4.2 フラクタル

 翌朝は檜佐に起こされた。腕の中からするりと抜け出して自分の布団を整え、私の顔を見て「おはよう」と言った。窓から朝日が入って逆光だった。眩しい。私は眉間に皺を寄せてちょっと見上げていた。あまりに目が覚めたばかりでそれが精一杯の反応だった。彼女は洗面所に入った。蛇口を開いたり閉じたりする水の音が聞こえた。私の右手はベッドの縁にかかるくらい伸びていて、その下になったシーツはまだ温かかった。抜けた髪の毛が何本か残っていた。彼女の方が赤茶っぽい髪をしているのでだいたいわかる。

 手の中で髪を集めながら夢の中に現れた檜佐の発光するような白い肌を思い出していた。あれは本当に彼女だったのだろうか。例えば、雪の森の中で撃破された檜佐と今そこで顔を洗っている檜佐は同じ人間なのだろうか。

 誰かが共用のキッチンで卵を焼き始めた。誰だろう。石黒のおやじではない。朝は遅いのだ。寮父であって朝食係ではないという理屈らしい。私もだいぶ意識がはっきりしてきたので起き上がって髪を梳いて檜佐と一緒に部屋を出た。北に向かって標高の上がる山の斜面に駐屯地があって、その西側に面した九木崎の敷地は北側が寮の区画、南が工場や研究室、オフィス、レク施設をまとめた建屋群で、その中間がフィールドになっている。通勤は山を滑降していく感じになるわけだ。距離は短いけど積雪のある間は文字通りスキーを履いて下りていく奴もいる。

 午前中は普段通り学科の講義だった。作戦が漏れるとまずいから出動の予定があっても講師には知らされない。教師からしてみれば来てみないと生徒がいるかどうか、講義が成り立つかどうかわからないという恐ろしいシステムなのだ。まあ彼らも慣れているから暇潰しの本くらいは持ち歩いているだろうけど。講義は化学とロシア語と国際情勢Aだった。AとかBというのは実用と教養の別ではなくて、教える先生が違うのだ。Aはいかにも文科省好みの左派的な先生で軍歴はない。他方Bは幕僚部のOBだった。A氏もなかなか機知があって面白いのだけど、たまに東京新聞の切り抜きを刷ってきたりするとさすがに教場が苦笑いで溢れる。

 昼を中隊の食堂でとって、午後は非番なので檜佐に付き添って教育隊を見に行った。中隊の工廠の北側に教育隊の校舎があって、さらにその北側がハンガーになっている。フィールドは北向きに広がってそのまま山の斜面に続いている。活動区域が九木崎の寮の区画に最も近いという言い方もできるだろう。一度フィールド側に回った。よく晴れてカーペットのように平たく積もった雪が白くきらきらと輝いていた。森の木々も道沿いのポプラ並木も真っ白だった。

 格納庫の表のシャッターは閉じていた。仕方なく通用扉を開けて中へ入る。温かい。二基のタービンストーブが唸っていた。教育隊は他より三十分ほど昼休みが遅いのでまだ人気がない。ストーブが煩いだけであとはしんとしていた。扉の音を聞いて教官のワッペンを付けた若い男が様子を見に来た。

「やあ、檜佐か」顔見知りらしい。同輩か。

「使わせてもらいたいんだけど、いいかな」檜佐も手を振って応える。

「ああ、話は聞いたよ。空いてるから好きに使って。十二番は点検中」

 男は校舎との連絡口の前に置いてある監視員のデスクに戻って帳簿に何か書きつける。

 細長い格納庫には十四機の練習機が並んでいる。ちょっとゴルフの打ちっ放しを思わせる並びだ。脚の造りが中隊のマーリファインと違って、膝関節が人間と同じように脚の中間にある。操縦室の背板が後ろに倒れて開くようになっているのも大きな違いだ。構造は弱くなるがその方がレスキューしやすい。ついでに言うと冬季迷彩の白い塗料も塗っていない。

 各機の右後ろに鉄骨組みのタラップが寄せてある。尾部左側面の外部接続パネルの蓋が取り外され、通信用ケーブルのジャックにアタッチメントがくっついている。これが挟んであると機体側の操作ではケーブルが抜けない。ある程度の制御を外部から受け付けるようになっているわけだ。

 檜佐は並んでいる機体の間を縫うように歩いて一機一機の様子を詳しく観察して回った。どの機体も太腿と襟のところにカンガルーを模した隊章と三桁の機番をつけている。操縦の不手際で転倒することが多々あるので肩と胸にウレタン製の分厚いクッションを貼り付けている。まあそれでも何機かは肘や腿の構造材がへこんだり欠けたりしている。

