曇り、猫、帰る。

長谷川昏

前編

 猫を探すという行為は酷く漠然としている。

 探したいという目的や意思は、はっきりしているにもかかわらず、そのやり方というか方法が曖昧で茫洋としている。


「おーい、ルカー」

 しかしただずっと立っている訳にもいかず、とりあえずいなくなった飼い猫の名を呼んでみる。けれども声を上げてからふとあることに気づき、周囲を見回す。


 土曜の昼下がり、薄曇りの空の下の閑静な住宅街。

 自宅アパートからも近く、なんとなく当たりをつけてやって来てみたものの、自分を見下ろせば、色褪せたTシャツ、同じく色褪せた破れジーンズ、くたびれたサンダル履き。ここ最近適当に伸ばしていただけの髪は本当に適当でしかなく、同じく適当にしか剃ってない髭が、悪い方の相乗効果を高め合っている。そのような輩が何か声を上げながら住宅街を徘徊するこの姿は、どうにも怪しげなものでしかなかった。


 辺りを見回せば、車二台がようやくすれ違える通りには、各々の方角に向かう中年女性と男子高校生の姿がある。けれど幸いにも女性の方は全く無関心の様子で、男子高校生も一瞥を向けただけだった。

 周囲は古い家屋が多いせいか、昔ながらのブロック塀や垣根が通りに沿うように続いている。自分がいたのは塀に覆い被さるように葉を繁らせた木々の陰だったから、そのおかげで怪しいはずのこの姿も、あまり目につかなかったのかもしれなかった。


 買い物袋をぶら下げた女性はそのまま歩き去り、男子高生も特に関心を見せることなく去っていった。すると通りには誰の姿もなくなり、しかしそうなれば今度はどうにもうら淋しくなる。

 突然いなくなった飼い猫だけでなく、自分も帰る場所をなくしてしまったような気分に襲われて、今度は別の意味の曖昧で茫洋とした気分を味わう。猫を探す気分も失われそうになるが、どこかを彷徨う『ルカ』の姿を思い浮かべれば、何もせずに突っ立っている訳にもいかなかった。


「なぁ」

 不意にその声が届き、振り返ると先程歩き去ったはずの男子高校生の姿がある。


 白いシャツと臙脂のタイにチェックのズボン。見覚えある制服は、この近くにある学校のものだった。今時の少年を思わせる髪型は清潔な感じで整えられ、昼下がりの穏やかな風に揺れている。男にしてはやや目が大きく、女性的な趣も感じ取れるが、瞳からは少々の気の強さも受け取れる。

 背丈は自分より少し低いくらい。標準的な体格と標準的な雰囲気を持つ普通の高校生と表現すれば、一応それで説明は終わることになる。でも二十代も半ばを過ぎた自分にしてみれば、この年代特有の輝きを否応なしに受け取って、そのまばゆい存在自体を非常にうらやましく思う。


「なぁ、聞こえてる?」

 そんなことを考えていると、再度相手の声が届いた。その声は怒っているようにも取れ、不機嫌な感じにも取れる。

 やはり怪しい輩と思われたのか、とにかく相手への言い訳や釈明をぼんやり巡らそうとすると再々度声が届いた。


「返事がないけどこっちを見てるようだから、とりあえず聞こえてるって仮定して訊く。あんた、ここで何をしてるんだ?」

「え……」

 その少々きつめの言葉には、思わずそのような声が出る。

「ああ、やっぱり聞こえてたんだな。で、何してるんだ? 何か探し物でも?」

 矢継ぎ早の質問はまるで職質のようだったが、怪しい相手と思われた自分にも瑕疵はある。しかし彼にどう答えればいいか迷っているうちに言葉は続いた。


「そういえばさっき名前を呼んでたようだけど、もしかして子供でも捜してる?」

「子供……? あ、いいや、違うよ、猫……」

「猫?」

「そう、猫……名前はルカ……五才くらいの雄の黒猫で、同居人と俺とで飼ってる……昨日……いや、一昨日からいなくなったんだ」

「ふーん、それでその猫を探してると。ぶらぶらぼんやり通りを歩いて、キャリーバッグも何も持たずに手ぶらで? まぁ、そういう探し方もあるのかもしれないけど」

「え? ああ……言われてみれば、確かに……」

「あのさ、なんかまだ怪しい感じはするけど、一応猫を探す目的があるって言うなら俺が手伝ってやるよ」

「えっ、君が……?」

「それでおじさん、金、持ってる?」

「へ?」


 意外にも会話は続いたが、そんな言葉で終わりを迎えた。意表を突いた質問にはつい間抜けな声を上げてしまったが、とりあえずジーンズのポケットを手探ると、何かの感触がある。

