6.2 自らに帰せ

 私も工場に戻る。檜佐機の背中の上に九木崎女史がしゃがんでハッチの中を覗き込んでいた。

「気分は?」女史が訊いた。

「とても混乱しています」檜佐は投影器の接続を外して顔を上げる。

 女史は手を差し入れる。

「大丈夫です。必要ない。でも私はここから離れた方がいい」

 女史が離れると檜佐は自力でハッチから這い出した。外から天蓋を閉め、ゆっくりと機体を下り、地面に倒れるようにして息を整えることに集中した。頭の中のことを整理しているのかもしれない。とても色々なことが頭の中にあって全く収集がついていない。一瞬ごとに別の事柄がフラッシュしている。そんな感じだろうか。私も近寄って様子を確認した。

「大丈夫、全て終わった」檜佐は私の顔を見上げて答えた。

「葛藤だよ。内的なフラクタルが起きているんだ」と九木崎女史が言った。女史はコートを脱いで丸め、それを枕に檜佐を寝かせていた。

 医師が脈を取ったりあちこち熱を測ったりして軽く診察したあと、檜佐は体の左側を下にしてしばらく目を瞑り、五分ほどしてから起き上がった。その時にはもう息も落ち着いていたし、顔色もよくなっていた。自分の機体を見上げ、耳を澄ませ、それがきちんと眠っていることを確かめた。



 部屋に戻る。檜佐はエルトン・ジョンの『エンプティ・スカイ』をCDデッキに入れてかけている。私がソケットの掃除をしてやる。私がベッドに深く座り、膝の上に檜佐が胸を押しつける。蓋を開いて綿棒で拭う。

「記憶って他人の経験なのね」檜佐は私の膝の上で言った。

「え?」

「私の経験と、あっちの経験と、時間的に加算するところがあるはずでしょう。でもどちらも同じくらい自分のものであるような気がしているの。それが同時に起きたことだというのを上手く理解できないのね。人間の脳っていくつかの記憶を同時に思い出す、というか再生できるようにはできてないのよ。思い出すのは中身であって、いつ、誰が、という部分じゃない」

「ああ、そういうこと」私は納得した。

「こういうふうに考えるのってあんまり人間的じゃないよね」

「人間的って?」

「私、まだ人間なのかな」

「人間に条件があるとしても、それを満たそうとする努力は生き物としてナンセンスじゃないかな」

 檜佐は気持ちよさそうに息をつくった。かなりセクシーな声だ。「でも、なぜ救ったのかしら、私は」

「機体の中の、つまり、あっちを?」

「見捨ててもよかったはずじゃないの」

「呼ばれたからだよ。呼ばれたら放っておけない。そういう人間だよ。檜佐エリカは」

 檜佐はちょっと俯いた。まだ何か考えているみたいだった。

「私たちは潜っている状態の方が本質的なんじゃないかな」檜佐は言った。

「体がなくてもいいということ?」

「そう。私には体がある。だけどそれはあっちの私に対する優位にはならなかったと思う」

「そうは言っても私たちははじめに肉体を持って生まれてくるものだよ」

「電子的にはソケットをつけられた時に生まれたのでしょう。だとしたら誰もがそれぞれの生きる世界に従って分裂していく可能性を秘めているわけで、だとするとこうして生きている私たちの方が例外的な存在なのよ。潜ることに適応できなかった多くの仲間が死んでいった。だけど、それは単に肉体的な死であって精神の死ではない。単に二つの世界を行き来することに耐えられなかったから、向こうに命を渡してしまったということではないの? そしてそれはこちら側からだと単に消えてしまったように見えるだけではないの?」

「死ななくても二度と潜れなくなる奴はいるね。そういうのって向こうの世界からは消えてしまったように見えるのかもしれない」

「そう、どちらかを選ぶ。両方というのは荷が重いから。私は橋から落ちかけたのよ」

「橋?」私は訊き返す。

「川に落ちたらどちらかの岸まで泳がなきゃいけないでしょう?」

「泳ぎは得意だよ」

「そう、あなたはね」

 檜佐は起き上がってレポート用紙に今の会話を書き起こした。私が綿棒の筒を洗面所に仕舞いに行くと、「碧、しばらくここにいてくれない?」と言った。

「ここ?」

「この部屋。できればこっち側」と言って檜佐はダイニングと寝室の間のあたりを手で示した。壁や扉といった仕切りがあるわけじゃないが、そこで部屋の形が変わっている。水回りの分手前側の方が幅があるのだ。