 ほとんどの機体は休止状態。死んだように静かだ。だがコンピュータを起動しているのが一機あった。冷却ファンの小さな唸りで気づいた。機体の後ろに回ってみるとシートが後ろに倒れていて、その上に仰向けになった少女がいた。タラップに足をかけて様子を窺う。少女は作業着の上に裾の長いベンチコートを着て首の下まで前を閉め、そして棺の中にいるみたいに目を瞑っていた。肌が白い。磁器のような血色のない白さだった。でも呼吸は早かった。鼻孔を通る空気の音が聞こえるほどだった。胸だけではなくほとんど全身が上下に震えていた。

 タラップの柵にオレンジ色のブリーフケースが立てかけてある。私は目を凝らして監視デスクの上の壁に貼ってある時間割を見た。枡の中には科目ではなくクラスのナンバーが書き入れてある。前の時限は10-2だった。歳にして十五から十六だ。

 目が開く。

「誰?」少女は眼球だけを動かしてこちらを見ようとした。

「一小隊の檜佐と柏木」檜佐が答える。

「一小隊の人たち?」少女は細い声で訊く。「ごめん、今体を動かすと立ち眩みでブラックアウトしそう」

「立ち眩み?」

「そう。頭がぐらぐらして、わかるかな、頭から意識が落っこちそうになってる」

 檜佐はタラップの上まで行って少女の足を少しばかり抱え上げる。それで少しは頭の方へ血液が集まるだろう。私もタラップを上る。少女の顔が正面から、つまり真上から見えた。細くて小さな顔だった。各々のパーツが収まるのに最低限のスペースしかないような感じだ。それでいて髪がたっぷりして長いせいかカツラを被っているような印象を受けた。

 少女はしばらく目を瞑って呼吸を整える。檜佐は落ち着いたところを見計らって足を下ろし、「どうしたの?」と訊く。

「フラクタルにやられた」少女は横になったまま答える。

「よくやられるの?」

「わからない」

「何回目?」

「それもわからない。何度も」

「苦手なんだ。でもそれだけ耐えられるってすごいじゃない?」檜佐は保育士のように優しく言った。

 肢闘に関してフラクタルというのは基本的には機体と肉体とをうまく認識できなくなる障害のことをいう。肉体のことを機体だと思い込むと上手く肉体の感覚に戻ってくることができなくなるのだ。たとえば二つの庭を隔てる門があって、そのうち一方が自分の住んでいる家の庭だとする。門を閉めれば自分はどちらかに隔離されるわけだけど、二つの庭の様子がちょっとだけ似ているから、焦っているとどちら側に立って閉めるのが正解なのかわからなくなってしまうのだ。それはある種のパニックだ。各々のセンスによって得手不得手がある。場合によっては肉体の全身に極度の緊張状態を強いるから、この少女のように眩暈を起こすこともある。最も穏やかな解消法は機体のサーボを全て遮断したあと第三者がソーカーの手足を揺するとか、とにかく肉体を刺激してやることだ。決してプラグを抜くことを焦ってはいけない。そのあたりの対処法も教本に書いてある。それくらいよくある障害なのだ。

 私も一度だけ陥ったことがある。でもそれは私の技量やセンスの問題ではなかった。少なくとも完全には私の問題ではなかった。

「名前は?」檜佐が訊いた。

「私の?」

「そう」

「タチバナ・サキ。高一」少女はそう答えて跳ね橋みたいにゆっくり上体を起こした。

「まだ横になっていたら?」

「平気」

「誰かと一緒じゃないの?」

「私くらい出来が悪いのは他にいないから。居残り。前の時間の間に終わらなくて」

「誰かに教えてもらえばいいのに」

「コツよりも繰り返しが必要なんだ」自分の考えなのか他人の教えなのか微妙に判然としない口調だった。それから再び緩慢な動作で立ち上がった。まだ頭がふらつくらしく操縦室の側壁に寄りかかる。「やって見せてくれない?」

 背が高かった。170センチくらいはあるんじゃないだろうか。体も顔と同じように細くて、単に背が高いというより、並みの背丈をそのままの体積で縦に伸ばしたような、そんな感じのする細長さだった。

 私は檜佐と顔を見合わせてからシートに上った。檜佐は自分自身のテストをしに来ただけで、後輩の参考になるほど安定して潜れるかどうかわからない。

「タリス」私は呼ぶ。

「はい?」とタリスの声。機体のコクピットのスピーカーからだ。

「前の授業のカリキュラムを呼び出して」

「感覚インターフェースの個人設定」

「まさか」

「あなたが実演して意味があるのですか?」

「こっちが訊きたいよ」ヘッドレストからケーブルを引き出してシートに座る。足は外に下ろしたまま。「いいか、気構えなんかいらない。楽にしてすっと入ればいいんだ」

 私はそう言ってプラグを差し込んだ。

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