第9話 独白

「アインズ、君の居た2138年は世界的に荒廃していたが、そこより22年後、2160年に、枯渇した地球資源の獲得を巡り、日本も含め企業複合体同士の戦争が始まる。各企業体が建設した完全環境都市アーコロジーの備蓄までも使用し、戦線に兵站を投入した。



それでもあとに引けなくなった各企業体は愚かにも戦い続け、それは2190年代まで30年以上も続いた。そしてその世界の残状・企業の愚かさに業を煮やし、軍産複合体に属していた一人の女性が立ち上がった。彼女の名はカーラ・フィオリーナ。戦略のプロフェッショナルだった。最初は民衆を誘導して小さなレジスタンスを組織し、企業の補給部隊を狙い、食料を強奪して完全環境都市アーコロジーや集落に分け与えるといった小さな活動だったが、彼女はそれにより捕虜となった兵士達を説得して味方につけ、民衆と合わせて一気に勢力を拡大していった。



長年の戦闘により疲弊していた各企業体は、突如現れた謎のレジスタンス組織に徐々に押され始め、やがて各企業は、これまで戦争そのものに一切関与してこなかった一つの軍需産業に恫喝をかけた。その企業の名は、ブラウディクス・コーポレーション。カーラ・フィオリーナが所属していた会社だった。



彼らの専門は主に兵器開発と宇宙産業だったが、各企業の度重なる攻撃にも屈せず、沈黙を貫いていた。そして2195年、レジスタンスの代表として、カーラ・フィオリーナは極秘に単独でブラウディクス・コーポレーションに乗り込み、そのCEOであるビリー・クロフォードと会合を果たした。彼は、突如会社を飛び出した彼女を待ち続けていた。いつか必ず戻って来るだろうと信じて。



そしてビリーはカーラの思いを聞き届け、レジスタンスに加わる事を承諾した。ブラウディクス・コーポレーションの武器供給と戦力投入を受けたカーラ軍は、破竹の勢いで弱体化した企業複合体を制圧し、2200年、レジスタンスとブラウディクス・コーポレーションが世界に向けて共同声明を発表した。その内容は、荒廃した地球環境の再生と、宇宙開発を視野に入れた世界政府の宣言だった。....ここまではいいかい?アインズ」




「あ、ああ、うむ。大体は理解した」




アインズはそれに頷きつつも、ルカの話した内容を整理するので目一杯だった。しかし顎に手を当て、隣で冷静に聞いていたデミウルゴスが、ルカに聞き返した。



「ルカ様。それはつまり、2138年アインズ様の時代を汚していた企業とやらが半世紀以上経って消え去り、2200年に地球という星を汚さない、新たな統治者が現れた、という解釈でよろしいでしょうか?」




「そう、それで合っているよデミウルゴス」




「かしこまりましました。アインズ様は既に先を見られてるかと思いますが、この話は配下である私達も把握すべきかと存じます」



「う、うむ!さすがはデミウルゴス、私の真意を見抜くとは」



「アインズ...言っておくけど、真面目に聞いてね?」



「もちろんだとも! しかしその前に、皆のどが渇いただろう。茶を用意させよう。伝言メッセージ



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『ペストーニャ?』



『はい、アインズ様。いかがいたしました、だワン?』



『うむ、第9階層の応接間まで、大至急キンキンに冷えたアイスティーを持ってきて欲しい。6人分だ』



『かしこまりました。超特急でお持ちいたします、だワン』



『頼んだぞ』



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アインズが伝言メッセージを切り終えた途端、応接間の扉がバタン!と勢いよく開いた。扉の向こうには、犬の頭を持った女性のメイドがカートを押し、静かに入ってきた。顔の中心には継ぎ接ぎの傷跡がある。ルカは彼女が創造された経緯を何となく把握したが、考える暇もなくペストーニャは声を上げた。



「アインズ様、ご注文のキンキンに冷えたアイスティーをお持ちしました、だワン」



「ご苦労ペストーニャ。皆に注いでくれ」



「かしこましました」



六個のグラスに氷を詰めると、金属製のポットに入ったアイスティーを手際よく注ぎ円形のトレーに乗せる。そしてアインズ達3人の下にグラスを置くと、次はルカ達の下に手早くグラスを置き、カートに戻り手を掛けた。



「お客様、どうぞごゆっくりしていってくださいませ。だワン」



「あ、ああ。ありがとう」



ルカが辿々しくお礼を言うと、ペストーニャはカートを下げ、扉をバタンと閉めた。



ルカは早速一口飲む。



「ん、おいしい...濃い目に入れてあるね」



それを聞いてミキとライルも口をつける。




「それは良かった。何なら食事も用意させるぞ」




「...そんな場合じゃないでしょ、アインズ」




ルカはコップに口をつけながら、上目遣いにアインズを見つめた。




「そうだな、そうだった。ペストーニャがポットを置いていってくれた。好きなだけおかわりしてくれ」



「ちょっと...ほんとに分かってるの?」



ルカはアイスティーの入ったグラスを持ち、テーブルを回り込んでアインズの隣まで来た。



「デミウルゴスごめんね、席譲ってくれる?」



「もちろんですとも、ルカ様」




デミウルゴスは一つ左の椅子に座り直し、アインズの隣にルカは腰を下ろした。




「君の未来に関わるかもしれないんだから、ちゃんと聞いてアインズ」



「分かっている!分かっているが...いまいち現実味が持てない。そこは理解してくれ」



「自分の現実味は持てなくても、私に起きた現実は理解して。そうじゃないと、この先話を進められない」



ルカはテーブルに乗せられたアインズの左手をギュッと握った。アインズはルカの真剣な表情を見て、掌を上に向け、互いの指を絡めるように握り直した。



「分かった。続けてくれ」




「ありがとう。2200年からだったね。その後カーラとビリーは、軍産複合体及び企業複合体の残党と対話し団結して、世界政府として統合の道を歩んだ。ブラウディクス・コーポレーションはその力を借りて、莫大な技術力と資産を手に入れた。そしてカーラの管理下の元、ブラウディクスは国営企業となった。まずは地球の環境を再生する所からスタートしたが、広範囲に及ぶ大気・土壌汚染の影響もあり、ナノマシンを使用してもこれをすぐに除去するのは難しかった。




そこで考えられたのが惑星外への移住だったが、これはある意味宇宙産業を本命としてきたブラウディクスの基盤でもあった。AIも進化し、地球外での放射線を浴びても耐えきれる強力なロボットが次々と開発され、まずは火星へと送り込まれた。そして2230年、火星に初の前哨基地が作られ、人類が少しずつ移住し、農業プラントが作られた。それが拡大していくと、ブラウディクスは地球外コロニー開発と平行して、惑星地球化計画テラフォーミングに乗り出した。




その候補地として選ばれたのが、地球との姉妹惑星と呼ばれながら、その実は灼熱地獄である金星だった。大気は90気圧、二酸化硫黄の雲に覆われ硫酸の雨が降り、地表温度は最高500℃に達する。これを制圧する為には地表に設置する核融合を用いた大気化ジェネレータと、大気圏外から地表の温度を下げる、言わば地球化シールドの2つが不可欠だったが、私がこの世界に来る前も実験段階に過ぎなかった。




やがて2260年、英雄であるカーラとビリーも亡くなり、世界政府は代替わりした。そこから2300年に入り地球の大気・土壌汚染も回復した頃、人類は太陽系外の星系に進出しようと試みた。太陽系から4光年しか離れていない、アルファ・ケンタウリ星系だった。しかしそこへ到達する為には、人間の寿命では到底不可能だった。それを受けて研究されたのが、宇宙の放射線による影響を受けない強固な細胞と血液を持ち、ロボットよりも遥かに精密な動きを可能とする生体コンピュータ...バイオロイドだった。




言わば人造人間と言ってもいい。しかしその開発は宇宙に留まらず、地球内に向けても進められていた。つまり、いくら世界政府があるとは言え、テロや紛争は消えなかったわけさ。それを制圧するための兵器として、軍用バイオロイドの開発が急速に進められていた。私は2340年にブラウディクス・コーポレーションへ入社し、その軍用バイオロイド開発に従事していたんだ」




ルカはここで話を止め、握ったままのアインズの手に力を込める。ありのままを話した。信じて欲しい故だった。




「...つまり、私の生きてきた2130年代より世界はマシになったが、世界政府が出来ても技術が進歩しても、争い事は消えなかった。それを潰す為の兵器をお前が開発していた、ということで良いのか?」




「そう、その通りだよアインズ。君はDMMO-RPGをプレイする為に、ニューロン・ナノ・インターフェースとデータロガー・専用コンソールをセットで購入しているはずだ。その際専門機関か病院で、脳内に演算器を埋め込む為の簡単な手術をしたでしょ?」




「ああ、確かに病院で受けた。その時ナノマシンを体内に取り入れる為の無痛注射も打った。家で打つための注射器も大量にもらったがな。何せあれを定期的に打たないと、ゲーム内での反応速度が鈍るからな」




「そうだね。さっき言った軍用バイオロイドを制御する為にも、そのナノマシンと演算器は必要不可欠。でも私達が開発していたのは、脳に強い負荷をかけてでも、より高速な演算処理能力を引き出す為のナノマシンとCPU…生体量子コンピュータだったの」




「それは、私が脳に入れた演算器とは違うものなのか?」



「全くの別物。アインズが入れた演算器は、接点の一部が細胞と同化するようにはなっているけど、基本的には半導体素子で出来ている。生体量子コンピュータは、演算素子自体が細胞で出来ているから、脳と完全に一体化する。つまり、一度埋め込んだらもう二度と取り出せないってこと。それとアインズの演算器は、簡単に言うと一方向にしか計算出来ないけど、生体量子コンピュータは何方向にも無限に重ねて並列に計算出来る。つまり、演算速度が超高速になるってことだね。それこそ、脳が壊れるまで」




「高速なのはいいが、そんな不安定なものを兵器として運用出来るとはとても思えないのだが?」




「そう。そこで脳が壊れないように演算速度を制御し、尚かつ脳から伝わる全身の反応速度を上げる為に必要なのが、ナノマシン。生体量子コンピュータのナノマシンは、一度体内に打てば勝手に自己増殖していくから、アインズの時代のように何度も注射を打つ必要はない。これで一応は安定した状態をずっと維持出来るってわけ」




「軍用バイオロイドの完成か」




「うん...でも、軍はそれだけでは満足しなかった」





「というと?」




「拳やナイフを使用した近接戦闘では、ほぼ無敵に近い性能だったが、銃火器を使用した訓練でのミスが目立っていた。生体量子コンピュータが高速過ぎて、ターゲットに対する反応が過敏になり、動くターゲットなら味方や市民までも撃ってしまう。もちろん私達は修正を試み、ある一定以上は改善された。しかしその修正作業をしている間に、軍は我々が提出した資料の一つに目を付けた。それは、生体量子コンピュータ同士の遠隔リモートリンクに関する資料だった」



「リモートリンク...つまり軍用バイオロイド同士の遠隔操作が可能なのか?」



「うん。それだけじゃなく、遠隔地にいるお互いの脳内に蓄積された情報や通信ネットワークを共有したり、視覚や聴覚、嗅覚、感覚までも共有可能だった。だからやろうと思えば、片方のバイオロイドがもう一人のバイオロイドに成り代わり、遠隔地から完全操作する事も出来た。軍はここに注目した。銃火器の使用に際してミスの多いバイオロイドの人工脳に成り代わり、敵と味方を正しく判別出来る人間がバイオロイドを直接遠隔操作する事は可能か?という質問が来た。私達の出した答えは、理論上はYES、だった。そして軍は、その実験にGOサインを出した」




向かいの席に座るミキとライルがここまで黙って聞いているのを見て、アインズは聞いた。



「ちょっと待て...その前に、今までのこの話をミキとライルには話したのか?」



「ああ。私がこの世界に転移してからしばらくしてだった。二人が完全に自我を持っていると分かった時点で、全てを打ち明けたよ」



「そう、だったのか...。すまない、話の腰を折ってしまったな」




「いや大丈夫、ありがとう聞いてくれて。話を戻そう。軍はその遠隔操作の実験に大量の資金を投入し、私達の研究がスタートした。まずは量子コンピュータ上で徹底的にシミュレートを繰り返す所から始まり、人間の脳がどこまで負荷に耐えられるかを確認した。その結果、演算速度を優先したバイオロイドのチューンでは、生体量子コンピュータを人間の脳に移植した時点で破綻を来たす事が判明した。




そこでナノマシンの演算速度抑制機能を強化し、速度よりも精密さを優先して改良を加え、またシミュレートを繰り返すという日々が続いた。やがて私達は、生体量子コンピュータの速度を約2/3まで落とす事で、ある程度の負荷は脳にかかるが、人間でも長時間の活動が可能になる事を突き止めた。そして実験に移り、生体量子コンピュータと、ナノマシンの演算抑制機能をシミュレート通りに調整したものを軍用バイオロイドの人工脳に移植し、身体能力や思考パターンを徹底分析した。




その結果、驚くべき事が起きた。速度優先型の既存バイオロイドと精密優先型のバイオロイドを格闘戦で戦わせてみると、精密優先型の勝率が5割を超える結果となった。これには正直私達も首を傾げたが、精密優先型の思考パターンをよく分析してみると、ある事がわかった。圧倒的なスピードとパワーを持つ速度優先型に対抗する為、精密優先型はまず防御に徹し、相手の攻撃パターンを観察する所からスタートしていた。



そしてそのパターンを蓄積していき、十分なデータが集まった所で攻撃に転じる。そして最小の動きで相手の攻撃を躱し、隙を突いて相手に一撃を加えるという事を徹底していた。つまり、目の前の事態へ反射的に対応する速度優先型とは異なり、精密優先型は事態を冷静に分析し、学習するという思考回路が強く働いていた。続けて銃火器による射撃訓練も行わせてみたが、速度優先型に出ていたミスが嘘のように無くなり、無抵抗な市民や味方に発砲する事なく、正確に敵のみを撃ち抜くという結果になった。




当然殲滅速度は既存型に劣るが、それでも人間離れした射撃能力である事に変わりはなく、私達はこの結果に大いに満足した。軍の要求に従って開発した速度優先型よりも、トータルで見れば遥かに安定した性能を持つ精密優先型の利点を私達は資料に纏め、一言注釈を付けて実験結果を軍に提出した。(既存のエラーが消失した事により、遠隔操作の実験は必要ないと思われる)とね。しかし軍からの回答は、生体量子コンピュータの移植に立候補した、被験者リストの送付だった」




ルカは顔を背け、握っていたアインズの手を離そうとしたが、アインズは強く握り返し、その手を離そうとしなかった。それに気づいてルカはアインズの目を見る。ルカは今にも泣き出しそうな悲しい目をしていた。




「...その続きを、聞かせてくれ」




「...アインズ...私は....」




溢れた涙がルカの頬を伝う。アインズはローブの右袖でルカの涙を拭うと、握った手を(ドン!)とテーブルに叩き付けた。




「どうした、ルカ・ブレイズ!ここでお前が挫けてどうする。私達に全てを聞かせてくれるのではなかったのか?」




「...ルカ様。もしお疲れでしたら、今すぐに寝室をご用意致します。そちらでお休みになられては」




左にいるデミウルゴスがルカの左肩に手を乗せ、顔を覗き込んでくる。しかしアインズはその行いを一喝した。




「デミウルゴス!今は私がルカと話しているのだ。出しゃばった真似はするな」




「ハッ!申し訳ありません」




「...グスッ、大丈夫だよデミウルゴス、ありがとう。分かったよアインズ、約束だもんね。でもここから先は、君達の気分を害するような話になるかも知れない。それでもいいの?」



「当然だ。お前が全てを話さぬうちは、この席から立てないと知れ」



言葉は厳しいが、その口調にはどこか優しさがあった。ルカは左手を胸に当て、ゆっくりと、大きく深呼吸した。




「...分かった。その被験者リストが送られてきたのは2344年。その名簿詳細を見ると全員が軍人で、男女問わず優秀な経歴を持つ兵士達だった。私はその時23歳。そのリストの中には私より若い子もいれば、10歳年上といった古参の兵士も混じっていた。合計10人。私達研究者はその日、夜を徹して話し合った。強力な負荷にも耐えるバイオロイドの人工脳ならともかく、いきなり人体実験に踏み出すとなると、私達にも不安要素が尽きなかった。




起こりうる最悪の事態を想定して話し合ったが、実際に試してみるまでは分からないという結論に至った。私はその後一人でラボに入り、実験の最初から最後まで一番優秀な成績を残した、男性型の精密優先型バイオロイドを起動させた。カプセルの中で横になっていた彼は目を覚ますと同時に、笑顔で私の名を呼んだ。私は彼にガウンを着せると、ラボのコンソールルームへと案内し、研究者が座るリクライニングチェアに腰掛けさせた。




その後コーヒーを煎れてカップを彼に手渡し私も椅子に腰掛けると、彼はコーヒーに口をつけた。初めて飲む味に動揺している様子だったが、彼はおいしいと言ってくれた。彼の話す言葉は、驚く程人間に近付いていた。速度優先型のバイオロイドとも話したことがあるが、その言葉は形式張っていて、どこかぎこちない。それに比べて彼は、人間のように流暢に言葉を話した。私達研究者の想像を遥かに超えて、彼は成長を遂げていた。




私は型番しかない彼に、その場の思いつきで名前をつけた。イグニス、と。彼はその名前を与えられ、15メートルはある天井にまで届きそうなほど飛び跳ねながら喜んでくれた。彼はバイオロイドだ。当然外の世界に出たことはない。私達は語り合った。研究が一段落したら休暇を取り、一緒に外の世界を出て回ろうと。イグニスは希望に満ちた目を私に向けながら、それに賛成してくれた。




