第2話 初級のバトル

 商店街から住宅地を抜けて、河原にやって来た。

 とくに代わり映えのしない川べりだが、この辺りに粘液状の異様な生き物が生息してるのが見て取れる。

 わりとどこにでも見られる初級のモンスター、『ネバイム』だった。

 鮮やかな赤や黄、緑などの原色が砂利の敷きつめられた地面を染めてる。

 人間を見ると、エサにするため襲ってくるが、普段は大きめの石の裏などに貼りついた小さな虫みたいのを食べてることが多い。

 ドロドロした魔物はモンスター、俺たちの匂いを嗅ぎつけたようで、そのうちの一つの群れがこちらへ近づいて来るのが見えた。

 放っておくと攻撃されるので、早めに武器を取り出しておくとよい。

「はあ~。今日は、ザコ敵しかいないっぽいね。」

 エリカがスマホをタップして、銀色の指揮棒のようなものを何もない空間から出現させる。今では、電話機が収納ケースとして使えてしまう。

 ケータイがUSBメモリのような機能を果たしてくれるからだ。


 デジタルな情報を出し入れして持ち運びができるメモリは、何も文字や画像、音声、動画、さまざまなアプリやゲームだけに用途が限定されるわけではないことが、近年の科学で明らかにされた。

 現実リアルがゲームと構造上同じものなら、この世界すらもメモリにしまって持ち運びができるはずだ。

 それに気づいた現代の技術者エンジニアたちは、人間の脳と通信しながら物体を瞬時に出し入れし持ち運びもできる3Dメモリを開発した。この技術は、現代のほとんどの通信端末にすでに搭載されているが、ゲームにおいて3Dデータの格納場所は脳内に設定しておくことが多い。

 ゲームのデータは、あらかじめ脳にインストールしておくほうが、高速な処理が可能になるためだ。

『世界を持ち運ぶ技術』として革新をもたらした発明だが、これのおかげでゲームの利便性もはるかに向上することになった。

 現実の空間に存在させたゲーム中のアイテムを、いつでも外部の記憶装置に収納できてしまう。こんな便利な時代が来ることを、古代の人は想像できただろうか?


 銀の指揮棒をネバイムたちに向けながら、エリカは呪文を唱える。

 この棒は、いわゆる魔法の杖ということになる。

 詠唱を始めると間もなく、火が杖の先に現れて火球となって勢いよく燃えたぎった。

「このレベルの敵なら、弱い威力の魔法で十分。」

 そう言いながら、火球魔法ヘファイストを放つ。

 炎はモンスターの方向へ弧を描きながら、飛んでいく。

 それをつづけざまに3発放つと、ネバイムの群れは炎に包まれて身動きが取れなくなっていた。

「マヒロ、あとをお願い!」

 エリカに依頼され、俺はケータイを操作して短剣を空中に取り出した。

「このレベルの敵なら、これくらいの攻撃で十分!」

 粘液状のモンスターめがけて、短剣を振り下ろす。

 3匹のうち2匹はうまく急所を突いて、瞬時にデータの断片へと四散させることに成功した。

 のこりの一匹も、通常のダメージにより体力を減らされ、少し遅れてから地に伏すこととなった。

「こらーっ。私のセリフ真似しない!」

 背後から甲高い声をかけられた。

 エリカが赤く顔を膨らませて、こちらを見ている。

「いや、効率的なエリカの動きを真似しようと思ったら、自然と口調まで似てしまったらしい。故意ではないんだ。」

「口より先に手を動かしてね。その方が、効率はいいでしょ?」

 的確な反論をされてしまった。

 これ以上言い訳をしようにも、良いアイデアが思い浮かばないので何も言わないでおくことにする。

「さて。のんびりしてたら、日が暮れちゃう。能率上げてかないと。集中していくよ!」

「あ、ああ。」

 エリカは普段おっとりしてるように見えて、意外と集中力が高い。

 そして、その集中してる状態を持続できる。

 魔法使いのかけ出しの頃は、けっこうおっちょこちょいでドジばかりを踏んでいたが、コツをつかんでからは頭一つ抜けた才覚を発揮し始めた。

 平たく言うと、コツコツと決まった作業を長い時間効率よくこなせる。

 これが、エリカの第一の才能。


「マヒロ。前から気になってたんだけど、ゲームにはゲーム機とかソフトが付いてるじゃない? あと、コントローラーなんかも。この世界がゲームと本質が同じなら、現実の中でゲーム機に該当するものは何なの?」

