伊緒さんのお嫁ご飯

三條すずしろ

第1椀 伊緒さんのカレーはどういうわけか、初日から二日寝かせた味がする

 今日の晩ごはんはなんだろうなあ、と楽しみにしながら帰るなんて、子どもの頃には考えられないことだった。

 両親はバリバリの共働きだったし、低学年からずっと塾通いだったので、家族で食卓を囲んだ記憶はほとんどない。

 夕食はコンビニ弁当か、母が作り置きしてくれた簡単なおかずとおにぎりを、塾で食べるのが普通だった。

 自分の周りの子どもたちは皆同じような感じだったので、特段それが変だと思ったことはなかった。

 でも、塾へ行く道すがらどこからか漂ってくる夕食の香りに、たまらなく切ない気持ちになってしまうこともあったのだ。

 大きくなったら、みんなで食卓を囲むような家庭をつくろう。

 それがぼくの、ささやかで切実な、子どもの頃からの夢だった。

 

 大人になったぼくは小さな会社に就職し、小さなアパートを借りて暮らしていた。取り立てて便利ではないが、ぼくはそのオンボロアパートでの日々をとっても気に入っていた。

 なぜなら・・・・・・そう。ああ、夕食の香りが漂ってくる。

 アパートの階段下までやってくると、我知らず足が早まる。

 もう絶対にメニューを間違えることはない、決定的な香りに子どものようにわくわくしてしまう。

 呼び鈴を押さず、ココン、コンコンとドアを叩き、カリカリと引っかくのが僕の帰ってきた合図だ。

 でもそうしている間にもドアの向こうから、ぱたぱたと小走りに駆け寄ってくる音が聞こえてくる。

 ドアを開けた瞬間、カレーの匂いが風になって吹き寄せてきた。

「おかえりなさい、晃くん」

 満面の笑みで出迎えてくれるのはいつものことなのだけど、毎度毎度、まともに照れてしまう。

「ただいま、伊緒さん」

 お嫁さんである女性を、ぼくはいまだにさん付けで呼んでいる。こんな毎日のやりとりが、僕にはたまらなく嬉しい。

「今夜はカレーだよ!」

 ドヤァ! といった顔で伊緒さんが宣言する。

 もちろんかなり早い段階で分かっていることだけど、ぼくは素直に大喜びすることにしている。

 なぜなら、本当に、大変喜んでいるからだ。


 およそカレーが嫌い、という人にはこれまで出会ったことがない。

 もちろん、中には

「え、ごめん。カレーだめなんだよね」

 と、のたまう方もおられよう。

 だがしかし、ぼくにとってカレーとはまさしく憧れの家庭の雰囲気を体現したものにほかならない。

 そもそも本邦におけるカレーの始まりとは、英国式に倣った海軍設立の時代にさかのぼるという。

 伊緒さんはどういうわけかこの話が大好きで、カレーを作るたびに英国統治時代のインドと、日本への英国式カレー伝播の歴史について熱く語るのだ。

 さらに、旧海軍では海上でも曜日の感覚を失わないよう、毎金曜日は「カレーの日」と決まっており、それは現代の海上自衛隊にも受け継がれているのだというトリビアで締めくくられるのだった。


「手を洗ってうがいをしてね」

 と、母親のようなことを言いながら、伊緒さんが食卓を整えてくれている。

 僕が着替え終わった頃にはちょうど料理を並べられるよう、いつも気遣ってくれているのだ。

 カレーのときこそ真っ白なテーブルクロスをひくのは、彼女なりの美学なのだろうと思う。サラダにラッキョウや福神漬けといった重鎮らが卓上に布陣し、カレーライスはやや控えめに盛ってある。これは「お代わりしてたくさん食べてね」という伊緒さんのメッセージなのだ。