そして私はあろうことか、バイオロイドであるイグニスに弱音を吐いた。遠隔リモートリンクを行う為に、これから人体実験をしなければならない事。イグニスと同じ生体量子コンピュータを人間の脳に移植する事で、不測の事態が起こるかもしれないことを心配していると話した。そう言うと彼は立ち上がり、私の前まできて両手で頭を優しく掴んだ。彼は言った。(じっとしていて下さい)と。私は身構えたが、化物のような身体能力を持つバイオロイドには敵うはずもなく、何をする気なのかと恐る恐る眺めながら、身をすぼめているしかなかった。




その時、イグニスの両手に稲妻のような光が瞬いた。それは私の頭の中にまで達し、脳の中を撫でられているような不快な感触が襲ったが、不思議と痛みはなかった。そして彼は手を離し、後ろに下がって再びリクライニングチェアへと腰掛けた。彼はこういった。(あなた達人間の脳波レベルなら、今私が使っている生体量子コンピュータとナノマシンのパルスに耐えられるはずだ)と。




彼は私の脳内をスキャンしていた。その上で自分の人工脳と比較し、結論を出した。それは本当かと念を押したが、彼は断言した。(絶対に大丈夫です)と。彼の目に嘘はなかった。いやそもそも、私は彼の開発者であり、イグニスは私の子だ。子の言葉を信じずに、何が親だろうか。時間も明け方を過ぎ、私はイグニスをラボの実験棟へと戻し、カプセルに寝かせて頭を撫で、彼が眠りに就くのを見届けた。私はすぐに自室へ戻りPCを起動させ、宛名をブラウディクス本社と軍の兵器開発部に向けて、一通のメールを送った。遠隔リモートリンク実験に置ける生体量子コンピュータ移植の被験者第一号となることを希望する、と」




ルカは無表情にテーブルを見つめたままだった。すすり泣く音が聞こえ、アインズは向かいの椅子に目をやると、斜向かいに座るミキが目頭を押さえ、涙を流している。その隣に座るライルも、下を俯いて嗚咽を堪えていた。これまでずっと黙っていたアルベドも初めて、真剣な眼差しでルカを睨みつけている。




「...それで、その願いは成就されたのか?」




「そうだね、それを話さないと。明くる朝まで、私は一睡も出来ないままラボのコンソールルームに顔を出した。すると集まっていた他の研究者達が一斉に私の元へ駆け寄ってきた。何事かと聞くと、今朝研究者達全員の下に、命令書がメールで送られてきたらしい。内容は、(私に対し生体量子コンピュータの移植をせよ)。そこにいた研究者は言葉を荒げ、無謀すぎる、やめろと言ってきたが、私の決意は固かった。そこにいた全員に、(自分で作ったものは自分で試す)と説明した。




皆が黙っているところへ扉が開き、軍服姿の3人がラボへ入ってきた。彼らは2通の紙をバインダーに挟み、私に向かって突き出してきた。そして一言、嫌味ったらしく私に言った。(本当にいいのかね?)と。私はそれを無視し、バインダーに挟まれた最終同意書に目を通した。そこにはこう書かれていた。(1.当該実験に置ける被験者第一号となる事を了承する)(2.当該実験終了後、被験者はブラウディクス本社及び軍によって厳重な監視下に入る)(3.被験者は実験経過を検証する為に、ブラウディクス本社及び軍によって試験要請があった場合はこれを拒否できない)。




その他にも色々書いてあったが、私はさっさと流し読みして2通の同意書にサインした。軍服が立ち去ると、ラボの中はまるでお通夜ムードだったが、私は笑顔を作り彼らを元気づけた。彼らの技術と腕は信用していたが、万が一手元が狂って失敗でもされたらたまったものじゃない。手術の始まる夕方まで、私達は軽食とジュース、コーヒーを飲みながら、ラボで共に語り合った。そうするうちに、皆が絶対に成功させるぞと気を張ってくれたのを見て、私は安堵した。




やがて時間が来て、ラボの中に担架を押して二人の白衣の男が入ってきた。私は担架の上に横になり、手術を行うために研究者全員が私と共に外へ出た。全身麻酔で意識が薄れる中、研究者達が皆私の手を握ってくれたのを覚えている。次に目が覚めたのは、窓一つない真っ白な病室の中だった。頭に包帯が巻かれていたが、体に違和感は感じない。そこへ病室の自動ドアが開き、医師と看護婦が入ってきた。彼らは手術が無事終了したこと、脳内に埋め込まれた生体量子コンピュータが機能するまであと数日かかるので、それまでは安静にしているようにという事を伝えると、立ち去ってしまった。




脳内に意識を向けてみたが、確かに何も感じなかったのでその日はすぐに寝てしまった。次の日の朝、診察を終えた私の元に面会人がやって来た。自動ドアが開くと、白衣を着た男女9人がぞろぞろと入ってきて、私のベッドを取り囲んだ。病室の扉が閉まると彼らは一斉に歓声を上げ、抱きついてきた。私の手術を担当した研究者の仲間達だった。介護ベッドの上体を起こし、私は彼らと手に手を取り合って涙ながらに手術の成功を喜び、そして皆にお礼を述べた。私達の研究が実を結んだ瞬間だった。




面会時間が決まっているらしく、30分ほどひとしきり騒ぐと、彼らは(次はラボで会おう)と言い残し、立ち去っていった。その日の夕方、もう一組面会人が来た。私の母親と恋人だった。二人は私が入院しているという連絡が行ったのみで、守秘義務もあり何も知らされていなかったらしく、とても心配してくれていた。私も研究のための手術という事は伏せて、病気ではない事だけを伝えて二人を安心させた。やがて二人も帰りまた一人になったが、仲間と家族にひと目会えた事がうれしく、心強かった。




しかし寝るにはまだ早く、退屈だったので病院内を散歩でもしようと思い自動扉の前に立ったが、扉は内側からは開かないらしく、完全にロックされていた。部屋の死角を見ると超小型の監視カメラもあり、それもそうかと諦めて私はベッドに戻った。その日の夜だった。ベッドで横になっていると、何の前触れもなく大きなノイズが頭の中に突如響き、私は咄嗟に体を起こした。そこに意識を集中してみると、何かの無線のような人の声や雑音が複数重なり、頭の中を飛び交っている。




私は脳に埋め込まれた生体量子コンピュータが機能し始め、ニューロンナノネットワークに接続したのだと直感した。最初は慣れなかったが、何度も意識を集中するうちに、重なり合った音声の一つ一つをはっきりと聞き分けられるようになっていった。それだけでなく脳内で回線を合わせることで、頭の中に画像まで投影されはじめた。特に気になったのが、どこかの監視カメラのような映像だった。周囲一面に張り巡らされている。私は試しに、病室内にある頭上の監視カメラに目をやり、意識を向けた。




すると、いとも簡単に接続し、ベッドの上でカメラを見つめる私の顔が脳内に表示された。もしやと思い、私はベッドを降りて部屋の中心に立ち、つま先だけで軽く飛び跳ねてみた。天井まで3メートルはあろうかというのに、私の手は簡単に天井まで届いてしまった。全身を巡るナノマシンのおかげで、肉体まで強化されていることに私は気付いた。こうしてトレーニングを続けていくうちに、私は徐々に生体量子コンピュータの扱い方をマスターしていった。私達自身が開発したのだから、何ができるのかも全て熟知している。




それならばと、私はラボにいる軍用バイオロイド達に向けて通信しようと試みた。するとすぐに一つの回線がオープンになり、脳内には見慣れたラボの実験棟天井が映し出された。繋がったという喜びも束の間、それは私の名を呼んだ。イグニスだった。彼はその時保存カプセルの中で横になっていて、その映像が映し出されていると分かった。彼は私にこう言った。(ついにやったのですね)と。それを聞いて私は実験の成功を噛みしめると共に、我が子達と同じ地平線に立っている自分を実感して涙が溢れた。




そこからしばらくイグニスと話をした。彼は私がラボに来た時に、効率の良い制御方法を教えてくれる事を約束して、私は脳内ネットワークを切断し、嬉しさと興奮を抑えながらその日は就寝した。そして2日後の朝、病室の扉が開くと、銃を持った軍人たち3人が中へと入ってきた。何故か物々しい雰囲気だったが、彼らは私に服を手渡すと、それに着替えて同行するように求めた。その服は私が普段愛用しているブラックジーンズに、Tシャツ、そして同じく黒のタートルネックだった。恐らく私の自室に入り、取ってきたのだろう。




そしてご丁寧に白衣まで用意してくれた。私はその場で患者衣を脱ぎ捨て、自分の服に着替えて白衣を羽織り、連行されるように病室を後にした。廊下に出て分かったのだが、そこはブラウディクス社の研究施設内にある病院だった。天井のあちこちに監視カメラが厳重に設置されている。昨日ネットワークで見た光景と同じだと気付いたが、病院の出口を出ると一台の車が横付けされていた。私は後部座席に乗り込み、同じ敷地内にあるラボの実験施設へと連れて行かれた。




10分もかからない内にラボの前へ到着して車を降り、私は軍人3人に護衛されるように入口をくぐった。久々に嗅ぐラボの香りに私は懐かしさすら感じていたが、軍人が用意したIDカードを扉の脇に滑らせて私がコンソールルームの中に入ると、クラッカーが弾ける音と共に仲間達全員が笑顔で出迎えてくれた。この親しい仲間達と共に再び研究に没頭出来る事を思い、私は心底安堵した。しばらく皆と歓談した後、部屋に待機していた医師から簡単な診察を受けて、頭の包帯が外された。




その日は、ニューロンナノインターフェースの起動試験を行うという事だった。この場合ニューロンナノインターフェースは、脳内に埋め込まれた生体量子コンピュータの演算能力を一気に増幅させ、脳全体と組み合わせて超高速演算を行わせるための、言わばアンプリファイアだ。それと合わせてナノマシンも活性化する為、軍用バイオロイドに置いては身体能力を爆発的に増加させるためのトリガーともなる。




それを生身の人間で行った際に、どれだけの身体的負荷がかかるかを測定する実験だった。私はついに本番が来たと覚悟した。想定される最悪の状況を頭の中で何度もシミュレートし、ここまで共に支え合ってきた研究者達に命を捧げるつもりでいた。しかしもう一方で、私は自らが開発した改良型ナノマシンの性能を強く信じた。そしてイグニスの言葉も。




私は白衣と服を脱いで下着姿のまま実験棟へと移動し、そこに設置された計測用ユニットチェアに腰掛けた。体中に電極をつけられ、頭部全体を覆うコンソール一体型のヘッドマウントインターフェースをかぶり、準備は完了した。窓の向こうにあるコンソールルームで、計測を開始する為に仲間達9人がせわしなく動いている。やがて起動準備が完了し、インターフェース内側につけられたインカム越しに実験開始の確認が来た。私は親指を立ててOKの合図を返すと、インターフェースの内部から低い起動音が鳴り響いた。




私は体を弛緩させ、目を見開いて自分に何が起こるのかを直視しようと集中していた。その時だった。頭の内部がズンと重くなり、脳の中心で何かが高速回転するような、例えようもない感覚に襲われた。その後脳内に青色のウィンドウが表示され、膨大なプログラムの列が高速でスクロールしていく。私はそれに見覚えがあった。いつもコンソールルームで私がチェックしていた、バイオロイドの起動シークエンスと全く同じ画面だった。やがてそれが完了し、体内スキャンの画面に変わると、人型をしたアイコンが表示された。




それが頭の上から順にゆっくりと黄色く塗りつぶされていくと、その部位から恐ろしい程の不快感が襲ってきた。まるで体内を何万匹もの虫が這い回っているかのような感覚といえば分かりやすいだろうか。私は頭を椅子に押し付け、必死でそれに耐えながら脳内のスキャン画面から目を離さなかった。バイオロイド達は、起動する度に毎回このような不快感を味わっているのかという事を考え、それを糧に正気を保とうと必死で抗った。開発者の私がこれに耐えなくてどうすると。




そして長い時間が過ぎ、ようやく人型アイコンが足先まで黄色く塗りつぶされ、コンディションOKという表示が目に入り、次にブートと画面に表示された瞬間、体に異変が起きた。意識はあるのに、まるでそこに体が無いかのような錯覚に陥った。先程までの不快感も、いつの間にか全身から完全に消え去っている。インカムから起動完了の知らせと共に、体調確認の要請が聞こえてきた。




私はそれに答えながらゆっくりと自分の両手を上げ、手のひらを開閉させた。感覚はしっかりある。それどころか、前以上に鋭敏になっていた。なのにそれでも体から違和感が消えない。私はコンソールルームに、椅子から立ち上がる許可を求めた。OKが出ると、私は背もたれから上体を持ち上げて床に立った。そのままコンソールルームにいる仲間達の顔を見ると、視界が驚異的なほどクリアになっている事に気付いた。




一人の研究員に向けて顔を良く見ようと目を見開くと、突然視界がズームインした。顔が大写しになり、脳内に非武装アンアームドという、文字ではなく感覚だけが無意識に過ぎった。試しにその背後に立つ、銃で武装した軍人にズームインすると、即座に武装アームドという感覚が脳裏を過ぎる。漠然と感覚だけを理解し終え、視界を元に戻そうと瞬きすると、瞬間的に元の視界へ戻った。違和感の正体はこれだった。




私はその場で右腕を一振り回してみた。鋭い風切り音を立て、腕は一瞬で一回りし、元の位置へと戻る。次に、ジャブを打つように左手の拳を素早く突き出し、素早く引いた。それを何回か繰り返すと、インカムから仲間達のどよめきが聞こえてきた。まるで体の重さが無いかの如く、目にも止まらぬ速度でジャブを放てる。というより、実際に体の重さを全く感じなくなっていた。後はその場で軽く飛び跳ねたり、足を蹴り上げたりと一通り体の感覚を掴んでいった。




ヘッドマウントインターフェースには計測用のケーブルがついていたので、そこまで自由には動けなかったが、恐らく本気で走ればとんでもない速さで疾走出来ると確信した。私は動き回るのを止め、目の前に並ぶ7つのバイオロイド保存カプセルに目を落とした。全員スリープモードに入っているので、目を閉じ静かに横たわっている。この子達はこんな世界で生きていたのかと身を持って味わえた事を、私は素直に喜んだ。




やがて計測終了を示す赤いランプが室内に点灯し、私は計測用ユニットチェアに再び腰掛けた。脳内に起動終了シークエンスが流れ始める。体内スキャンは起動時のみなので、私はまたあの不快感を味わわずに済むと思いリラックスしていた。その後一瞬頭の中が重くなる感覚に襲われ、体の重さが徐々に戻ってくると、脳内に表示されたウィンドウが閉じた。するとコンソールルームに続くドアが開き、仲間達がなだれ込んできた。彼らは私の体につけられた全身の電極を手際よく取り去り、ヘッドマウントインターフェースを脱がせると、皆が一様に興奮した様子で私に称賛を送ってきた。




実験は大成功との事だった。皆の喜ぶ顔を見て、私も救われた気持ちになった。病院で精密検査を受ける前に、計測したデータを一通り見せてもらった。やはり私が体感した通り、ニューロンナノインターフェースの起動時にかなりの負荷が脳にかかっていたが、それを過ぎると驚くほど状態は安定していた。全身を巡るナノマシンも正常に可動しており、これであれば長時間の運用でも問題ないだろうと思える計測結果だった。




私はそれを見て満足し服と白衣を着ると、皆に笑顔で見送られた。後日また会おうと約束して。その後病院での長い精密検査が終わると病室に戻され、必要以上に豪華な食事が出されたのでそれを摂った。その後医師が入ってきて精密検査の結果を知らされた。カルテを見せてもらうと、脳・骨・筋肉・内臓共に全く異常なしだった。実験よりも精密検査で疲れてしまった私は、病室に備えつけられたバスルームで体を洗い流し、寝る前に脳内ネットワークへ接続して、イグニスに結果報告をした。彼はそれを聞いてとても喜んでいた。そしてニューロンナノネットワークがアクティブになった際のアドバイスを一つ二つ彼からもらうと眠りにつき、実験一日目が無事終了した...」




ここでルカは話を止めた。握った手を離そうとするが、アインズが握り返して離してくれない。




「...なるほどな、少しずつだが理解してきた。お前のその驚異的な記憶力も、生体量子コンピュータとやらを脳に埋め込んだ結果と言えるのだろうな。もしかするとだが、先程第六階層...コロシアムでお前が倒れたのも、ひょっとしてそれと関連性がある...のか?」




「!! ...アインズ、ごめんね私...もし私の言っていることが嘘だと思うのなら、ここで話を止めても...」




「図星か。誰が嘘だと思っていると言った!! ...それに話の整合性が妙に取れている。まるで全てを見てきたかのようにな。ここまで詳細な話を咄嗟にでっち上げられるとは到底考え難い。そうは思わないか?」




「それは...もちろん嘘を言いにここまで来た訳じゃないけど...」




「だったら洗いざらい全てを話してもらおうか。ルカ、貴様のルーツをな。何なら一晩中でも聞いてやる。私はアンデッドだからな、睡眠は必要ない」




「...聞かないのね」




「何をだ?」




「だから...私の種族を..」




「それも追い追い話してくれるんだろう?」




「...うん」




「なら構わないさ。お楽しみは後で取っておくものだ。今はお前自身の話が先だ。私にもうっすらとだが、何かが見えてきた気がするのでな」




「...わかった、ありがとう」




ルカは離そうとした手を再び握り直した。体温を持たないひんやりとしたアインズの手のひらが、熱を持った自分の手を冷やしてくれているようで、ルカは気持ちよさを感じていた。深呼吸をして、再びルカは語り始めた。





「わかった、済まない話を元に戻そう。1日目が終わり翌日の朝、再び銃を所持した軍人が部屋へと押し入ってきた。今度は5人。しかも後ろの二人は、何やら両手に大きな紙袋を下げていた。それを渡されて中身を見ると、私の着替えにパジャマや下着、日常品と、おまけにノートPCまで持ってきた。私の自室を勝手に荒らしまくって、まさかこの病室に引っ越せという気じゃないかとも思ったが、彼らが来たと言う事は実験が行われると言う事だ。その時の私にとっては実験が第一だったから、言いたいことを全て飲み込み、さっさと服を着替えて再びラボへと連行された。