「構わないよ」私は答えた。

「ごめん。まだ一人だって感覚が安定しなくて」

 檜佐はメモが済むとパソコンを開いた。タリスのデータベースからテキストファイルを呼び出した。機体コンピュータの中に居た檜佐の像とのやり取りを記録したファイル。それをコピーしてワードに貼り付ける。行間を開けてコメントを書き込んでいく。檜佐自身の感想を付け加えていく。タリスは檜佐の様子を観察することはできる。でも心を読むことはできない。檜佐はその作業を一時間くらいかけて終わらせた。その間にした他のことといえば、止まった『エンプティ・スカイ』をケースに戻して仕舞っただけだ。書き上げた文書を最後に印刷した。プリンタは共用のリビングにあるので個室を出ないといけない。二十文字を四十行の二段組みで二枚と少し。結構な量だ。それを二部。片方はホチキス留めしてデスクの上に置く。もう一方はパンチで穴を開けてファイルに通しておく。ついでに手書きのレポートの方も一部コピーして写しをホチキスの方につける。

 私は檜佐がレポートを書いている間ベッドの上に座って携帯電話で橋をつくるゲームを探していた。色々あったけれど、物理演算がきちんとしているのをひとつ選んでやってみた。実際の橋の構造がなぜ合理的なのかわかるのがなかなかよかった。ひとつの橋を建てるのにとても時間がかかるのだ。おかげで檜佐がレポートを印刷しに行くまでに三つしか橋を架けられなかった。

 檜佐は私のベッドに腰を下ろす。私の左隣。その時私は橋の設計で背中が疲れたのでベッドの端に仰向けになっていた。足は下ろしたままだ。携帯を持ち上げて顔の上に掲げていた。

「持っていかないの?」私は訊いた。

「だめだめ。眠いの」

 檜佐は私の腰に手を回す。左手は上から、右手は私のウエストとシーツの間にぐりぐりともぐってくる。体温が伝わってくる。彼女の手は眠気のせいかかなり熱かった。

「安心」と彼女は呟く。

「どうして?」

「あなたは私じゃないから」

 そう言われてここ数日檜佐が私にぺたぺた触れてきた理由がきちんとわかった気がした。単に不安を紛らわせるためにやっていたわけじゃない。自分と他者の境界を見定めようとしていたのだ。

 私は頭の上に携帯を下ろした。ずっと持ち上げていたので腕がだるくなってきたし、檜佐のせいで体勢を変えるわけにもいかなかった。

 しばらくすると寝息が聞こえてきた。とても満ち足りた寝息だった。

 二十分ほどして誰かが部屋の扉をノックした。私は一度大きく息をして首を持ち上げる。

「賀西だ」扉の向こうの声が言った。

 私は返事をしない。ゆっくりと首を動かして檜佐の顔を見る。よく眠っている。全然どこにも力が入っていない。唇の間から微かに空気の通る音が聞こえていた。

 私はイライラ棒のようにゆっくりと檜佐の手を持ち上げ、そのまま肘で体を支えて背中を浮かせ、少しずつ横へずれた。檜佐の手の位置が変わらないように脚にかけていた毛布を両手の間に挟み込んで、手を下ろす。

 その手が少し動いた。軽く握り、また開く。手の中のものの感触を確かめているようだ。でもそれは檜佐が確かめているというよりも、檜佐の手が勝手に確かめているだけだった。私はもう一度檜佐の様子を注意深く確認した。よく眠っている。顔のどこにも力が入っていない。唇の間から微かに空気の通る音が聞こえていた。

 ゆっくりと静かに扉を引く。戸口から三十センチほど離れて賀西が待っていた。作業服のままだ。水の中を覗き込むサギのようにじっと首を傾けていた。

「眠ってる」私は扉の隙間から小さな声で答える。

「そうだろうと思った」賀西も小さな声で言った。察していたから追加のノックをしなかったのだ。「どうしようかな」

 私はするっと扉の向こう側へ出た。後ろ手に扉を引く。でも完全には閉めない。閉めたらドアノブかラッチが音を立ててしまう。

「ある意味では、檜佐が生きている、生き残ったというのは、今この時になってやっと言えることなのだと思う」私はやはり小声で言った。

 賀西は何度か頷いた。私の横をすり抜けて部屋の中へ入る。扉の縁を持ったまま私の方を振り向いた。私は部屋の外からドアノブを掴んでゆっくりと閉めた。完全に閉める。ドアノブをゆっくりと下ろし、扉を手前に押し付け、ドアノブを戻す。大丈夫、大した音じゃない。

 居間にいるのは石黒のおやじだけだった。石黒はダイニングテーブルに織部の器をいくつかとその箱や包みを広げて集中していた。私はソファの真ん中に座って背凭れに体を預け目を瞑った。檜佐の眠気がうつったみたいだった。頭の中で羊みたいな濃密な雲がびりびりと弱い小さな放電を繰り返していた。橋のゲームのBGMが耳の奥に残って何度も何度も同じところを繰り返していた。携帯は置いてきてしまった。でも別に暇を潰したいわけでもない。私はそのまま何も考えずに座っていた。石黒も何も言わなかった。