 取り出したのはいつ入れたものか、くしゃくしゃになった千円札だった。広げて翳すと、まるで海辺で観光客の食べ物をかっ攫う鳶のように少年に奪われていた。


「これで俺が必要なものを調達してくるよ。できるだけ早く戻る」

 少年は千円札をポケットにしまうと、返事も聞かずにその場を離れようとした。けれどもすぐに足を止めて、こちらを振り返った。

「あのさ、そこにいろよな。別の場所に移動されたら、どこにいるか分からなくなる」

「あ、ああ……」


 追加のように告げて、少年は駆けていった。

 再び住宅街の通りに取り残され、思いがけず遭遇したこの出会いにどう対処したらいいか考えようとするが、足元の木々の影を見下ろすと、疑惑というか懸念が頭をもたげてくる。

 あの少年は、果たして戻ってくるのだろうか。

 悪い人間には見えなかったがいきなり手伝うと言われ、金を持ち去られ、あっという間に彼はいなくなった。

 あまりそう思いたくないが、もしかしたらと微かでも思わないでもない。しかし本当は疑念など持ちたくなかった。少年がもう一度戻ってくると信じたいし、もし戻ってこなくても、まぁいいか、人生時にはこんなこともある、と考えられる思考の余白を自分の中にまだ取っておきたい。


 住宅街に射す陽が陰り、誰もいない通りにも影が落ちる。

 道沿いに連なる家屋を手持ち無沙汰に見通すが、外出の多い時間でも、子供が帰宅する時間でもないのか、どこにも人の姿は見えなかった。

 無音状態の中で益々所在のなさに襲われるが、その時、頬を撫でる緩やかな風が吹くのを感じて、そちらに目を向ける。そのまま誘われるように通りを歩き、家々を二、三軒通り過ぎた辺りで左に折れれば、小さな公園があるのが見えた。


 春に花を終えた桜が緑を繁らせ、下にあるベンチに淡い木陰を作っている。子供用の遊具もいくつかあるが、住宅街と同じく古びてしまったのか撤去の跡が多く、残っているのは鉄棒とブランコだけだった。

 桜の木の下にはツツジの植え込みが見え、中途半端に伸びた雑草と絡み合って列を為している。やや雑然としているが猫が隠れたり、休んだりするにはちょうどいい日陰に思えて、ゆっくりと歩み寄ってみた。


「ルカ? いるか? いるなら返事しろ」

 期待しかない声を向けるが、返事が戻ることはなく、決して広くない敷地を植え込みを覗き込みながらぐるりと巡ってみたが、望む成果は得られなかった。

「……なんだか、疲れたな……」

 まだそれほどまでのことは何もしていない。故に疲れを感じる要素は何もないが、急激に脱力したような疲労を覚えて、木の下にあるベンチに腰を下ろす。


 ルカには首輪をつけて住所や電話番号を記していたから、彼が今どんな状況にあっても、野良猫とは思われていないはずだ。

 ルカは五年前に勤務先の前で行き倒れになっていた子猫だった。一応届けも出したが、飼い主だと申し出る人は見つからずじまいで、結局どこから来た猫かも分からずじまいだった。だから元々飼い猫だったのか、親とはぐれた野良猫なのかも判明していない。もし彼が野良猫のたくましい血筋を引いていたら、多少は外でも生き抜く術を持っているかもしれない。でもたとえそうだったとしても、拾って以来ずっと室内飼いを続けてきたから、その辺りには多大な危惧しか残らなかった。