二日目の実験は、ついに本命である遠隔リモートリンクの試験と言う事だった。コンソールルームには、実験を見るためにブラウディクスのお偉いさんや見慣れない軍の高官らしき姿も何人か居た。まだこの体にも不慣れだったが、やってみない事には始まらないのが実験だ。私はコンソールルームで服を脱ぎ捨てると、いつもの実験棟へと移動した。そこには計測用ユニットチェアが2つ並べて置いてあった。




被験対象のバイオロイドは誰にするのかと聞いたが、特に決めていないとの事だったので、私はイグニスを指名した。私と同じ改良型ナノマシンを搭載し、精密優先型であるイグニスならリンクもしやすいだろうと考えての事だった。私は保存カプセルを操作してイグニスを起動させ、状況を説明した。イグニスにも人間との遠隔リモートリンクは初の経験だったが、好奇心旺盛な彼は是非やってみようと承諾してくれた。




私達二人はユニットチェアに座り、電極を張られてヘッドマウントインターフェースを被った。起動シークエンスが開始されるが、一回目に比べて思っていたほど脳が重くならない。また一番恐れていたスキャンも、昨日ほどの不快感は襲ってこなかった。不思議に思った私は隣にいるイグニスに聞いてみると、バイオロイドでも初回起動時はキツいものだと教えてくれた。また回数を重ねていくほどに体も適応し、慣れていくとの事だった。




私とイグニスはブートを完了すると、コンソールルームからまず視覚をイグニスの方へリンクしてくれというオーダーが来た。なんの事はなく、それならいつもやっている事だったので、私はすぐにイグニスの視覚へと回線を繋いだ。次に嗅覚・聴覚・味覚とテストが続いた。研究員が一人入ってきて、トレーの上には香りのついたカプセルや、味を染み込ませたリトマス紙、ノイズ発生機等を持ってきた。最初は嗅覚からだったが、これがなかなか手間取った。あれこれと試しているうちに、視覚を見るように回線だけ繋いで、その鼻を意識すれば良いのだと気づき、イグニスの鼻の前に出された桃や柑橘系のカプセルといった匂いがダイレクトに伝わってきた事を受けて、ようやく成功した。




その後の聴覚と味覚のテストも同じ要領で接続し、今度はすぐに成功した。次はいよいよ私の体ごとイグニスに移る為の、遠隔リモートリンク試験だった。まずは手始めに、最初の要領で回線を開き、視覚・嗅覚・味覚・聴覚を同時にリンクさせる事には成功した。しかしイグニスの体を動かすために体を移そうと意識するが、うまく行かなかった。四苦八苦していると、イグニスは私の方を向いてアドバイスしてくれた。回線を開いた状態で、(リモート)と意識する。すると二人の体が脳内に表示されるから、自分の体を相手に重ねるようイメージしろ、と。バイオロイド同士ならこの方法でリンクできるから、きっとあなたにも出来るはずだと教えてくれた。




私は深呼吸して目を閉じ、言われたとおり回線を開いたままリモートと意識した。すると本当に私の名前と全身像、イグニスの型番と彼の姿が脳内に映し出された。私のイメージを移動させてイグニスの体に重ねた途端、軽い落下感に襲われた。目を開けると、先程とは視点が違う。体にも僅かに違和感があったが、左を見ると目を瞑ったままの私の姿があった。インカムに(脳波の転移を確認、遠隔リモートリンクに成功)との報告があった。




私は椅子から立ち上がると、以前やったようにジャブを打ったり飛び跳ねたりキックしたりと、色々動きを試してみた。イグニスの体は、私よりもずっと軽かった。素体が軍用バイオロイドだから当然と言えば当然なのだが、肉体の私と違い一つ一つの動きにキレとスピードがあった。彼がバイオロイド同士の格闘戦で強いのも頷ける話だと納得した。試験が一通り終了したが、私は最後にお偉いさん達へのデモンストレーションも兼ねて、イグニスの体のままコンソールルームへと移動してよいか許可を求めた。




窓の向こうを見ると、それを聞いたお偉いさん達が何やら揉めているようだったが、研究員達が計測モニターを見せて何やら説明している。恐らく安全性について彼らに説明していたのだと思う。やがてインカムから許可の声が響くと、私はイグニスの体につけられた電極を外し、インターフェースに接続されている計測用ケーブルを引き抜いて立ち上がり、コンソールルームに続くドアの前に立った。




ロックが解除されてコンソールルームへ一歩入ると、武装した軍人5人が私に向けて一斉に銃口を向けてきた。バイオロイドの暴走を恐れての行為だろうが、私はそれに構わず社内用コンソールの前まで歩くと、高速でキーボードを叩いた。指先までも反応速度が上がっていたらしい。研究員達とお偉いさんが私の周りに集まってくると、私しか知らない社内IDと長いパスワードを入力し、私のパーソナルデータを表示させた。周りは一様に驚いていた。これで否が応でも遠隔リモートリンクが成功している事を分かってもらえる。




それを後ろで見ていた軍の高官に、遠隔リモートリンク中に痛みや脳の負荷がないかを質問された。素体がバイオロイドなので多少の違和感はあるが、痛みも脳への過負荷もなく、むしろ自分の肉体よりも体が軽く感じるくらいだと正直に答えた。それを聞いて彼は安心したのか、次から次へと質問を一気に投げかけてきた。そこにブラウディクス社のお偉いさんも加わり、バイオロイドと人間達の質疑応答コーナーとなってしまった。かれこれ一時間近くは喋っていただろうか。やがて全ての質問が終わり、知りたいことが全て解決した重役達は満足すると、研究員達に実験の終了を指示した。





彼らは急いで専用コンソールの前に移動し、計測機器のチェックをし始める。私は席を立ち、扉を抜けて再度実験棟へと戻り、ヘッドマウントインターフェースに計測ケーブルを繋ぎ直して椅子に腰掛けた。左にいる私の体を見ると、未だに目を閉じたままだ。これで元の体に戻れなければ本末転倒だなと思いながら、私は脳内に映るイグニスの体を自分の体に重ねるようイメージした。前と同じく軽い落下感が襲うと、意外にあっけなく自分の体に戻れたことを自覚した。右を見るとイグニスは既に目を覚ましており、私に向けて笑顔で大きく頷いた。私にはそれが、(実験成功おめでとう)と言われた気がした。





インカムから起動終了シークエンスの開始を告げられた。脳内にプログラムが走り、体に重みが戻ると私は緊張から解き放たれ、大きくため息をついた。毎度の如くコンソールルームから仲間達全員が押し寄せ、私の計測機器を手際よく外すと、皆で実験成功を祝った。仲間達がコンソールルームに引き上げていくと、私はイグニスの座る椅子に近寄る。ヘッドマウントインターフェースを被ったまま、私達の様子を眺めていたらしい。私が頭からそれを脱がせると、イグニスは私に握手を求めてきた。こんな事は初めてだった。





私にはそれが嬉しくて涙が出そうになったが、それを堪えてイグニスの右手を握った。力強い握手だった。そして彼は私にこう言った。今日は本当に楽しい一日だったと。そのまま握った手を引いて席を立ち上がらせると、保存カプセルまで連れていきイグニスを横に寝かせた。カプセルの蓋を閉じようとした時、彼は私にねぎらいの言葉をかけた。一瞬何の事か分からなかったが、私がイグニスの体を使い重役達に質問攻めになっている間、その話を全部聞いていたらしかった。





詳しく話を聞くと、遠隔リモートリンク中は意識がスリープモードになっているだけで、5感から入った情報は全てモニター出来ていると言う事を教えてくれた。なるほどと理解しながら、今日の実験のお礼を言い、カプセルを閉じて彼にお休みを言った。




実験から3日目の朝、病室の扉が開くと軍人が入ってきたが、いつものように銃は携帯しておらず、しかも一人だけだった。彼は一枚のIDカードを私に手渡すと、その日の実験は無く、本日は休暇とする旨を伝えてきた。





しかもその日一日は渡されたIDカードを使用し、病室からの入退室が自由で、尚かつブラウディクス社の敷地内に限り自由行動が許され、同伴者も一名のみ招待が許可されるいう特典付きだった。普段はラボに閉じ込めて働かせ尽くしだというのに、一体どういう風の吹き回しかと疑問に思ったが、段々と休暇という言葉の実感が湧いてきた。軍人が出て行くと私は急いで選んだ私服に着替え、病室を飛び出して外線用の電話を取り、事情を話して恋人に連絡を入れた。




敷地の正門で待っていると、猛スピードで車が正門を通り抜けた。その車は車庫に入り、こちらへ走ってくる人影が見えた。私は手を振ると、入り口のガードマンに社員証と軍人からもらったIDカードを提示し、正門を開けてもらった。相手は余程時間がなかったのか、見るからに間に合わせの格好だったが、そんな事は私にとってどうでもいい。ただ、会いたかった。最初に私達はブラウディクス社の広大な敷地内を歩き回り、案内しながら多くを語り合った。





お互いの近況、仕事の愚痴、音楽、食べ物、おいしい店、ファッション...他愛もない話だったが、それだけでも私は満たされた。本当なら私の働いている職場も見せたかったのだが、ラボは部外者厳禁の上に国家機密の塊のような場所だったから、そこまでは叶わなかった。それでも敷地内には、沢山の娯楽施設を含む大きなギャレリアがあった。ブティック、レストラン、カフェ、映画館、ゲームセンター、ドラッグストア、電気専門店、居酒屋、コンビニからバイクショップまで、考えられるものは何でも揃っていた。





それを社員のみが使用できるというのだから、流石は国営企業と言うべきだろう。私達はギャレリア内を見て回り、二人で服を数点購入した後、レストランで軽く軽食を食べながらゆっくりした。その後ゲームセンターに行って二人で遊び倒し、映画館にも寄ったが時間が勿体無いとの理由でそこはパスした。本当は居酒屋に言って久々のアルコールを飲みたかったのだが、相手が車ということもあり我慢した。そうこうしているうちに、あっという間に夕方になってしまった。お互い急に別れが惜しくなった。





私は意を決し、恋人を病室へと案内した。以前お見舞いに来てくれた事があったので知ってはいたが、それでもこんな殺風景なところに一人で押し込められているという現実を相手は嘆いた。私達は二人で並び、ベッドに倒れ込んだ。脳内ネットワークに接続し、頭上の監視カメラに回線を合わせる。ベッドの上で大の字になる私達の画像が映し出された。私はそのカメラを睨みつけ、ある事を強く意識した。しばらくすると、頭上の監視カメラの映像が乱れ、スノーノイズのみが映し出された。やったと私は思った。





こちらでサーチした特定の回線に接続出来るなら、それを逆に妨害・あるいは切断する事も可能なはずだと。私は起き上がり、ゆっくりと服を脱いだ。その後は、分かるよね。時間は夜10時を回っていた。恋人を正門まで送り届け、再会を誓ってその場を後にし病室に戻った。今思えば、幸せな一日だった。休暇から明けた4日目の朝、眠っていた私を誰かが大声で叩き起こした。驚いて飛び起きると、ベッドの横に口髭を蓄えた大男が立っていた。そしてその隣には痩せぎすだが目つきが鋭く、左頬に大きな傷痕がある長身の男もいる。





しかし今まで来ていた軍人とは軍服の色が違う。ダークレッドではなく、全身黒づくめだった。腰には大きい拳銃をホルスターに収めている。口髭の男は、折り畳まれた白い紙を私の目の前に差し出した。私はそれを手に取り、寝ぼけ眼でその紙を開くと、こう書かれていた。(辞令: 本日付を持って、ラボ研究班からブラウディクス警備隊への異動を命ずる)。私は目を疑った。生粋の研究員が、何故突然警備隊に回されるのかと。私は一気に目が覚め、その場で抗議した。しかし口髭...隊長と名乗るその大男は淡々と言った。





「ラボでの実験を次の段階に進めるため、格闘技と銃火器の使用法をマスターさせろと、上から言われている」と。私には察しがついた。念の為その隊長に実験の事を聞いてみると、詳細は何も知らないという。つまり、遠隔リモートリンク実験が成功した今、次のステップとして、遠隔リモートリンクされたバイオロイドが肉弾戦や射撃等の、言わば実戦使用に耐えうるかどうかを会社と軍はテストしたいのだ。その実験を行う為には、人間側のリンク操作者である私自身が、格闘術や射撃能力に長けている必要がある。





この異動は、それをマスターする為の言わば研修なのだと私は理解した。私はその時、ため息しか出なかった。会社が私に突然休暇をくれるなんて、おかしいと思ったんだ。前日の休暇は結局、ラボから警備隊に異動する前に息抜きをしておけという、餞別代わりの意味だったのだと理解した。私は諦めて辞令を承諾し、ベッドから降りて私服に着替えようとした時、隊長に止められた。隣にいた痩せぎすの男が、透明のビニール袋に包まれた制服をベッドの上に放り投げると、それを着ろと促された。仕方なく私は封を開けて、厚手のアーミーシャツとアーミーパンツを着込んでベルトを締め、黒のベレー帽を被った。




ご丁寧にサイズはピッタリだったが、私は自分の姿を鏡で見た。そこにいたのはどう贔屓目に見ても、アーミーマニアがコスプレしているようにしか見えなかった。その貧相さに私が頭を抱えていると、もう一点渡すものがあると言う。痩せぎすの男が、地面に置かれた分厚いハードケースをベッドの上に乗せた。ロックを解除しケースを開くと、中には見た事もないデザインの、黒いバイザー付きヘルメットが入っていた。




私はそれを手に取ったが、まず最初にその軽さに驚いた。拳でヘルメットを叩き材質を確認すると、ケブラー繊維を多用しているようだった。意外と小振りで、戦闘機のパイロットが被りそうな流線型のデザインだが、少し出っ張った後頭部に何かの電子ユニットが埋め込まれている。よく見ると、ステータスを示すLEDの横にパラメータ名が書いてあった。それを見て私は唖然とした。ラボの実験棟で何度も見た、コンソール一体型ヘッドマウントインターフェースのパラメータと同じだったからだ。




後頭部の襟元中央に、ブートというボタンがある。間違いなかった。それにしても、ラボにあるインターフェースと比較して本当に小さく、コンパクトにまとめられていた。まさに実戦仕様といっていい。ここまで小型化するなんて、誰の仕事かを知りたくなったが、同じハードケースに入っていた仕様書を胸に叩きつけられて目が覚めた。そう、私はこれからブラウディクス警備隊の隊員になるのだ。準備が出来たなら行くぞと怒鳴られ、ヘルメットと仕様書を片手に渋々部屋を出た。




これからしばらくの間、この暑苦しい男達に引きずり回されるのかと思うと、正直気が滅入った。病院の出口には、敷地内でよく見かけるパトロールカーが横付けされていた。私一人が後部座席に乗り込み、車は敷地中央からやや東側にある、警備隊ビルへと向かった。ヘルメットと仕様書を膝下に抱え込み一人で落ち込んでいると、あっという間にビルが見えてきてしまった。地上8階建てのビル地下へと車は進入し、ガラージに停車すると私は車を降りて二人の後をついていった。




エレベーターに乗り4階の扉が開くと、モワッとした熱気と男性達の発する怒声が耳に飛び込んできた。そこは隊員達のトレーニングルームだった。面積は広く、右を見るとリングがあり、その上で男二人が激しいスパーリングをしている。左を見るとダンベル各種やトレッドミル、アブドミナル等の器具が所狭しと並んだスポーツジム、奥を見ると畳の敷かれた柔道場やレスリングジムもある。まさに何でもありだった。その中央の通路を進んでいくが、隊長が来たというのに誰も私達には目もくれず、黙々とトレーニングに励んでいる。今考えても、やはりあの雰囲気は苦手だった。




隊長と痩せぎすはフロアの一番右奥にあるスペースへ私を連れて行った。30畳ほどのマットが地面に敷き詰められ、その上を複数のブロックに別れて隊員達が練習している。それを見ると時には殴り、時には投げ、ほとんど取っ組み合いの喧嘩をしているようにしか見えなかった。口髭の隊長がそこにいる全員に向けて、耳を劈くほどの大声を上げ注目させた。場内が一気に静まり返る。周りを見ると、背後の柔道場はおろか、遥か向こうの入り口近くのリングでスパーリングをしていた隊員達までもが動きを止め、こちらに注目している。




口髭の隊長は私に一歩前に出るよう促した。私は恐る恐る隊長の隣に立つと、またも恐ろしい大声で私を紹介した。余計なことに、ラボから転属されてきたことまで説明してしまった。言わなくてもいい事をと、私は隊長を恨んだ。案の定、周りから嘲笑の声が聞こえる。大体ラボから警備隊に配属替えという時点で、もうありえない事態なのだ。私は殺されると思った。それを聞いた他のブロックにいた隊員までもが、面白がって私の顔を見に来た。




全員が身長180センチから190センチ、果ては2メートルを超える筋骨隆々の男達だ。そして私の貧相な体格を見るや、嘲笑や侮蔑の言葉を吐き捨ててその場を立ち去っていく。分かっていたことだが、それでも最初は辛かった。恥ずかしくて泣きそうになった。紹介が終わると、隊長はスパーリングしていた一人の男を呼びつけた。その男が小走りに隊長の元へ来ると、彼がこのブロックの打撃コーチである事を告げた。髪を短く刈り込み、ランニングシャツにショートパンツを着用し、体も大きく引き締まった体型をした男だ。彼は腕を組み、私の体を上から下まで舐め回すように見ると、眉間にシワが寄っていた。




心の声が聞こえてくるようだったが、早速トレーニングを開始してくれと隊長が指示すると、こっちに来いと促された。しかしそこで隊長が私を引き止めた。話を聞くと、私がトレーニングをしている間は絶えず、ヘルメットを装着させるよう厳命されていると伝えてくれた。それを聞いてラボ、いや本社の意向が読めたが、それでも私には自信などなかった。いくらニューロンナノインターフェースで身体機能を増幅しても、ここにいる化物のような連中にはとても敵わないと思ったからだ。




