第五章 黒い魔導士とトリクシー③

 ミリアムとトリクシーはロスアクアスの庭をまっすぐ横切っていた。それがゲストハウスへの最短距離だった。

 宴はお開きになり辺りは静まりかえっていたが、片付け作業のために灯りはそのままだったので夜の庭もぼんやりと明るかった。トリクシーはあちこちに植えられた庭木を避けてするすると進んだが、ミリアムはふらつき時々躓きかけた。

 ククルトの力を使った代償がミリアムを襲ってきていた。黒く変色した左腕から生ずる痛みが全身に伝わり、めまいがして、食器を運んで本館と行き来する小間使いたちに何度もぶつかりかけた。

「どうしたの。具合が悪いの?」

 振り返ったトリクシーは驚いてミリアムをつかんだ。

「ちょっと誰か……」

「待って。誰も呼ばないで!」

 ミリアムはトリクシーの袖を引っ張って止めた。

「大丈夫、歩ける。それにみんな怖がるから」

「とにかく私の部屋で横になろう。すぐそこだから」

 トリクシーの泊っている部屋はゲストハウスの二階にあった。

 ミリアムはトリクシーに支えられてゆっくり階段を上がり、なんとか部屋にたどり着くと、ワンルームの真ん中にあったベッドの白い柔らかそうなシーツに倒れこんだ。トリクシーがミリアムの靴を脱がせ、足を持ち上げてまっすぐに寝かせた。木製の彫刻で飾られた天蓋付きのベッドだった。

 またトリクシーは壁の魔石燈を点けると、テーブルの水差しから注いだ水を持ってきてくれた。ミリアムは体を起こしてコップを受け取りぐっと飲みほした。ほっと息が漏れた。

 向かいの白壁に色付きタイルで飾られた暖炉があり、その中にストーブが置いてある。夏でも皮膚が切れそうなほど冷える夜もある高地だが、今夜は点けるほど寒くはない。テラスに出られる大きな窓はカーテンを全開にして明るい月の光が降り注いでいた。あとは一人分のテーブルと椅子とクローゼット。簡素で落ち着ける部屋だった。

「この手のせいなんだね」

 ベッドのふちに腰掛けたトリクシーが黒い左腕をそっとさすった。

「治らないの? 薬は持ってないの?」

 ミリアムは首を振った。

「進行を抑えるおばあちゃんの魔紋があったけど、さっきのことで消えてしまって」

「ブランボを呼んでくる。あいつも書けるかもしれない」

「今はいいよ。少し横になったら元気がでてくるから、それからにする。ククルトが体が慣れてきていると言ってる。前は熱が出て本当に動けなかった。それと比べたら今はうんと楽よ」

「でも顔色が悪い。早く診せたほうが。我慢はよくないよ」

「今までおばあちゃんと先生にしか診せたことないの。それに……」

 ミリアムは身震いした。悪寒のせいでだけでなく、ブランボがミリアムの手をつかんだ時の目を思い出したからだ。

「私の腕は、普通の人は嫌がって遠ざけるけれど、魔導士には喉から手が出るほど欲しいものなんだって。エルテペで呪具屋の人に狙われたわ。ブランボさんだって……トリクシーは仲間だから分からないだろうけど。私は怖いの。本当はおばあちゃんに診てもらいたい」

「あなたのおばあちゃんだって先生だって魔導士じゃない」

「おばあちゃんは私を育ててくれたし、先生はおばあちゃんのお弟子さんみたいな人で、私を小さいころから面倒見てくれている。おばあちゃんより優しくて話しやすくて、おばあちゃんが教えてくれない世界のことをたくさん教えてくれる。だから『先生』なの」

「私のことも話してる?」

「もちろん。おばあちゃんにだって。エルテペで初めてできた友達だから」

「そう。話しているんだ」

 トリクシーは急に不機嫌になってその場を立った。ターバンを取り長い髪を振りほぐしながらベッドの反対側のクローゼットを開けて着替え始めた。

 ミリアムは不安になった。話してはまずかったかしら、口止めされた記憶はないけれど。それとも自分の都合ばかり話していたことがよくなかったかしら──と、いろんな考えが頭を巡り、せっかく楽になった気分がまた悪くなりそうだった。だからトリクシーがゆったりした部屋着に着替えて自分の隣りに寝転んだ時にはほっとして目が潤んできた。

