第二章 エルテペの町⑥

 ミリアムは走ることにも自信があった。ヤギを放牧している時、退屈しのぎによく彼らを追いかけ回して遊んでいた。だが馬の速さはそれとは比較にならない。たちまち蹄が大地を蹴散らす音が後ろに迫ってきた。

 ミリアムはちらりと振り返って追っ手との距離を測った。二人が並列に、少し遅れて一人が追いかけてくる。前の二人で自分をはさみ、囲い込むようだ。森まではあと少しだが、入り込む前に追いつかれるだろう。

 馬の鼻息を後頭部で感じた時、ミリアムは前に倒れこんだ。自分をつかもうとした男の手が、頭上の空を握る。

 倒れて前転しながら手近な石を掴んだ。右手の剣と共に短く持っていた投石紐につけ、後ろに振り向く反動で紐を振り投げる。

 後ろから来た男は至近距離から矢よりも早い石弾を顔に食らい、血しぶきをあげながら落馬した。

 ミリアムは倒れた男を飛び越えて走り抜けた。回り込んで森に向かう。

「こいつ、二人も潰しやがって!」

 ミリアムを掴み損ねた男が、馬の方向を変えながら叫んだ。

 ミリアムは森に入った。暗いうえに枝が張り出し、足元もでこぼこで思うように走れない。森というよりやぶだった。それでも片手で顔を守り、片手の剣で邪魔なものを打ち払って夢中で進んだ。

 二人の男も馬を捨てて入ってきた。

「待て、この野郎!」

 叫びながらバキバキと枝をかき分けて追ってくる。体が大きい分ミリアムよりてこずっていた。ミリアムがすり抜けた枝や木々の隙間に引っかかり、時々動けなくなっている。

『これなら逃げ切れる。このまま奥に進むのだ』

 ククルトが嬉々として言う。ミリアムもそう思った。

 しかし、急に水中に入れられたような空気の密度の変化を感じた。手足を動かそうとすると透明の布のようなものがまとわりつき、自由にならない。胸も圧迫されて息がしにくい。一歩も歩けなくなった。

 周囲の木や草は、見えない巨人に掴まれたかのようにどんどんつぶされて小片に変えられていく。

 追ってきた男たちも自由を奪われていた。

 固まったミリアムと男たちは、植物の破片が漂う空間ごと森から引きはがされ、上空へ持ち上げられた。

 持ち上げられた空間の外側には、捕縛陣の輪が次々と生まれ、上下左右全方位を囲い、毛糸玉を作るようにミリアムたちを覆っていく。

 魔導士の仕業だ──ミリアムは透明な手で押さえつけられているような首を必死に動かして、術をかけている魔導士の姿を探した。今見える範囲にはいない。体勢を変えようともしたが、全く動かない。

 捕縛陣の輪が狭まってきた。圧迫感も増し、男たちとの距離も一気に縮まった。二人の男の表情も見える。歯を食いしばり、輪につぶされそうな恐怖に耐えている。

『四肢を痛めてしまうが、仕方あるまい』

 ククルトが体を起こし、自分を抑えている金糸をちぎろうとした時だった。

「なかなかやるではないか……」

 別の声が辺りにこだました。女の声だった。

 捕縛陣の横を大きな影が横切った。鳥のようだ。

 飛んできた影が眼下に広がる森の一番高い木の上に降り立つのが、ミリアムにも見えた。

 影が身震いすると、まるで天女がなめらかな羽衣を脱ぎ捨てたかのようにするりと羽が取れ、姿が赤いドレスの女に変わった。取れた羽毛が舞い散る中、月光が端正な顔立ちを浮かび上がらせた。

  コンドルの女王──ミリアムがそう心の中で名付けたあの鳥の顔、さっきまで走って追いかけていたあの鳥の妖物だった。

  完全な人の姿をした女王は、長い金髪を、裾を、袖を、夜風にたなびかせて梢に立っている──いや、本当に足で細枝を踏んでいるのか。まるで空中に浮かんでいるようだ。枝は風に揺れているが、体は微動だにせず、背筋の伸びた姿が凛として美しい。

 女は右手を胸の高さまで持ち上げ、真っすぐ伸ばした。そして、何かをつぶやきながらその手を優雅に水平に動かした。

 ぎゃああーっと遠くから叫び声が聞こえ、遠くの丘に三つの炎が上がった。

 ふっと捕縛陣の輪が消えて、圧迫感が消えた。ほっと肺を膨らませて大きく息がつける。水中から顔を出して溺れる恐怖から解放されたようだった。圧縮されていた空気が散開すると同時に、地面に引っ張られる力を感じた。