 再び陽が陰り、どこかからひらりと舞った葉が手の甲に落ちた。その病葉にふと不吉な予感が霞んで、それを乱暴に払い除けた。


「あのさ、俺、あの場所で待ってろって言ったよな」


 その声に顔を上げると、目の前にあの少年がいる。

 ここに辿り着く前に別の場所も捜したのか、額に少し汗をかいている。

 手にはやや使い古した猫用のキャリーバッグ、もう一方の手にある百円ショップの袋には、猫用おやつと猫じゃらしが入っているのが見えた。

 少年とは先程会ったばかりで名前も知らない。けれど茫洋とした場所で会えるはずのない待ち人と巡り会えたような奇妙な安堵を感じて、自然に頬が弛んでいた。


「何、笑ってるんだよ?」

「いや、少し……」

 彼が戻ったことがうれしかったと今の思いを表現しても、多分間違っていない。しかし笑みを浮かべることが今は不適切な反応であったのも間違いない。

「もしかして、俺が戻ってこないとでも思ってた?」

「えっと……ほんのちょっと」

「ああやっておじさんから金だけ取って? 俺、そんなゴミに見える?」

「そうだよな……それは悪かった……」

 疑っていたのは確かで、それは真実でしかない。正直に打ち明けて謝罪を述べると、少年はとりあえず承諾した表情で隣に座った。

「ほら、おつり」

 その声に手のひらを上に向けると、五百円玉と幾枚かの硬貨が落とされる。一円玉まであるそれには律儀だなと心の中で感想が漏れた。


「もらっておいてもよかったのに」

「別に駄賃をもらわなきゃできないことなんてしないよ。それより、おじさんの名前訊いていい? 俺は永原ながはらナオ」

「俺? 俺は……宮野みやの有一ゆういち

「じゃ宮野さんて呼んでいい? それとも匿名的なおじさんの方が楽でいい?」

「……いや、名前でいいよ。しかし……おじさんて……俺こう見えても、まだ二十六なんだけど」

「そうやってこだわって、反論してみせるところが既におじさんの範疇」

「そうか……うんまぁ、それもそうかな。それじゃあ、君のことはどう呼べば?」

「好きに呼んでいいよ」

「うーん、好きにって言われてもちょっと困惑するな……でもまぁえっと、それじゃ永原君で」

「うんそれでいいよ。じゃさっさと行こうか、宮野さん」

「あ、ああ……」


 その言葉に促されて立ち上がって、公園を出ていく相手の背後についていく。

 少年はこの辺りに住んでいるのか土地勘があるらしく、迷いもなくどこかに向かおうとしている。しかしこのままついていくのは少し妙な感じもする。どこに向かうかにも不安を覚えて、「永原君」と声をかけると、彼は足を止め、「何?」と振り返った。


「永原君、君、何かアテはあるの?」

「アテ? 特にはないよ。でもさっきのあの公園に猫はいない。あそこには宮野さんがしばらくいたんだろ? それでも出てこなかったんなら、あの場所にはいないんだよ。今はまだ陽も高い。猫がもしこの辺りにいても、どこかで隠れて寝てるのかも。それとさ、宮野さんの家、ここからどれくらい離れてる?」

「俺の家……? 俺の家は……ここの住宅街を過ぎてもう少し行った先に白い、というか元は白かった外壁のアパートがあるんだけど、そこの二階」

「ああ、その建物なら見たことあるよ。それじゃこの場所も大体猫のテリトリーに入ってるね。まぁ、アテと言うほどのものでもないけど宮野さんのアパートを中心と考えて、この辺りの目ぼしい場所を回ってみようと思ってる」

「う、うん……そっか」


 見知らぬ少年はこちらが黙っていても次々段取りを整え、次に行くべき場所へと誘導してくれようとしている。

 それが間違っている訳ではないし、特に術もない自分は多分それに乗っかってしまえばいいのだろうと思う。でも十才ほど年上の自分が、彼に頼り切ったままでいいのかとぼんやり思う。しかし何も思いつかずに声もかけられずにいると、少年は再び何も言わずに前を歩いていった。

 彼の手には先程も見たものがある。袋に入った猫のおもちゃとおやつ。その二つはあの千円で調達したのだろうが、古びたキャリーバッグは明らかに出所が違うはずだった。


「ねぇ、永原君」

「何?」

「そのキャリーバッグだけど、それはどこで……?」

「ああ、これ? これは家にあった、というより母親のを持ってきたんだよ。母さんが結婚する前に猫を飼ってて、その時のをまだ持ってる」

「それじゃ、永原君の家には今も猫が……?」

「いいや、いない。猫はいない。母さん、その時飼ってた猫を今でも忘れられないんだってさ。だから家に猫はいないけど、その時に使ってたものは今でも家にある」

「うん……そっか」


 少年の母親が結婚する前、その話のとおりに猫がいたのが彼が生まれる前だと言うなら、それから十六、七年以上は経っている。しかしそれだけの年月を経ても、彼の母親はその時の猫を忘れられずに、当時のものを今も大事に手元に持っている。その辺りの思いは僭越ながら、この自分にも少し分かる気がしていた。


