幸運な偶然・2

「君、お父さんとお母さんは?」

 男の人がにっこりと、人の良さそうな笑顔を見せて訊く。

 途端に、茜の頭に警戒音が鳴り響いた。スペチル時代につちかった、何か自分に危害を加えそうな人を見ると鳴る警戒音だ。スペチルは宇宙放浪者の底辺、その中の更に最底辺の小さな女の子が、厳しい環境で身を守る為につけた、野生の勘のようなものだった。

 それが告げている。

『アヤシイ! スグニ、ナニゲナイフリデ、コノオトコカラ、ハナレロ!!』

 茜は、それを顔に出さないように気を付けながら、一歩、後ずさって男との距離を開けた。

「います。お父さんが二階に」

『ヒトリデ、ココニイルコトヲ、ゼッタイニ、サトラレルナ!!』

 警戒音が更に告げる。

 さりげなく男に背を向け、二階に逃げようと、昇降床前の待ち人の間に紛れ込む。

 が……。

「どうやら、迷子のようだね」

 優しい声が背後から追い掛けてきて、その声音とは裏腹に、コートの上から強く右腕を掴まれた。

「さっきから、ずっと一人でいたみたいだし……」

 ぐぐっと男の方に引き寄せられ、茜は小さく唇を噛んだ。

 いつからなのか。この男は、茜が一人なのをよく知ったうえで、声を掛けてきたようだ。周囲を目だけを動かして見る。

 周りの客には、警備員が小さな迷子の女の子を保護したと見えているのだろう。気に止めてくれる人はいない。

 茜は左手をショルダーバッグに伸ばした。バッグの中には、昨今の宇宙時代、ほとんどの人が持っている多機能万能カード、バリーカードの子供版、児童カードが入っている。学校から任意に配られているもので、有害サイトの閲覧や無断課金、保護者の認証無しの契約を禁止するアプリや、GPS、緊急連絡、防犯アラーム機能等がついているカードだ。

 その緊急連絡に、茜は先生から配られて、使い方の説明を受けたとき、父と母と兄のカードの通信番号を登録していた。

 カードの脇のボタンを長押しすれば……。三人に自動で発信される。

 そして、その反対の側のボタンを長押しすれば、防犯ベルが大音量で鳴る。デパートには迷惑を掛けてしまうが、これで注目が集まり、男が怯んだところで、一気に外に逃げ出そう。

 茜が左手をバッグに入れようとしたとき

「おっと……、バッグが落ちそうだよ」

 男は、さりげなくバッグを取り上げた。

「こんな人混みで落としたら大変だ」

 にっこりと、あくまでもにこやかに笑う。だが、お仕置きだとでもいうかのように、右腕にギリギリと力が込められる。茜の顔が痛みに歪んだ。

 声を上げようと口を開くと

「……下手なことをしたら、腕を折るぞ……」

 小さく囁かれる。笑顔とは正反対の冷たい脅迫の声に、ビクリと身体が強ばり、声が喉の奥に引っ込んでしまう。

「じゃあ、こっちの迷子室に行こうか」

 グイと力任せに引っ張られる。茜の目に、恐怖と痛みで涙が浮ぶ。が、親が恋しくて泣いている子供にしか見えないのだろう。気にしている人は周囲にはいない。警備員によく似た服に、一人でやってきた子供かどうか、しっかり確認してから狙う手口。用意周到な男のやり口に、茜の背中が冷たくなる。

 このまま連れていかれたら……。

 スペチル時代、どう兄やシュウ達が聞かせまいとしても、耳に入ってきた小さな女の子が遭う怖い話が、脳裏に次々と浮かんだ。

 お父さん! お兄ちゃん! お母さん! 助けて!!

 茜の目の縁から、ぽろりと涙がこぼれたとき、男の足が止まった。

「なんだ……お前……」

 戸惑う声が頭上から聞こえる。男の目の前には、白い縄編み模様のセーターに、茶色のスラックスを履いた、恰幅の良い、白髪とたっぷりの白い髭のおじいさんが立っていた。

「こんな可愛い女の子を、そんなよこしまな目的に使ってはいかんな」

 おじいさんがにっこりと笑う。そのにっこりに、茜の頭の中の警戒音がふいに消えた。

 唖然と立つ男の額を、おじいさんがトンとつつく。

「さあ、その子を離して、駅前交番の巡査長の所に行くんだ。服の胸ポケットのカードの、いかがわしい写真を全部、彼女に見せておいで」

「……はい……」

 男が茜の腕を放し、ふらふらとデパートを出て行く。

「良かった。やっと間に合った……。もう大丈夫だよ」

 おじいさんが、へなへなと床に座り込んでしまった茜に微笑みかける。太い腕がスラックスのポケットを探ると、真っ白のハンカチを渡してくれた。

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