カバリアの箱庭

長野文三郎

第1話 ルーチェと与一

 カバリア迷宮最深部に到達した冒険者はいない。

富と名声を求めて幾人もの兵士や冒険者がこの深淵に挑んではいるが、多くの者が志半ばで力尽きている。

そして今ここに、また新たな冒険者パーティーが全滅の危機に瀕していた。

すさまじい音がして巨大な魔物の爪が前衛戦士の身体を盾ごと切り裂く。

全長4メートルはありそうなマンティコアが三体もいた。

マンティコアはライオンの身体に人面を持ち、尾には毒針が無数に生えている魔物だ。

横なぎの攻撃をまともに受けて、戦士は内臓をまき散らしながら声も出さずに倒れた。

盾役の消滅、それはこのパーティーの崩壊を意味している。

後衛の魔法使いが高火力の魔法を放つ前にマンティコア達は一斉に飛びかかってきた。


「散開して逃げろ!!」


リーダーの怒声が響く。

とっさの判断としては優秀なのかもしれない。

密集体系になって防御を固めたところで最早全滅は免れない状態だった。

むしろバラバラに逃げた方が個々人の生き残る可能性は高くなる。

人間はいつだって存続することのベストな解答を模索している。

理性的であれ本能的であれ究極的に言えば利己的だ。

自我の最終目的は自身の継続なのだから。


 リーダーがマンティコアに組み伏せられるのをみて、冒険者ルーチェは逃げ出した。

立ち込める血の匂いを振り払うように全速力で駆け出す。

斥候役の自分に出来ることなどもう何もないと思ったし、何よりも死の恐怖がルーチェを突き動かしていた。

後ろを振り返りたいという衝動を抑え込み、前だけを向いて全速力で走る。

自分と同じ方向に逃げている者もあるらしく足音は迷宮の壁に複数響いている。

だが、叫び声が聞こえるたびに足音は減っていった。

(来ないで、来ないで、来ないで)心の中で呪詛のように念じながらルーチェは走る。

それがマンティコアに向けての言葉なのか、それとも仲間に向けての言葉なのかはルーチェ自身にもわからない。

とにかくルーチェは今ここにある現実を振り払うようにひたすら走った。

右へ曲がり、左へ曲がり、追撃を振り払う。

自分がどこを走っているかなどとっくの昔にわからなくなっていた。


 やがて通路は曲がり角のない道になった。

そしてそれもついには行き止まってしまう。

だが完全な行き止まりではない。

ルーチェの目の前に現れたのは下り階段だった。

皮肉な話である。

パーティーがこの階層を二日間も探してなお見つからなかった階段が突如として現れたのだから。


 ルーチェは今来た道を振り返った。

回廊の先は暗闇に包まれ、何も見ることはできない。

だが、仲間の断末魔がかすかに響いた気がした。

魔物には縄張りがあると言われている。

この階段を下ればおそらくマンティコアはそれ以上追いかけてこないだろう。

行く手にはもっと恐ろしい敵がいるかもしれない。

だが、ルーチェは今ある恐怖から逃れたかった。

ここで命尽きればどうせ未来などないのだ。


「どうして……。どうして、こんなことに……」


カバリア迷宮とマンティコアと己の運命を呪いながらルーチェは暗い階段を下りた。


□□□□


 東京都杉並区荻窪。

芹沢与一せりざわよいちは駅に近いマンションの一室に親と同居をしている。

母親は既に他界しており、父と二人暮らしだ。

だが、この春からその父も単身赴任が決まり、帰ってくるのは月に数回だけとなった。

与一も今年から大学生になり、ことさら寂しいという気持ちはない。

人とは距離を置くような生活をしている与一はむしろほっとしている。

与一はつとめて一人でいようとする人間だった。

コミュニティー障害ともちょっと違う。

見知らぬ人にも親切にできるし、誰とでも普通に会話もできる。

ただ他者と親密な関係になることを避けようとする傾向があるのだ。

これは与一の高校時代の経験に起因している。

あまり楽しい話ではない。


 高校二年生の時、与一のクラスではいじめがあった。

与一は当事者ではない。

ある女子生徒が被害者だった。

無視をする、靴やジャージを隠す等のいじめがあった。

進学校でもあり加害者が自身の経歴に傷をつけるような派手ないじめはなかった。

だが、子どもらしいむごたらしさをもっていじめはどこまでも続いた。

机に書かれる悪口や稚拙な猥画、切り取られた教科書、精神的な暴力の数々、そして存在の否定。

世界を見渡せば違和感のある他者を排斥しようとする傾向はどこにでもある。

多様性の否定は自分を守る術の一つだ。

だけど与一にはそれがただ悲しかった。

彼は優しかったのだ。

そしてある日、与一はついにいじめに対して抗議をしてしまう。

過去を振り返って見て与一は反省している。

あの抗議に何の意味があったのだろうかと。

自分が抗議すればいじめは止んだのだろうか。

自分の言動にそんな力などないことを知っておくべきだったのではないかと。

結果として与一もまたクラスから無視される人間の一人となった。

そして与一は他者に何かを期待することをやめ、物事を自分一人で解決しようとする傾向が強くなっていった。

ランチは一人で食べるよりも友人と食べた方が楽しいのはわかっている。