 河原にいる初級モンスターが次々とこちらへ近づいて来ているが、エリカが体を動かしながら口も動かすという器用なことをするので、俺も慌てつつ体と口を動かす。

「えーっと。ゲーム機に相当するのは、脳だな。脳がデジタルな電気信号を処理して、プレイヤーである俺たちに映像や音声を含めた五感を知覚させているからな。コントローラーの代わりになってるのが、我々の肉体すなわちアバター。このアバターを操作して、自由に行動したり世界に干渉したりできる。ソフトはもともと、一本しかプレイできない状態なんだ。つまり、この『地球ゲーム』だな。もしソフトを入れ替えることが可能なら、俺ならとっくにファンタジーの世界か宇宙を旅する冒険に出かけてる。ちなみに、ゲーム機はコンセントで電気を送らないと動かないけれど、人間の感覚や運動も神経を伝わる電気で制御されている点は同じだ。ただ、人間の場合はエネルギーを食料や水を摂り入れることで賄ってはいるが。」

「よく分かったわ。人間は生まれながらに、脳というゲーム機を被っているんだね。でも、ゲーム機が進化していくのなら、人間の脳も進化していくはずじゃない?」

「なるほど! その発想はなかったな。しかし、進化するって言っても、ただデカくハイスペックになってくとは限らないけどな。ムダな機能を省いて、小型で軽量になってくのも立派な一つの進化だからだ。例えば、携帯ゲーム機なんかはその典型とも言えるし。」

「確かに、コンパクトで軽量のほうが省エネでコスパがいいわ。それに、エコだし。」 

「でかけりゃイイってもんじゃないんだ。デカいのが強いなら、生物の進化史において恐竜が滅びる理由はないからな。仰るとおり、コスパが悪くて環境の変化に迅速に対応できなかった恐竜たちは、進化の途中で絶滅することになってしまった。」

「コンピューターも、どんどん小さくなっていったからね。マンガのキャラだって、大抵図体のでかいやつが実はザコだったりするわ。小説にしても、薄っぺらい長編の作品よりも面白い短編はたくさんあるわね。」

「まあ……、その通りだし理解が早くて助かる。説明する俺も楽でいいよ。」

 そう言ってるうちに、エリカはすでに次のネバイムの群れを魔法で捕らえることを終えていた。


「ここらへんは、単価の高いモンスターは出ないね。回転率を上げないと、今月の生活費すら稼げないよ。スピード上げるよ、マヒロ!」

「……ああ!」

 俺たちがやってるのは、ゲームでよくある『モンスターを狩る』行為なわけである。

 従来のゲームであれば、この作業のくり返しによってレベルが上がったり、お金マネーが増えたりする。

 だが、このゲームでは経験値という概念は存在していない。

 代わりに、モンスターを狩ることで少量だがポイントが手に入る。

 俗に、SIMポイントと呼ばれているもので、これが現実リアルお金マネーに交換できる。

 このリアル・マネー・システム(RMS)により、ゲームをしながら実際にお金を稼ぐことができる。

 現実で使える、本当のお金だ。

 ゲームをしてお金を稼げるとは、ゲーマーにとっては何とも夢のような時代に思われる。

 だが、しかし……。

 ネバイム一匹を倒して得られるポイントが、1P。ポイント

 1P=1円で換算されるので、ネバイム3匹の群れを倒した報酬は3円。

 ポイントはパーティー・メンバーで山分けになるので、1人当たりの報酬は1.5円となる。

 この戦闘バトルをネバイム一匹当たりを10秒で倒したとして計30秒で終えたとすると、1分当たりの収入は3円。

 時給に直すと、180円との計算になる。

 一時間ひたすらモンスターを狩って、200円いかない。

 バイトをしたほうが明らかに効率がいいし、ゲームとはいえ現実リアルにおいてモンスターとの戦闘をする以上、けっこう身体を動かすことになる。

 そこそこ体力を使うし、ゲームを長時間つづける集中力も必要。

 何より、ゲームはたまにやる分には楽しいのだが、何時間もぶっ続けでやっていれば、いずれ飽きてもくる。

 実際、俺たちは学校終わりにこの拡張現実(AR)ゲームとも言うべきものを、週に3日、日に3時間ほどはプレイしているが、すでに作業は単調化していて最初の頃にあった感動や刺激は薄れてしまっている。