 ルカと出会う前、まだ自分が少年の年頃だった頃、その時も猫を飼っていた。

 名前はシロ。子猫の時は真っ白だったが成長する毎に茶色の斑が増えて、白猫ではなくなっていたけれど、途中で変える訳にもいかずそのままシロと呼んでいた。

 シロは自分が小学校に上がる頃に父親がどこかで拾ってきた猫だった。それからずっと同じ家で家族のように過ごして、十年と少し生きていた。


 ある年の夏の終わり頃、その頃からあまりにも吐くことが増えて父親が病院に連れていくと、腹部に腫瘍ができていると伝えられた。つまりは癌だった。

 病院では手術の選択もあると伝えられたが、それが最善とも言われなかった。術後の結果は良い方にも悪い方にも転ぶ。吉か凶か、その結果は獣医の先生にも自分達にも誰にも分からない。もちろんシロにも。今後どうするか、どうしたいのか、人なら当人に訊けるが、猫であるシロに訊くことは叶わない。父と母と祖母と自分との家族会議の結果、そのまま自然に任せる選択をした。けれど人間側の判断であるその決断が合っていたのか、本当は別の選択するべきだったのか、今でも分からない。


 シロは亡くなる数ヶ月前頃には、家中のあちこちで吐いてあちこちで粗相をした。そのせいでお腹が空くのか一日中食べ物をせがんで、昼間一緒にいる母親や祖母を困らせた。

 骨と皮だけのように痩せ細りながらも昼夜問わず無心に食べ続けて、そのまま外に排出する姿をどういった感情で捉えればいいか分からなかった。家族は恐らく皆、疲弊していた。よくないことだと自覚しつつも、もういっそのこと死んでくれたらと微かに思っていたと思う。

 だからシロが亡くなった朝、悲しいと同時にほっとしていた。いなくなって悲しいと思ったことも本当だったが、それも確実に感じた感情だった。死は一つの感情だけを呼ぶものではない。自分にとっての初めての身近な死は、その思いを強く感じ取らせるものだった。


 その後しばらくは、シロが死んだ時のことしか思い出せなかった。つらかったことやシロの死に安堵してしまったことが、いつも最初に脳裏を過ぎった。強くもなく優しくもない、偽善だけが表立った自分を何度も恥じた。けれどもシロとの思い出は、それだけではなかったはずだった。楽しかったこともたくさんあった。『彼女シロ』と過ごしたことで与えられたものもたくさんあった。そう思うことが、自分の後ろめたさを隠す逃げだと感じないこともなかったが、骨と皮だけになった彼女の記憶しか残らないのも違うように感じていた。


 自らへの悔恨と、残しておきたいと強く願う思い出。その二つのバランスを取れるまでに時間はかかったが、忘れずにいたいことと、楽しかったと無条件に思えばいいことは、今では心の奥底で均衡を保てている。

 故に少年の母親の気持ちも分かる。もし同じような思いをしたなら、躊躇も残る。自分もルカの時のような他の選択肢がない条件がなければ、まだ受け入れることに躊躇していたかもしれない。


「少し……分かるような気がするよ、君のお母さんの気持ち。俺も君の歳の頃、別の猫を飼ってたんだ。その時のことを思い出したよ」

「ふーん、そうなんだ。それでその猫は?」

「死んだよ。それももう随分前のことだけど。だから君のお母さんの気持ちが分かる気がするんだ」

「そう? だけど分かるって、それ、一体どういうふうに?」

「えっ、どういうふうに? えっと……そんなふうに言われると……」


 そう問われ、どう答えるか迷ったが、まだ訝しげな表情を浮かべる相手に結局はシロとの思い出を語ってみた。

 決して愉快ではない話を彼は黙って聞いて、聞き終えた後も何も言わなかった。

 表情からは何も読み取れなかったが、反論はなかったから、それなりになんとなく自分の言いたかったことは相手には伝わったのだろうと思う。しかし彼に語りながら、自分の腹の辺りに蟠る違和感のようなものを覚えていた。

 シロの死、あの時と似た感触を最近どこかで味わった記憶がある。けれどもそれをどこで感じたのか、どうしても思い出すことができなかった。


〈後編に続く〉








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