9.3 イフの森

 機体の中枢コンピュータ内部のイメージは普通何らかの建物なのだが、どうも違っていた。足元に落葉がある。森だ。あの夢に出てきた場所に似ていた。昔の自分と話した時の夢。でも全く別の場所に感じられた。木の幹が太く、頭上の枝葉も茂っている。隙間から青空も見える。しかし木陰は決して明るくない。そしてそのイメージ自体が夢とは比べ物にならないリアリティを持っていた。夢が白紙の真ん中にモチーフだけを描き込んだ絵だとするなら、今私が感覚している世界は紙の縁の際までびっしりと描き込まれ塗り込まれた写実絵画だった。しゃがんで乾いた落葉を手に取ると手の中で擦れてぱりぱりと音を立てながら砕けた。指の上に粉になった落葉の破片や小さな土の粒がざらざらとした感触になって残った。両手を払う。落葉を掬った下には湿った土があり、ワラジムシや小さなクモがいそいそと別の物陰を探して散らばっていった。

 顔を上げる。その時何かが目に入った。幹や落葉の絨毯の上で細かな光の斑点が風に合わせて揺れていた。

 光る。いや、木漏れ日ではない。もっと鋭い光。

 また光る。何か細長いもの。線。テグスが木々の間に張り巡らされている。それが私がかつて編んだプログラムの像なのかもしれない。私は槍を握っている。なぜ槍? もしかしてリリウムが使った屑鉄のイメージだろうか。柄を短く持って穂先を翳してみる。きちんと研いである。鋭い刃物に特有の重たい気配を纏っている。

 一度目を瞑って私に繋がっている六機をイメージした。周りで落葉を踏む音がかさかさと聞こえる。目を開ける。六頭の狼が私を囲んでいる。ある者は座り、ある者はぐるぐると周りを歩いている。彼らは筋の通ったヤクザのように忠実に、そして静かに息巻いて私の指示を待っている。

 私は自分の手を見下ろす。それは人間の手だ。狼の前足ではない。私は一頭一頭の額に鼻をつけて撫でながら匂いを嗅いだ。ほとんど何も感じない。たぶん私と同じ匂いがするということなのだろう。狼たちは私の一部だ。他者ではない。

 私と狼たちは手分けしてテグスをぷつりぷつりと切断して回った。木々の幹の向こうに走り回る狼たちの姿が見えた。風圧で毛並みが揺れ、蹴り上げた落ち葉が舞う。私も急ぐ。ところどころ密に張り巡らされている一角があって、槍の柄を長く持って振り回すと効率的だった。

 そして私は異質な構造物に行き当たった。最初はそのてっぺんに近い部分の輪郭が木々の枝葉の間に見え隠れしていた。空の青とは違う、人工的に削られた石の質感だった。もともと白かった岩石が長年の煤の堆積によって薄黒く汚れていた。やがて木々が開け全体が現れる。古い石造りの物見櫓のようだった。チェスの駒のルークといえばいいだろうか。周囲を一周する。もともとそれは周りの木々よりもずっと高く聳えていたのだろうが、今では樹冠に追い越されてほとんど日も当たらなくなっていた。

 ルークの外壁をぐるりと回る。出入口は見当たらない。窓もないし内側に空間はないようだった。外壁に屋上へ上がるための石積みの回り階段がついているだけだ。その螺旋が地面に接するところで大きく崩れていきなり腰丈くらいの段差になっていた。見上げる。屋上の縁が崩れて直撃したらしい。上の段がしっかりしていることを確かめ、少し勢いをつけてやや三角飛びのように上に上がった。狼たちは下に残していく。

 屋上には金床のような形をした天面の平らな石があって、その上に子供の私が寝かされていた。夢の中の私の姿と同じだ。私がリリウムを過去の自分自身に重ねたからそのイメージが投影されているのだろう。リリウムを殺すことは自分自身の過去を殺すようなものなのだ。もちろんそれは私の感じ方であって事実ではない。だが目の前にあるものは、それが変換・翻訳されたイメージであるにしても事実だ。そこにはリリウムの核のようなものがある。

 リリウムは死んだように柔らかく目を瞑っていた。それは茨に囲まれた眠り姫を思わせた。私はその胸に槍の穂先を突き立てなければならないはずだ。もちろん気が進まなかった。そのままそっとしておきたいような気がした。けれど私の意識の中に入り込んでいるそうした躊躇いこそがリリウムの最後の抵抗なのかもしれない。槍の穂先を下に向ける。切っ先が胸の間に触れる。肌は柔らかかったが刃はなかなか入っていなかった。固くこわばったものが中で刃をしっかりと受け止めて押し返そうとしているみたいだった。

 それでも私は力を込める。赤い血液が切っ先で玉になり、すぐ表面張力が耐えきれなくなって流れ出す。穂先の半分ほどが突き刺さって止まり、脈動が槍の柄まで上ってきた。

 脈は次第に弱くなっていった。


 ことを済ませて顔を上げると、向かいの壁に女がいた。壁に寄り掛かって膝のところで脚を交差させている。その分前になった足の踵が浮いて爪先が内側に向いている。襟の広いブラウスにハイウエストのライトグリーンのタイトスカート。長い髪。白百合のように清楚な女だった。

「おまえがそんなところにいる必要はなかったはずなのに」と彼女は言った。私に言ったのだ。

 聞き覚えのある声。

 誰?