 何も考えずに淡々と作業をしてるだけの時間も多い。

 従来のゲームでもそういった傾向はあるので、こればかりは仕方のないことなのかもしれないが。



 モンスターを狩りつづけて、日が暮れかけた頃。

「はあ……。今日もこれだけ動きつづけて、大した収入にはならなかったね。」

 溜め息まじりなエリカの声が河原に響く。

「一人当たりの時給にすると、約500円ってとこか。まあ、普通にバイトでもしたほうがいいレベルだよな、これ。」

 俺も体力を消費して、それなりに疲労が蓄積している。

「一日の報酬ポイントが2人合わせて、3000円分。あたしたちが夫婦なら、ギリギリ暮らしていけそうな収入だけど……。もう少し余裕が欲しいところではあるよね。もっと割りのいい稼ぎ方を考えとかないと、今のプレイ・スタイルをつづけてくのは遠からずムリがでてくると思う。ひたすら戦闘バトルで動きつづけるのは、体力的にもしんどい部分があるし。」

「ゲームで食っていこうとしたら、そんなに簡単にはいかないだろうな。金を稼ぐのがそこそこ楽じゃないってことくらい、高校生の俺でも何となく分かるよ。」

 ネガティブな気分になって暗い話をしてしまっているが、こんなんでも俺ら二人はこの『Age of Simulated Reality(擬似現実の時代)』という題名タイトルのゲーム、通称『シムエイジ』とか『シムゲーム(死ぬゲーム)』などと呼ばれるが、その全プレイヤーの中で上位数%に入るほどの高収入プレイヤーである。

 逆に、上位数%に入る者でもゲームで得られる収入は、最低賃金のアルバイト以下の額でしかないのだ。

 それくらい、このゲームをプレイしてるほとんどの者は、稼げていない。

 ネバイムを初め短時間で倒せる初級モンスターを狩ったとしても、得られるポイントはせいぜい1~3P。

 上級レベルのモンスターを相手にすれば、もらえるポイント額も増加する傾向にあるが、それにはより長い時間とリスクが付きまとう。

 そう、設計されているのだ。

 では、ASR(Age of Simulated Reality)のゲームの中には、それだけで生活していけてるプロのゲーマーなどはいないのかと言えば、案外たくさんいる。

 上位1%以内に入る必要はあるが、そのクラスのプレイヤーは並みの会社員よりは多くの収入を稼ぎ出している。さらに、上のランクに行くと、年収が億に届きうるプレイヤーすらいるほどだ。

 実は、このゲームは開発されてからまだ、一年ほどしか経過していない。

 ゆえに、現在プレイヤーの正確な年収を計算するのは、不可能である。

 だが、すでにその水準レベルの報酬を得ているプレイヤーであれば、いなくはない。

 ちなみに、俺とエリカのパーティーはそれぞれのプレイ歴はおよそ2ヶ月ほど、チームを組んでからはまだ2週間しか経っていない。

 かなりの新参者に属するわけだが、それでゲーム内での報酬が上位数%に達してるのは、何気に異例のスピードと言える。

 なぜ、この新米パーティーがそこそこにゲームで稼げてるのかは、一応それなりの理由がある。

 まず、俺の相方でパートナーあるエリカの存在。

 綾瀬エリカは、天才肌のプレイヤーである。

 このASRで重要になってくるものの一つは、時間である。

 ネバイム一匹を狩ったところで得られる報酬は1円。(二人パーティーなら、1人当たりは0.5円になる。)これでそれなりの収入を得ようと思ったら、戦闘をひたすら何百回・何千回とくり返す必要がでてくる。

 とくに、俺らのようなザコ初級モンスターばかりを専門で狩ってるパーティーの場合、とにかく戦闘の回転率を上げるくらいしか稼ぐ方法はないことになる。

 単価の低いモンスターで利益を出すには、たくさんの回数戦闘バトルをこなさなければならない。商売用語では、薄利多売ということになろうか。

 だからこそ、エリカは効率とかスピードというものを、いつも気にかけているのだが。


 そしてこの魔法使いの娘、シムゲームにおいてはちょっとばかしおかしな性能スペックをしている。

 数多あまたあるゲームにおいて、魔法といえばお約束のように付いてくる『詠唱時間』。

 ゲームの中でもとくに目立つ魔法だが、くり出すまでに時間がかかるため、非力な魔法使いは戦士などの後ろで守られながら戦うのが常である。魔法自体の威力は大きいため、肉体的には決して強くはない魔法使いでも、貴重な戦力となれる。

