第七章 精霊の国からの脱出③

 ミリアムが年上二人とたどり着いた岩の部屋は、壁の一面のみピンと張られた革布になっていて、布と岩壁のすき間から射す光と、距離をおいて盛んにやり取りをしている大勢のカイエン人の声が漏れていた。

 室内には物や道具が雑然と置かれていた。たたまれた網や底の深い籠、先に鉤の付いた長い柄の道具など。ソロ村では見かけないが、エルテペの湖で漁師が使うものと似ているとミリアムは思った。広口の大きな甕にはきれいな水が溜まっていて、傍に石の匙も落ちていた。ミリアムは喉がカラカラだった。カウロもファニも甕を見つけた時は疲れて強張った顔が少し緩んだ。外のカイエン人達はずっと会話を続けていて、意味はククルトにも分からないとのことだが、こちらには全く気付いていないようだ。ミリアムは外に注意しながら二人と交代で石の匙で甕の水を飲んだ。

 人心地つくと、気力を取り戻したカウロが太い棒を拾って目配せをしてきた。状況は確認しておかなければならない。ミリアムはカウロと一緒に──ファニは二人の後ろから──外と中を遮断している革布にそっと近づいて、端を少しめくってみた。

 ミリアム達の所から少し下ったところを水路が横切っていた。暗い水が左から右に流れ、もっと大きな水路に合流している。合流の手前は丸い池のようになっていて、そこに生け簀がいくつか浮かんでおり、カイエン人たちは十人ほどでその生け簀にたむろっていた。彼らは穴で会ったカイエン人とは違って肉付きがよく、袖なしの羽織や腰巻をまとい、手にした長柄のたも網で生け簀から桃色の小エビのような生き物をすくい上げては横の舟に投げ入れていた。

 皿のような銀の目玉と青くぬめりのある皮膚を月光にも似た血晶岩塩の瞬きに艶めかせながら跳ね踊るように作業に没頭する彼らは、収穫の喜びと充実感にあふれていて、ミリアムが遠くから眺めてきた人々の記憶と重なった。エルテペの湖で漁師が力を合わせて大漁の網を引き揚げる時、ソロ村の塩田の塩を村中で集める時、隣家同士で畑の作物を収穫する時。あるいは、憑き人をオルト婆と正気に戻してそっと家路につく自分たちの後で盛り上がる村人たちとか。

 言葉や容姿が違っても中身は村人たちと同じだ。カイエン人たちの中にも様々な立場や考えの者がいるようだが、目の前の奴らは統率するものに従う集団だろう。ミリアムは司祭とブランボが話していたことを忘れてはいなかった。司祭の言葉に奴らは喜んで従い、ミリアム達を捕えようとするだろう。荒事はなるだけ避けたいが、運命を切り開くためには奴らをヤギを狙う野犬や千疋皮だと思って打ち倒さなければならない。

 水路を挟んだ向かいの岸壁には、ここと同じような革張りの小屋や洞穴が点在していた。そのどこかの穴に飛び込めれば、この先へ進めそうだが、橋はかかっていなかった。水路の幅は、ミリアムが水切り石になってうまく水面を跳ねて行けば、五回ほどの跳躍で渡りきれるほどだ。しかし、現実にそんな動きは無理なことで、そんな魔法も知らない。おまけに、ここを出れば対岸まで身を隠せるところもないので、どんなに静かに、または素早く走ったとしても、近くのカイエン人たちに気づかれそうで足がすくんでくる。

 カウロがフラフラとたたまれた網の上に倒れこんだ。

「だめだ、詰んじまったよ。もうやめだ。あんなにいるんじゃどうしようもない。こんな話乗るんじゃなかった」

 ファニはかすれた悲鳴をあげた。

「ちょっと待って。今さらそんなこと言わないでよ」

 カウロが嫌そうに顔をそむけると、ファニはミリアムに詰め寄った。

「ミリィ、何とかならないの。あなたなら奴らを倒せるんじゃないの」

 ファニに言われなくても何とかしたかった。ここにぐずぐずと止まっていられない。さっきから頭の中で何度も大勢のカイエン人を相手にしているが、うまくいきそうな作戦が思いつかないのだ。ここに隠れながら投石紐で一人ずつ倒していくとか、籠を被って近づき突然切りかかるとか、ククルトの力を使うことも考えたが──『あいつらを一瞬で叩き潰せばいいんだな。任せておけ。池ごと潰す勢いでやればできる。騒ぎを聞きつけてやってきた奴らもじめじめした巣穴ごとぶっこわして、あいつもここに埋めてやるわ』──だめだ。ククルトはまだ暴走気味だ。慎重に扱わないと、さっきのように自分がククルトの怒りに飲み込まれて逃げるどころではなくなりそうだ。

