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「へー。皆意外と本格というか,古典にも目を通しているんだね」

 夕食の片付けを済ませた後。応接間に移動したわたし達はささやかながら宴会を催していた。と言っても岡部が買い置きしていたビールをほとんど空けてしまっているので,手つかずだったチューハイ類を中心とした控えめな一席だ。わたしを含め女性陣にはそれでも不満はないのだけれど,男性諸氏は明らかに物足りない様子だった。一ノ瀬さんと鳴海さんはかろうじて岡部の手を逃れたビールが冷えるまでのつなぎとしてチューハイの缶を開けたものの,グラスの中身はほとんど減っていない。松本君に至っては初めからコテージに備え付けのウィスキーをロックで飲んでいる。

 感心した風の一ノ瀬さんに,わたしは慌てて両手を横に振った。

「や,ミス研の皆が皆古典読んでいるわけじゃないですよ。今回たまたまそういう面々が揃ったってだけで。それにわたしは英米文学専攻することになってから読み始めたので日は浅いですし。うちの研究会で本当に古典好きって言えるのは松本君と奏ちゃんくらいです」

「そうは言っても,もうお気に入りの作家の一人くらいいるんじゃない?」

「古典で好きな作家ですか。えー,誰だろ。ベタですけれど,エラリー・クイーンですかね」

「あー,誰もが一度は通る道だよね。古典読む人から見てクイーンはどうなの?」

 唯一の未成年である奏ちゃんはジンジャーエールで咽喉を潤してから一ノ瀬さんに応えた。

「もちろんトリックも技巧も一級品ですし,何より万人に受ける作風なのでそもそもミステリをあまり読まない人にも勧めやすいってのは大きいと思います。ただ,個人的にはもっとクセのある作家が好きですね」

「例えば?」

「テニスン・ジェスとか」

「かなりマニアックなところを突くね」

 聞き馴染みのない名前に他の人がきょとんとする中,一人松本君だけはくつくつと笑った。

「当然,知っているわけだ?」

「何作品か目を通したことのあるという程度ですが,一応は」

「へぇ,よく読んでいるねー」

 満更お世辞というわけでもなさそうに,高杉さんは感慨深く頷くと隣に座る岡部に「知ってた?」と問うた。岡部はつまらなさそうに首を横に振ると,グラスの半分ほどの赤ワインを一息に呷る。夕食後早々に自室へ下がった菅以上に飲んでいるはずなのだけれど,一向にペースが落ちる様子はない。何とデタラメな体質なのだろう。

「でもそっか,英米文学専攻だとミステリを専門に研究できるんだね」

 ほぅ,と土井さんは羨ましそうに嘆息した。

「ミステリばかり勉強できるわけじゃないですよ。それに国立だと割とお堅いから,存命の作家は基本対象にできないみたいですし」

「まぁそれはね。それでもミステリで卒論書けるわけでしょ? いいなー。学生の時分折角文学部にいたんだし,英米文学を専攻に選んでおけば良かった」

「それはやり方次第じゃない? 社会学は比較的研究テーマの自由度が高いと聞くし,如何に上手く人を騙すかなんて,それこそ心理学でも扱いそうに思えるけれど」

「えぇまぁ……そうですね」

 色々と思うところがあるのか,話を振られた松本君は徐に頷いた。

「例えば,そうですね。心理学の用語にアインシュテルング効果というものがあります。これは簡単に言うと,ある問題を解決する時馴染み深い解き方に固執し,目の前の最適解に気付けなくなる現象のことです。よく研究される題材はチェスプレイヤーの指し手ですね」

「チェス?」

「ええ。ある研究では様々な局面を見せて制限時間内に最善手を選択するという課題を習熟度が異なるプレイヤーに取り組ませたところ,定石通りチェックメイトを狙う手を上級者でさえも選択する傾向にありました。ただこの局面というのは実験者によって操作されていて,相手の駒に定石が防がれるように設定されていました。つまり最適解は他にあるのに,定石に拘泥して気が付けなかったわけです。またこの傾向は,相手の駒の妨害を受けることが明らかな状況では見られませんでした」

 そこまで話すと,グラスを傾け一口ウィスキーを含んだ。

「これをミステリの文脈で考えると,トリックへの習熟を利用したミスリードとして適用できるかと。例えば入れ替わりや密室などよく用いられる手法を出しておいて,読み手の意識をその解法へと誘導し,実際のトリックはそれらの謎解きとは全くの別物にするとか。或いは作中で繰り返し謎と解を対呈示しておいて,最後にそれまでの解き方が通じない謎を出すというのも有効でしょうね」