 だが、俺はエリカの魔法の使い方を見て、それまでの常識をあっけなく覆された。

 彼女の魔法には、溜めがなかった。

 一つの魔法を生み出すまでの時間がほぼゼロか、またはわずかな時間しか必要としなかった。

 なぜ、そんなことができるのかと、俺は問いただしてみたが。

「べつに、頭の中で魔法のイメージを鮮明に描きながら、唱えてるだけ。」

 ということだった。

 そんなことで、魔法の詠唱スピードを上げられるとは、知る由もなかった。

 さらに話を聴くと、彼女は使う魔法の見た目のイメージから色、温度、重さ、動き、音といった五感で感じられる部分まで精細に想像してるという。

 呪文を口で唱えさえすれば魔法なんて勝手に出てくるのだが、なぜそんな面倒なことをあえてしようと思ったのか……。

「だって、詠唱するだけで出てくるって知らなかったし、何も考えずに呪文をつぶやくのも単調で楽しくないかなと思って。」

 楽しくないという理由で、ゲームの仕様にないことをムダにやってたわけか。

 ゲームの基本を知らないようだが、だからこそ常識破りな着想で新たな魔法の使い方を発見できたとも言える。

「呪文って言葉に過ぎないから、一次元の情報でしかないよね。日常で言葉では伝わりにくいことって、けっこうあるんだよ。だから、そこにイメージや質感や重さなどの情報を想像でも付け加えれば、もっと早く高クオリティの魔法が出せるって、普通は思うんじゃないの? ゲームはともかく、現実リアルの感覚から言って。」

 エリカの発想は、ゲームの基本や法則には囚われてない。

 そもそも知識がないのだから囚われようがないが、普段の日常感覚をゲームの中に持ち込んで、結果的に普通じゃないことをしてしまってるのだ。

 さらに、シムゲームは従来の二次元のゲームとは異なる部分も多い。

 五感をともなう現実を拡張したゲームという点では、ゲームの常識が当てはまらないことも、当然ありうるのだ。

 むしろ、ゲームはそれまでの古いあり方を捨てて、現実に近づこうとしてる。

 そんな中、エリカは従来のゲームとは違った日常的な視点から、新たな魔法詠唱スタイルを確立するに至った。

 同ゲームのプレイヤー間でもたまに噂される『高速スピード詠唱のエリカ』が誕生したのだった。

 ゲームを開始して2ヶ月ほどだが、獲得報酬ポイントが上位数%に食い込みちょっとした有名人にさえなったエリカの原点は、この独自の詠唱方法にあった。

 その上、エリカは想像力に長けていた。

 自分が出したい魔法を五感でありありとイメージする際の、完成度が高くてしかも速い。これが彼女の第二の才能。

 エリカの発見によると、このイメージの完成度によっても魔法の威力は大きく変わるらしい。時間をかけてイメージを作り上げれば、その分威力の高い魔法を生み出せる理屈だが、エリカの場合一〇〇%の完成度で魔法を撃つことはあまりしない。

 大体、七〇%ほどの完成度まででイメージを作り、それをさっさと撃ち終えたあと、また新しく次の魔法のイメージを作り始める。

 そうする理由は、一〇〇%を目指すとやたら時間がかかってしまうからで、七〇%くらいを目指せばわりとすぐにイメージができ上がって、集中力も長く持続できる。

 つまり、コスパが良い。

 そういう割り切りができるところも要領のよさを感じさせるが、もともとは彼女自身一〇〇%を追求しないと気がすまないという完璧主義者だったらしい。

 勉強でも料理でも、一〇〇%を目指さないと気になって気持ち悪くなってしまうため、いつもやたらと時間をかけて丁寧にやるのだが、それでは結局時間ばかりかかって体力も集中力も消耗するため、日々持続することができなかった。

 自分の限界と人間であるゆえの不完全さを知ることになり、衰弱していた彼女は完璧であろうとする自分を捨てた。そうする以外にはなかった。でなければ、いずれ病気になってしまっていただろう。