 女は袖口から鞭を出して、まだ自分より高い所に浮いているミリアム達の方向へ振るった。鞭の先は急激に伸びてミリアムの傍を過ぎ、後ろに浮いていた男たちを引き裂いた。

 鞭の紐は、ミリアムは傷つけることなくしゅるしゅると素早く縮み、女の手の中に収まった。

 ミリアムは重力を感じつつも女王を見つめ続けた。今まで自分が憧れていたもの──圧倒的な雄大さ、力強さで天を舞い、人の魂を運ぶコンドル──女王は、まさにそれを体現していた。強くて、美しくて、人の命も思うがまま。神のようだ──。

 しかし、女王はミリアムには目もくれず、舞を舞うように袖を大きくふるうと、再び羽をまとい、首を少し伸ばして鳥によせた姿に変化すると、樹上から空中に体を投げだした。そして、翼を大きく広げて二度羽ばたき、森の上を通る風を捕まえると、一気にミリアムよりはるか上空へ舞い上がっていった。

「すごい! ククルト、追うわ! 力をかして!」

 落ちていくミリアムの声が辺りに響いた。

『しかし、落ちてるんだぞ』

『何とかしてよ。追うんだから!』

 なぜこういう事に我の力が……とククルトがブツブツ言い出すと、ミリアムの左手から紫煙が噴き出した。プチプチと金糸が何本かはじける音がして、落下で近づきつつある森へぐいっと左手が自動的に突き出され、叩きつけられそうになった枝を掴み、ぶら下がった。紫煙をまとい黒く変食した手には鋭いツメが生えて、落下の衝撃でがっしり木の肌に食い込んだが、すぐに下方の枝に移って地面に降りた。

 ミリアムはすぐに女王が飛んだ方向へ進んでいった。しかし、さっき逃げていた時と同じように枝に妨げられ、地面のでこぼこに足を取られる。

『ああ、方向が分からなくなる。なんとかして』

『ええい、気の済むまで追うがいい』

 黒い左手が前方に突き出され、ククルトの咆哮が左腕の付け根から痺れとして指先に伝わり、広げた手のひらから見えない力になって放出された。

 力が当たった細い草木は吹き飛び、幹はくり抜かれ、目の前がトンネルが掘られたように開けた。ミリアムは痺れた左腕を抑えながら、全力で駆け抜けた。

 トンネルは森の切れ目まで続いていた。そこは小高い丘になっていて、頂点は岩場になっていた。ミリアムは岩を背にして空を見回したが、月や星や雲以外何も見つけられなかった。見失ってしまった──ミリアムに喪失感が湧き上がる。しかし、首を振ってそれを振り払い、岩場に登って見てみようと足場を探しにかかった。

 だが、登らずには済んだ。地面に見覚えのある大きな影がさしたのだ。

 ミリアムは空を見上げた。

 真上の空から、風切る羽根の音と共に鳥の姿の女王が岩場のてっぺんに静かに降り立った。

 近くで見る女王は大きかった。頭頂部から尾羽までミリアムの三倍くらいだったが、圧倒的な存在感からかそれ以上に見えた。

 ミリアムはドキドキしながら女王を見つめた。コンドルの女王が自分を探しに来てくれたような気がして嬉しかった。だが、ククルトの方は唸り声をあげ、左腕もガタガタ震えだしていた。慌てて左腕を右手で抑える。

「そこの憑き物、大人しくしておけ。でなければ宿主は消し炭だ」

 女王はミリアムをにらみながら言った。実際はククルトに言ったのだろうが、ククルトはミリアムの中だ。

「しつこい奴だ。助けはしたが、それ以上の縁は望まぬのに。何様だ」

 女王はミリアムの傍まで長い首を伸ばし、鳩のように首をかしげながらミリアムをあちこちから眺めた。

 首が近づくたびにビクビクしたが、自分が探していたのにずっと黙っているのはよくない──そう思ったミリアムは寄ってきた女王の顔に思い切って話しかけた。

「あの!」

 震えていたが思ったより大声が出て、女王の顔が少し引っ込んだ。

「さっきは、助けていただいて、ありがとうございました。覚えていらっしゃらないかもしれませんけど、私、前にも助けていただいたことがあるんです。とても、とても感謝しています。ありがとうございました、女王様」