しかしこれも実験の一環だと考えを改め、それを了承して奥へと進んだ。打撃コーチが案内したのは、天井から吊り下げられた巨大なサンドバッグの前だった。私は仕様書を床に置くと、初めて装着するヘルメットをかぶって顎のベルトを締める。サイズは私の頭にジャストフィットだった。恐らくこの訓練の為にカスタマイズしたのだろうと私は思った。首の後ろにあるブートボタンを押し、脳内に例の起動シークエンスが投影される。そして体内スキャンも終わりブートが完了した。




イグニスの言ったことは本当だった。起動時の衝撃も無く、体内スキャンの不快感もほとんど感じない。私はバイザーを下ろして準備が完了すると、打撃コーチに深々と頭を下げて挨拶した。何しろ今は私の上官に当たる。今後の事を考え、私は努めて礼儀正しくした。打撃コーチは大きく相槌を打つと、まずは何でもいいから、好きなようにサンドバッグにパンチしてみろと言ってきた。好きなようにと言われて私は困ったが、取るも取り敢えず私はサンドバッグの前に立ち、ラボでやった実験と同じように、左腕を前に出してジャブを一発放った。




その瞬間、火薬が破裂するような凄まじい音が辺りに鳴り響いた。私自身もその音に驚いてしまったが、見るとサンドバッグは少し揺れただけで、特に変化はない。コーチは私を観察しながら首を傾げていたが、もう一度今度は3発連続でジャブを打ってみろと指示された。私は言われたとおり、今度は最速で打ってみようと脳内で意識し拳を振ると、まるでマシンガンを打つような轟音が辺りを劈いた。それを聞いて一斉に周りの隊員が音の発生源に目を向けてくる。視線を感じて周りを見た。あまりの轟音に身を伏せている者さえいた。




私は反応に困りコーチの方を振り返ると、腕を組んだ彼は固まり、かろうじてその場に踏み留まっているといった様子だった。私はコーチの名を呼び、腕を叩いた。するとコーチは我に帰ったように私を見つめ、咄嗟に私の左手首を握って持ち上げた。私の手の甲を見ている。どうやら拳に異常がないかを見ているようだった。私も自分の拳を見たが、特に赤くもなく異常は見当たらない。コーチはそれを確認すると、サンドバッグの右にある棚から何かを取り出し、私の目の前に差し出した。それは青色のオープンフィンガーグローブだった。




拳を痛めると訓練が続けられないから、念の為ということだった。私が装着すると、今度は右手でストレートを打ってみろと言ってきた。私は何かの物体にに対してストレートを打ったことなどなく、TVで見たボクシング程度のイメージしかなかったが、半ば強引に右手のパンチを全力で叩き込んだ。鈍い衝撃音がしてサンドバッグが壁際まで揺れたが、ジャブを打った時ほどの手応えがなかった。




私の動きをしっかり見ていたらしいコーチは大きく頷き、私をマットレスの上に連れて行った。そして向かい合うと、彼は突然拳を上げて身構えた。私はそれを見て焦ってしまい後ろにたじろいだが、彼は言った。俺を殴れる位置まで来いと。彼は身構えたままだったので、恐る恐る近寄った。すると彼は、実際に打たなくてもいいので、俺にジャブを浴びせるよう構えてみろと言った。私は言われるがまま、左手を上げて身構えた。するとコーチは私に、自分の足元を見てみろと促した。




そのまま首を下に向けて両足を見たが、何かおかしいのかさっぱり分からなかった。身構えたままのコーチは、俺の足はどうなってる?と聞いてきた。そう言われて彼の足を観察する。膝を軽く曲げて腰を落とし、両足を開いて左足を前に出し、右足と揃わないようにしていた。私の足は若干斜に構えてはいるが、直立したまま両足を揃えている。この違いを言いたかったのか?と私は思い、見よう見まねで同じように構えてみた。するとコーチは構えを解き、私の背後に立って足の位置を調整した。




次に私の背中とぴったりくっつくようにし、右手首と左手首を握った。まるで二人羽織のようだったが、コーチはまず私の空いた両脇を閉めさせた。そして右手を顎の手前に引かせ、前面に出した左手の軸を顔の中心に持ってくるようにして、軽く曲げさせた。それが終わると今度は私の右に立ち、全く同じように構えた。この基本の構えを忘れるなということだった。そして構えたまま、彼が打つジャブを良く見ていろと言った。




私は自分の構えを解かずに、私と同じように構える彼のジャブを見た。彼は打つ瞬間、前に体重をかけているようだった。その時、私の脳裏で何かのスイッチが入った。自然と彼の動きをトレースするように意識が向いていた。私はそのトレースに身を任せるようにしてジャブを一発放つと、鋭い風切り音が鳴る。打つ瞬間に体が自然に前へと体重移動していた。コーチはそれに合格点を出すと、急いでさっきの棚に向かい、両手にキックミットを装着して戻ってきた。そこに打ってこいと言うので試しに一発放った。




先程の破裂音とは違い、重みのある衝撃音が周囲に響いた。それを受けたコーチの右腕が後方に吹き飛ばされる。私は心配になって打つのをやめたが、コーチの顔は驚愕の表情と共に、何故か笑顔になっていた。コーチは元の位置に戻り、今度はキックミットを左右2つ重ねて腰をさらに低くした。もう一度と言われて、さらに2発連続で素早くジャブを放つと、コーチの体ごと後方に後ずさった。最初にサンドバッグへ打った時よりも手応えが明らかに重かった。コーチの言いたかったのはこれだったのかと、私は彼に感謝した。




脳内にはこの動きが完全に刻まれたようだった。コーチは何度も何度も後方に吹っ飛びながら、私のジャブを受けるのをまるで楽しんでいるかのようだ。やがてそれも終わり、基本の構えとジャブに関しては満点をもらった。次はストレートだったが、ここまで来ればもう早いものだった。コーチも私がどうすれば覚えるかという教え方を把握してくれたおかげで、二人羽織とコーチの打つ正しいストレートを見るという方法にシフトした。体というより、インターフェースで増幅された脳とナノマシンがどんどん吸収していってくれた。




ストレートの型も完成し、コーチは棚から超大型の分厚いキックミットを1つ持ってきた。その姿はまるでラグビーのタックルバッグのようだ。私は少し心配になったが、コーチはキックミットを両手にはめて受ける気満々だった。彼に急かされて、私の体よりも大きいキックミットの前に立ち、基本姿勢を身構えた。打つ瞬間に体の軸を前に移動させ、その勢いを殺さず上体を捻り、真っ直ぐに右手を打ち出す。私の脳と体はこれを超高速で再生した。




大砲のような轟音が響き渡り、キックミットに拳がめり込むとコーチの体が浮き上がり、そのまま後方10メートル程の壁まで吹き飛ばされてしまった。コーチは壁に叩きつけられて地面に倒れ込み、周囲が騒然となった。私は慌ててコーチに駆け寄りキックミットを外したが、彼は完全に気を失ってしまっていた。私はどうしていいか分からず、周りに助けを求めると、誰かが呼んでくれた警備隊専属の医療班が急いでやって来てくれた。




脳震とうを起こしているとの事だったが、幸い壁には一面にショックマウントが張り付けられていて、床にもマットが敷いてあったので、命に別状はないとの事だった。しかしそれでも心配だった私は、5階にある救護室までついていってコーチが目を覚ますのを待った。ベッドで眠るコーチの頭の上に設置された計測機器に目をやる。脳波パルス、心拍数共に異状なし。こんな時だけ妙に役に立つ研究者の知識が虚しかった。私は首の後ろにあるブートボタンを2回押し、起動終了シークエンスを開始させた。




それが終了してヘルメットを脱ぎ、横のテーブルに置いて私は考えた。実験の為に格闘技術が必要な事はよく分かった。たった数時間のトレーニングでここまで力が伸びるのだから、数日もあればかなりのところまで行けるはずだ。それにナノマシンのおかげで、疲れも息切れもない。しかし今回の件のように、この化物のような力を人に向けていたら、相手の命がいくらあっても足りない。トレーニングの際は方法を考えて、慎重にやらなければ。




そう考えていた矢先、コーチが目を覚ました。再び計測機器に目をやるが、どこにも問題はない。私はひたすらコーチに謝り続けた。しかしコーチは気にするなと言ってくれた。いいパンチだったと。そして、私は見込みがあるとも言ってくれた。今日はもう無理だが、まだまだ教えることがあるから明日もしごくぞと彼は言った。私は頭を下げてお礼を言った。時計を見ると終業までまだ時間はある。私はヘルメットを被りブートボタンを押すと、コーチに自主トレーニングを行うと伝えて救護室を後にし、4階へ戻った。




中央の通路を通ると、先程騒ぎを起こしたせいで左右から視線を感じた。しかしそれにはお構いなしに、早足で右奥の格闘技ブロックへと戻る。そこにいた隊員達が私の姿を見た途端動きが止まり、静かになった。それも無視してサンドバッグを通り越し、私は部屋の隅にある一番巨大なタックルバッグの前に立った。これならちょっとやそっとじゃ壊れないだろうと思ったからだ。私は先ほど習った基本姿勢を身構え、脳内で再生する。超高速でジャブ7連撃を叩き込み、とどめに全力で腰を入れたストレートを放った。




射撃場の中にいるような音を立ててしまったが、まだ初日だというのにこれを気にしてたら、トレーニングに身が入らない。私は背後の視線を無視しながら、ひたすらにパンチを打ち続けた。ジャブとストレートのコンボ等を何度も試して脳と体に叩き込み、頭上の時計を見ると終業時間を過ぎていた。帰るかと思い後ろを振り返ると、いつの間にか人だかりに囲まれていた。私は練習に夢中で彼らに全く気が付かなかった。




一応新人という事もあり、作り笑顔で彼らにお辞儀をしてその場を立ち去ろうとしたが、隊員の一人に引き止められた。今度彼らと一緒にスパーリングに混じってほしいという事だった。断る訳にもいかず、私は格闘技初心者という事を説明し、もう少し技を覚えたらお願いします、とはぐらかして何とか難を逃れた。総務で代えの制服を受け取ると、帰りの車でギャレリアに寄ってもらった。軽く買い物をしたあと病院に帰り、部屋に戻ってヘルメットの仕様書を流し読みした。




バッテリー持続時間は48時間、内蔵バッテリーの他に外部バッテリー付属、外部バッテリーは右即頭部のスロットから交換可能、小型急速チャージャー6時間でフル充電可能との事だった。私は早速ハードケースから急速チャージャーを取り出して、ヘルメットに接続し充電を開始した。シャワーを浴びてパジャマに着替え、その日はイグニスに連絡せずすぐに就寝した。とにかくこの日から、連日激しいトレーニングの日々が続いた。




蹴り技、防御、投げ技、寝技、それらを総合した応用技などを習得し終え、気付くとあっという間に一ヶ月が過ぎ去っていた。インターフェースをブートした状態での体のコントロールもうまくなり、相手にケガをさせないよう速度を調節し、いわゆる手を抜く・力を抜く事も学んでいった。そのおかげで隊員達を傷つけることなく、実戦的なスパーリングを行う事が可能になった。それらを数多くこなし、相手の行動パターンを生体量子コンピュータが蓄積させていく。




その間正規の警備隊任務は一切来なかった。ただひたすらトレーニングに勤しむ毎日。最初は私を避けていた他の隊員達とも仲良くなっていき、人間関係も良好になりつつあった。段々と私は楽しくなってきていた。最初は抵抗があったが、警備隊も悪いところではないと思い始めていたある日、事件が起きた。トレーニングルームの屋内スピーカーから警報が鳴り響き、全隊員招集の緊急アナウンスが流れた。4階場内は騒然とし、全員がエレベーター両脇にある非常階段に向かい駆け出していく。




私もそれに合わせて非常階段を駆け下り、3階のロッカールームでランニングシャツの上から制服を羽織った。私には銃が支給されていなかったが、防弾ベストだけはロッカーの中に吊るされていたので、急いでそれを装備した。皆が地下のガラージに向かっている様子だったので私もそれについていこうとすると、誰かに首根っこを引っ掴まれて後ろに引っ張られ、ロッカーに叩きつけられた。誰かと思い上を見上げると、目の前に立っていたのは痩せぎすの男、副隊長だった。彼は私に、ここに残れと言った。




何故かと問いただしたが、私の正規任務参加は上から認められていないと言う。しかし隊員達と日々トレーニングを重ねてきた私の中にも、警備隊の一員という自覚が生まれつつあった。私が食い下がると、副隊長は険しい顔で私にこう言った。武装テロ勢力多数がブラウディクス社正門に向けて進軍してきている。射撃訓練を受けていない私にはこの状況に到底対応できないと。




確かにその通りだった。武装勢力相手に、私の格闘スキルなど何の役にも立たない。私は諦めて後ろのベンチに座り込んだ。それを見ると副隊長も地下へと向かい、私は一人残された。歯痒かった。何か私にできることは無いかと必死に考えた。頭を抱え込んだ時、ヘルメットの感触が手に伝わった。それで私は我に返った。今の私はニューロンナノインターフェースにより、この敷地内にあるどのサーバをも遥かに凌ぐ超高速演算が可能だと。しかも増幅された今の状態でネットワークに接続すれば、アクセス出来ない回線はない。




私は即座に脳内のネットワークをアクティブにした。その途端様々な情報と映像が脳裏に飛び交ってきた。その接続範囲を一気に広げるようと意識すると、ブラウディクス社全敷地内のマップが映し出された。各地点から発される無線や映像が明滅し、一気に脳内へ流れ込んでくるが、それを並列演算で同時に処理していく。その結果、戦況は最悪という事が判明した。ブラウディクス社正門前の監視カメラをオンにすると、そこはまるで戦場だった。




警備の前線部隊が正門の外に出て、戦闘車両3台とバリケードを盾に防衛ラインを築き応戦しているが、敵の火力に押されている様子だった。正門の内側には戦闘車両2台を含む後衛部隊が控え、門の外に出るタイミングを見計らっている。ブラウディクス社と軍を繋ぐ戦術データリンク・KU回線に接続すると、応援要請を出された軍の大隊が現在敵の後方10キロまで接近していたが、挟み撃ちにしたとしてもこれでは到着するまで警備隊が持たない。私はKU回線のデータリンク情報を元に、即座にレーダー照合を完了させて、敵の現在位置に一番近い監視カメラを複数同時に表示させた。




敵は防衛拠点制圧用の火力支援戦闘車両を前後に3機保持している。それらを盾にした歩兵の数が約200。一体どこから湧いたのか、もはやテロと呼べるレベルではない。敵の戦闘車両と歩兵の持つ武器の射程・性能が脳内に流れ込み、警備隊との戦力差を比較する。持って20分と、脳が私に告げてくれた。敵は正門まで約1キロ。正門前のカメラに焦点を切り替え、レーダーをオンにする。そこで戦う警備隊達の社内IDと名前が列挙された。後方に隊長が控えており、果敢に陣頭指揮を取っている様子がカメラに映し出された。




トレーニングルームで何度かスパーリングした隊員達も目に入る。そこへ正門の扉が開き、控えていた後衛部隊が一気に外へとなだれ込んだ。2台の車両が先行し、その後に続くように後衛の歩兵が応戦しながら、バリケードを二重にしようと試みる。私は気が気ではなかった。ネットワークにより全ての状況を把握していながら、何も出来ない自分に腹が立った。後衛部隊が前線と入れ替わり、その中にいる2名のIDが私の目に入る。一人は副隊長、もう一人は私のコーチだった。彼らは懸命に戦っていた。私はその様子を、情報と映像からしか確認できない。その時、テロ部隊の火力支援車両が二発のミサイルを放った。




それを受けて、警備隊の戦闘車両5台全てが前方にチャフ・フレアを放ち、ミサイルを阻止しようと試みた。二発とも警備隊への直撃は避け、数十メートル手前で爆発したが、後衛組の部隊が巻き添えを食った。私は唖然とし、固唾を飲みその状況を見守った。爆発の煙が晴れると、そこには凄惨たる状況が映し出された。口から血を吐きうずくまる者、頭部を酷く損傷した者、銃を握っていた手の指が吹き飛び、痛みにのたうち回る者。そして、左手の下腕を爆風で失いながらも仁王立ちし、戦闘指揮を取り続ける副隊長と、地面に突っ伏し動かないコーチの姿を見た私の中で、何かが切れた。




私は鍵のかかった他の隊員のロッカーを、力任せに滅茶苦茶に引裂き、銃器が無いかを探した。やっと見つけた拳銃とありったけの弾倉を防弾ベストと腰に突っ込むと、非常階段を駆け下りて1階のロビーから外へ飛び出した。目標の位置を脳内で確認しながら、私は正門へ向けて全力で走った。道路を無視し、障害物を飛び越えて真っ直ぐに警備隊の元へと向かった。周りの風景が瞬時に背後へと過ぎ去り、自分でも驚くほどの速さで正門前まで到着した私は、正門右にある7メートルはある高い壁に向かってジャンプした。




届く自信はあった。壁の上に立つと、すぐ下には隊長率いる前線部隊の姿が目に入る。私は壁を飛び降り、隊長の前にある戦闘車両の後方に向かって滑り込んだ。敵の銃弾が私のすぐ横をかすめていく。突然飛び込んできた私の姿を確認して、周りの隊員達が呆気に取られていた。それに気づいた隊長が私に近寄り、怒号を浴びせてきたが、私はそれを無視した。腰に差した拳銃を抜いてマガジンを取り出し、弾数を確認して銃にセットしなおした。拳銃の扱い方くらいなら知っている。しかし隊長が私の胸倉を掴み体を持ち上げると、銃のセーフティをかけて取り上げてしまった。




私は知り得る限りの戦況を報告し、このままではあと十数分で警備隊が全滅する事を伝えたが、彼はそれを聞いても黙ったまま、銃を返してはくれなかった。このままでは後衛組の副隊長やコーチが殺されてしまう。その時、脳内で誰かが私の名を呼びかけた。イグニスだった。ネットワークで施設内の警報を知った彼は、私との回線を繋ぎながら視界を共有し、状況を全て把握してくれていた。その上で彼は、これから射撃・格闘データを含む戦術システムを、私の脳内に直接転送すると言ってきた。