 ……いや、私だ。

 歳上に見えたが、単に格好のせいかもしれない。私であることに変わりはない。でも、なんだろう、何かが決定的に違っていた。

 何が?

 ……肉付きだ。

 私は気付いた。私には筋肉がある。決して隆々じゃないが毎日のトレーニングの結果だ。相手にはそれがなかった。一切筋張ったところがなく肩も腕も細い。全身がほっそりしていた。そのせいで少し背が高く、大人びて見えたのかもしれない。

 そしてその姿は私の幼い記憶の中にある、まだ若い頃の母親を想起させた。似ているのだ。今まで現実の自分を鏡で見て母親に似ているだなんて一度も思ったことはなかったのに、今目の前にいるこの女は私の母親に似ていた。どう否定しようとその感覚は強まる一方だった。

「必要なんてない」私は答える。

「そうかしら?」

「好きでやってる。私は私の人生を恨んでない」

「なら仕方がないわね」彼女は体の後ろに隠していた手を前に出した。その指はブックマッチを優しく掴んでいた。

「お前はどこから来たんだ?」私はマッチを受け取りながら訊いた。

「そしてどこへ向かうのか」と彼女は言った。「いいえ、どこにも行かない。わかるでしょう? 私はただここに生じただけ。一時的に、ね」

 私とリリウムの作用によって、ということだろうか。

 私はルークを下りる。階段の崩れた根元の部分を飛び越え、少し離れてルークの上を振り向いた。クラウンギアのような石造りのぎざぎざの間から女が手を振った。といっても顔の横に掌を出して何度か指を揃えて折り曲げただけだ。彼女はくるりと後ろを向くとそのまま消えてしまった。ぎざぎざの陰に隠れてしまったわけではない。彼女がうっすらと消滅していく様子は私のところからきちんと見えた。ただ完全に消滅してしまったかどうかが確認できないだけだった。もう一度あの階段を上る気にはなれない。

 狼たちが私を囲んでいた。ブーツの先で足元の落ち葉を少し掻き分ける。やはりからからに乾いていた。マッチを一本切り取って着火し、少し火を大きくしてから落とした。狼たちを先にルークから遠ざける。火は次第に燃え広がり、やがて森全体を包み込んだ。その炎はルークの石を加熱し、罅を入れ、やがて全体を破壊した。その塔は屋根の近くから内側へ向かって崩れ落ちていった。


 リリウムの中枢コンピュータの制御領域に感覚を伸ばしてあらゆるプログラムファイルを削除する。その処理は分配器を介して各機のコンピュータに分散した。いくつかのファイルが私の操作をブロックしたが、私は何度も試行を繰り返してその防壁を破った。

 押さえ込んでいた五機が抵抗を受けなくなる。放してもリリウムは動かない。

 全機を周りに立たせ、しばらく様子を窺う。

 動かない。

 そういえば投影器のケーブルは既にリリウムに接続されている。他の機体に気を取られていたけど、動かせるはずだ。モードを出入力に合わせてちょっと集中する。機体の感覚が流れ込んでくる。今の戦闘でかなり傷んでいたがかなり隅々まで動いた。ゆっくりと立たせ、その場で旋回させる。長らく放置されていたせいで関節が全体的に固い。でもそれは他の機体と同じだった。同じなのだ。全く変わらない感覚で動かすことができた。

 私の動かしていた機体がどこかしら折れたりへこんだりしているのに対して、不思議なことにリリウムの機体はほとんど傷ついていなかった。肘が片方極まっているだけ。美しいプロポーションも全くそのまま。でもそれでいて表面的にはわからないところで決定的に破壊されているのだ。元のままではない。それはやはり檜佐の状況を思わせるものだった。私が派遣から戻ってきて初めて見た、いかにも健康そうな檜佐の姿だ。

 それも一つの死なのだろうか。

 生命そのものの死ではない。質的に異なっている。一人の人間が死に、その姿や声が永遠に失われるわけではない。そこまで完璧な死ではない。いうなれば生命が過去に残していく像の死だろうか。故人も人の記憶の中に生き続けるという、その記憶のことだろうか。

 でも今は駄目だ。もうこれ以上考えられない。

 全ての肢機を停止する。エンジンやモーターの音が空間の一点にゆっくりと収束していくように消え、空間の外縁から静寂が訪れる。静寂は取り残されたいくつかの小さな残響も包囲して覆い隠し、やがて空間全体を満たした。あとには反動のような耳鳴りだけが残った。

 そして私は猛烈な眠気に襲われた。眠気と表現するのが正しいものかすら怪しいほどだった。プレス機で圧縮されたように高密度で重い眠気が天から降ってきて私の意識を一瞬で押し潰した。客観的にはそれは気絶なのかもしれない。それでも私はかろうじて地面に膝と手を突いて体を支えた。それから横になった。おそらく活動レベルを上げていた脳のクールダウンより先に脳の血流が落ちてしまったのだろう。


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