「その金髪、きれいね」

「……それくらい口がきけるってことはさ、きっと見かけほど悪くないんだよね」

 トリクシーは少し赤くなった顔を枕にうずめてしゃべったので、もごもごとくぐもっている。

「うちの奥様に診せられたらな。治し方知っているかもしれないのに」

「トリクシーの奥様ってどんな方なの? いい魔導士?」

 ミリアムはここぞとばかりに身を乗り出した。

 トリクシーはくるりと仰向けになって神妙な顔で話し始めた。

「イセルダ様はこの国で一番すごいと言われる魔導士なのよ。国王様のご意見番で、先の大戦でも前線に立ってこの国を守った魔導士。結婚して引退なさって静かな生活を送っていらっしゃったんだけど、産まれたばかりのお子様を二人もたて続けになくされてすごく落ち込んだの。私は社長のネイラ様とお見舞いに行って、ネイラ様から『心配だから様子を見ておくように』って言われて、それからバロネットと一緒に奥様のおそばにいるの。

 奥様はなかなか元気を取り戻せなかった。それでも周りに気を使って、私にも優しく接してくれた。今でもいい奥様よ。でも、食事会の時からちょっと様子が変わるのよ──」




 イセルダの夫は傷ついた妻を気遣い、親しくしている者のみを招いてささやかな食事会を開いた。人数は10名ほどの小規模のものだったが、夫人と客を楽しませることには財をつぎ込んだ。

 テーブルには複数の異国の料理が運ばれ、その前で軽業師、舞踏家、吟遊詩人など一芸に秀でた者たちがそれぞれの技芸を披露し、催し物に合わせて部屋の一角に控えている楽団が曲を奏でた。

 トリクシーも給仕係として食事会に奉仕していた。ネイラに言われた通りイセルダを見守るためで、いざというときは護衛もする役目だったが、イセルダの夫はこのトランバラード国の近衛騎士団の騎士であったし、客人も武術魔術に名をはせる者ばかりだったので、もしものことがあっても出番はないだろうなぁと、あまり緊張することなく働きながら会の雰囲気を楽しんでいた。

 イセルダは食事も少ししかとらず、客との会話もあまり進まないようだったが、それなりに楽しんでいるようだった。

 弱々しい笑みを浮かべながら隣席の宮殿付きの老魔導士の話を聞いていたイセルダに、小箱を持った侍従長のエルザが近づいた。

「あちらの方から奥様に献上したいというお品があります」

 蓋の隙間から中身を見たイセルダの表情が真剣になった。蓋を外すと、卵のような宝玉から赤や黄、緑の揺れ動く彩光が会場に満ち溢れ、客からどよめきが起こった。イセルダはエルザにその男を呼ぶように伝えた。

 イセルダの目の前に、リュートを携えた長髪の若く美しい吟遊詩人が頭を垂れてひざまずいた。

「このような立派なものをただでもらうのは気が引けます。相応の値段で引き取りましょう。その代わり、これをどこで手に入れたのか教えていただきたいのです」

 吟遊詩人の男は頭を下げたままでもよく通る声で答えた。

「申し訳ありません。旅の途中で命を救った商人から手に入れたものなので、私も詳しいことは分かりません。ただ、私めの懐にあるよりイセルダ様のおそばにあるほうが相応しい品と存じます」