私はすぐさま了承した。彼の戦闘能力が優秀なのは、誰よりも私が一番良く知っていたからだ。イグニスが転送を開始すると、脳内にワーニングのウィンドウが表示される。今は緊急時だ。私は意識内で受諾と命令すると、これまで蓄積してきたイグニスの戦闘データが一気に流れ込んでくる。時間にして約5秒ほどだったが、私は以前にも増して体が軽くなるのを感じていた。そして射撃能力と合わせ豊富な銃火器の知識も手に入れた私は、脳内ネットワークを介して警備隊の主要装備を検索し、現在の状況を打開出来る武器を選び隊長に申請した。



私が選んだのは、A20K2パルスライフル・RG-40 小型自動擲弾銃・遠隔起爆用ハンドグレネード3発・予備弾倉5個だった。全て最近配備されたばかりの新型だったが、私の口からその名前が出た事に隊長は驚いていた。しかしそれでも彼は承諾しなかったので、私はあるのか無いのかだけを聞くと、彼はあると答えた。その返事を聞いて私は後ろを振り返った。あるとすればあそこしかない。私は味方の戦闘車両に走り寄り、パネルを操作して兵員輸送用の後部ハッチを開いた。




内部壁面左側に武器収納用ラックがあり、その中に目当ての銃器が並んでいるのを見つけると、私はそれを取り出して装備にかかる。ライフル、擲弾のマガジンを確認して床に置き、ラック下段に並んだ予備弾倉をベルトパックに詰めて腰に巻いた。その奥にあるハードケースを開けると、ハンドグレネードも見つかった。遠隔起爆スイッチをポケットに突っ込み、3発手に取って腰のベルトにぶら下げる。ライフルと擲弾銃のスリングベルトを肩に通してフル装備になった私は立ち上がり、後部ハッチを出ようとしたが、またしても隊長が止めに来た。




しかしもう時間がない。私は隊長を外に突き飛ばして後部ハッチを閉じ、イグニスに接続した。バリケードの隙間から道路の奥を見ると、もう見える範囲まで敵が来ている。彼はそれを見ると、敷地内の壁沿いに敵へ接近しろと言った。私は再びブラウディクス社の外壁を飛び越えて中に入り、敵のいる西側へと全力で走った。レーダー上の敵を示すシグネチャーがみるみる近づいてくる。そして敵後方に回り込んだ事を確認すると、私は2つの銃のセーフティを解除し、壁面の上へ飛び乗った。




眼下には、火力支援戦闘車両を盾にする敵の後方部隊が目に入る。私はその敵の中心に向けて、自動擲弾銃のトリガーを引いた。大爆発が起こり、中心にいた兵士達が吹き飛んでいく。わたしはさらにトリガーを引き絞り、左から右へ薙ぎ払うように擲弾銃を連射した。突然の奇襲に敵が混乱している隙に、私は壁を飛び降りて道路に出た。道の左右に素早く移動しながら、残った兵士たちにも擲弾銃を放つ。やがて最後の爆発が起こり、弾の切れた擲弾銃をその場に投げ捨て、パルスライフルを構えた。




その時、火力支援車両の砲塔が後ろに回転し、こちらに向けて機関銃を放ってきた。私は咄嗟に反応して道を横断するように全力疾走し、飛び上がって再び壁の中へと逃れた。映像を確認すると、歩兵部隊はほぼ半壊状態となっている。それを受けて警備隊の戦闘車両が前進し始めた。援軍の位置を確認すると、敵まであと4キロ。何とか時間は稼げたが、被害を少なくするためにも火力支援車両を足止めしなくてはならない。私は再び壁の上に上がり、道路へと飛び出した。




歩兵の残党をライフルで倒しながら支援車両へと突進し、腰のハンドグレネードを手に取って、車両後部のエネルギータンクへと投げ込んだ。そして回り込むように他の2台にも接近しハンドグレネードを設置し終わると、壁とは反対側にある街路樹の裏に身を伏せて起爆スイッチを押した。大きな爆音が辺りを劈き、私は木陰から状況を確認すると、支援車両3台が黒煙を上げて動きを止めていた。新型ハンドグレネードの威力に驚いたが、私は警備隊の様子が心配になり、壁を伝って彼らの元へと戻った。




正門内側まで辿り着いて道側へ出ると、そこでは負傷者の手当が始まっていた。私は副隊長とコーチの姿を探したが、どこにも見当たらない。まさかと思い敵の居た方向を見ると、警備隊がテロ部隊を制圧しにかかっている様子だった。あのケガの状態で動けるはずが無いと思い、救護班を呼び止めて聞いてみると、二人共重症のため敷地内の病院に搬送されたとの事だった。今すぐにでも駆けつけたかったが、今はまだやる事があると思い直し、道路を全速力で走り抜けて味方の援護へと向かった。



敵に近づき走りながら銃を構えたが、到着すると全てが終わった後だった。既に敵兵は全員投降し、隊員達が銃を構えてボディチェックをしている。その真ん中に立って指揮を取っている大男が目に入った。私は恐る恐る近寄り、隊長に声をかけた。彼は後ろを振り返ると、私の事を睨みつけてきた。私は咄嗟に頭を下げて、先ほど突き飛ばしてしまった事を謝った。そう言うと彼は私に向かって歩いてきた。これは鉄拳制裁だと私は覚悟し、体を強張らせた。しかし彼は私のヘルメットにポンと軽く手を乗せただけだった。




恐る恐る隊長の顔を見ると、普段なら絶対に見せないような、とても優しい目をしていた。それを見て全身の力が抜けた。最終的に、テロリスト達はあとから来た軍が連行していった。それを見届けた私達は、敷地内の警備隊ビルへと戻った。ところが、私が滅茶苦茶にしてしまったロッカールームを見て、隊員達が悲鳴を上げていた。隊長もそれを見て怒りに震え、結局は叱られてしまった。




隊長室に呼び出されてその理由を話すと、不承不承ながらもお咎めなしという事になった。私はその場でパルスライフルと予備弾倉を隊長に返し、今日はもう帰っていいと言われたので、ロッカールームで防弾ベストを脱いでハンガーにかけ、隊員に病院まで車で送ってもらった。中に入ると、そこは野戦病院のような状態だった。私は負傷した警備隊員達を見舞い、重症者はどこにいるかと看護婦に聞いて、そこに案内してもらった。




6人部屋の病室が並び、意識のある隊員達を見舞って励ましながら、私は副隊長とコーチを探した。するとやがて、意識のないコーチを先に見つけた。ベッドの横に座り、酸素マスクをつけた彼の顔色を見たが、血の気がなく脳波・脈拍共に弱い。医者に症状を聞くと、爆発の衝撃波で気管と内臓にダメージを負ったらしく、予断を許さない状況だという。私はコーチの手を握り、回復するよう心から祈った。




そうして病室を回っていると、横になった副隊長の姿を見つけた。私がベッドの横に立つと、彼はすぐに目を覚ました。肘から下のない左手には痛々しい包帯が巻かれているが、彼の目つきは相変わらず鋭かった。私が椅子に腰を下ろすと、右手でベッドを操作して上体を起こし、私を見てニヤリと笑った。まず私は、彼の言いつけを守れなかった事を正直に詫びた。しかし副隊長は他の隊員から聞いて既に知っていたらしく、私のした事を逆に褒められてしまった。




左手は大丈夫かと聞いたが、麻酔が効いているので痛みもなく、また神経接続の高性能な義手をつけてもらえると無理に喜んで見せた。いい加減ヘルメットを脱いだらどうだと指摘され、私はかぶったままということをすっかり忘れていた。私は急いで首の後ろにあるブートボタンを2回押して起動終了させ、顎のベルトを解いてヘルメットを脱ぎ、膝下に置いた。すると彼は右手で私の頭を撫でながら、俺は大丈夫だからそんな悲しい顔するなと言った。





それを聞いて、左手を失いながらも勇ましく前線に立ち続けた彼の姿が甦り、私は返事をするのが精一杯で、涙を堪えきれなかった。私は彼に、生きていてくれて良かったと本心を伝えた。彼は私が泣き止むまで頭を撫で続けてくれた。自分の病室に帰り急速チャージャーをヘルメットに繋いで、そのままベッドに倒れ込んだ。今日は色々なことがあったと思い返した。そして私はその日生まれて初めて、人を殺した。それも大勢を。ただそうすることで救えた命もあった。いや、そうせざるを得なかったのだと自分を納得させた。




制服を脱ぐと、その下はランニングシャツにスパッツ・ショートパンツだった。トレーニングジムからそのまま来たことを忘れていた私は、それらを脱ぎ捨ててシャワーを浴び、髪を乾かしてパジャマを着た。部屋の明かりを落とし、寝る前にイグニスと連絡を取った。彼の力無しでは何も出来なかった事を思いお礼を言ったが、戦闘データを受け取っただけでは普通すぐに使いこなせないらしく、全てあなたの力だと言った。その力で私は今日初めて人を殺した事を告白し、彼に懺悔した。




次の日ロッカールームに行くと、私が壊したロッカーが全て新品のものに置き換わっていた。それに少なからずホッとしながら、ランニングシャツに着替えてヘルメットを被り4階へ行くと、突然歓声と拍手が湧いた。驚いて周りを見ると、隊員達が中央の道沿いに並び、私を待っていてくれたらしい。彼らとハイタッチし、握手し、ハグして、今日生きている喜びを分かち合った。皆にお礼を言いながら中央の道を進むと、一番奥に隊長が待ち構えていた。




先日はご苦労だったと彼は前置きすると、今日は私に試験をしてもらうとの事だった。内容は、柔術・打撃・総合でそれぞれ警備隊最強の男達と戦ってもらい、2勝すれば合格。最後に武器を使用した格闘術でもし勝てば、射撃訓練にステップアップできるという事だが、私は特に驚かなかった。今の私にはイグニスの格闘データがある。負ける要素はどこにも無いが、相手に怪我だけはさせないよう注意する事のみ集中する。私は首の後ろのブートボタンを押した。結果は私の4連勝。




その日の内に射撃訓練が開始されたが、全ての訓練に置いて高得点を叩き出した。その後は隊員達との連携を強化する訓練も行われたが、それも難なくパスした。そうして一週間後に、再び本社から辞令が来た。ラボに復帰するよう書かれた辞令だった」




ルカはここで黙り込んだが、アインズがそれを許さなかった。




「...それで? お前は晴れて体術及び銃火器の扱いを完全にマスターしたわけだな。その後はどうなったのだ?」




「...閉じ込められた」




「どこに?」




「研究棟にある武器保管庫を改装した一室に」




「何故?」




「恐らくは、最重要の国家機密として扱われたから」




「病室はどうなったのだ?」




「荷物はまるごと武器保管庫に移された」




「お前は抗議したのか?」




「もちろんしたさ。でも無駄な悪あがきだった」




「実験は継続していたのだろう?」




「...ああ、当然継続していた」




「ではその話を聞かせてくれ」




アインズの握った手に力が籠もる。




「...わかった。警備隊最後の日、私達はギャレリア内にある居酒屋を貸し切り、彼らと最後の別れを惜しんだ。何故かと言えば、一度ラボに戻れば警備隊との接触を一切禁じられるのが分かっていたからだ。隊員みんなが別れを惜しんで泣いてくれた。隊長までも。傷を押して、後から副隊長までもが来てくれた。私は正直、異動したくなかった。研究者が本文とは言え、3ヶ月近く頑張ってきた部署を後にするのはさすがにつらかった。その日ばかりは私も酒に身を任せた。帰り際に隊員達みんなとハグしあい、私は病院へと帰った。ベッドに腰を下ろし、今思えばいい思い出だったと過去を振り返ったりもした。イグニスに報告する元気もなく、私は酔い覚ましに冷水のシャワーを浴びて、その日はすぐに就寝した。




その翌日、見覚えのあるダークレッドの軍服を来た男達が部屋に押し入ってきた。軽く二日酔い気味だった私は、ラボに連れて行かれるのだと思い、気だるいながらも急いで私服に着替えて白衣を羽織った。しかし連れて行かれた先はラボではなく、兵器研究棟の地下5階にある一室だった。そこには取ってつけたような場違いのダブルベッドが置かれており、床を見るとつい昨日まで兵器のハードケースやラックが置かれていたであろう跡が付いていた。



当然窓も一切ない。唯一の救いは、急ごしらえなのが見て取れるトイレ付きの広いユニットバスが設置されているくらいだった。部屋の壁面は天井も壁も床もアーミーグリーン一色で、薄暗い間接照明があるのみという部屋だった。私はこれなら病院の方がまだマシだと抗議したが、それを聞き入れる権限を彼らは持っていなかった。仕方なく私はベッドに寝転んだ。部屋の四隅に監視カメラが設置されている事に気付き、全部潰してやろうかとも考えたが、無駄な努力と知りそれはやめておいた。




やがて2時間ほどすると、武装した兵士が3名やってきた。やけに礼儀正しかったのが逆に不安を煽ったが、これからラボに移動するとの事だった。少なくともここよりラボの方がまだマシだと思い、すぐにベッドから飛び起きて彼らについていった。




地下5階から地下1階に移動し、後部座席の窓は全面スモークの車に乗せられ、ラボの入り口へと到着した。そうしてコンソールルーム内に入り、仲間たちとの再会もつかの間、早速実験開始となった。その日の実験は、遠隔リモートリンクにおける格闘戦の実証試験を行う事だった。私は白衣も私服も脱ぎ捨てて、実験棟内部のユニットチェアに腰掛けた。全身に電極を貼られて準備は整い、私の右にはイグニスがユニットチェアに腰掛けた。最初の遠隔リモートリンク試験が成功した素体とあって、私も予想はしていた。私の中にはイグニスから貰い受けた戦闘データと合わせて、私自身が得た格闘データも蓄積されている。これで負けたらイグニスに失礼だという気持ちで臨んだ。相手は速度優先型のバイオロイドだ。私自身にそれをいなせる程の力がある事を願い、イグニスの体を遠隔リモートリンクで接続した。



前回とは異なり、驚くほど自然にリンク出来た。私(イグニス)はユニットチェアから立ち上がり、ヘッドマウントインターフェースに繋がれた計測用のケーブルを引き抜いた。向かいには、速度優先型のバイオロイドが研究員の調整を受けている。後ろを振り返ると、目をつぶった私の肉体が見える。不思議な浮遊感に包まれたが、今はそれに身を任せている時ではない。やがて研究員も退避し、インカム越しに実験スタートの合図が聞こえてきた。




速度優先型のバイオロイドがどう出てくるかを探る意味で、私は間合いを詰めた。すると相手は躊躇なくハイキックを左側頭部に放って来たので、これをガードした。次に私はジャブの連発で目くらましをしつつ、接近して相手の右腕を掴み、顎を押してテイクダウンした。ハーフガードの体制になり、今度は相手の左腕を取ってチキンウィングアームロックの体制に入った。これでもかと締め上げるが、痛覚をシャットアウトしているバイオロイドには通じるはずもなく、私はやむ無く速度優先型バイオロイドの左腕を破壊し、捩じ切った。白い人工血液が飛び散ったが、私はそのまま相手の右腕を取り、腕ひしぎ逆十字の体制に入ったところで、実験終了となった。





荒療治となってしまったが、実験に手は抜けない私の性でもあった。この一戦で、私は自信がついた。今まで警備隊で学んだことが、確実に生きていることを証明できたのだ。次の日は逆に、私が速度優先型のバイオロイドに遠隔リモートリンクし、イグニスと戦うことになった。正直イグニスとは戦いたくなかったが、よく考えれば実験のデータとしてこれ以上貴重なものもないと考えを改めた。イグニスに何かあれば、私が自ら修理するつもりでお互いに向かい合った。




イグニスは私と向かい合い、何故かとても嬉しそうだったのが印象的だった。私は、速度優先型では絶対にありえないだろう動きをしてみせた。つまりは、速度優先型でありつつ防御主体でイグニスを追い詰める作戦に出た。これにはイグニスも慌てたようで、無駄な打撃が目立っていた。そこを突いて着実にロー・ミドル・ハイキックを見舞っていき、最終的にはフェイントからの回し蹴りをイグニスの右側頭部に決めて、決着が着いた。幸いイグニスの素体を傷つける事には至らなかったが、彼は嬉しそうに負けを認めていたのが印象的だった。その後は実験棟内で、イグニスと感想戦を行った。




こうしたデータは、イグニスのみならず全てのバイオロイドに並列化され、反映される。それを糧に日々遠隔リモートリンクの実験に臨んでいた。最終的には、ボディアーマーを着用しての、生身の私とバイオロイドの実戦にまで発展していった。さすがにこれはバイオロイド達に手を抜いてもらったが、5戦3勝とまずまずの結果を残せた。こうして格闘戦に置ける遠隔リモートリンクのデータが集まっていき、次は射撃及び武装状態の実戦におけるデータ収集に移行していった。




過去にA20K2パルスライフルを使用した経験から、これをデフォルトにしようという私の案が通り、訓練中の正式銃はパルスライフルで統一された。最初は恒例のごとくイグニスでの遠隔射撃実験から始まり、それがうまく行くと速度優先型のバイオロイドを使用しての射撃実験が行われた。結果は上々...と言うより、格闘戦よりも遥かに負担が少なかったと言える。多少のクセはあれど、一度コツを掴んでしまえば、速度優先型でも精密型でもさほど違いはなかった。




こうして銃火器の遠隔リモートリンク試験は第二段階に移行した。次は集団戦闘を想定し、4対4の実戦形式を取った試験だ。地下8階に設置されている、市街地を模した広大な演習場で行う事となった。この試験では、遠隔リモートリンク時にチームとしての連携が取れるかどうかが試される。私が警備隊で学んだ事が生かされる場面でもあった。実験にはゴム製の模擬弾が使用されたが、バイオロイドはともかく生身の私が至近距離で弾を受ければ、骨にヒビが入るだけでは済まない程の威力がある。