 そしてコップの水には伝統にのっとってスプーンが浸されている。

 伊緒さんと向かい合わせになっていそいそと卓につく。

 二人同時に手を合わせ、

「いただきます」

 と、二人同時にとなえてスプーンをとった。

「おいしい!」

 開口一番、ぼくは必ずそう叫ぶようにしていた。

なぜなら、本当においしいからだ。

にっこり笑って伊緒さんもスプーンを口に運ぶ。ぼくがおいしいと言うのをいつも見届けているのだ。

「うん! カレーだね!」

 と、伊緒さんが謙虚な感想を述べる。

「はい、カレーですね!」

 と、ぼくが言わなくてもよかったかな、と思うような貧しい返事をしてしまう。

 なんだか恥ずかしい思いもあるのだ。とにかくもう、すごくおいしくて嬉しい。

 「カレーは飲み物」

 という格言ははるか元和元年、時の南町奉行なにがしによって呟かれた、というのは伊緒さんのお母さんのジョークなのだけど、確かにするすると食べやすく、ついつい飲み込んでしまいがちだ。

 ゆっくり味わって、よく噛んで食べることを心がけているものの、一皿目は結果として「注意して飲む」状態になってしまっている。

 ようやく当初の目標を思い出すのは、少し落ち着いた二皿目からで、

「お代わり、どう?」

 と、嬉しそうに伊緒さんが聞いてくれて初めて我に返るのだ。

 そういえば、結婚するまでは夢中になってごはんを食べるという経験がなかった。

 行儀が悪いよなあ、と思いながらも、そんなことも嬉しく思うのだ。

「実はずっと思っていたんですが」

 カレーのお代わりを受け取りながら、ぼくは伊緒さんにこれまで聞けなかったことを聞こうと、質問を繰り出した。

「いつもカレーは、作ったその日に食べさせてくれてるんですよね」

 伊緒さんはきょとん、とした顔で

「そうだよ」

 と、頷く。

「よくカレーは二日目がうまいなどと言って、最近では〝二日目っぽい味のする〟ルーなんかもありますよね。でも、伊緒さんのカレーはそういうのを使わなくても、初日からなんだか二日目っぽい熟成した味がするんです」

 ぼくの質問の意図が分かったのか、伊緒さんはいたずらっぽい笑みを浮かべた。

 そう、ぼくも一人暮らしの時にはよくカレーを作ったが、初日にはいかにも経験不足でまだ熟成されていませーん、といった体の「若い」味だった。

 ところが、伊緒さんのカレーは見事に初日から二日目の味がする。こはいかにいかに。

「うーんとねえ」

 伊緒さんは口元に指を当てて、虚空とにらめっこしながら考え考え、教えてくれる。

「特別なものを使っているわけではないの。よく隠し味にチョコとかコーヒーとかを入れるけど、コクを出すためには生のおろしニンニクを入れているわ。あとは、スパイスも黒胡椒とかガラムマサラとか足してるかなあ」

 あ! あとそれと、と言って伊緒さんがぽんと手を打った。

「煮込むときにお酒をたくさん入れるの。赤ワインとか・・・あと梅酒もおいしいよ」

 ほほう! ぼくは一気に謎が氷解するような痛快な気持ちになった。

 なるほど、あらかじめ熟成されているお酒をベースにすることで、えもいわれぬ味の深みやコクをカレーに与えていたのか。さらに、梅酒という果実のリキュールでフルーティーな香りを加えていたのだ。

 道理で、伊緒さんのカレーは作ったときにはもう二日目っぽい味がするはずだ。

ぼくは感激してただ「おいしい」を繰り返し、食べすぎかなあと思いながらもそっと三皿目を所望した。

「よく噛んで食べるのよ」

 と笑いながら、伊緒さんがやや小盛りにカレーをよそってくれる。

「あ、そうそう。カレーって実は海軍のね・・・」

 伊緒さんの大好きなカレーの歴史についてのお話が始まった。

 何度でも聞きながら、さらに味わってゆっくり食べよう。

 明日にはきっと、伊緒さんのカレーは三日目の味になっている。

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