「いかにも。まるで燃え立つような魔石であるなぁ」

 隣りの老魔導士は魔石と男を交互に見比べながらつぶやいた。

「では、そなたの名前を聞かせておくれ。面をあげて。ぜひ覚えておきたいから」

「キルセルイと申します。詩人として修業を積むため、今はこのコルネオ楽団に身を寄せております」

「修業中ですか。とてもそうとは思えません。先ほどの歌も見事でした」

「おほめに預かり光栄です。人は“放浪のカーバンクル”と呼びます」

「次はわが家で歌っておくれキルセルイ。その髪飾りの話も聞きたいもの。構いませんよね、イセルダ殿?」

 宝石好きの貴婦人の目配せに、イセルダは微笑で答えた。

 うやうやしく頭を下げて退く男の額には、確かに大きな赤い宝玉の飾りが輝いていた。

「これからあの男は『イセルダ様に認められた吟遊詩人キルセルイ』としてあちこちの館に招待される。独りで稼げるようになるでしょう。良いことをされましたな」

 老魔導士が顎髭を撫でつけながらイセルダに言った。

 イセルダは食事会の間中その箱を離さなかった。




 いつの間にかトリクシーは話しながら天井を睨みつけていた。

「──それからイセルダ様はみるみる元気を取り戻していった。どんな薬もあの魔石にはかなわなかったみたい。もっと詳しく話を聞きたいとブランボたちがキルセルイを探したけど、見つけられなかった。今ではすっかり元通りよ。あの魔石に話しかけたりなでたりすること以外は。あの石は生きているのかと思うくらい。もうイセルダ様はあの石の親になった。心も石のように固くなって、魔石のためだと思うことは何でもする。元気になってうれしいけれど、今のイセルダ様が少し怖いわ」

「きっとまだ心の傷が本当に癒えてないのよ。私ができることがあればお手伝いしたいけど」

 トリクシーの顔に笑顔が戻った。

「ありがとう。でも今はミリアムの方が先ね。ブランボが嫌なら、明日おばあちゃんに診てもらいに行こうよ」

「外出許可がでるかしら。前はだめだって言われたの」

「私も言ってみる。私、いまえらいんだから」

 ミリアムは笑って頷いた──つもりだった。しびれと疲労が限界に達し、これ以上瞼を開いておくことができなかった。




 体内のなにもかもがどろどろに溶けていくのではないかというだるさと吐き気で、もがくようにミリアムは意識を取り戻した。木製の天蓋がぼんやりと広がっている。目端の魔石燈は点ったままで、窓の方は暗い。まだ日は昇っていないのだ。

 横からトリクシーの寝息が静かに聞こえた。頭をそっちに向けようとしたが、できない。手も足も動かない。自分の体が重たかった。

 どうしようもないままじっとしていると、どこかでビインビインと張り詰めた糸が鳴っていることに気づいた。獣の腱を爪弾くような雑味のある音色で、長さや強さを変えながら落としどころを探るようにかき鳴らしている。

 誰かが楽器を練習しているのかなと塞ぎようのない不快感に硬直して耐えていると、調和なく集合しただけだった弦音がだんだん整いはじめ、やがてミリアムの耳に「ひやきいい、ひやきいい」と響いてきた。

『如何にも、飛鵺騎兵ひやきへいなり』

 突如ミリアムの口からそんな言葉がついてでて、喋った本人が飛び上がらんばかりに驚いた。ククルトだと直感したが、なんの説明もない。

 再び「ひやきいい」と聞こえた。すぐ近くからだ。ぬるっとした気配と共に移ってきている。あの言葉に導かれたのか。全身が総毛だった。

「ああわせよぅ、つわものようぅ」

 少し光っているような腰元の魔法の杖を振り回したかった。

 違う音色が聞こえてきた。ブーンと薄羽を震わせる虫の声を連想させる。やはりすぐそばからだが、弦とは別の場所だ。身の内側。自分の耳穴の奥底から。内臓を細かく摺りよせているよう。

 そしてまた変化した調弦、追う羽音、弦鳴の連弾、翅翎の擦奏……

 二種の奏者は互いの調子を模楷とし、なぞりめぐり共鳴する。

 いつの間にかこみあげていた嘔吐は治まり、まとわりついていた汚泥のような寒気がはがれ落ちていた。体内も全て入れ替わったように清々しい。客室用の柔らかいシーツの触感が背中から伝わった。感覚が戻っていた。

 やがて合奏は静かに終息に向かい、内腑からの楽は止まり、外のは別の複雑な音程に調律された。憶えのある字音だ。


 まどううし ちいいさぁいまどううし

 おしえて あげた ももりびとにいぃ

 わたし の とも だち なおし た ぶんぶん

 おやすみなさぁい


「おやすみ……」

 心地よい脱力感で眠りの深みに引き込まれていく時、自然と吐息に自分の声が乗った。

『医韻学による躯胎内流調和楽符とは。懐かしい呼び名とともに久しく耳にしていな──』

 ククルトの難解な小話が子守唄になっていった。

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