反抗するものを屈服・服従させれば満足なのである。反乱を収拾する行為自体や、反乱の首謀者の処断にはあまり興味がない。極端なところがあり、曄国の敵となる可能性があれば精査もせずに容易に死罪を言い渡す。それを文官武官が共に悟すのが常だった。

 それなのに此度は反乱の過程や鎮圧を書き記した報告文を読んだというのだ。

 そこには魂胆があった。

「反乱よりも余に報告すべき重要なことがあろう」

 傑は待ちきれないようすで猛爾元に発言を促した。

「いえ、首謀者ラフマン・ビン・アル=ナーシルと胡三允は報告文の通り捕虜としました。刑は死罪が妥当でしょうが、最終的な検討は追って奏上いたします。遠沙はラフマンの息子が恭順を示したので……」

「朝貢をもって和睦を結んだのだろう。斯様な件ではなく、反乱の他に異変はなかったかと聞いておる」

 どうやら真に報告文を読んだらしい。猛爾元は驚きを隠せなかった。

 傑はそわそわしながら、悪戯めいた顔をしている。もしや、と思って猛爾元は言いにくそうに口を開く。

「は。ひとつ不可解なことが……」

「申してみよ」

 表情は変わらないが、傑の目の色がみるみると輝き始めた。

 猛爾元は王座の間で文玲たちのこと話すつもりはなかったのだが、他に思い当たる節もなく、主君の耳に入れることにした。

「凱旋前日の昼間に文玲公主と名乗る娘とその傍仕えの女性が私の元を訪ねてこられました」

「ほう、それで」

「文玲公主と名乗り、皇上の六十四番目の娘で、傍仕えの女性は宮女であると」

「ふむ、他には」

「その、私の妻になると……、申しておりまして……」

「何が不可解なのだ」

「恐れながら私が後宮の噂に疎いこともありますが、文玲という名の公主は凰都にて雀の噂ほども耳にしたことはございませぬ。故に、皇上の公主を騙ってはいまいか。騙っていた場合には相応の処遇をせねばなりませぬ。ですが、女人の扱いには長けておりませんゆえいかなる方法で真偽見極めるべきか苦慮しており……」

「はぁ。貴様は本当に傑出した堅物よ」

 傑は呆れたように嘆息した。

「文玲はまことに余の娘だ」

「なっ……!」

 重要なことをさらりと言いのける傑に、猛爾元は唖然とした。

「官に調べさせ、余の娘の生き残りが遠沙のほど近くに暮らしていると聞いたのでな。貴様の日々の労いに女として勤めるよう命じたのだ。ほとんどの娘は嫁いだか死んだので探すのはなかなか骨だったが重畳、重畳」

「皇上、大変に光栄なことではありますが、私は一生妻帯するつもりは――」

「貴様は僧侶ではなかったと余は覚えているがいかに。ならば貴様の好きに扱うが良い。生かすも殺すも好きに、な。あの娘は貴様にくれてやったのだからな」

 傑は犬を追い払うかのように手を振ると、疲れたので午睡すると言って王座を立った。

 王座の前の紅い毛氈に跪く猛爾元の背後では、官たちが、皇上の真心に背くとはこれだから北戎は信用できぬだとか、北戎の分際で身の程をわきまえぬやつだとか、猛爾元が王の外戚になるのかだとか、皇上の娘ならばさぞや美しいことだろうとか、婚礼の日取りはいつかとか、各々の感想を言い合い、騒ぎ立てた。

 辞退の言葉に傑が機嫌を損ねなかった安堵も束の間、婚姻が本意ではない猛爾元は次第に、彼の身勝手な取決めに腹の底から怒りが込み上げてきた。

(――あのお方はいつでもそうだ! 勝手に物事を決定して押し付けて)

 ぐっと拳に力を入れると、文武百官の声を耳に入れぬよう王座の間を去った。猛爾元の心を別にして、百官それぞれの思惑と描いた未来が渦になって風に乗り、天に彼らの願いを届けてしまいそうだった。

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