8.11 九木崎と樺太電信

 外へ出ると夕暮れが近づいていた。そして私たちは川原と会った。彼は路駐した黒い車の後部座席で待っていた。

 その後も何度か政府の老人たちと面会することになるのだけど、彼らの中で私に話しかけたのは川原だけだった。だから覚えているのだ。白髪交じりなりに食パンのようなこんもりした髪をして、古風なメガネをかけ、グレイのスーツを着ていた。それは電算業務を一手に引き受ける三流企業の課長を思わせる格好だった。でも川原は樺電の社長だった。樺電は海底ケーブルや電話用のアンテナといった通信インフラの製造から保守まで一手に引き受ける国際企業であり、環太平洋の北半分で高いシェアを誇っていた。九木崎がゲーム機メーカーの一研究室から投影器と肢機の研究の専念に転じたのは樺電の出資がきっかけだった。情報部というのは要は諜報部門だけど、九木崎の研究の性質に照らして、フィリスのような敵対組織の活動、他国、他企業によるスパイ行動を排除するために常に数人が九木崎側に派遣されるようになっていた。ただ私のケースで明らかなように、その管轄は極めて限定的なものだった。私達子供にとって彼らは守衛のような存在に過ぎなかった。

 川原と会ったのは政府の施設ではなかった。どこかのレストランだった。パンのたくさん入ったバスケットを抱えてウェイターがホールを巡回していて、好きなだけ好きなパンを食べることができた。

「君は肢機に乗るのが好きか?」

 私は目を上げて川原の顔を見た。自分に対する質問だと思わなかったのだ。でもその質問は内容的に私に対するものでなければ変だった。女史は肢機に乗らない。

 川原が私を見てもう一度同じように訊いたので私は頷いた。

「これからも乗り続けたいと思う?」

 私はまた頷いた。

「君はとても優秀らしいね」

「私より上手く乗る子もいるよ」

「でも君は安定している。体調や気持ちによってパフォーマンスがほとんど変化しない。いつだって最高の状態で機体を動かしている」

「生身が動かなくても、機体は大丈夫」

「今のテストチームを拡大するような形でより幅広い機体を扱う集団をつくるのは有意義だし、意欲のある子供たちを活用する場としても有用だよ」

「ガレージが広くなるってこと?」

「その通り」

「その言い方はペテンだ」と女史が口を挟んだ。

「しかし君はまずいことをしたね。いや、樺電の立場からは何とも言い難いが、九木崎にとっては難しい局面になった」

 私は妙な感じがした。でも今回の事件を好機と捉えている人間からそういう話を聞けるのは悪くない、悪くないな、と思った。それは悲観でもヒステリーでもない冷静な分析だった。

「九木崎は樺電からの出資をセーブしていたんだよ。出資ってわかるかな」

「経営資金を出すってことでしょ?」

「そう。難しい言葉を知ってるね」

「最近よく聞くから」

「ほほう、それなら仕方ない。実はね、九木崎は政府や軍からもそういう話をもらっていたんだ。でも拒んでいた」

「肢機を戦争に出したくなかったから?」

「それもあるし、もっといえば君たちを戦争に出したくなかったからさ」

「軍隊にいるからって必ず戦争に行くわけじゃないし、軍隊にいなくたって戦争に巻き込まれることはあるでしょ」

「そう。でも一つの国の中で真っ先に戦争に行くのは軍隊だし、軍隊の中にいたらそれを拒むことはできない」

「私は別にいいけど」

「軍隊にいたら君自身は肢機の研究はできないかもしれないよ」

「それは困るかも」

「それに、だ。君たちが積極的に軍隊に入るにしても、あまりそれがまとまった数になるとよくない。新聞やテレビは軍隊に入れるために子供を育ててるんだと思っちゃうからね。まあ、新聞はうちもやってるな。うちの新聞に関してはもっと頭のいい人たちが作っていると思うんだけど」

「馬鹿ね」

「まあ、そんなものだね。大人っていうのは、そんなものだよ。それで今回、国としては、国とうちと九木崎の出資比率を四対五対一にしようと言ってきた。半分は持たないというんだ。何かまだひとまず指先をつけてみたってだけの具合だね」

「恐いんだね」

「そう。何が恐いのかわかるかな」

「私でしょ」

「そう。君であり、これからの九木崎の子供たちだ。彼らは君たちの可能性と利用価値を見込み、片やその反逆に慄いている。それは譲歩だ。君は彼らに一種の脅迫を与えたんだな」

