3-11:禁呪

 マクリエはヴァーテに手を貸しながら、イシアの名を呼び続ける。



 ヴァーテも様子がおかしい。彼女はまるで人形のように力なくマクリエに寄りかかるだけだ。



 黒ずくめが左手を天井に向けた。口元が高速で詠唱句を紡ぐ。魔法力の集束で輝き始めたその手で、ひとつ大きく指を鳴らす。



 ――群衆たちが、動きを止めた。



「ちょ、何? これ」



 狼狽うろたえたマクリエが周囲を見る。



 彼女の数歩先にいた群衆は、今まさに武器を振り上げた格好のまま完全に凍りついている。全方位に渡って、同じ光景が広がっていた。



 レアッサは眉間に深い谷を作り、群衆を見る。単に様子を見ているのとは違う。見えない力で動きを止められたようだ。



 そう、それはまるで――



「操り、人形」



 乾いた唇でつぶやいた自分の言葉が、ひどくおぞましい響きに聞こえる。



「そうか。お前が黒幕だったか」



 ふと、かたわらでエゼルが言った。黒ずくめが応える。



「どうやら貴君に下手な隠し立ては無用と見える」



 泰然たいぜんとした態度だった。レアッサは唾を飲み込み、黒ずくめの男をじっと注視する。黒の外套に包まれた男の正体を探ろうと目を凝らし、やがてひとつの疑念を抱いた。



「まさかあの男、密絡? それにこの声は、カラヴァン様の」


「警戒しろレアッサ」



 黒ずくめに目を向けたままエゼルが言う。彼は背後のマクリエたちにも声をかけた。



「マクリエ、ヴァーテを放すな。しっかり抱き留めていろ」


「う、うん」


「いや。駄目。放して、マクリエ」



 まったく反対のことを訴えるヴァーテ。その身体が異常なほど震え始めた。



「放して。お願いだから放して、マクリエ」


「嫌だ。こんな震えているヴァーテを放っておけないよ」


「違う、違う、違うの。お願い。放して。離れて、私から」



 彼女の手が一際激しく震え、歯の根が合わない音が重なった。



 黒ずくめが告げる。



「さあ、よ。まずはリザ様の御姿を騙るその不届きな娘を、やれ」


「ごめんなさい、マクリエ……!」



 ヴァーテが悲鳴を上げる。



!」



 ついには涙を流しながら、ヴァーテはマクリエに飛びかかった。



 呆然とするマクリエの手から長剣を奪い取ると、そのまま一切の手加減なしにマクリエのももを貫く。



「あああああっ!?」



 絶叫したのは体を傷つけられたマクリエではなく、ヴァーテの方だった。だがその表情とは裏腹に、彼女の手は見えない糸で操られたように剣を引き抜き、さらにもう片方の脚を貫こうと無慈悲に狙いをつける。



 その手をエゼルがつかんだ。



「ヴァーテ! しっかりしろ!」


「う、ああああ」



 エゼルの呼びかけにもヴァーテはほうけた声を出すばかりで答えない。瞳の焦点がぶれ、半ば意識が朦朧としている様をレアッサは見た。



 腕の中のイシアが薄目を開け、ヴァーテの名をつぶやいた。



 黒ずくめが無慈悲に告げる。



「こちらへ来い。娘」


「ヴァーテ! 止めろ!」


「動くな、エゼル殿。さもなくば、その娘は我を忘れて貴君らに襲いかかるぞ? それこそ自分の身がどうなろうとも、な」



 唇を噛むエゼル。



 ヴァーテは荒々しい仕草でエゼルの手を振り払った。そのまま覚束おぼつかない足取りで黒ずくめの元に向かう。エゼルもレアッサも、マクリエもイシアも、その後ろ姿をただ見つめるしかなかった。



 道を開けた群衆たちの間を歩き、ヴァーテは黒ずくめの傍らに立った。俯いた彼女の頬には、いまだ涙の跡が残っていた。



 懐から、黒ずくめが何かを取り出した。角錐型の結晶を誇らしげに掲げ、口角を上げる。



 レアッサは黒ずくめが握っている結晶を凝視した。間違いない、晶籍だ。だがどこかで。どこかで見たことが、いや、があるような。



「エゼル殿。いや、エゼアルド殿と言った方がよろしいか。この美しき結晶、貴君ならよくご存じではないかな?」



 挑発するような口調だった。エゼルが無言を通す。レアッサは気づいた。



 まさか、まさかあれは、僭王リザの晶籍……!?



