第20話 首相官邸にて

ベアトリーチェが父母と過ごしていた頃、怜子とエルベルトは並んでミニバンの後席に座っていた。

 このあたりはロンバタックス旧市街の観光地なので、怜子も実のところ普段はあまり来たことが無い。ましてや首相官邸や政府庁舎のある場所はなおのことである。

 ミニバンは狭い道路を車道もおかまいなしに歩き回る観光客にぶつからないように、速度を思い切り下げて首相官邸に近づいた。


 首相官邸は広場に面した重厚なゴチック建築である。

 警備の軍人に通行証と、エルベルトと玲子それぞれの身分証明書を見せ、顔を時間をかけてチェックされてから、首相官邸地下の駐車場にミニバンはようやく乗り入れた。

 駐車場を出てすぐに、男女の軍人が近づいてきて、ここでは金属探知機による確認と、エルベルトと玲子はそれぞれボディチェックを受ける。

 警備が厳重なのは予想していたが、それでもこの警備のぐあいには玲子も驚いていた。

 エレベーターではなく階段を上がり1階に出ると、ここは古式ゆたかなゴチック装飾の空間だった。


「エルベルト・リド様と玲子・リド様ですね。

 お待ちしておりました。こちらへどうぞ。」


 待っていた秘書官が前に立って案内する。

 広間の階段を上がりながら、エルベルトは玲子に指さした。


「窓を見てみろ。変だろう。」


 そう言われてみると、窓に映る外の景色が歪んでいる

「防弾ガラスなんだ。首相官邸は古いゴチック様式のように見えて、実は盛大に改装されている。その一つだが、窓はすべて防弾ガラスに変えられている。軍用ライフルでも撃ち抜けないらしいぞ。」


 エルベルトは以前にも首相官邸に来たことがあるのだった。

 怜子は驚きながらエルベルトと秘書官に続いて階段を昇った。

 広い廊下を進むと正面に重厚な両開きのドアがあり、秘書官がそこを開いた。中は狭いスペースになっていた。


「執務室の前室です。」と秘書官が告げて、そこにいた軍服姿の女性に来客が来たことを告げた。


「首相。開きます。」


 秘書官は小声でそう言ってドアを開いた。

 聞こえるはずもない小声だったが、どこかに集音マイクがあるのだろう。となると中にもそれはあると思わなければならない。

 録音されるはずだから、会話の内容には気を付けなければと、怜子は心の中で思う。

ドアを開くと、広大な部屋が広がっていた。

 奥にデスク、手前にソファ、そして左手の窓際には20あまりの座席のある会議用テーブルが、それぞれ十分な間隔をあけて置かれている。


 デスクから一人の男性が立ち上がり、上着を羽織りながら近づいてきた。


「首相。お目にかかれて光栄です。」


 エルベルトは慇懃に挨拶した。いつものような首相を揶揄するエルベルトからは想像も出来ない、丁寧な態度だった。

 続いて玲子も挨拶を交わす。

 この人物がロンバルト政府の最高位にある人物、アドリアーノ・ソベッティ首相だった。

 ニュースなどで見慣れているが、かなり若い。まだ50代前半で背は高く髪も黒々としている。


「ようこそ。首相官邸へ。」


 ソベッティ首相はエルベルトと玲子をソファに促し、飲み物を秘書官に言いつけた。

 運ばれた飲み物に少し口をつけ、お互い当たり障りの無い会話を少ししてから、エルベルトが話をはじめた。


「首相。本日お伺いしたのはほかでもない。この国の移民政策について、パラッツォ・ホールディングスの希望をお伝えするためです。

 いや、パラッツォだけではない。これはロンバルド経済界全体の意向と言ってもいい。」


「承知しています。

 パラッツォの意思はロンバルドの産業界全体の意向と言ってもいい。そんなことは解っていますよ。」


 首相は表情を崩さないで言った。

 この首相個人にも、所属する政権与党ロンバルド自由党にも、パラッツォ社やリド家の名義で多額の献金がなされている。その政権がこれまでリド家の意向を無視したことはない。


「わが国には、移民による労働力は絶対に必要です。

 このことは首相もよくお分かりのことと思います。今後もこの政策に変更は無いことを確認したい。」


「もちろん、私が首相である間は政策に変更はありません。」


「そこなのですが。」


 怜子が話を引き継いだ。


「首相の自由党が政権にある間はそうでしょう。ですが、政権交代があった場合は、どうなるのでしょうか。」


「移民政策は、法で定められたものではない。移民を受け入れるかどうかは、その時々の政権の判断に任されています。 

 政権交代があった場合は、新しい政権がそれを決定します。」


 首相はそこで言葉を切った。


「つまり、お2人が心配しているのは、あの連中のことですね。」


「そうです。ロンバルド愛国者党が政権を取った場合です。」


「それを私に聞くのはお門違いだ。愛国者党に聞いてもらいたい。

もっとも、あの党は移民排斥、難民受け入れ拒否を党是としている。聞くまでもないことでしょうが。」


「それに、彼らはパラッツォ社を移民と難民受け入れの元凶のような言い方をしている。 全く困った奴らだ。」


 エルベルトはそう言って、出された飲み物を口に運び、ソファに背をもたせかけた。


「例の、連続レイプ事件も影響していますな。

だが、愛国者党が政権を取るかどうかは解らないでしょう。たしかに支持は伸ばしている。次の選挙ではかなりの議席を取るかもしれない。しかしロンバルド議会の過半数は200議席です。

 そこまでの支持は彼らには無い。」


「そうでしょうか。確かに今はそうかもしれない。ですが気になるのは、愛国者党は支持率が急伸していることです。

 パラッツォとしてはそれを心配しています。」


「で、私にどうしろと。国民の意思は私であっても変えられない。」


「首相は今、移民政策は政権の判断に任されていると仰いました。

 この移民政策を恒常化させるために、たとえば法制化することは出来ないものでしょうか。」


 首相は手に持った飲み物の動きを止めた。表情は変わらずその心中は読み取れない。


「現在の移民政策を法律として定めてほしい。そうすれば政権が交代しても、移民政策は継続される。これがパラッツォ社の意向だ。

 ストレートな言い方をすれば、私たちは自由党にもこれまで大きな支援をしてきたつもりだ。もちろんあなた個人にもね。それが出来たのも、パラッツォ社とロンバルド経済が好調だったからだ。だから多額の政治献金も出来た。だが、これがどうなるか不安定になってきている。

 自由党とあなたの力で、次の総選挙までに移民政策を法律として議会で可決してもらいたいのです。

 それならば…」


「エルベルト! この国が何でも自分の思いどおりになると思うな。」


 首相は激しい口調でそれを遮った。

 エルベルトと玲子は何も言い返せなかった。穏やかな表情だった首相は、激しい口調に顔がゆがんでいた。

 そのまま首相は続けた。


「私とてこれからのロンバルドとヨーロッパの先行きを心配していないわけではない。極右の伸長はヨーロッパのほとんどの国で起きていることだ。

 だがそれをどう出来る。


 私は独裁者ではない。出来ることには限界がある。仮に私が議会を動かして移民政策を法制化しても、極右が政権を取れば、簡単に覆されてしまう。

 国民の意思はどうにもならない。

 それはこの国の王にも例えられるリド家の当主をしてもだ。」


 アドリアーノ・ソベッティ首相は、そう言い切ると一気にカップの中身を飲み干した。

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