「国の圧力はこれからも増す一方だろうし、この機にその要請を容れるのは九木崎としてもベターな選択だったよ」女史が言った。

 女史は川原に敬語を使わなかった。今まで会ってきた役人や政治家たちには敬語を使っていたから、それは少し妙な感じがした。彼女はまるで自分のじいちゃんと話すみたいに川原と接していた。

 川原はウェイターを呼び止めてクロワッサンばかり三つほど皿に取った。あとで知ったことだけど川原はクロワッサンが大好物だった。

「でも自分がいいことをしたとは思えないな」私は言った。

「そう? 君は彼らを誅さなくてはならないと思ってやったんじゃないのかな」と川原。

「誅さなくてはならない?」

「ええと、天罰を下すってことだよ」

「ああ。そう、そうだけど、そういうことじゃなくて、九木崎にとって、いいか、悪いか」

「なるほど。そういうことなら、いいこともあるし、悪いこともある。いいか悪いかでは評価できない出来事だったろうね。強いて言えば、『楽ではなかった』」

「確かに、楽じゃない」女史が言った。「でも責任重大な物事を行う時っていうのはいつも楽じゃないものなんだ。だけどひとくくりに楽じゃないことといっても、面白いこともあるし、単に面白くないこともある」

「そうすると、今はどうなのかな。面白いのか」と川原。

「難しいな。ただ、一番面白くないのは、私と私の夫の間に間宮海峡が挟まることだな。あれはいくら何でも当てつけだ」と女史。

「人事としてはまっとうだと思うがね」

「何とか国内で見つけられなかったのかな」

「いかんせん狭すぎるし人も多すぎる。山奥の施設というのは都合が悪い。樺太ならほとんど完全にそれで一つのコミュニティを形成することができるし、樺電として管理もしやすい。ロシア政府は外人が外人を集めて内輪でやっていることに口出しはしない。国民ではないからね。ところで、そうそう、博士氏は出てこないのか」

「研究熱心だから」

「ほほう。ごたごたが片付いて、禁断症状の処理というわけだね。君も案外亭主関白だよ」

「あら、いまさら?」

 私はその時、私の母親が生きているのと、死んでいるのと、どちらが面白くないだろうかと考えていた。死んでいる方が面白くないってことも、もしかしてあるのだろうか。あるとしたら、それは……。


 その夜はホテルに泊まった。女史と相部屋だった。というか私は子供で、保護者の部屋に一緒に泊まるのでなければ鍵を渡してもらえなかった。私は子供だった。

 東京を訪れた数日の間同じように寝泊まりしていたわけだけど、それは私が人生の中で九木崎女史と最も親密に過ごした数日間だったかもしれない。女史はベッドに座ってブラシで私の髪を念入りに梳かし、毛玉を屑籠に放り投げたあと、自分の顎の下に私の頭を抱き寄せた。

「碧、私の大事な碧、私の可愛い碧……」女史は喉を鳴らすような具合に呟いた。

 彼女が彼女じゃないみたいだった。普段の女史のイメージとは全然違っていた。

 私にまともな母親がいたならこんな感じだろうか。

 でも私の本当の母親だってきっとそんなふうに私を呼んだことがあっただろう。

 そこに有意な差を見出すことはできなかった。

 そしてなんとなくわかった。女史は千歳になんか行きたくなくて、でもそれを私のせいなんかにしたくなかったのだ。

 私を恨まないという決意の裏返しがその呟きだった。

 私は誰かを恨むことで結局のところ一番恨まれてはいけない人から恨みを買いかけていた。

 その気づきは私の中で次第に重たい戒めに変わっていった。

 

 しばらくして諏訪に肢機をつくるメーカーの技術者と国の技術者が集まって新しい肢機の設計が始まった。

 そうして出来上がったのはガゲアという肢機だった。プロトタイプ肢闘と言ってもいいかもしれない。見かけは――形だけはリリウムにそっくりだった。でも色は黒っぽい緑色で、材質は大部分が金属だった。カーボンやプラスチックはあまり使われていない。材料コストと修繕費をカットするのが目的らしかった。あとは内面的な見直しをしてずいぶん造りやすくしたようだった。

 そのせいでガゲアはリリウムの一・五倍くらいの重量になって、プロポーションの美しさも細部の優美さも失っていた。リリウムの軽快さはもう見る影もなくなっていた。

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