私は例によって遠隔リモートリンクの対象にイグニスを選び、他3人を型番で呼んでいたのでは素早い連携が取れないので、もう一体の精密優先型にユーゴ、速度優先型バイオロイド二体は男女だったので、それぞれミキ・ライルと名付けて呼称した。バイオロイド達には事前に、私(イグニス)がリーダーだという事を強く意識させ、命令なしに勝手に発砲したりしないよう厳命した。




相手チームも同じく精密型2体・速度優先型2体だ。お互い基本装備は、私が被っていた実戦用ヘッドマウントインターフェースとA20K2パルスライフル、予備弾倉2個、防弾ベスト、スタングレネードを各自1発ずつという装備で、2チームが東西に分かれて演習はスタートした。私はミキに赤外線モードでの索敵を徹底させ、私自身もニューロンナノネットワークのレーダーによる索敵を行いながら指示を出し、建物伝いに北東へとチームを移動させて敵の出方を見た。




案の定、敵チームのバイオロイドにはリーダーという概念が無く、間隔を大きく開けて個々がバラバラに索敵している状態で、纏まりが無かった。その虚を突いて私たちは敵の射線に入らぬよう真横から接近し、各個撃破で2人を仕留めた。残り2人となった時点でチームを2分し、スタングレネードで敵を攪乱しつつ集中砲火を浴びせ、15分足らずで私達のチームが勝利となった。




しかし後日行われた試験では、私が速度優先型バイオロイドに遠隔リモートリンクしたチームと、イグニスをリーダーとするチームに分けて演習が行われたが、これが最も手ごわかった。過去のデータが並列化されている上に、イグニスは私の行動パターンを完全に読んだ上でチームを引っ張っていた。最終的にはお互い一人になるまで戦闘が続いたが、かろうじて私が辛勝したという内容だった。




時には私自身が生身で演習に参加する事も幾度かあったが、試験が終わると私は地下5階の武器保管庫に軟禁されるという毎日だった。試験をしている最中は気が紛れたのだが、通信も遮断された部屋だったので家族にメールを送る事も許されず、徐々に私の心身は疲弊していった。それが試験後の精密検査でも顕著に現れるようになり、本社は私にPCでのネット閲覧やメール送受信と共に、唯一の娯楽であるDMMO-RPGへの接続を許可した。




無論その内容は全て検閲されており、向こうも苦肉の策だったのだろう。私は最初研究の事で頭が一杯で、とてもDMMO-RPGに手を付けるような気力は湧かなかった。しかし試験をしているよりも軟禁されている時間の方が長いという毎日が続くに連れ、違う風景が見たいと思うように心変わりしていった。




私は早速情報を集めた。2210年の電脳法改正により、それ以前に禁止されていた味覚・嗅覚・感覚の再現といった要素が盛り込まれ、DMMO-RPGは感覚的にも現実世界と大差ないほどに大きく進化を遂げていた。調べてみると数千タイトルというゲームが列挙していたが、その中で目に付いたのが、ユグドラシルβベータというDMMO-RPGだった。




過去に遡り調べてみると、最初のユグドラシルは日本のゲームメーカーが発売元となっており、2126年から2138年まで運営されていたと知った。その後時を経て制作会社が海外の企業に買収され、電脳法改正を機に発売されたのがユグドラシルⅡ。一部のコアなファン層から熱烈な支持を受けていたようだが、2210年から2223年までで運営は終了したとあった。




そこから15年後の2238年、ユグドラシルの世界を懐かしむ日本と海外の技術者達が有志で集結し、途絶えてしまったユグドラシルの世界を再現しようというリバースエンジニアリングプロジェクトがネットで告知された。この中には、実際にユグドラシルⅡの制作に携わった技術者もいたらしく、ますます現実味を帯びてきた事で世界中のコアなユグドラシルファンから注目を集めていた。




そこから4年後の2242年、ユグドラシルαアルファという名でエミュレーターサーバが始動した。当初は限られたエリアにしか行けずバグもかなり多かったが、テストサーバを兼ねていた事もあり、ユーザーからのバグリポートやリクエストを受けて、迅速に改善されていったらしい。



そこから更に4年後の2246年。リバースエンジニアリングチームが満を持してリリースしたのが、フルスペック版のユグドラシルβベータだった。オフィシャル版と異なり基本料金無料、課金アイテムのみ購入という、アプリ内課金の仕様だった。ユグドラシルαが好評だった事もあり、リピーターがユグドラシルβベータへ一気に押し寄せた。そしてそこからユーザーの支援を受けて、エミュレーターサーバは更に成熟したものへと変わっていった。



過去のユグドラシルと大きく違う点もユーザーに取って魅力だった。オリジナルには無かった新エリアの増設、より充実した世界級ワールドアイテムの選択肢、レベルキャップの引き上げ、拠点カスタマイズの自由度アップ、課金アイテムの大幅ディスカウント等、かつてのユグドラシルプレイヤーから見ても興味を惹かれる要素がちりばめられていた。




私はそれを知り、ユグドラシルβベータ専用アプリを、コンソール一体型ヘッドマウントインターフェースにダウンロードしてプレイする事を決めた後、本社へユグドラシルβベータをプレイする事をメールで申請した。するとすぐに次のような返信が帰ってきた。



『DMMO-RPGをプレイする際は、汎用のものではなく必ず支給品のヘッドマウントインターフェースを使用する事/プレイする際は計測用ケーブルを接続して行う事』



この2点だった。どちらにしろ私は汎用のヘッドマウントインターフェースなど持っていないので、いわば手元にある軍用のヘッドマウントインターフェースで行う以外に選択肢は無かったし、ベッドに備え付けられている計測用ケーブルを接続する事にも抵抗は無かった。どちらにしろ検閲されるのだ。自分から報告しておくに越した事はない。



私はネットで基本操作法を覚えると、自前のPCにヘルメットを有線接続し、計測用ケーブルも繋いで首の後ろのブートボタンを押した。起動シークエンス確認後ベッドに横になり、DMMO-RPG・ユグドラシルβベータを起動させた。2346年の事だった」





ルカはここまで喋ると、一息ついてアイスティーを口に運び喉を潤した。




「なるほど。お前は自ら進んで被験体となり、脳への生体量子コンピュータ移植に成功した。その後バイオロイド達との遠隔リモートリンク実験にも成功し、警備隊でのトレーニングと実戦経験を経て、再びラボへと復帰した。そこから軍の為の実戦的な実証試験をずっと行っていたが、長い軟禁状態で心身共に参ってしまい、いわば気を紛らわせる為にDMMO-RPG ユグドラシルβベータに手を出した....これで合っているか?」




「その通りだよアインズ。でも一つ言い忘れてない?」




「ん? 何をだ?」




「私....人を殺したんだよ」




「だがそのおかげで救えた命もあるのだろう? お前はそれを後悔しているのか?」




「いや、そういう訳じゃないんだけど...何とも思わないの?」




「思わないな。私がこのアンデッドの体になってから意識が変化したせいもあるのかもしれないが、お前は正しい事をした。否正しくなかったとしても、話を聞く限り完全に不可抗力だ。違うか?」




「そう....だね、その通りだね。済まない忘れてくれ」




「うむ、気に病む事は無い。それにしてもユグドラシルβベータか、私としてはそちらの方に俄然興味が湧いてくるがな。そしてそのお前の持っている武器も身体的な強さも、ユグドラシルβベータという存在と軍用ヘッドマウントインターフェース、そして生体量子コンピュータによってブーストされたものだと考えれば、至極納得が行く」




「そうだね、その話もこれから全て話していくよ」




「そう言えば気になったのだが....実戦演習の下りで、ミキとライルの名前が出てきていたな。彼らの名前はその名残なのか?」




「よく覚えていたね、そうだよ。彼らは味方につけば信頼できるパートナーだったからね」




「では精密優先型のバイオロイド....イグニスとユーゴに関してはどうなのだ?」




「そう、それなんだけど...全く同じ名前の人間がこの世界の冒険者として生きている」




「?! どういう事だ?」




「私にも分からない....。でも今はカルネ村で警備に当たってもらっているし、存在している事は確実よ」




「....強いのか? その人間達は」




「それも未知数だけど、通常では考えられない程のレジストを持っている事は確か。Lv4の絶望のオーラを浴びても片膝を付く程度のダメージだったし」




「Lv4?! 人間がか?」




「そう。彼らはその時、何のレジスト装備もしていなかった。要するに、素体としての元来のレジストが高かったって事だと思う」




「それで、その二人をお前はどうするつもりなのだ?」




「育てよう、と思っている。偶然とも思えないし、どういう因果があるのかも分からないけど、彼らのポテンシャルを見極められる所までは、育てようと思っている」



「そうか....お前の話を聞いていると、全く持って興味が尽きないな。ルカ・ブレイズ、さあ、話の続きを聞かせてくれ」




ここでアインズはルカの手を離し、大きく両手を左右に開いて促した。




「うん。ユグドラシルβベータに入った所からだったね。事前に調べたキャラメイクのテンプレートを頼りに、自分なりに一番合いそうなステータスと種族を選んで決めた。最初私は人間ヒューマンから始めた。そこから信仰系と神聖職に重点を置いて育てていったんだ。最初Lv上げをする時は雑魚モンスターを狩りまくるのが鉄則だけど、INT・CONに全ステータスを特化していて、回避に必要なDEX器用さには1ポイントも振ってなかったのに、何故か敵の攻撃を避けられた。




それが確信に至ったのは、フィールドに出てからだった。一歩外に出れば、いつPK(Player Kill)されてもおかしくないのがユグドラシルだよね。最初はクレリックから初めて、その後は運よくドロップで手に入れたデータクリスタル(戦神の衣)を手に入れて、クレリックからウォー・クレリックに転職しレベルを上げた。その後Lv30になってクルセイダーに転職し、外でモンスターをソロで狩っていると、プレイヤーに襲われるなんて事はざらにあった。もちろん、主に異形種だったけどね。




相手のLvは80から90だったと思う。いわゆる初心者狩りのつもりで来ていたんだろうけど、物理攻撃に関しては何故かほとんど避けられた。例え魔法による攻撃を食らっても、ヒーラーよろしく大回復が使えるから、相手のマナが尽きるまで回復し続けて、その場を逃げてセーフゾーンに飛び込む事で、PKを回避出来た。後から考えてみると、ヘッドマウントインターフェースと私の戦闘経験が増幅された事により、反応速度が極端に上がっていたからなのかもしれない。




それを繰り返しながらフィールドを変えてLv上げをしていく内に、とあるギルドからプライベートメッセージで声がかかった。その時私は本当に驚いたのを覚えている。ゲームを始めたばかりの初心者に声がかかるとは思ってもいなかった私は、そこでソロを止め、ギルド ”ブリッツクリーグ”の一員となった。彼らは私を温かく迎え入れてくれた。話を聞くとヒーラーが居なくて苦労していたそうで、ユグドラシルβベータ上のフォーラムでも、低レベルなのに殺せないキャラとして、私の名前はいつのまにか噂になっていたらしかった。




その後は、彼らがパワーレベリング...いわゆるPLをして一気に私のレベルを底上げしてくれた。装備品もギルドが最高級のものを揃えてくれた。その時点で、私はのめり込んでいたと言える。とにかくその時は、神聖職を極めようと特化していた。ブリッツクリーグは傭兵ギルドだったので、即戦力を得られるのなら手段は選ばないというスタンスだった。そこからしばらくしてLvも100を超え、ギルド同士の戦争....GvG (Guild vs Guild)にも多数参加し、経験を蓄えていった。とにかくリアルだった事もあり、私は興奮したのを覚えている。相手の城が燃える匂いを感じる嗅覚、肉を食べたり酒を飲む時の味覚、敵から攻撃を受けた時の軽い痛覚、敵を殺し切ったあとの絶叫に、ただただ身をゆだねていた。




いつも通り地下8階の演習試験を受けて、自室に帰りギルドメンバー達とLv上げ兼資金稼ぎに没頭していたとき、事件が起きた。突如恐ろしいほどの落下感と共にゲームがオフラインとなり、現実の武器保管庫に戻された。何事かと思い右を見ると、兵士達5人が息も絶え絶え私を凝視している。私は左右の側頭部からケーブルを引き抜くと、何事かと尋ねた。




彼らは言った。車中で説明するので、とにかく今すぐラボまで来て欲しいと。

私は正直訳が分からなかったが、血相を変えた彼らの表情を察し、急いで私服に着替えてヘルメットを手に、彼らと共に地下1階の駐車場まで上がっていった。




全員が車に乗り込むと、恐ろしいスピードで運転手の兵が車を発進させた。

理由を聞くと、生体量子コンピュータを移植された他の被験者が、暴走して暴れているというのだ。それを聞いて私は深い絶望の奈落へと突き落とされた。信じられなかった。人間に対する生体量子コンピュータの移植は、私一人の犠牲で済むと思っていたのに、本社や軍の連中は私の見ていない裏で、それを行っていたのだ。私はヘルメットをかぶり、首の後ろのブートボタンを押した。




その車中でボディアーマーを手渡され、それを着て欲しいと言われた。やむを得ず私はそれを装備し、ラボに到着すると車中から外に飛び出し、内部に疾走した。私はカードキーを持っていなかったので、兵士を急かしてラボのコンソールルームへと飛び込んだ。そこには恐ろしい光景が広がっていた。




内部にいる研究者は3人。計測機器の影に隠れて、ガタガタと震えている。そして壁のあちこちには飛散した臓物がへばりついている。そしてコンソールルームの中心に立つ女性が一人。彼女はこれ以上ないほどの極悪な笑みを浮かべて、こちらを向いてきた。




それを見た私の中で、何かが切れた。その女性の足を破壊するべく、突進し全力で左ひざに蹴りを入れた。事も無げに容易く女性の足は壁に吹っ飛び、女性はバランスを崩した。片足を失い半狂乱気味にジタバタと暴れている女性の頭部を、私はサッカーボールのように蹴り飛ばし、頭蓋骨を粉砕して壁の染みとした。それが終わると私は我に返り、計測機器の影で怯える3人にケガはないかと確認したが、彼らは研究棟の中にまだいると目線で示した。




私はコンソールルームのパネルを操作して研究棟の扉の前に立ち、扉が開くのを待った。やがて開くと、鉄臭い血と臓物の臭いが入り混じった臭気が漂っていた。中に入ると、一番奥のバイオロイド保管カプセルの影に隠れている女性研究者一人が、声を上げずに助けてと求めている。その手前には明らかに尋常ではない目をした男女が3人。




私はわざと足音を立てて3人に速足で接近した。その一番手前にいた男が私に掴みかかってくるのを見て、私は相手の喉仏を鷲掴みにし、そのまま引きちぎった。それを見た残り二人が一斉に飛び掛かってきた。左を見ると、バイオロイド保管カプセルが並んでおり、無傷だったのを見て安心したが、相手は完全に暴走状態だ。しかも全員見た顏だ。軍から送られてきた、生体量子コンピュータの移植希望者だった。




しかしこうなっては、もはや全てを潰すしかない。一人でも多くの研究者を助けねばと、私は全力でこの二人と当たったが、思わぬ苦戦を強いられた。そこで脳内でイグニスに回線を繋ぎ、制御システムの上書きオーバーライドは可能か? と聞いた。




答えはYESだった。すかさずイグニスは制御システムに割り込んでスリープモードを解除し、他の二人であるミキとライルの制御システムもオーバーライドして解除した。私が防戦一方の間、カプセルがゆっくりと開き、イグニス、ミキ、ライルの3人が目を覚ました。私は指示した。全力でこの二人を排除しろと。




そう言うが早し、イグニスは力任せに女性候補者の右腕をねじり上げ、背中から左手を突き刺して心臓を抜き取った。続くミキとライルも、キックで男性候補者の頭を吹き飛ばし、足も潰して行動不能にした。




周囲を警戒し、脅威が去ったことを確認すると、私は女性研究者の元へ走り寄った。最初は私にも怯えている様子だったが、膝を付いて(もう大丈夫)と声をかけると、私に抱き着いてきた。ガタガタと震えていて、完全に腰が抜けている。私は一刻も早く生存者をラボから連れ出すべきだと判断し、付き添いの兵士達に救護班を大至急呼ぶよう指示し、生存者4人を急いでラボの外へと連れ出した。





救護班が到着し、研究者達がその場を立ち去ると、私は助けてくれたイグニスとミキ・ライルに目をやった。私も含めてだが、全身血まみれでとても見るに堪えなかった。私は3人をシャワールームへと連れて行き、服を脱がせて彼らに付いた血糊を洗い流してあげた。そして彼らに、こんな汚れた仕事をさせて申し訳ないと詫びた。彼らは、私が無事ならそれでいいと答えてくれた。言いようもなく涙が溢れ、彼らに支えられて泣き続けた。




その結果、私が唯一の生体量子コンピュータ移植に成功した人間第一号となった。ラボを離れる前にデータを盗み見たが、明らかに移植候補者の脳波には拒絶反応が見られた。これに関しては、相性という他に説明がつかなかった。それよりも、私に黙って移植を強行した本社と軍にも憤りを感じたが、それを潰したのも私なのだ。文句を言える筋合いは無い。




イグニス・ミキ・ライルにガウンを着せて、コンソールルームでドライヤーをかけて髪を乾かしてあげていると、ダークレッドの兵士達がなだれ込んできた。彼らは私たちに銃を向け、大至急バイオロイドを保管カプセルに収容しろと命じてきた。無論私は抵抗もせず、彼ら3人を実験棟内部にあるカプセルへ横にさせて、スリープモードへと移行させた。イグニスが制御システムをオーバーライドできるという事実は、隠したまま。




