3-5:標を失う日


 闇が更に深みを増す。



 最後の刻が輪郭をぼかし、そして夜空に消えていった。刻消え――新しい一日の始まりだ。



 欠伸あくびをしながら哨戒しょうかい任務にあたっていた騎士のひとりが、ふと、空の異変に気づいた。



 手にした松明を顔から遠ざけて、目を凝らす。一緒に見回りをしていた同僚が「どうした」と尋ねる。



「月環が、刻が現れない」



 言われて同僚も空を見る。漆黒に包まれた北の空には、いくら探しても流輪を見つけることができなかった。



「天煌月。まさか、本当に来るなんて」



 数年のうちたった一日しか訪れることのないその日。生まれる赤子に頭抜けた能力を与え、同時に重い使命を、あらゆる者の先達として生きる道を課す天煌月。



 一説には秘める力の全てを選ばれし者へと宿すため、流輪が地上に降り立つ日とも言われている。



 ――これより一日、十二刻間。人々は一切の灯りとしるべを失う。





 そして、地の底では。



「時が来た」



 男の声は洞窟の暗がりに反響し、消えた。



「お前たちの命、決して無駄にはならない。すべてはあの方の魂の元へ。同志よ、しばしの別れだ」



 手向けの言葉とともに鈍く響く、肉を抉る音。力を失って大地に人が斃れる音。そして朗々と紡がれる詠唱の声。



 やがて詠唱に呼応するように次々と人影が起き上がり、手にした武器が岩を擦る金属音が響いた。



 周囲に漂うのは独特の甘い香り。



「さあ行け、同志たち。今こそ己が命を武器に、愚劣な者どもから晶籍を奪うのだ。あの方の復活のために!」



 




 同じ頃。



 イシアは荷台の隅に膝を揃えて座り、支給された薬を服用していた。体の痺れと熱はもうほとんど感じなくなっていた。



「体の具合、どう?」



 対面に座ったマクリエが尋ねる。体調不良の母親を気遣う子どものような表情だった。



 イシアは微笑んで「心配要らないわ」と言った。マクリエは少しだけ笑って、それからうずくまるように座り直す。



 彼女の手はしきりに自らの二の腕を叩いていた。



「どうしたの。落ち着きないじゃない」


「別に、どうってことはないんだけど。なーんか嫌なのよ。ここの空気」



 ちらと外を見ながらマクリエはつぶやいた。



「嫌って言うか……ざわざわする」


「きっと流輪のせいよ」



 その答えが意外だったのか、マクリエがイシアを見る。「どして?」と首を傾げる彼女にイシアは静かに語った。



「今日は天煌月だもの。アクシーノの人間にとって天煌月はいろんな意味で特別な日だから、無意識の内に影響を受けているのかもしれないわ。マクリエは結構感受性強そうだし」


「そういうもんなのかなあ。……っていうか、え? 天煌月なの? 今日?」


「間違いないわよ。ほら、外見てみなさい」



 言われて幌の幕を上げて空を見上げるマクリエ。しばらく夜空を探していた彼女は、やがて感嘆の声を上げながらイシアの前に座り直した。



「ホントだ。流輪がないよ。本当に真っ暗なんだ……あれ? でもさ、どうして知ってるの? イシア、マクと一緒にずっと荷台の中にいたと思うんだけど」


「私、わかるの。そういうのが。だから空を見なくても天煌月が来るってわかってたのよ。ちょっと前からね」



 へぇ……とつぶやくマクリエ。イシアは微笑んだ。



「それに覚えてる? 私とあなたが最初に出会ったのも、天煌月なのよ」


「そ、そうだっけ?」


「そうよ。月環も刻も消えた暗ーい暗ーい天煌月。私、記憶を失ったばかりの時みたいでね。右も左もわからなくて不安だったわ。でもマクリエと出逢えたから、大丈夫だったのよ」


「ねえ」



 マクリエが真剣な目をして詰め寄る。



「マクはどんな風にイシアと出逢ったんだっけ」


「もう、そんなことも覚えてないの? あのとき、気を失っていた私をマクリエが助けてくれたんじゃない。何処とも知れない場所から逃げてきて、ぼろぼろだった私をね」



 顎に手を当て記憶を探るマクリエ。やがて彼女は大きく手を打った。



「思い出した! 何か大きな湖とお屋敷があった場所だよね、確か」


「お屋敷は私も覚えてないけど……湖畔こはんだったことはその通りよ」


「へ? あったじゃんあのとき。でっかい建物が、湖の向こうにさ」



 お互い無言で見つめ合う。やがて気を取り直すように、イシアは外を見た。



「この調子だと部隊の侵攻はもうちょっと後になりそうだし、私たちの記念日に思いっきり暴れるのも一興かも知れないわね」


「あ、それいいかも!」


「でしょ? だから今は落ち着いて、体を休めてなさい」



 そこでイシアは辺りを見回した。



「ところでヴァーテの姿が見えないけど、どこに行ったかマクリエは知ってる?」


「スウスのとこ行って、飲み物もらうって言ってたよ。もうすぐ帰ってくるんじゃないかな」


「そう。探して来ようかしら」


「どして? 別に心配するようなことないと思うけど」



 首を傾げるマクリエ。だがイシアは荷台を降りた。



「ここに来てからのヴァーテ、ちょっと様子がおかしいのよね」


「そ、そうなの? でもイシアが言うならそうなのかな?」


「マクリエはここにいて。すぐに戻るから」


「ちょっと待ってよ、マクも行く!」



 慌ててマクリエが荷台から飛び降りた。その瞬間、マクリエはあらぬ方向に顔を向けた。眉をしかめ周囲を見回し始めた彼女に「どうしたの」と尋ねる。



「ねえイシア。何か聞こえなかった? 詠唱みたいな、変な声」


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