2-9:彼女の言葉

 レアッサは大きく深呼吸すると、ゆっくりと馬を降りた。



 追いついてきた部下に愛馬を任せ、『聖クラトラスの美しき爪』の二つ名にふさわしい佳麗かれいな姿勢で男の元に歩く。



 隣で恐縮している籍署の門番に尋ねる。



「この者か? 駐屯地を騒がせている男とは」


「は」


「そうか」



 何故かレアッサは微笑んだ。



「ギアシ騎士をこれほど難儀させるとは見事ではないか。お前もそう思わないか?」


「は? はい、まったくその通りで」



 門番は戸惑いながらも応じた。



 彼らにしてみれば、天上人にも等しい大騎士からの言葉である。光栄の至りではあるが、まさかこれほど気さくに声をかけられるとは思っていなかったのだ。



「レアッサ様」



 供の騎士が小さく声をかけた。すでに周囲は物珍しさからか多くの騎士、従者、使用人たちが集まっている。これ以上この場に留まるのは好ましくないとの配慮からだった。



 部下を振り返ることなく、レアッサはただただ男を見下ろしている。



 男は再び目を伏せ、彼女の視線を甘んじて受けている。



「何をしている」



 一転、レアッサは厳しい声で部下に言った。



「これ以上、この者を冷たい地べたに座らせておくつもりか。急ぎ、私の居室へこの者を通せ」


「え!?」


「私自ら用向きを聞く」



 それだけ言い放つとレアッサは踵を返した。駐屯地の中心、彼女に割り当てられた部屋へと向かう。



 残された者たちはしばらく呆然と彼女の後ろ姿を見つめていた。



 やがて上質な織物のような金髪が建物の中に消えると、ようやく部下の一人が男に向けて口を開く。



「どういう事情があるのかは知らん。だが他ならぬあの方のご用命だ。立て。いかにレアッサ様のご希望とはいえ、その汚らしい格好で騎士の居室に足を踏み入れることは許さん」



 男の両脇を騎士が支える。すると彼はすんなりと立ち上がった。三日間一睡もしていない体のはずなのに、その足取りは確かなものだった。



 男が立ち去った後の籍署外門は、しばらく騒然となったという。



 やはりあの男、只者ただものではなかったのだ――と。





 宿の屋上に寝そべりマクリエは空を見ていた。



 厚い雲に覆われ、そこに流輪を見ることはできない。



 普段非常に活動的な彼女だが、今はこうして意味もなく空を眺め続けている。エゼルが宿を出てから、彼女はずっとこの調子だった。



 虐める相手がいなくて退屈、という気持ちはある。街中を徘徊すれば、少なくとも今よりは楽しめるだろう。



「でも何か、違うんだよな」


「何が違うの?」



 無意識のつぶやきに思わぬ反応があり、マクリエは振り返った。



 屋上に繋がる梯子はしごを、やや息を切らせながらイシアが上がってくるところだった。マクリエは慌てて起き上がる。



「イシア! 大丈夫なの?」



 応えの代わりにイシアは微笑む。マクリエは少し肩の力を抜いた。



 妹分の隣に座ったイシアは額の汗を拭い、ちら、とマクリエを見遣みやった。



「マクリエにしては、ずいぶん大人しいじゃない」


「そりゃあイシアのことがあるし。エゼルの奴だって、宿にいろって」



 もごもご、と歯切れ悪く応えるマクリエの頭をイシアは優しく撫でた。



「ちゃんと言いつけ通りにしましたって言ってあげたら? ゼルさん、きっと悶絶して喜ぶわよ」


「や、やだよ。そんなの。マクはあいつの主なのに」


「そっか。じゃあ、今日もここにいる?」



 マクリエは黙り込んだ。彼女の頭から手をのけたイシアは、少しだけ表情を改めた。



「さっき、ヴァーテが魔法で調べてくれたの。ゼルさん、籍署に入ったみたい」


「そう、なの?」


「行ってみる?」



 しばらく考えていたマクリエは、不意に勢い良く立ち上がった。「ヴァーテに声かけてくる」と言い残し、彼女は梯子に手を掛ける。



「まったく呆れるほど素直じゃないよね、私たち」というイシアのつぶやきは、マクリエの耳に届かなかった。





 決して高価ではないが、丁寧に掃き清められた敷物。



 一点の曇りもない硝子窓。



 廊下に漂う清浄で張り詰めた空気。



 ギアシ駐屯地の中心部は独特の雰囲気に包まれていた。高位の騎士たちが集う場所は、決まってこのような『空気感』を伴っているものだ。



 懐かしい、とエゼルは感じた。



 すでに関係ないはずなのに、こうして騎士団の空気を気にしてしまう自分がいる。久方ぶりに見習い騎士の服装に袖を通したせいかもしれなかった。



 エゼルを従えていた二人の騎士が、やがて重厚な扉の前に立つ。他の部屋と違い、広間に通じるような左右両開きの扉だ。



 騎士の一人が声をかけ、入室の許しを請う。すぐさま「入れ」という女の声が聞こえた。



 エゼルは二番目に入室した。周囲に目を配る。



 広大な中庭に面した部屋なのか、右手に大きな窓があった。その脇には天蓋てんがい付きの寝台が据えられている。



 正面には南方産のクリト材と思われる机があり、その後ろの壁面には巨大なアクシーノ全図がかけられていた。



 貴人の執務室もかくやという重厚な造りの中で、ふと目を惹くものがあった。



 窓の反対側の壁にかけられた古ぼけた一枚の絵。おそらく素人に毛が生えた程度の人間が描いたのだろう。決して繊細とは言えない筆致で数人の男女が描かれている。



 その中には、この部屋の主と思しき女の姿もあった。



 その主――レアッサは絵と向かい合っていた。部下の騎士が声をかけ、ようやく振り返る。



「ご苦労だった。お前たちは下がってよい。後は私に任せよ」


「は。ですが」


「良い。みなまで言うな。この者は何もせぬ」



 穏やかな口調で諭され、騎士たちは頭を下げた。扉を出る間際、ちらとエゼルを見遣る。



 扉が静かに閉められ、ややあって騎士たちの足音が遠ざかっていった。



 重い沈黙が降りる。エゼルもレアッサも一言も言葉を発さないまま、お互いを見ていた。



 ゆっくりとレアッサが近づいてくる。



 エゼルの三歩前に立った彼女は、大きく深呼吸をして、直後、勢い良くその場に跪いた。



「お久しぶりです。エゼアルド様! 本当に、よくご無事で……っ」



 嗚咽おえつこらえるような、感極まった声であった。


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