 ミリアムが頭を抱えている横で、カウロが舌を鳴らした。

「おい、手を出すなよ。今ならまだ『退屈していた。道に迷った』で話が済むんだから。せいぜい怒鳴られるか閉じ込められるかするだけだ。行きたきゃてめえらだけで……うわ!」

 今度はカウロが悲鳴をあげた。ファニが鉈のような石刃の得物を拾ってカウロの目の前に突き付けたのだ。

「やめるっていうなら、あんたの口を閉じて行かなきゃ」

「お、落ち着けよファニ。シエラのわがままに付き合わされて、本当に気の毒だよ。お前もうちの屋敷に住んで働くといい」

「やっぱりはなから逃げる気なんてないんだ。親父に騙されたなんて嘘だ。シエラと町に駆け落ちするのも嘘だ。シエラが奥方に収まって、私の手が届かなくなる前に、シエラをこれでひっぱたいてやる」

「違う違う! 騙されたのは本当だ。今すぐなんとかしないと、本当に帰れないぞ」

 ミリアムはカウロが嫌いだが、今の言葉には賛成だ。ファニを止めようと二人の間に入ろうとした時、カラカラと高い金属音が鳴りわたった。はっとミリアムは外を向いた。カウロも興奮していたファニも動きを止めた。

 音は遠くで鳴り続け、楽しげだったカイエン人がぎゃあぎゃあと騒ぎたて、バタバタと激しい足音をたてながらこちらに向かってくる。

 出てきた穴に戻る猶予はなかった。すぐ革布に彼らの群影が映った。思わずミリアムは剣を抜き、カウロは震えながら両手をあげた。ファニは目を見開き影に釘付けになったままだ。

 影は怒号をあげながらすぐ左へ流れていった。足音も騒ぎ声もどんどん遠ざかっていく。気づかれなかったのか、助かったのか、ミリアムはにわかに判断がつかなかった。剣を構えたままカウロとファニに視線を送ったが、二人とも顔面蒼白で革布を見つめて固まっている。

『何があったのか、早々に確かめなければ次の行動もとれやしないぞ』

 ククルトの言葉で、ミリアムは勇気をふるって革布をめくった。生け簀の方にカイエン人の姿はなかった。

「近くにはいないみたい……」

 ミリアムは思い切ってカイエン人たちが走っていった方を向いた。ミリアムの呟きで我に返ったカウロとファニも顔を出した。

 怒り狂いながら奥へ駆けるカイエン人の先、水路が暗闇から現れる付近でちらちらする生白い物体は、ミリアム達が飴玉を恵んだカイエン人たちだった。手には桃色のエビを満載した籠を抱えており、籠には平たい石をつないだ泥棒除けの鳴子が絡まったままだった。彼らは鳴子がやかましくなりたてるのも構わず付近の小屋や壁の穴に次々と飛び込み、それを生け簀のカイエン人たちが拳や棒を振り上げ追いかける。彼らが入った所から殴打の音と悲鳴が噴出した。

「今のうちだ」カウロが急に勢いを取り戻した。「あいつらが気を引いているうちにあの舟を奪うんだ」

 ファニはまだ怯えていた。

「だめよ。やっぱりいるじゃない」

 生け簀の舟から立ち上がったカイエン人の後ろ頭が見えた。舟のとも綱を外そうとしている。だが、それ以上はいないようだ。それならミリアムには障害とはならない。考えていたことが役に立つ。

 ミリアムは外に飛び出ると、投石紐を頭上でヒュンと回した。気配で振り向いたカイエン人が額をはじかれ仰向けに倒れた。ミリアムの石弾が命中した結果だ。

「やった!」

 カウロが叫ぶ前にファニはもう走り出していた。ミリアム達は生け簀を目指して一目散に駆け下り、舟に転がり込んだ。

 舟は来る時に乗ったものと同じ形、同じ材質で、何かの骨を竜骨にして革を張ってできていた。違うのは船尾に櫓がついていることと、真ん中に小さい小エビが山と積まれ、傍にピクリともしないカイエン人と櫂が転がっていることだ。目玉が大きすぎて瞼が半分しか閉じられず、白目をむいている。

 カイエン人たちはまだ籠を奪ったカイエン人を追っているようだが、いつ戻ってくるか分からない。ファニはすぐに櫓腕に取りついて左右に振ったが舟は動かない。舟を漕ぐなんてミリアムもやったことがなかった。「どけっ」戸惑う二人を突き飛ばしたカウロが櫂を掴んでゆっくり漕ぎだすと、舟はすっと前に進み始めた。ミリアムは安堵したが、ファニは乱暴に扱われたいらだちを吐き出した。