オナニーよりもセックスの方が気持ちはいいのだろう。

経験のない与一にとって断言はできないが想像はつく。

だって自慰の方が気持ちよかったら人類は滅びてしまうじゃないか。

それでも自分は人といて傷つきたくなかったし、一人でいてもそれなりに楽しめた。

快楽に愛は不可欠ではないように、自分の生活に他者は必要欠くべからざるものではないと若者らしい傲慢さで思っていたのだ。


 夕飯の材料を買って家に帰ると、時刻は十七時だった。

西に傾いた太陽が黄ばんだレースのカーテンを通して狂おしいほどの自己主張をしていた。

九月も終わりかけだというのに今年はいつまでたっても涼しくならない。

ペットボトルのお茶を握りしめたまま与一は自室へと入った。


 直観というのは言語化される以前の認識だ。

部屋へ入った瞬間に与一は違和感を覚えた。

誰かが部屋に入った? 

それは違う。

父親は再来週の週末まで帰ってくる予定はないし、他にこの家の鍵を持つ者はいない。

では泥棒か? 

それも違うと思う。

雑然とした部屋ではあるが、物はすべてあるべき場所にあり、盗まれたり移動された形跡はなかった。

だったらこの感覚は何なのだろう? 

自分の感じたものを言葉にしようと与一は観察と思案をはじめた。

しばらく考えたのちに答えは見つかった。

空気が違うのだ。

この部屋の空気はこれまで与一が嗅いだことのない匂いが混じっていた。

それは土や木々の香りであったが、与一にはその正体がわからない。

なぜならこれまで与一はほとんど自然と接するような生き方をしてきていないからだ。

都会生まれの都会育ちであり、両親の実家さえも都内である。

濃密な木々の香りを瞬時にかぎ分けられるような環境で生きてきてはいない。

だが自分の生活に縁遠いものながら異質な匂いが自室に混じっていることは分かった。

何だろう、この匂い……。

与一は大きく息を吸い込んだ。

鼻腔に広がるその香りに清々しい気分になっていく。


「どこからにおってくるんだ?」


新しい芳香剤など買っていないし、家で使っている洗濯洗剤はこんな香りはしない。

エアコンをつけることさえ忘れて、与一は匂いの発生源を探った。

周囲を窺う犬のように鼻を動かしながら部屋の中を歩いていくと、クローゼットの中からかすかな風がふいた様に感じた。

締め切った部屋の中で風がふくなど考えられないことだが、深く考えもせずに与一はクローゼットの扉を開けて声を失った。

もともとクローゼットの中にかけてあった服は少なく、半分くらいは空きスペースがあった。

今は暑い季節なので最近ではこの扉もあけることはなかったのだが、久しぶりに見た内部には扉のような木枠がありその向こうに自然に覆われた空間が広がっているのが見えた。

木枠の向こうは森の中のようだ。

落ち着こうと深呼吸をすれば、木々の香りが肺の中に広がる。

視覚と嗅覚がタッグを組んで非現実的光景が事実であることを与一に突き付けてきた。


 与一は足音を立てないようにそっと謎の枠に近づいた。

その木枠は姿見のようにも見えるし縦長の額縁のようでもある。

だが、向こうに広がる光景は鏡に映った外の景色ではなく、液晶画面でもなかった。

木枠の中央を指でつつくと水をつついたように波紋が広がり向こう側の景色が揺れた。

だが、指をそのまま差し込むと何の抵抗もなく指は木枠の向こう側に入っていった。

向こう側に行けるのか? 

恐怖を感じながらも与一は腕を奥まで入れ、枠の向こうに広がる大地に触れてみた。

さらさらとした草や、少し湿った土の感触が手に伝わってくる。

そのまま草を引きちぎって手を戻すと指の間には今引きちぎったばかりの草がちゃんとあった。

青臭い匂いが指についている。

自分の心臓の音が聞こえるほど興奮したのはいつ以来だろう。

感情の起伏に乏しい生活をして何年にもなるが、与一は言い知れない興奮を覚えながら玄関に走った。

靴を取りに行ったのだ。

慎重な性格をしているにも関わらず、与一は木枠の向こう側へ行くことをためらっていなかった。

自分の部屋が別世界へと繋がっているというシュールな状態が与一をして向こう見ずな冒険へと駆り立てていた。

与一自身も気づかぬうちに、自らが選んだ孤独な生活に閉塞感を感じていたのかもしれない。


 靴を履き、先ずは足先を枠の中に突っ込む。

大丈夫、何の異常も感じられない。

与一はそのまま軸足を異世界側へと移し、ついに木枠の向こう側へと降り立った。

そこは森の中のような場所だった。

こちら側では木枠は大きな岩の切り立った側面に取り付けられていて、そこからは与一の部屋の様子が見えていた。

岩の周りはちょっとした広場のようになっていて柔らかな草が青々と大地を包んでいる。

周囲を見回して与一は考えた。

本格的に調査するには準備が足りない。

バックパックに食料や水筒、身を守るための武器も必要だろう。

さっそく部屋に戻って準備しようとした与一の背に突然女の叫び声が響いた。


「待って!! ……助けて下さい。お願いします」


木の陰に隠れて与一の様子を窺っていたルーチェが涙で顔を濡らしながら立っていた。

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