「女王様とな!?」

 一瞬、女王の口角が少し持ち上がった。

「そなた、私が怖くないのか?」

「こ、こわくないことはありませんが……」

 声が震えているからそれは隠しようがない。しかし、気持ちはそれだけではないのだ。何と言っていいか……ミリアムは頭の中で言葉を一生懸命掘り出した。

「ふ、普通の人も怖いですから。あんな風に。女王様はそこから助けていただきました。恐れ多いと思いましたが、どうしてもお礼が言いたかったんです」

 コンドルの女王はまんざらでもない笑みを浮かべて顔をひっこめた。……と同時に、さっき見た女の姿になっていた。この時、ミリアムは女王のお腹がふっくらしていることに気づいた。まるで妊婦だ。女王は岩場に優雅に腰をおろした。玉座に座るかのように。

「確かに私はそなたを二度助けた。覚えておる」

「本当ですか? あの……どうして私を助けたんですか」

「たまたまだな。散歩の途中で見かけたのだ。そなたのような呪われ子は、空から荒野の塵のように見えても目立つのでな」

 女王はミリアムを見下ろしながら楽しそうに笑った。

「なかなか愉快であった。剣筋はまだまだだが、投石の腕前は見事だ。妖物であろうと人間であろうと憶することなく立ち向かう。勇敢で面白かった……が、やはり無鉄砲だな。憑き物の力をあてにしているのだろうが、それはそなたの体を蝕むものだ。身の内の毒で死ぬぞ、そなた」

「あ、はい。よく言われます。おてんばだとか。ククルトのことも……」

 ミリアムはうつむいた。

「よくわかっているのだな……」

 女王は目を伏せた。

「余計なことを言った。許せ。親になる身ゆえ、他の子どものことも気になったのだ」

「あ、赤ちゃんが生まれるのですね。おめでとうございます」

 ミリアムは女王を悲しませたくなかったので、心の底からお祝いを述べた。

「ありがとう」

 女王はにっこり微笑んだ。

「今、良い産婆を見つけて頼んでおるのだが、なかなか首を縦に振ってくれぬ。途方に暮れておるのだ」

「それはお困りですね。うちのおばあちゃんは魔導士なんですが、そういうこともできればいいんですけど。ああ、”先生”は大丈夫かもしれません。もう一人、知り合いの魔導士がいるんです。先生、生き物に詳しいんです。病気を治すのも上手だって、おばあちゃんが言ってました」

「フフフ……その先生というのは、その左手の、解けかけた封印を仕掛けた者か?」

「はい、そうです。私の手も診てくれているんです」

「フフフ、そうか。なるほどな……面白い……」

 女王は笑いながらつぶやいた。

「なるほど。面白い……」

 ミリアムには女王の言葉の意味がよくわからなかったが、先生のことが出てきたのでチャンスだと思った。

「あの、女王様。お尋ねしたいことがあるのです。どうかお知恵をお貸しください」

「なんだ?」

「私の、その”先生”が行方不明なんです。おばあちゃんとけんかして、出て行ったきりです。今、どこでどうしているのやら……知りたいんです。どうしたらいいでしょうか」

「ふむ。手の心配もあるしの」

「はい。それに『おばあちゃんには私がよーく言って聞かせるから、また、うちに遊びに来て』って……言いたいんです」

「かわいい"お願い"だこと」

 女王は口に手を当ててホホホと笑った。

「面白い。その者の名は何という?」

「はい。”レング”といいます。私よりうんと年上の魔導士で、体中に……魔紋があるんです。住んでいる所とか、他のことは私は知りません。でも、いい先生です。ずっと私もことを見てくれてたんです」