「具体的には,双生児が登場する入れ替わりやアリバイトリックとかですか?」

 抽象的な話に理解が遅れたのか,考え考え呟いた奏ちゃんに「一例としてはそう」と松本君は頷く。

「アインシュテルングはドイツ語で『構え』や『態度』って意味なんですけれど,要はミステリに頻出する題材を持ち出してそれに関連したトリックを解く態度に仕向けるということです。ある程度経験を積んだ書き手なら自ずとできていることかもしれませんが,この手の効果を意識するのとしないのとでは大分差があると思いますよ。逆に考えると,作中でのそうした効果の利用のされ方を心理学で研究してみるのも面白そうですね」

「……色々難しいこと考えてるんだねぇ」

 高杉さんは圧倒されたように「はぁー」と息を吐いた。土井さんも感心したように頷く。

「言われてみれば,確かにそれっぽいことは何となくやっているかも。でもそっかぁ,その辺りを効果的に活かせるかどうかね。……個別のネタの着想も専門から得られることはあるの?」

 土井さんからの問いかけに「そういえば以前部誌にそれらしい作品を出していたな」とわたしは記憶を探った。

「それはもちろんあります。ただなまじ囓っているだけにどこで現実とフィクションの折り合いをつけるかは毎回悩みますね。最近考えている『殺害された被害者の脳から生前の反応痕跡を検出し,犯人特定の手がかりをあぶり出す』というややSF染みたネタもそうです」

「……どういうこと?」

 わたし自身意味がよく分からなかったというのもあるが,他の人も置いてけぼりをされている空気を察して補足するよう促す。それでも松本君は頓着せず,ほぼ独白するような調子で続けた。

「脳活動というのは基本的に個々のニューロン活動のON・OFFに還元されます。それならば,どのような方法であれ神経系が心的表象を形作っていると仮定した場合,原理的にはその活動パターンを知覚や認識などの主観的体験に対応づけることが可能ということになります。この考えを基に進められた研究の潮流としては,視覚野での電極の埋め込みによる単一ニューロンの活動解析があります。特にサルを対象とした研究により,低次視覚野が線分の傾きや色,空間周波数など基本的な視覚的特徴のコーディングを担い,高次視覚野がそうした情報の統合を行っていることやこれらの領域の解剖学的繊維連絡パターンが明らかにされました。近年の研究では更に発展し,ヒトの脳活動を機械学習によりパターン認識させることで脳活動から実際にその人が見ている映像をある程度再現することにも成功しています。これらの研究が意味するのは,神経系の活動さえモニタリングできればある程度他者の主観的体験を把握することが可能であるということです」

「……それはあくまでリアルタイムに実現できればってこと? そうじゃないと折り合いで悩むって話に繋がらないよね」

 考え深げに顎を摩る一ノ瀬さんに,松本君は「まあ,そんなところです」と歯切れ悪く頷いた。

「気軽に神経系活動のモニタリングと言いましたが,脳活動といっても電位,磁場,血流動態など指標や測り方は様々です。どの指標をどのくらいの精度で測定するかにもよりますが,場合によっては数百万から何億もするような機材が必要になります。それにこの手の装置は大抵頭部が少し動くだけでもノイズが混ざってしまうので,測定される側の動きは大きく制限されます。こういった負担のためリアルタイムに脳活動を測定すること自体容易くないです。その上今話したことはあくまで生きている人を対象としたものです。僕が考えているのは遺体の脳から時間を遡って生前の反応を推定するということですが,これは現代科学では到底実現不可能でしょう」

「生きているかどうかでそんなにも違うんだ?」

「全然違いますね。生体の場合は神経系の活動そのものを測定対象にできますが,死体の場合当たり前ですがそれができないので,痕跡から生前の活動を推定することになります。ここで言う痕跡とはシナプスに残存している神経伝達物質やその分解後の物質などが相当すると考えられますが,脳全体で関連物質の分布を測定する技術など聞いたことがありません。仮に測定できたとしても,各伝達物質の残存状況と主観的体験を対応付ける必要があります。僕はあまりこの方面には明るくないのですが,おそらくこの対応付けも空想の域を出ないでしょう。放出後の神経伝達物質は短時間で再取り込みや分解がなされますし,死亡直後から分子レベルで遺体の状況は刻々と変化します。このアイデアで致命的なのは将にこの点で,只でさえ主観的体験の手がかりとして利用できる伝達物質の量は限られているというのに,遺体発見から分布状況の測定を開始するまでの間に関連する物質の分布が大きく変化してしまっている。端的に言うと,情報の損失を避けようがないということです」

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