 黒ずくめは嘲笑を浮かべた。



「カラヴァンから貴君の話を聞いたときは正直我が耳を疑った。こうしてその実力を垣間見るまでは半信半疑であったが、しかし、今日という日に貴君がこの場にいるとは、やはり流輪の運命とやらはろくでもない」


「リザの支持者が各地に散ったとは聞いていた」



 エゼルが言う。彼の胸の内で激情が渦巻いている様がレアッサには手に取るようにわかった。もろい檻の中で唸り声を上げる獅子を見るかのようだった。



「本拠地であっても群衆の中に紛れて活動するなどさすがリザの影と言うべきか。何を企んでいる」


「さて。貴君はどう思う? 当ててみたまえ」



 黒ずくめは傲然ごうぜんと言った。



 対するエゼルの表情は完全に強張っている。崇敬する男が怒りで冷静な判断力を失っていると見たレアッサは、意を決して叫んだ。



「そんなことはどうでもよい! 裏切り者の密絡よ、今すぐ投降し罰を受けよ!」


「ほう……」



 初めて黒ずくめの視線がレアッサに向く。その濁った目を見て首筋が泡立つ感覚を覚えながらも、レアッサは気丈に黒ずくめを睨み返した。



「貴様も我らの戦いぶりを見たであろう。もはや無駄な抵抗だ。何を企もうとも必ず潰す。だが大人しく縛に就くというのなら、このレアッサの名にかけて、貴様に尊厳ある裁きを受けさせることを約束しよう」



 レアッサは集中力を極限まで研ぎ澄ませた。もし黒ずくめが逆上してヴァーテを襲う暴挙に出るのなら、全力を持ってそれを阻止しなければならない。救出の機をうかがいつつ、レアッサは説得を続けようとした。



 しかし。



「残念だが、これでは無駄な時間になりそうだ。さっさと始めさせてもらう」



 黒ずくめの嘆息にレアッサは若干の動揺を見せる。



 途端、エゼルが鋭く警告した。



「守れ、レアッサ! !」



 咄嗟とっさとは言え、主とも慕う元騎士の言葉をレアッサは受け止めきれなかった。



 危うい? 誰が? この私が?



 マクリエたちよりも?



 ――眉をひそめた、その直後だった。



「――汝のなみだを我に捧げ 我が心音に平伏せよ――」


 聞き慣れない詠唱句に、レアッサは我に返る。



 黒ずくめが発したその声に強い魔法力が宿ったことに気づく。同時に、黒ずくめが掲げた晶籍が強い輝きを放つ。



 周囲に凍りついたままだった群衆がにわかにうごめきだした。自らの体を押さえ、激しくのたうち回る。武器を取り落とす音が広い闘技場内で共鳴し、鼓膜を強く打つ。



 やがてひとり、またひとりとたおれ伏し、そのまま動かなくなった。



 マクリエの短い悲鳴が耳朶じだを打つ。



 完全なむくろと化した群衆の体から浮かび上がるのはいくつもの小さな結晶――晶籍。



 持ち主の手を離れているはずなのに、それらは黒色化も白色化もしておらず、鮮やかな色合いを保っていた。直後、甲高い音を立てて砕け散り、無数の光の粒と化す。



 不可能なはずの晶籍破壊――しかし影響はそれだけに留まらない。



 猛烈な吐き気と目眩がレアッサを襲い、彼女は思わず腰を落とした。腕の中のイシアを支えきれず、彼女もろとも闘技場の床に倒れる。



 自らの晶籍が熱を持ち始めた。脳の中を掻き回されるような不快感の中でレアッサは全身を総毛立たせた。



 まさか。これは。この魔法は――



『レアッサ!』



 不快感を切り裂くようにエゼルのイシャデが届く。



『意志を強く持て! これ以上支配を許せばお前も呑み込まれるぞ!』



 支配、という言葉にレアッサは確信する。歯を噛みしめ、言うことを聞かない四肢を叱咤して体を起こす。



「き、禁呪……ジェノ……オス……」



 かつて僭王リザが使用した、晶籍に宿る魂を支配し相手の人格、能力を手中に収める古の魔法、ジェノオス――



 晶籍から生まれた光粒は奔流となって空中を飛翔し始めた。軌跡を描き、螺旋を巻いて闘技場内を駆け巡る。光奔流のひとつがすぐ側を通過し、マクリエとイシアが苦しげな呻き声を上げた。



 晶籍を持つ自分はこの魔法に長く対抗できない。



 痙攣する体に鞭打って立ち上がったレアッサは大きく一度深呼吸をした。



「――大気を爪弾く無視の糸よ、朱となり塔となりてただ無言のままに塞ぎ立て――」



 詠唱を詰まらせずに言い切ったのは、もはや気力の賜物たまものだった。



 硝子が割れる音が響き、レアッサを中心にマクリエ、イシアを守る結界が完成する。光の奔流はレアッサの結界魔法を避けるように流れていく。



 脂汗を顔中に滲ませながらも、彼女はつぶやいた。



「申し訳ありません……エゼル様……」



 こんなことくらいしか、自分にはできなかった。貴方の側で、最高の騎士として戦いたかったのに。



 せめて……せめてヴァーテの馬鹿者は救っておきたかった――



 そう思った途端、レアッサは耐えきれずに膝を突いた。



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