 エリカは、勉強でも料理でもゲームでも完璧を目指すことをやめ、自分を大切にすることにした。

 結果的に、学校での成績を維持したままゲームではそこそこの収入を稼ぎ、趣味の料理にも時間を割けるというコスパの良い生活スタイルを得るに至った。

 彼女曰く、

「勉強も料理も想像力を使うから、こういうのを一生懸命にやることはゲームにも活かされてくる。無駄になるということはない。」

 ということだった。

 独自の詠唱スタイルを開発した彼女の言葉だけに、説得力はある気がする。



 日が暮れた川沿いの道を駅に向かって歩きながら、今後の活動予定についてだらだらと話す。

 互いに自分から進んで話をする種類タイプの人間でもないが、かといって無口でもないのでくだらない雑談などもする。

 駅でパーティーを解散し、エリカは電車で一駅のところにある自宅へ向かう。

 俺は歩きで自分の家へ帰る。

 駅に寄ってから自宅に向かうのは遠回りのルートになってしまうのだが、いつも帰るのは日が沈んだ夕方以降であるのもあって、女子高生を途中まで送ってくようにしてる。

 何も紳士ぶってるのではなく、あくまで自分のためだ。

 独特な才能をもつパートナーと信頼関係を築いとく意味もあるし、恩を売れるところで売っとく計算もあった。

 ビジネス的な考えになるが、彼女の資質は実質利益を生むので、俺はお客さんに相対する給仕のウェイターように彼女には親切に接するのが、自分のためになることを理解してる。

 その割りには、普段からエリカを雑に扱ってるので、帰宅する時くらいは貴賓きひん扱いをしても損はしないだろうと考えている。

 こんな風に、高校生のうちから自分で収入を得ていることは。周りから見るとわりかし立派なことのように思われるのかもしれない。しかし、俺の場合は単に他のやつが受験や資格の勉強をして将来の対策を立ててる時間に、バイト感覚でゲームをして遊んでるだけなので、家族からはあまりよく思われてなかったりもする。

タワーマンションの一室の扉を開けて中へ入ると、ちょうど母親が夕食の支度をしてるところだった。

「あら、マーちゃん。今、帰ったの? 遅かったじゃない。こんな時間まで、どこに行ってたのよ?」

 我が家に、門限などというかた苦しい決まりはとくにないが、夕飯時まで帰らないとどこで何をしてたのかくらいは訊かれる。

 家族には、『ゲームに関係するバイト』と言ってあるが、それでも学生なんだからアルバイトなんかしてないで、将来のことをもっと考えておくべきだというような内容の話はしょっちゅう聞かされる。

「アルバイトもいいけど、大学はどうするの? ちゃんとお勉強もしなくちゃ、将来自分が困ることになるじゃないの。」

 外でエリカに説教されたようなことを、今度は家で母親に注意される。

 将来の安定を考えるのは間違ってないのだろうけど、今という時代は革命の真っ最中でもある。

 これまでの常識は崩れ去り、社会に新たな思想が置き換わりつつあるのだ。

 物質を基本とする世界観から、精神が主体となる価値観へと時代は移行した。

 ゲームは世界の一部ではなく、この世界そのものがゲームの原理で創造されたことが明らかになり、さらにあらゆるものの本質はデータであって、不完全な人間の肉体もまた実体のないアバターであることが分かった。

 この事実が広まった世界で、人間はもはや生活のためにあくせく働くことをやめようとしていた。ゲームの中でまで働く者が、いったいどこにいるというのか。

 食うために金を稼ぐという時代から、遊んで金を得る社会へと世界は進化を遂げた。

 楽しむために生きる。

 心が中心であり、心を満たすために自分の生き方を選ぶ。

 大事なのは肉体でなく、心。

 物質よりも精神のほうが、上。

 そういう思想が、世界に拡散しつつあった。

「勉強はちゃんとやるよ。今日、友だちにも同じことを言われてきたところだしな。」

 そう答えると、母親も見るからに明るい表情になったので、俺は少し陰鬱な気分になった。

 べつに勉強が嫌いとかいうわけでもないのだが、何の役に立つのか分からないことをがんばるのは、モチベーションが湧かないのだ。

 将来役に立つかもしれないからと、自分を納得させることはできるんだろうが。

 いつか役に立つかもしれないってことは、もしかすると役に立たないかもしれないってことだ。

 そして、少なくとも今は役に立たない。

 俺は今、自分を自由にする力が欲しい。

 寝る前に、エリカからメールが来た。


 明日、いっしょに勉強をしましょう。


 なぜだ?

 母親からも友だちからも、どういうわけか束縛されている気がしてならない。

 俺はいつになったら自由になれるんだろう?

 なんで、人生とはこうも面倒くさいものなのか?

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