その後私も武器保管庫に戻された。そこからしばらくは、当然と言えば当然だが、バイオロイドの実戦訓練も行われなかった。無論その間私個人への実験は継続されていたが、私はまた人をこの手で殺してしまった事実に愕然としながら、その記憶を忘れる為にユグドラシルβベータにのめり込んでいった。幾度かキャラをカンストしては作り直すという事を繰り返すうちに3年が過ぎ、ユグドラシルβベータの終焉が何の前触れやアナウンスもなく唐突に訪れ、気がつけば私はこの世界に転移していた。それが2350年だったという話だよ、アインズ...」




ルカはテーブルに目を落とし、再度アインズの手をギュッと握り、静かに手を離した。そして真正面を向き、ミキとライルに顔を向けてお互いに頷き合った。




「アインズ様。我が主ルカ・ブレイズが今語った言葉、我らが過去に聞いた説明と一切相違ない事を、この場でお伝え申し上げます」




「右に同じ。このライル・センチネル、ユグドラシルβベータからこの世界に来る前よりルカ様をお守りしてきた身。この世界に来てからルカ様が我らにご教示いただいた内容と一切相違ない事を、ここにお誓い申し上げまする」




それを聞いて、アインズは顎に手を当てた。




「うむ、心配するなミキ・バーレニ、そしてライル・センチネル。まだいくつかの謎は残ってはいるが、ルカの語った言葉を嘘だとは微塵も思っておらぬ。お前たちの事情は分かった。要はこの先、我らがどう動いていくか。この一点に絞られよう?」




「ありがとうアインズ、ここまで長い話を聞いてくれて。でも....本当に嘘ではないと思ってる?」




ルカが顏を上げ、心配そうにアインズの顏を見上げた。




「無論だ。ここで胸襟を開かずして、いつ開くというのだ。まあお前にしてみれば、ずっと胸襟を開きっぱなしだったのだろうがな。だから私もそれに答えさせてもらおう。必要な物資や情報があれば、何なりと言ってほしい」




「物資は....多分必要ない。情報が必要かもしれないとは思う。この先、お互いがプレイヤーだと認識した上での情報交換は、この世界を大きく左右するほどの力を秘めていると思うから」




「そうだな、では今後はユグドラシルという観点で質問していこう。つまりは、お前達の言うユグドラシルβベータの観点からだ」




「そうだね、まずはそれを知らないとね。いいよ、何が知りたい?」




そう言うとルカは席を立ち、ミキとライルのいる向かい側の椅子に回り込み、席に腰かけてアインズと向かい合った。デミウルゴスも空いた席を詰めて、アインズの左隣に座り直した。




「ユグドラシルβベータとなり、レベルキャップが引き上げられたというが、そもそもお前達のレベルはいくつなのだ?」




「私を含め、ミキ・ライル共に、Lvは150。これがユグドラシルβベータに置ける最高レベルだよ」




「150だと?! ....どうりで火力も防御力も桁違いなわけだ」




「ここまで上げるのは本当に苦労するけど、一度越してしまえば楽なものだよ。ほかに知りたい事は?」




「イビルエッジに転職する為の条件は?」




「シーフ・スカウト・忍者・アサシン・マスターアサシンを全て極め、ある特定条件を満たす事」




「それはこの世界でも適用されるのか?」




「もし適用されないなら、私達のイビルエッジというクラスが無効となり、この世界に転移する事自体ができないはず。今現在適用されているという事は、アインズの2138年にあったユグドラシルと、私達が来た2350年のユグドラシルβベータとのフォーマットは入り混じり、共通化していると解釈していいと思う」




「なるほど、では聞こう。お前達の種族は何なのだ? 私は恐らく異形種だと予想しているのだが」




「....そうだね、君やデミウルゴス、シャルティアが不思議がるのも当然だと思う。それを伝える前に、まずはこのアイテムを見て欲しい」




ルカはそう言うと中空に手を伸ばし、血に染まった赤い牙と、極々小さい水晶の短剣のようなオブジェクトを取り出した。赤い牙の方は、カルネ村でンフィーレア・バレアレに見せたのと同じ物だ。




「このアイテム、見たことがあるかな。恐らくないと思うんだけど」




テーブルの真ん中に置かれた二つのオブジェクトを前にして、アインズは考え込んだ。





「....そうだな、確かに見たことがない。鑑定してみても良いか?」




「もちろん」




「まずはこの赤い牙から鑑定しようか。道具上位鑑定オールアプレイザルマジックアイテム




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アイテム名: ダークソウルズ


使用可能クラス制限:無し


使用可能種族制限:???


アイテム概要:これをお前が手に入れたという事は、闇に落ちる宿命からは逃れられない。覚悟の無いものは即刻この牙を捨てよ。但し覚悟の出来たものは、このアイテムを使用せよ。未来永劫連なる不幸と共に、未来永劫連なる生命を、お前は手に入れる事になる。そして何者よりも遥かに強い不死力を、お前は手にする事だろう。



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「? 何だこのアイテムは。妙に不吉な文言だが」




「そうだね。じゃあ次は、この水晶のアイテムを鑑定してみて」




「う、うむ分かった。道具上位鑑定オールアプレイザルマジックアイテム







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アイテム名: サークルズオブディメンジョン


使用可能クラス制限:無し


使用可能種族制限:???


アイテム概要:According to old custom, I recognize the person who had this in its hand as a successor. According to old custom, I admit that I jump in the rotation that cannot escape. According to old custom, I admit that I assume wicked power justice. According to old custom, I admit that I let this person transmigrate.



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「これもまたユグドラシルでは見たことがないアイテムだな。えーと? 

(古の習わしに従い、これを手にした者を後継者と認める。古の習わしに従い、逃れ得ぬ輪転の中に飛び込む事を認める。古の習わしに従い、邪悪な力を正義とする事を認める。古の習わしに従い、この者を転生せしめることを認める。) これで合っているか、ルカよ?」




「さすがアインズ、英語も読めるんだね。見てくれてありがとう。もう大体わかったでしょ?」




「要するにこの二つのアイテムは、転生に必要なアイテムなのだな?」




「そう。まず最初のダークソウルズは、始祖オリジンヴァンパイアに転生する為のアイテムなの」




始祖オリジンヴァンパイアだと?! ユグドラシルでは伝説上の、いわば設定を盛り上げるための種族だったはずだが」




「そう。ユグドラシルβベータになってから、アップデートで実装されたものだね。但し、このアイテムを課金で買おうとすると、日本円にして65万もしたんだよ。用途も謎なのにこの値段とあって、当時はこれが話題になったんだ」




「何と....そうだったのか」



「じゃあ次のアイテム、サークルズオブディメンジョンについては、どう思う?」



「どう思うも何も、これも転生に必要なアイテムなのだろう?」




「そうだね。でもこのアイテムを手に入れられる場所は限られていて、ダークソウルズ以上に入手が困難だったんだよ」




「何に転生する為のアイテムなのだ?」




「その前に、ダークソウルズの転生条件は何だと思う?」




「それはまあ....恐らく1ランク下の真祖トゥルーヴァンパイアである必要があるんじゃないか?」




「誰でもそう思うよね。実際ヴァンパイア系統の種族と限られた異形種だけが使用出来ると当時は誰もが考えていた。でも転生できる種族に、実は人間ヒューマンも含まれていたんだよ。つまり...」




「!! 人間ヒューマンだと? まさか...人間ヒューマンから始祖オリジンヴァンパイアに転生することが、サークルズオブディメンジョンを使用する為の条件なのか?」




「そう、いい勘してるね。しかし厳密に言えば、その条件を満たしていてもアイテム自体は使用出来なかった。あくまでサークルズオブディメンジョンを使用する為の1条件として、人間ヒューマンから始祖オリジンヴァンパイアに転生する事が必要とだけ、今は覚えておいてほしい。しかしこの条件一つとっても、当時はあまりにもかけ離れすぎていて、誰にも分からなかった。しかし私はたまたま、本当に運良く人間ヒューマンだった。覚えてる?」




「ああ、もちろんだ」



「私は人間ヒューマンにして、神聖職を極めていた。ヴァンパイアの弱点は神聖と炎。だから高レベルのヴァンパイアしかいない新エリア、オブリビオンで狩りをしていた。その時にダークソウルズを偶然手に入れたんだよ。その時は慎重を期して実際に使用はしなかったが、人間ヒューマンでも使用できると知ったのは、その時だったのさ」




「そうだったのか」




「しかも、ダークソウルズをドロップするヴァンパイアMOBは固定されていた。ドロップ確率はランダムだったけど、私の所属していたギルド、ブリッツクリーグにしか教えていなかったからね。ギルドで集中的に狩りをして大量に手に入れた。だから課金アイテムを買う必要も無かったし、私たちも外部に売るような事はしなかった。エクスチェンジボックスにかければかなりの大金になったからね」




「なるほどな。意図せずして、狩場を独占していたわけか」




「そういう事。そうして資金稼ぎのためにギルドで狩りを続けていたある日、他に追加された新エリアの偵察に出ていたギルドメンバーから、妙な場所を見つけたと報告が入った。オブリビオンに次ぐ新エリアで、超高レベルモンスターが配置されている万魔殿パンデモニウムの山岳地帯奥深くにダンジョンがあり、その更に奥の一室に、用途不明の固定された転移門ゲートがあるという報告だった」




「ほう、興味深いな。と言う事は、合計11のエリアという事か」



「いや、正確には12のエリアだね。アースガルズ・アルフヘイム・ヴァナヘイム・ニヴルヘイム・ニダヴェリール・ヘルヘイム・ミズガルズ・ムスペルヘイム・ヨトゥンヘイムの他に、アルカディアという天使系の高レベル地帯と、さっきも言ったオブリビオンというヴァンパイアの高レベル地帯、そしてそれらの更に上を行く万魔殿パンデモニウムという悪魔系の超高レベル地帯で、合計12のエリアに分かれていた」




「なるほどな。それでそこへ調査には行ったのか?」




「ギルド狩りをすぐに切り上げて、ダンジョンの探索という事もあり20人全員でそこへ向かったよ。そして件の部屋に着くと、確かにそこには空間が歪んだような転移門ゲートが開いていた。まず先行して、透明化の魔法が使えるキャラから入っていったが、すぐにギルドチャットにて報告が入った。この転移門ゲートは一方通行で、出口は恐らく他にあるとの事だった。先行したメンバーの身の危険を考えて、私たちは全員転移門ゲートの中へと歩を進めた。




その先にあったフィールドは、今まで見たどのエリアとも雰囲気が異なっていた。もっと言えば、ユグドラシルらしくないフィールドだった。空一面は暗黒で、星や銀河がちりばめられており、地面はまるで月面のような灰色の細かい砂で覆われ、クレーターや山脈等も見受けられる、正に荒涼とした広いフィールドだった。




私たちは念のためその場でフルバフを終えて、オートマッピングのスクロールをオンにした。そこに記されていたエリア名は、ガル・ガンチュアとだけ書かれていた。私たちは3グループに分かれ、マップを埋めるために慎重に歩を進めていったが、しばらく歩くと突如モンスターが目の前にポップした。それも、見たことのないレイドボス級の巨大さを持つモンスターだった。実際にHPも火力もレイドボスクラスだったが、私達は3Gがかりで命からがらそのモンスターを倒した。そしてそのモンスターがドロップしたのが、サークルズオブディメンジョンだった」




「ふむ、面白いな。それ以外に貴重なアイテムはドロップしなかったのか?」




「もちろんドロップしたよ。何せそこにいるモンスターほぼ全てが、レイドボス級のモンスターだったからね。エーテリアルダークブレードもそこで手に入れたし、サルファーやオブシディアン、ミスリルといった超希少な鉱物資源アイテムも豊富にドロップした。一戦一戦が死ぬかもしれないという意味で非常にリスキーだったけど、それに見合う価値はあったって訳さ」




「もし良ければ、そこでドロップしたアイテムを後で見せてもらっても構わないだろうか?」




「いいよ、全部見せてあげる」




「感謝する。それで、そのガル・ガンチュアというエリアの出口は見つかったのか?」




「それが、何せ敵がほぼ全てレイドボス級だった事もあって、出口はすぐに見つからなかった。時には戦い、時には撤退しながらクレーターや山脈の調査にも行ったが、敵の強さもあり探索は捗らなかった。私達は、出現する敵モンスターの異常さから、このガル・ガンチュアがユグドラシルβベータのテストエリアではないかいうと疑念を抱いていた。そうなったらもう死に戻りしかないかと諦めかけていた矢先、山脈の最奥部に小さな神殿のような建物を発見した。




内部に入ると、大きな円形の輪を持ったジャイロスコープのようなオブジェクトが回転していた。そのオブジェクトに手を触れると、名称はカオスゲートとなっていた。私たちはようやく出口を探し当てたと喜び、そのカオスゲートをアクティブにして現れた転移門ゲートの中に飛び込んだ。




するとまたしても満天の星空が広がり、地面は砂ではなく石のブロックで舗装された道だった。しかし道を外れれば、ゴツゴツとした鋭利な黒光りした岩が立ち並び、さながら隕石の上を無理やり舗装したような外観だ。正面を見ると突き当りに新たな転移門ゲートがあり、その手前に左に曲がる通路があるT字路だった。その左に曲がった先には、円形状のストーンヘンジらしき石柱群が強い光を放っていた。




私たちは恐る恐るそのストーンヘンジに近づいていくと、その中心に人型をした女性のようなNPCが、強い光を放ちながら宙に浮いていた。私はこのNPCがレイドボスだった時の為に、攻撃態勢を整えたままギルドメンバーを後ろに下がらせ、硬い私が一番手にNPCと会話をする事になった。近寄ってみるとその姿は、髪は長く、袈裟のような白いローブをまとっており、顔は一つだが肩から左右3本ずつ、合計6本の手が生えていた。




正に異形と呼ぶに相応しかったが、私は身構えてそのNPCに話しかけた。するとその女性NPCは私を見下ろすとこう語った。(汝、邪の道にあらず。人を捨てた後に改めよ)と。何度話しかけてもこれ以上の事は言わなかった。そこで違うギルドメンバーが話しかけたが、メッセージも何もなく唐突に、強力な爆炎と雷撃系の魔法を周囲にばら撒き始めた。私達は大慌てでその場を退却し、T字路の突き当りにある転移門ゲートへと飛び込んだ。その先は予想通り、万魔殿パンデモニウムの入口へとワープしていたんだ」




「ふむ....攻撃されなかったお前と、攻撃された者の違いは何だったのだろうな?」




「その答えは後日検証してすぐに判明した。私はそのNPC...偽の神という皮肉を込めてフォールスと呼んでいたが、サークルズオブディメンジョンを持っているか否かで判定が変わる事を突き止めた。つまり転生の条件としてフラグが立った後に、サークルズオブディメンジョンを持った状態で再度話しかければ、何かが起こると推測した」




「そこで先ほどの始祖オリジンヴァンパイアの話になるわけだな」




「そう。その前にヴァンパイアベースのギルドメンバーが始祖オリジンヴァンパイアに転生してフォールスに話しかけたが、何も起こらなかった。私はその時点でLv132だったので、ダークソウルズを使用するのは正直かなりリスキーだったが、万が一何も起こらなかった場合を想定して、キャラを削除して1から作り直す事をギルドに了承してもらい、人間ヒューマンから始祖オリジンヴァンパイアに転生して種族Lvを15まで最大に引き上げた後、再びフォールスに話しかけた。




すると予想通り、会話の内容が変化した。(汝、これより生と死・空間と亜空間のはざまに生きる、限りなく無に近い存在となりけり。その力を持て、悠久を超えたる時空に身を委ねよ)。メッセージが終了した後アイテムストレージを見てみると、サークルズオブディメンジョンが自動的に一つ消費されていて、種族ステータスを開くと、私の種族は始祖オリジンヴァンパイアから、セフィロトという種族に転生していた。つまりは、フォールスによる洗礼が必要だった」




「セフィロト....初めて聞く種族名だが、そこまで転生の条件が厳しい事を考えると、恐らく上位種族なのであろうな」




「そうだね、ステータスのパラメータ上限も大幅にアップしていたが、アンデッドの特性も持つ事から、異形種な事には変わりなかった。種族レジストも始祖オリジンヴァンパイアのメリットを引き上げ、デメリットを引き下げたような構成だったしな。ただ、確実に強力なキャラだという事は間違いなかった」




「なるほどな。そこからキャラを作り直したという訳か」




「そう、セフィロトになった時点でクラスチェンジの項目にイビルエッジが追加されたからね。人間ヒューマンの内になれるクレリックやウォー・クレリックと言った信仰系の職業を取った後、始祖オリジンヴァンパイアに転生し、イビルエッジに必要な職業と種族レベルを極めて、セフィロトに転生。そこからイビルエッジにクラスチェンジしてレベルを上げ、装備を整えた結果が、今の私という訳」



「ミキとライルに関してはどうなのだ?」




「さっき戦いを見てもらったから分かると思うけど、ミキは魔法職寄り、ライルは戦士・タンク寄りにクラスを集めて、最終的にイビルエッジになるよう調整したんだ」




「実にバランスが取れているな。お前がヒーラー、ミキがマジックキャスター、ライルがタンクとなり、しかも全員が十分な火力を保持している。感嘆するばかりだぞ、ルカよ」




「そんなことはないさ。この世界でもユグドラシルβベータのフォーマットが生きている以上、アインズ達のレベルキャップも引き上げられているはずだ。やろうと思えば、アインズを含め他の階層守護者達のレベルも上げられるかもしれないと私は考えてる」




「なるほどな。試してみる価値はありそうだな」




「経験値を稼げそうないい場所を知っている。今度一緒に行ってみないか?かなりレアなアイテムもドロップするしな」




「ああ、是非連れて行ってくれ。それとルカ、お前はギルドに所属していたのであろう?他のギルドメンバーはこちらに来ていないのか?」




「.....ああ、来ていない。何故なら、最後までギルドに残ったのは私一人だけだったから」




「どういう事だ?」




「セフィロトへの転生、そしてイビルエッジへのクラスチェンジ...最早ゲームバランスを崩しかねない程の強さを、この2つの要素は持っていた。私達は傭兵ギルドだったが、依頼を受けて加担した側には、戦争であれ何であれ、確実に勝利をもたらした。それ故に、周囲のギルドからも徐々に敬遠されはじめ、ブリッツクリーグのギルドメンバー自体も、その強さを極めた事で飽きる者が続出していた。そうして一人、また一人とメンバーが引退していき、私一人だけがギルドマスターを引き継ぎ、最後には誰も居なくなった。そして私と、拠点内にいるNPCだけがこの世界に転移してきた。だから、他に転移してきたものはいない」