「さすが、ロスアクアス家の坊ちゃんはなんでもできるのね」

「ああ、お前たちはエルテペで舟遊びなんてしたことなかろう。とっととあっちの水路に出るぞ」

「どうしてよ。向こう岸にはいかないの?」

「どこの穴が出口なんだ。適当に入って奴らと鉢合わせなんてなったらぞっとする。この水路から俺たちが行くとき通ってきた川にたどり着いたら、帰り道がすぐわかるじゃないか」

「でもあんたが漕いでいたら、私たちの事バレバレじゃない」

 カウロがぐっと喉を詰まらせた。ファニはそんなカウロを睨みつけていたが、すぐ顔色をぱっと変えた。明るく、残忍に。

「そうだ。あんたがそこのカイエン人をおぶって奴らのふりをすればいい」

 カウロはぎょっとして抗議の声をあげようとしたが、ファニは「しっ!」と指をたてて黙らせた。

「急がないと。ミリィ、そっち持って」

 言い合う二人の間でおろおろしていたミリアムに、これが良案なのか判断する余裕はなかった。ともかく時間が惜しい、それが肝心だった。

 ミリアムはファニに言われるままにカイエン人の体を引っ張り起こすのを手伝った。カウロも不満気だが無言でかがみ、カイエン人を背中に乗せられるとカイエン人の羽織に手を通して立ち上がった。

 すると、ファニのいう通り、カウロは脱力して全身の肉がだらりと垂れ下がる大柄のカイエン人にすっぽり隠れてしまった。近づかれなければごまかせそうな塩梅だ。しかし、カウロは重さでよろめき、今にも舟から落ちそうになっている。そこで、ミリアムもカイエン人の下に潜り込みカイエン人の足を支えた。

 ファニは鉈を持ったまま舟のエビの山に体を埋めた。

「ちゃんと漕いでよ。ここから見張っているからね」

 奥がだいぶ静かになり、ミリアムにはカイエン人の羽織の裾の下から大勢のカイエン人たちが鳴子に縛られたぼろぼろの痩せっぽちを一体引きずって歩いてくるのがちらりと見えたが、舟をとがめる素振りはなかった。

 こうして、ミリアム達は生け簀から外へ出ることができた。



 ◇  ◇  ◇  ◇



 生け簀につながっていた大きな水路は、ミリアム達が来る時に通ってきた地下の大河に間違いない──少なくとも、ミリアムとククルトはそう思った。確信できる目印はないものの、天井で星のごとく光る無数の血晶岩塩、そのおぼろげな光が照り映える緩やかな流れの深緑の水面と高い岩壁、反対の岸辺がすぐ視認できないほどの遠い河幅は、最初に目を見張った光景とそっくりで、いくら広大なオルエンデス山脈とはいえ、そんな大きな河が地下を何本も通っているとは考えにくかった。カイエン人たちが岸や桟橋をうろうろしているのも最初と同じだった。

 ただ、舟が何艘も水路を横断していた。材質はミリアム達の舟と同じようなもので、舟の大きさに合わせて一人あるいは複数のカイエン人たちが櫂や櫓で操舵し、荷物の運搬、または単に遊びで出しているようで、これがカイエン人たちの普段の生活のようだった。

 カウロも舟を流れを横切るように進めていた。岸から離れるにつれ、カイエン人の視線が減っていく。でも、この進行方向では対岸に着くだけだ。ミリアムが上を見ると、カウロが顔を真っ赤にしてカイエン人の重さに耐えながら、必死に櫓腕を振っていた。

 エビの山からファニが顔を出し、口を尖らせてエビと文句を吐き出した。

「進む方向間違ってない? 行きは流れに乗ってきたのよ。向こうに行かなきゃ」

「わかってるけど難しいんだよ。貴様が代わるか」

「周りに溶けこんでいていいと思う。動きを合わせた方が怪しまれない」

 また言い争いが始まりそうになって、慌ててミリアムが小声で口をはさんだ。離れてはいたが、舟が通っていった。

「そうだよ」カウロも囁くように言った。「この舟は向こうにこれを運ぼうとしていただろ。そういう風にやりながら進まなきゃならないんだ」

「そうだっけ」ファニもぼそりとつぶやいた。

「そう話していたじゃないか、ばか野郎」

 そんな話していたっけとミリアムも疑問に思ったが、ファニがそれっきり黙ったのでミリアムも何も言わなかった。

 カウロは水路の真ん中あたりに来ると、舟の先を少し斜めにして流れに逆らっていこうとした。近くに舟はほとんどいなかったので、もう目立つことはないように思われた。

 しかし、一艘の小舟が前から近付いてきた。一人で乗っているせいか足が速かった。そしてすれ違う時、首周りのだぶついた肉ひだをひらひらさせながら、カイエン人独特の川底からしゃべっているような水分を含んだ声で話しかけてきたのである。

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