銃と剣 8

「ひっ!」


 ギリギリで避けたつもりだったが、どうやら右手が逃げ遅れたらしい。体全てに比べれば些か少しだけ、比べればの話だが、少しだけ彼女の大鎌の餌食になってしまったらしい。

 思わず、短い悲鳴をあげて、傷を抑えるが、指の間から生暖かい赤い雫がとめどなく垂れてくる。

 グロはないと言った癖に、それは酷くリアルで眩暈がする。吐き気が擦るほど、自分の血に温かさを感じるのだ。

 痛みはあるのかないのか、よくわからない。

 この緊張状態に、そこまで頭は回らなかった。

 ただ、今、颯太の頭にあるのは『怖い』と『このままだと殺される』の二つだけ。恐怖が支配する頭では、これがゲームである事も、既に何処かに消えてしまっているかもしれない。

 颯太はそれから、恐怖のあまり無我夢中で走り出した。

 

「うわあぁぁぁぁっ!」

 

 今までの様な冷静な分析など、一ミリたりとも顔を出さず、ただ本能的に、『生』に必死にしがみ付く事に必死である。

 実に安直に、実に愚かしく、何処かに隠れなければと、今までの思考、または理解を破棄し彼は必死に走り出す。

 大須方面は駄目だ。道が多すぎて回り込まれる危険性があるし、もし、建物内に入る事が出来なかったら完全にアウトだ。このまま大通り沿いを走って栄に抜ければ物もあるし、隠れやすい場所もあるはずだと信じて、彼は走る。ただ、ひたすら走る、走る。

 一体、隠れて何になると言うのか。

 大鎌女に襲われる前の志賀颯太ならば、その答えに行きついていた事だろう。

 なのに、今。今の彼の行動を是非とも見て欲しい。

 安直だ。実に、安直だ。思わず呆れにも似たため息がて出てしまう事だろう。

 だが、それが人間だろうに。普通の高校男子としては、当たり前の行動である。人は、突然訪れた慣れていない恐怖には対応できない。つまり、勝てないのだ。勝つ術を持たない。

 結果、敗北となる。

 その証拠に、直線である道路を颯太は必死で駆け抜けたが、それであの大鎌女が颯太を諦めるはずがない。

 

「……うざっ」


 ぼそりと、誰にも聞こえない様な声で大鎌女が呟けば、彼女は颯太目がけて地面を蹴る。

 大きく赤い着物が舞い上がり、ツインテールを揺らして黒いセーラー服と白いスカーフが風に触れる。

 彼女が何者か、颯太は知らない。知らされてもいなければ、知る由もない。

 だから、彼は知らない。彼女はこの『世界』で少し、有名人である事を。

 彼女は『山犬』である。山犬とは何か知っているだろうか。勿論、人ではない。獣だ。彼女はまさに、ソレである。

 狩りは山犬の基本。

 逃げた得物を追う事は山犬である彼女にとっては実に簡単な事。捕まるしかないのだ。彼女に追われたら最後、彼女から逃げきれるものなのいないと言われるぐらいに。

 ほら、絶望だろう? 敗北の道しかないだろう? どうすれば、彼女の打ち勝てる?

 知恵か? 勇気か? それとも、力か? 残念ながらどれも今の彼にはないモノばかりだ。

 この絶望下で彼がもし、もしだ。過程の話だ。そこをきっちりと確認して欲しい。もしも、彼が彼女に『負けなかった』ら……? それは、まるで逆境に生きた、たまは嵐を跳ねのけた『英雄』ではないだろうか? 英雄の素質を持っていると言っても、差支えないのではないだろうか?