 魔紋のことを言うとき少し考えたが、女王様のような強い人ならいいと思った。

「その者は、先生と呼んでいるが、赤の他人なのか」

「そうです。でも、家族みたいなものです。手のこともあるけど、私は、うちにいてほしいんです。いないと、寂しい……」

 ミリアムが真っすぐ女王を見て訴えるを真剣な眼差しを、女王も黙って受け止めていた。女王は頬に手を当てしばらく考えていたが、やがて、おもむろに口を開いた。

「そなた、名は何と申す」

「ミリアム。ソル村の魔導士、オルト・クティーの娘、ミリアム・クティーと申します」

「ミリアム。では、取引をしよう。あの山の辺りが、お前の住んでいる村だな」女王は遠くを指した。

「はい、そうです」

「あの辺りには、古くて強い封印がある。私ですら解くことが出来ぬ。外からは手を出せないのだ。その封印を解くことができたら……」

 女王は不気味な笑みを浮かべた。

「その魔導士を、そなたの元へ帰してやろう」

 しばらくミリアムはぽかんと口を開けていた。ずっとミリアムの中でグルルルと唸っていたククルトもそうだった。

「……先生のいる場所、ご存じなんですか?」

「私もその男に用があってな。なかなか面白い術を使うが、うだつの上がらぬ風体なので、このまま閉じ込めて私の片腕にでも……と思っておったのだが。”待ち人”がいるとは知らなんだ。ご覧。この術も、あの男から奪ったものだ。色々武装して来たんだな。だが、そのうちあの男は丸裸になる」

 女王は鳥の羽の生えた袖を振って見せた。

「あの山から聞こえてくる風の音は、耳障りだ。まるで赤ん坊が母御を呼ぶ声のよう。そして向こうからは母の呼ぶ声……私の卵も反応する。この卵の親は私だというのに……なんとも耳障りだ! 気障りだわ!」

 突如ミリアムの黒い左手が、ミリアムの意に反して剣を振った。ククルトだ。だが、女王は軽く炎を放ってその手をひっこませた。

「大人しくしておけ、憑き物! 守るべき者に毒をかまして生き延びる様、恥をしれ!」

「……つけあがりおって、女!」

 ミリアムの口からククルトの声が出た。ミリアムは右手で口を押えたが、止まらない。もごもごしゃべる。

「こんな……子供にその様な条件を突きつけるとは……お前こそ恥を知れ!」

「では、やめるか」

 女王は手に炎をまとわせたまま続けた。

「私もいろいろとあの男に手間をかけさせられてるゆえ、ただではやれぬ。用も済んでおらぬし。あの男が良しとせぬゆえ、いつになるかわからんぞ、の帰りはな……。ようやく帰った時には、そなたの封印が解け、怪物となったそなたと面会だな……」

 もごもご、もごもご……ククルトがミリアムの口で何か怒鳴ろうとするが、ミリアムが必死で口を閉じた。

『我に言わせんかー!』

『私の口でしょ!黙ってよ!』

 ようやくククルトが冷静になって、ミリアムが話せるようになった。

「あそこにある封印を解いたら、先生を返してくれるんですね。本当ですね」

 女王は頷いた。

 ミリアムは一回大きく息を吸って腹に力を入れ、女王を睨みつけた。

「やります、私! その代わり、封印を解くことが出来たら、女王様の用事が済んでいなくても、先生を返してください。約束してください!」

 女王は満足気な笑みを返した。

「いいだろう。ただし、もう一つ条件がある。私に会ったことは誰にも言うな。言ってはならぬ。ここには今、我々しかおらぬ。私のこの姿もそなたたち以外誰にも見られておらぬ」

 女王の姿が再び鳥のそれに変わっていった。

「あえて約盟を守る呪縛はかけぬ。守れているかどうかは、そなたの良心に問おう。もし、私のこの姿がうわさになって私の耳に届いたら、この約盟が破られたということだ」

 女王は羽ばたきだした。少しずつ浮き上がっていく。

「約盟を破れば、二度と会えぬぞ。わかったな!」

 女王は羽をまっすぐ伸ばして森の上空へ身を投げ出した。一瞬落ちかけるが、すぐに風を捕まえ凧のように空高く上がっていく。

「女王様こそ、ぜったい、ぜったい返してくださいね!きっとですよ!」

 ミリアムも空の女王に向かって叫んだ。

 あっという間に女王の姿は見えなくなった。

 空には、乾いた風の揺らめきで瞬く星が見えるのみになった。

 はぁーっと息がもれて、肩の力が抜けていった。後に残ったのは星空と、静けさが戻った森と、身を切るような寒風──冷え切った全身に、どっと疲れがのしかかった。

 その場に膝をついた。本当は寝転がりたかったが、ロメオ夫妻の顔が頭に浮かんだ。朝になって自分がいなかったら大騒ぎになるだろう。そうしたらお店に薬を置いてもらえなくなるかもしれない。帰らなければ。町まで──ミリアムは疲労で頭がぼーっとしてきたが、気力を振り絞って丘の上から森を見渡し帰路を探した。そして、すぐに森から出られそうな方向を定めると、重たい足を引きずり歩き出した。