 また二十分ほどして賀西は静かに部屋から出てきた。その間部屋の中から物音や話し声は全く聞こえなかった。居間の方もごく静かだったから私の耳はどんな小さな音でも拾えたはずだ。それでも全く何も聞こえなかった。

「もういいの?」私は訊いた。

「うん。もういい」賀西は手に檜佐の書いたレポートの束を持っていた。「これは預かって構わないね?」

「たぶん。今日はもう出しに行くつもりはないって様子だったけど」

「面倒だっただけかな。まあ、駄目ならあとで直してもらえばいいや。こちらですぐにどうこうするものでもないし」

 やっぱり話していないのだ。寝顔を見ていただけか。

 でもそれはそれで重要なことだと思う。私が私なりに檜佐の存在を確かめていたのと同じように、彼も彼なりに檜佐の存在を確かめていたのだろう。

「伝えておきます」私は答えた。

「ありがとう、柏木」と賀西は言った。それはおそらくこの一件に関して私が檜佐に捧げたささやかな努力に対する感謝だった。

 だから私は特に返事をしなかった。私が賀西のために何かしたわけではないのだ。

 賀西は石黒のおやじにも一言挨拶して出ていった。玄関の扉が開閉する音もほとんど聞こえなかった。

 私は静かに部屋に戻る。檜佐はまだよく眠っていた。両手の間に私の毛布を挟んだままだった。耳を近づけると唇の間から微かに空気の通る音が聞こえていた。


 私はその夜過去の私と話をする夢を見る。そこは森だ。ブナの森。薄い若葉が空の青さを透かしている。地面はまだ去年の落ち葉がいっぱいに敷き詰められてふかふかしている。

 彼女――十二歳の私は階段を下りてくる。階段は水晶でできたように無色透明、完全な直方体で、一段一段が独立して宙に浮かんでいた。そしてその形のせいで中で反射した光が幾何学形に切り取られてきらきらと光っていた。その反射光は必ずしも白ではなく、角度によって琥珀色やルビー色に変わった。だからそれはガラスではなく水晶だった。

 彼女は青いフレンチ袖の長いシャツを着ていた。木目のボタンを上から下まで閉め、その水平な裾から黒いスカートがわずかに覗いていた。ほとんど肉のない脚は黒いタイツに包まれ、靴は飾り気のない同じ色のショートブーツだった。髪は腰より長く、全く癖がない。サテンのような光沢。

 彼女は足元を確認しながら落ち葉の上に降り立つ。わずかに乾いた落葉の割れる音が聞こえる。

「私をあなた自身の中から呼び出すことはできないわよ」彼女は顔を上げて私を見た。私たちの間にはまだテーブルを挟むほどの距離があった。

「どうしてそう思うの?」私は答えた。

「私はもうあなたの中にはいないから。人間は時間をかけて変わっていくもの。記憶というものには見方があるから、記憶の中の過去も時間が経つと変わってしまうの。だって、あなたの思い出せる私と、私とは、違うでしょう? 認めたくないかもしれないけど、あなたの記憶の中の私と同じ時期に実際に生きてきた私は、この私なのよ。想像と違うでしょう? でもそれはあなたが記憶の中でそれを都合よく解釈しているからなのよ」

「私、そんな喋り方をしたっけ?」

「そう、そうなの。こういう女の子なのよ。私ね、いつか時間が経って大人の自分が私を思い出す時に、畏れてほしいと思っていたの。つまりね、ある意味驚異的なものを何か持っておきたいと思ったのよ」

「じゃあ、自分が劣化していくしかないだろうと思っていたの?」

「それはよくわからない。もっと進んでいくかもしれないとも思った。でも、仮に進歩していったとして、あなたの驚異的なところと、私の驚異的なところと、それはきっと別物なのよ」

「私の中に帰ってきたいという気持ちはないの?」

「帰る? 私があなたに? ああ、あなたが柏木碧として正当で主流だと揺るぎない自信がそう言わせるのね。でも柏木碧のもっと古い状態を保存しているのは私の方じゃない? 帰ってくるなら、それは、あなたの方が私に、だと思うけど」

 その時風が吹いた。風に舞い上がった色とりどりの落葉が視界を覆って二人の姿が見えなくなった。つまり私の視点はその時話していた両者のどちらのものでもなかった。それが初めから外側にあったのか、どこかの時点で移動したのか、それにも気づくことができなかった。そのタイミングを捉えるために夢の内容を始めから思い出そうとした時、私はすでに夢から覚めていた。

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