 しかし、そんな事は奇跡に他ならない。

 なんたって、『オオガミ』に属する彼女は、実に優秀な山犬である。

 彼女達山犬は、決まって狩りの前には誓いを立てる。自分達自身に誓約を立て、失敗を許さない為に、こうやって。

 全ては……。

 

「姫様の為にっ」


 風に飲み込まれる程の速さと鳴き声。もう一度、彼女は強く地面を蹴って飛び上がった。


「っ!?」


 身体が軽いのは、彼女も一緒。

 人とは思えぬ跳躍力を見せ、彼女は彼を飛び越し、大鎌を振るう。

 

「うわっ!」


 逃がすわけがない。

 山犬として。そして、この『世界』を知り尽くす者として。たった今、この世界に足を踏み入れたばかりの赤子と変わらぬルーキーに。

 もう一度、もう一度と鎌を振るえば、颯太は壁へと追い込まれる。

 もう、後はない。

 追いかけっこもここで終わり。

 私の最初の一撃をまぐれだとしても避けた事は褒めてもいいが、他の所は落第点。特に、思考を捨ててなにも考えずに逃げ隠れに一目散になった所なんて愚行の愚行。思考の放棄は、命の放棄と言っても過言ではない。そんなことすら知らないだなんて。

 そう、白い布の奥で、彼女は彼を見下し笑うのだ。

 しかし、彼女が笑ってられるのも今のうちかだけかもしれない。

 すっかり忘れているかもしれなが、彼だって、武器がないわけではないのだから。


「……銃?」


 彼女は彼が自分に向ける銃先を見る。

 成程、漸く逃げられないと悟ったか。で、今度は戦う気になったと言う事か?

 勇ましい彼の姿に、彼女は声を上げて笑いたい気分になった。手を叩いて、称賛を浴びせてもいい。ああ、なんて本当に、男とはどうしようもない馬鹿であるのか。

 女は笑う。

 初めて、ここに来た癖に。

 初めて、銃なんて握る癖に。

 馬鹿みたい。

 引き金を引くだけで人を殺せる銃は簡単に扱えると思ったのかしら? 何て愚かで短絡的で思考を破棄した考えだろうか。

 彼女は軽蔑にも近い眼差しを彼に向ける。

 

「撃つぞっ」

 

 彼は、震えた声で彼女を睨み付けた。

 撃つぞ、ですって? それは、これ以上近づいたら撃つと言う警告のもりだろうか。彼女の軽蔑の色は一層濃いものとなる。

 ああ、残念だ。それでは、このゲームでは生き残れない。

 そう。この瞬間、撃っていなければ。

 結局は、彼に引き金を引く勇気なんていつまでたってもないのだ。この瞬間、構えた一瞬、彼女が対応をしきれない程の速さで。その鉛を彼女の体内に打ち込まないと言う事は、そう言う事なのだ。

 彼女はまた一歩、また一歩と彼に近づく。

 しかしながら彼女の推測通り、ただただ、息が荒くなるだけで彼の指が動く事はない。

 愚かしい。

 実に愚かしい。

 彼女の軽蔑が、いつの間にか赤みを帯び、憤怒へと変わっていく。

 ああ、私に、この山犬の私に、誇り高き姫様の犬に、そんな脅しが聞くとでもこのネズミは本気で思っているのかしら?

 

「お、おいっ! 本当に、撃つぞっ!」

 

 また一歩と近づいても、彼の人差し指は動かない。

 そう、彼女の指摘通り、悲しいかな彼には撃てないのだ。

 彼女がまた一歩、また一歩と足を進めようが、何をしようが。

 これを引いたら、彼女は死ぬ。

 その現実が彼には受け入れられなく、ただただ怖い。

 彼はこれが完全にゲームである事実を失念しているのか。それは恐怖のあまり冷静さを欠いた結果なのか。そとも、ゲームとわかっていながら、この現実の様な世界にリアルが纏わりついているのか。

 どちらにしろ、彼は恐れている。自分が、『人を殺す』事を。

 だからこそ、必死に牽制を取る他ない。頼むから、それ以上近づないでくれと、彼が睨んでも、彼女は止まらない。

 

「何でだよ……っ! お前、撃たれるんだぞっ!」

 

 知っている。そんな事など、十分承知だと、十分に命を刈り取れる距離に迄近づき、彼女は大鎌を振り上げる。

 それでも、颯太は引き金を引けない。それもそのはず。彼には、彼女の言う通り、引く勇気なんて、何処にも無い。

 彼女には、その勇気も覚悟も揃っていると言うのに。

 彼女は一気に彼に向かって、大鎌を振り下げた。

 それでも、彼の指は動かず、ただ諦めた様に、もう駄目だと強く目を閉じる。

 その時だ。

 辺り一面に弾かれれる音が響いたのは。

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