 汚れてしまったポシェットからランタンを取り出し、剣で枝などを払いながら森を抜けた。広い荒野に出た。星と地形を見て、エルテペの方向を確かめる。かなり遠くまで来てしまったが、道さえ見つければ何とかなるだろう。ランタンの小さい明かりを頼りに再び歩き出した。

『とんでもない目にあったな……』

 落ち着いてきたのかククルトが呟きだした。

『本当に大変な目にあったぞ。もっと自重してくれなければ困る。おまけにその封印とやら、知っているのか』

「知らないよ……」

 ミリアムもぼそっとつぶやいた。

「今から、おばあちゃんに聞くんだもん……」

『やはり、行き当たりばったりか』

「仕方がないじゃない」

 身の内から勝手を言う存在にイライラして声をあげた。

「ああいうしかなかったでしょう。ほらごらん。私が走って女王様を追いかけたから、先生のいるところがわかったじゃない。先生捕まってたんだ。あんな……あんな変なおばさんに!」

『おばさん!? 』

 ククルトが笑った。

『また”女王様”から、急転直下の降格だなぁ』

 ククルトの笑い声を聞くと、ミリアムも口元が緩んできた。声も自然と明るくなった。

「だって、よく見たらおばさんだったよ。鳥のおばさん。そうでしょう?」

 左手に響くぐらいククルトは大声で笑った。

『お前はほんとに豪気やつだなぁ』

「だてに生まれたころから呪われ子やってませんよ。鳥がおばさんになったって、何だってんだ」

 口元も緩むと、目元も少しうるんできた。ぽろぽろと涙がこぼれる。袖でごしごし顔をこすりながら、わざと肩をいからせのしのし歩いた。足は重たいが、前に進める。まだ力はある。

「もう先生ったら、あんなおばさんちに行ってたんだ。あんなおばさんのどこがいいっていうのよ。先生の、ばーか!」

『今頃あいつ、くしゃみしてるぞ』

「いっぱいすればいいのよ。風邪ひいちゃえばいい。そして、おばあちゃんの薬を、飲めばいいんだ……」

 道に出た。焼けた肉のにおいも漂っている。近くの丘に丸太の炭のような黒い塊がいくつかあったが見ないようにした。道なりに進む。

 ふと上を見ると、頭上を黒いヒラヒラした物体が飛んでいる。ファフロッキーズだ。三体で編隊を組んでついてくる。

「いつのまに」

 しばらくすると、前から明かりがいくつかちらちら見え、馬の足音が聞こえだした。思わず身構えたが、すぐに正体が判別できた。

「おーい、おーい」

 馬に乗った人物が明かりを振って合図した。

「おーい、おーい」

 ミリアムもランタンを振って応えた。

 馬に乗った数人の男たち。揃いの格好ではないがきっちりした身だしなみに左腕の青い腕章──エルテペの警備隊だ。

 警備隊はミリアムのすぐそばまで来た。明りに照らされ、相手の穏やかな顔がよくわかる。先頭の隊長らしい人がミリアムに話しかけた。

「ミリアムだね。警備隊のアランだ。ポーロ夫妻が心配して、捜索願を出したんだよ」

 アランは手を差し出して、ミリアムを自分の前に乗せた。

 アランたちは馬を返してエルテペに帰ろうとした。

「すみません、アランさん」

 一人の隊員がアランを呼び止めた。長いマントに短い杖を持っている。まだ若いが魔導士らしい。

「あの辺りに死体があるようです。千疋皮が来てバサーに来る人が怖がったらいけない。ちょっと始末してきます」

「わかった。マルドと一緒に行ってくれ」

 若い魔導士はもう一人の隊員と上空の三体のファフロッキーズを連れて、先の道を進んで行った。

「何かあったのかね?」

 アランが尋ねた。

「わかりません」

 ミリアムはとぼけた。

「まあいい。落ち着いてから話を聞こう」

 アランたちはエルテペの方へ向かった。よかった。もうすぐ町に帰れる──ミリアムはようやく安心することができた。パカパカと馬から伝わる揺れが心地よい。まぶたが重たくなってくる……