「...なるほど、理解した。妙な事を聞いて申し訳ない」




アインズは頭を下げ、テーブルに目を落とした。




「いやそんな、いいんだよアインズ。そういう意味では、お互い似通ったものじゃないか」




「そうだな、確かにそうだ。質問を変えよう。ルカ、お前達はこの世界に転移してからどのくらいの年月を過ごしたのだ?」




「....またヘヴィーな話題だね。あまり質問を変えた意味がないと思うけど」




「そ、そうか、いやなら答えなくても良いのだぞ」




「いやいいよ、教えてあげる。もうかれこれ200年以上にはなるかな」




「は?! 200年...と今言ったか?」




「そう。君は十三英雄という伝説を聞いたことはある?」




「....ああ、その話は聞いたことがある。冒険者組合の依頼の中でな」




「ではその十三英雄の中に、アインズ達と同じく2138年からこの世界に転移してきたプレイヤーがいたと言ったら、驚くかい?」




「ちょ、ちょっと待て! それはつまり、2350年から転移してきたお前は、この世界での200年前に転移し、更に私と同じ2138年から転移してきたプレイヤーも、200年前に存在していたという事になるのか?」




「そういう事になるね。つまりアインズが経験した2138年のユグドラシル終焉と共に、私達がこうして話している今の年代と、200年前に転移して十三英雄となったプレイヤーがいたという事になる。誤解のないように言っておくと、私達は十三英雄には関わっていないからね」




アインズはテーブルに乗せた手のひらを握り締めた。




「それは....驚きだな」




「ああ。本当に長い時間をこの世界で過ごした。そして一つ言える事は、十三英雄以降、ユグドラシルプレイヤーには一人も会わなかったという事だ。200年ぶりに、プレイヤーである君に出会えたというわけさ、アインズ」




「それはルカ、お前に取って良い事だったのか?」




「それはそうだよ。私はそれを目的の一つとして、今までこの世界を旅してきたんだから」




「そうか、なら良いのだが」




「今こうして、プレイヤーである君と話が出来ている事自体が、この世界では奇跡のようなものだからね。正直嬉しいよ」




「うむ、私にとっても非常に有意義な時間だ。こちらこそ感謝するぞルカよ」




「ありがとう。他には何が聞きたい?」




「そうだな。先ほども少し触れたが、お前のその異常な戦闘力は生体量子コンピュータとインターフェースによってブーストされているものだと言っていたな?」




「そう。通常の汎用ヘッドマウントインターフェースと異なり、超高速演算を可能にする軍用インターフェースを装備した状態でこの世界に転移してきたからね。今でもそれは生きていると思う」




「先程の試合の後に倒れてしまったのは、軍用インターフェースを酷使した事による脳への過負荷によって倒れてしまった、と考えて良いのか?」




「恐らくはそれもあると思う。MPの急激な消費にもよるけど、ごく短い時間気を失うという事は、過去に何度かあったよ。でもその都度ミキとライルにカバーしてもらってたから、戦闘に関して特に問題にはならなかったかな」




「なるほど、了解した。では最後の質問だ。お前たちの最終目的は何なのだ?」




「目的...か。そうだな、まずはユグドラシルβベータのフォーマットがこの世界でも生きている以上、ガル・ガンチュア及びカオスゲートもこの世界に存在していると仮定し、そこへ向かう手段を見つける事と、その先にいるであろうフォールスにもう一度会う事だね」




「会ってどうするのだ。セフィロトに転生する者を増やしたいという事か?」




「ポテンシャルの高い者をセフィロトに導くという希望はあるが、本当の目的はもっと別にある」




「というと?」




「そこから元の世界に帰る手段を見いだせないか、と考えている」




「元の世界に帰る? つまり現実世界にお前は帰りたいのか?」




「そうだ。願わくば、双方向に行ったり来たり出来るようになれば、尚良いと思っている。この世界に強制転移させられたのなら、その逆の手段も必ずあるはずだと私は信じている」




「そこに関しては、私は同調しかねるな。帰れる手段が目の前にあったとしても、私はこの世界に残るだろう」




「それはもちろん、君にこの願いを押し付ける気は毛頭ない。これは私の個人的な願望だ、気にしないでくれ。ただもし、元の世界に帰れる要素を持った情報が手に入った時は、私に教えて欲しい」




「無論だ、その時は何に代えてもお前に情報を伝える」




「....ありがとう。でもガル・ガンチュアの所在に関しては、大方予想がついている」




「何だと?! それは本当か?」




「ああ。ここより遥か南方に、八欲王の空中都市というものがある。その東にある山岳地帯の一点に、ユグドラシルβベータのガル・ガンチュアで私達が戦ったレイドボス級のモンスターが確認された。恐らくはその辺りのどこかに、固定された転移門ゲートがあるはずだ。このナザリックも探索し終わった今、私達のマップは全て埋まった。次の目的地は南方となるが、戦力的に未だ不足している。それを補充する為、まだしばらくは時間を要すると思う」




「...その戦力、私達では不足か?」




「そう申し出てくれる事に対し、本当に感謝する。しかし一度戦えば分かると思うが、ガル・ガンチュアに出没する敵はLv100を超えていても相当な苦戦を強いられる。せっかくこうして出会えたばかりだというのに、君たちを危険に巻き込むわけにはいかない。そこは分かって欲しい」




「そうか....私達も更なる精進が必要という訳だな」




「アインズ、私たちは決して君たちをけしかけている訳ではない」




「それは分かっている。しかしお前がガル・ガンチュアに向かう事と、私達の行く道のりは将来的に利害が一致しそうなのでな」




「そう言ってくれると救われるよ」




「....そう言えば今ふと気になったのだが、お前たちはアダマンタイトプレートを持っているんだったな。何故今までお前達の噂を聞かなかったのか不思議なくらいなのだが」




「ああそれは、冒険者組合長のプルトン・アインザックに頼んで情報統制を敷いてもらっていたからさ。表面的には、私達は冒険者組合を追放された事になっている。しかしその裏では、プルトンから直接依頼を受けて任務を遂行したりしていたんだ」




「何と、そういう事だったのか。組合長とも親しかったとはな」




「ちなみにプルトンは、今アインズ達に話した私達の事情を全て知っている」



「....は?!」




「フフ、もうかれこれ20年の付き合いになる。プルトン・アインザックはああ見えて、昔は(イビルズ・リジェクター)の2つ名を持つ強力な信仰系魔法戦士だったんだ。共闘したことも数えきれないほどある。あの男は強いぞ、敵に回さない事を勧める」




「全く、お前には驚かされる事ばかりだな。分かった、心にとめておこう」




「さて、私達の事はこれでほぼ全て話したと思うが、他に質問はあるかい?」




「いや、十分だろう。私もこの世界に対する視野が広がった気分だ」




「そうか。なら私から最後に一つ質問がある」




そう言うとルカは、グラス半分残ったアイスティーを一気に飲み干した。




「その....非常に聞きづらい事なのだが」




「胸襟を開くと言っただろう。何でも聞いてほしい」




「えーと....アインズはその、アンデッドだよね? この世界に転移して来た時、人間の頃と比べて体に何か異変を感じなかった?」




「異変? そうだな...まず感じたのは、自分のこの骸骨の姿を見ても違和感を覚えなかった事と、この世界の人間を殺しても何も感じなかった事くらいだな。恐らくは体がアンデッドになった事で、精神的にも変化が現れたと見ているのだが....それがどうかしたか?」




「やはりそうか....いや、何でもない。妙な事を聞いてすまない」




「何だその歯に物が挟まったような言い方は。最後まできちんと説明しろ」




「え....まあその何というか、私は女性でしょ?」




「ああ、どこからどう見ても女性だが、それがどうかしたか?」




「実は私にも、この世界に転移してきてから精神的に変化があったんだ」




「というと?」




「だから....その、私がこの世界に転移する前、つまり人間だった頃は....」




「人間だった頃は?」




「そ、その....だ、男性だったんだ」




それを聞いてアルベドとデミウルゴスが驚愕の表情をルカに向けてきたが、アインズはそれには構わず話を続けた。




「ふむ。女性のアバターを使用していたという事だな。特に問題もあるまい」




「いや、それだけじゃないんだ。アインズのアンデッド化による精神的変化のように、私も女性の体になった事によって、その....心までもが女性に変化してしまって」



「なるほど。お前はそこに抵抗を感じているという事か?」




「抵抗ならこの200年間いやというほどしたさ。でももう、抗いきれなくなって....」




「女性になる事を選んだと?」




「う、うん。ごめんねこんな話、気持ち悪いよね。さーて!話もひと段落したし、外の空気でも吸ってこようかな!」




ルカが慌てて席を立ち、ドアの方へ向かうのをアインズは制止した。




「待て、ルカ!! 話はまだ終わっていない。席に戻れ」




ルカは引き止められ、大きくため息をついて椅子に座りなおした。




「お前がその話をしてくれたという事は、私達に対する信頼と受け取ってよいのだな?」




「それは...だってこの先いろいろと協力を仰ぐこともあるだろうし、秘密は無しにしておいたほうがいいと思って。それにアインズにも、そういった変化があったかどうかを確認したかったというのもあるし....」




「ならそれで良いではないか。私がお前達に求めるのはその強大な力と、200年この世界で生きてきたという経験と膨大な知識、それだけだ。お前が男であろうが女であろうが、私達にとっては何ら関係ない。お前が女性でありたいというのなら、私たちはそれを否定しない。それでも不服か?ルカ・ブレイズ」




「アインズ様、横槍を差す無礼をお許しください。私からも一言よろしいでしょうか?」




身を乗り出したのは、ここまで黙って聞いていたデミウルゴスだった。




「良い、許す。申してみよ」




「ありがとうございます。ルカ様、顔をお上げください」




テーブルに視線を落としていたルカは、デミウルゴスに顔を向けた。




「先の戦いであなた様と戦い、そして治癒を受けたあとのルカ様の抱擁。私は忘れません。あれこそが女神の抱擁だったのだと私は今もなお感じております。それはあなたが女性として生きていくと誓ったからこそ感じ得た心境。私は、いえ私達は、そのルカ様の覚悟を尊重いたします。ですからどうか、解き放たれてくださいますよう、心よりお願い申し上げます」




「デミウルゴス....」




ルカは右手を口に当て、涙を流しながら嗚咽を堪えた。左右にいるミキとライルはそれを見て、ルカの両肩を支えながら優しい眼差しを向けていた。




「まあそういう事だ。アルベド、今までの所で何か異存はあるか?」




アインズは先程から一言も発していないアルベドを気にかけて、右を向いた。




「....いいえアインズ様。事の成り行き、全て承知致してございます」




「そうか。では会合はここまでとしよう。ルカ・ミキ・ライル、ご苦労であった。各自に部屋を用意させるので、そこでゆっくり休んで欲しい。アルベド、済まないがユリ・シズ・エントマを呼び、3人それぞれの護衛に当たらせるよう伝えてくれ」




「かしこまりました、アインズ様」




アインズが席を立つと、アルベド・デミウルゴスも椅子から立ち上がった。それを受けてルカ・ミキ・ライルも席を立つ。




「さて、もう一度聞くが腹が減らないか? ナザリックの料理長が作る食事は最高にうまいぞ」




ルカは左腕に巻かれた金属製のバンドに目をやる。時間は正午を過ぎていた。




「それじゃあ、せっかくだしご馳走になっていこうかな」




「決まりだな。デミウルゴス、3人を食堂へ案内してやってくれ。そして飛び切りの食事を用意させろとな」




「かしこまりました。それではお三方、私がご案内致します」




豪華な食事を摂った後、3人はそれぞれ広い寝室に案内され、戦いの疲れを癒す為ベッドでしばしの眠りについた。




ルカは何かの気配を察知して目が覚めた。部屋の明かりは落とされていて暗かったが、左腕のバンドについたボタンを押すと、16:53とイルミネートが表示された。かれこれ4時間近く眠っていたことになる。




気配のする方へ目を向けると、部屋の右隅にただならぬ殺気を持った黒い影が立ち尽くしている。ルカは咄嗟にベッド左に転がり落ち、ハンガーにかけられたベルトからエーテリアルダークブレードを引き抜き、立ち上がった。




身構えながら影に近づいていくと、自分と同じフローラルな香水の香りが漂ってきた。この人影には見覚えがある。




「よくも.....よくもアインズ様をたばかってくれたな....」




「ア、アルベド...なのか?」




ルカが返事を返した途端、アルベドは飛び掛かってきた。ルカは両手に握ったエーテリアルダークブレードを離し、アルベドの右腕と左肩を掴んで突進を受け止めた。




「どういうつもりだアルベド!!」




「うるさい!!お前といい”奴ら”といい、プレイヤーなど皆消え去ってしまえばいい!!」




ルカは止む無くアルベドの足をかけて体を左に捻り、ベッドの上に押し倒して馬乗りになり腕を押さえつけた。




「何の話かわからない! 私はアインズを騙したつもりはないし、全てを正直に話した。お前の言う”奴ら”というのも、私には皆目見当がつかない」




「やかましい!!どうせお前達も奴らと一緒なんだ....何がギルドだ、何がアインズウールゴウンだ....私はアイ...モモンガ様とこのナザリックが無事であればそれでいい!!それをお前は余計な話を持ち込み、掻き回した...お前など死んでしまえばいい!!」




「?? 奴らとはもしかして....」




「ああそうだ、私の創造主達だ!アインズ様は奴らがまだ生きていると仰った。その時の私の気持ちがお前に分かるか?!」




(ギリリ)という音を立ててアルベドがまた暴れだそうと力を込めてきた。ルカは止むを得ず本気を出し、アルベドの手を握りしめてベッドにめり込ませた。




「一体何があったというんだアルベド?」




「....奴は....タブラ・スマラグディナはこの世界を去る前、私にこう言った。(よくもこんなゲーム飽きもせずに続けられるよな?)と。そう言い残し、奴は私とアインズ様を置いてこの世界を去った。奴がそうならば、他の至高の御方達も同じ理由でこの世界から去ったに違いない。慈悲深きアインズ様だけが、最後までこの世界にお残りになられた。もう私達にはアインズ様だけしか...うう....」




アルベドは体を弛緩させ、大粒の涙をこぼした。ルカもアルベドの手に込めた力を緩め、指先でアルベドの涙を拭った。「そういう事だったのか」と、ルカは大体の事情を察した。



自分の創造主から投げかけられた心もとない一言。それがアルベドを深く傷つけ、人間不信に陥らせた。そしてプレイヤーであり、彼らが至高の御方と呼ぶただ一人の存在、アインズにその全愛情が向けられた。




ルカはベッドの上に横たわるアルベドから手を離し、羽毛布団をアルベドにかけて自分もその隣に横になり、アルベドの頭を撫で続けた。




「私はプレイヤーだが、NPCに対してそんな事は言ったことも無いし、これからも言うつもりはない。私もそうだが、君の主人も元をたどれば人間なんだ。人の気持ちは移ろいやすいもの、そうだろう? ただ君をこれだけ強い存在として創造してくれたという事は、君の創造主...タブラ・スマラグディナも君に対して強い愛情があったはずなんだ。でなければ、君がこんなに美しい理由が思いつかない。そして私は、君たちを絶対に裏切らない。約束するよ。もし私が裏切ったならば、君が私を殺してくれればいい」




「...ルカ.....様。 その言葉、本当に信じてもよろしいのでしょうか?」




「もちろんだ。さあ、一緒に少し横になろう。今だけは嫌な思い出は忘れて、横になろう」




そういうとルカも羽毛布団の中に入り、ベッドの中でアルベドの手を握りながら、二人はしばしの眠りについた。




ルカが目を覚ますと、隣で寝ていたアルベドは既にいなくなっていた。時計を見ると20:00を回っている。そろそろカルネ村に戻らねばならない。ルカはミキとライルに伝言メッセージを入れた。




『ルカ様』




『ミキ、ライル、待たせたな。もう起きてたかい?』




『はい、4時間ほど前に』




『そいつは悪かった。アルベドが私の部屋に来てな。少し話をしていて、またそのまま眠り込んでしまった』




『そうでしたか。私共はナザリックの他の部屋を案内してもらっておりました。オートマッピングで共有をかけておきましたので、後程ご確認ください』




『わかった、ありがとう。そろそろここをお暇するとしようか。カルネ村でイグニスとユーゴが待ちぼうけを食らっているだろうしな』




『かしこまりました』




部屋の外に出ると、両腕にゴツいガントレットをはめたメイドの女性が立っていた。




「ルカ様、おでかけでございましょうか」




「ああ、そろそろカルネ村に帰ろうかと思う。他の二人の所へ案内してもらっていいかな?」




「かしこまりました、こちらへどうぞ」




部屋を少し進んだ先は大きな吹き抜けのロビーになっており、間もなくミキとライルも現れて合流した。




「アインズはいないのか?」




「はい、今はエ・ランテルに向かわれているはずです。それとアインズ様から伝言を賜っております。またいつでも顔を出してほしい、との事です」




「そうか、わかった。そうさせてもらうよ。それじゃあ私達はここで失礼するね。アインズとアルベド、デミウルゴス、他のみんなにもよろしく伝えて」




「かしこまりました、ルカ様」




ガントレットにメガネをかけた戦闘メイド、ユリ・アルファが深々とお辞儀すると、ルカはロビーの中心に向かって魔法を唱えた。




転移門ゲート



3人はそこをくぐり、留めてあった馬車のすぐ手前まで転移した。

そして道端の雑草と水を飲んでいた2頭の馬たちに急いで干し草と新鮮な水を与えると、ルカは再び転移門ゲートを唱え、一瞬のうちにカルネ村へと帰投した。




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