 ミリアムは、いつのまにか眠ってしまった。




 気がつくと、ミリアムはベッドの中にいた。馬小屋の藁のものではない。人並みのりっぱな部屋にふかふかのベッド。布団からちょっと特徴的な匂いがする。整髪料だろうか。

 まだ体のだるさは残っていたので、布団の中でぼんやりしていると、静かにドアの開く音がした。ルクレツィアさんだった。

「あら、起きたのね。気分はどう?」

 ルクレツィアはミリアムのおでこに手を当てた。

「ここ、どこですか?」

「ロメオの部屋よ。大市の日は忙しいから、俺がリビングで寝たほうがいいって」

「今日、大市なんですか」

「そうよ。もうお昼過ぎ。トリクシーがね、もう帰りますって。ミリィによろしくって言ってたよ。また会いましょうって。彼女も大変だったのかしらね。目に濃いクマができてたの。どうしたのって聞いたら、えへへーだって。おばあちゃんの薬、ちゃんと渡したからね」

「すみません。ご迷惑をおかけして」

「お腹空いてない? 何か持って来ようか」

 ミリアムがうなづくと、ルクレツィアは出て行って、すぐに暖かいパン粥を持ってきた。

 ミリアムは体を起こしお盆ごと受け取ろうとしたが、ルクレツィアは渡さず、ベッド脇に座って粥をすくったスプーンを差し出した。

「はい、アーンして」

 そんなに子供じゃない、と言いそうになったが、ルクレツィアの期待の眼差しを受けると何も言えなくなって、大人しくぱくんと食べた。

「美味しい? 懐かしいなあ。うちの子たち、みんな大きくなっちゃったから」

  ルクレツィアはミリアムの様子を見ながらタイミングよくお粥を口のそばに持ってくる。

「心配したのよ。夜中にのぞいてみたら、まだ帰っていないんだもの。警備隊に連絡したら、捕まえた呪具屋が女の子を探していたって言うじゃない。もう私パニックになっちゃって、ファフロッキーズでもなんでもいいから、いっぱい出して探してー!って叫んだんだから」

「ごめんなさい、ルクレツィアさん」

「オルトさんには手紙を書いて、ソロ村の近くに行く人に頼んだわ。元気になるまでいていいのよ」

「おばあちゃんに知らせたの?」

「ええ。私が知っている分は、書かせていただきました」

 ミリアムは、ルクレツィアのスプーンを持った手の袖を捕まえてお粥を止めた。

「あの、ルクレツィアさん」

「なあに?」

「すごく迷惑かけて申し訳ないけど、おばあちゃんの薬、これからも置いてもらえますか?」

「もちろん。でも、もう嘘ついて夜更かししちゃダメよ。私にも覚えがあるわ。そんな年頃ですもんね」

 ルクレツィアが遠い目をした。何やら誤解されているようだが、約盟のことを言う訳にはいかない。ミリアムは心の中でルクレツィアに謝った。

「ほんと、こんなに心配したのは久しぶり。子どもたちだってこんなことまだないわ。ミリィ、あなたロメオにそっくりよ」

「ロメオさんに?」

 ロメオの親父顔が頭に浮かんだ。

「ルクレツィアさん、それひどい」

「だってあの人、私と結婚するまでこの国を三回も旅行したのよ。本人は冒険だって言って出かけて。あちこちから手紙を送ってきたわ。いろんな無茶なことが書いてあるから、こっちはハラハラドキドキ。ほんとに心配したんだから」

 ミリアムとルクレツィアは顔を見合わせて笑った。

 お粥はすっかり空になった。

「おかわりいらない? そう。じゃあ、ここに着替え。私の服だけど着替えてね。汚れたまんまでしょ? ペンダントは壊れていたから、外しておいたわ。ゆっくりしててね」

 ルクレツィアはニコニコしながら出て行った。着替えの上に大きい亀裂の入ったオルト婆のペンダントが置いてあった。精一杯役目を果たした──そんな感じだった。

『おばあちゃん、なんて言うかな』

『さあな。約盟のことは言えないぞ』

『わかってる。でも、きっと大丈夫だよ』

『相変わらずへんな自信があるんだな』

 いや、自信なんてない──ミリアムは頭を振った──こうするしかないと思って選んできただけだ。それなのに「大丈夫」という言葉がでたのは、いろいろな人から元気をもらったからだろう。ルクレツィアさんやロメオさんやトリクシーや隊長さん……オルト婆のペンダント……

 大丈夫。きっとなんとかなる──ミリアムは改めて自分にそう言い聞かせて、またベッドに潜り込んだ。

 ベッドはふかふかして暖かかった。まるで、ルクレツィアさんたちの優しさに包まれてるようだった。

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