第3話 冗談じゃねぇ!

 俺は呆然と立ち尽くしていた。

 何かが込み上げてきて、俺の中で弾けそうになる。だが、それをぐっと抑え込み、叫ぶ。

「幸ーっ!」

 弾けたように走り出し、階段を降りながらスマホを手にした。

「もしもし、おばさん——」

 幸の母親の瑞穂おばさんだ。

 おばさんはこの高階医院で外科医として働いているし、もし眼医者——恐らくは近くの周居ちかい眼科に違いない——から戻っているとすれば、俺よりも早く幸の元に辿り着けるはずだ。

 ガンガンガン——派手な音を立てて降りている割に、全然進んでない気がする。

「……畜生!」

 俺は目の前の、恐らくは二階の踊り場から飛び降りていた。

 下手な着地で素っ転ぶも、すぐに起き上がって走る。

 幸はどうなったんだ! 幸は——

 現場に着いたときには、幸は既に担架に乗せられ、院内に入るところだった。

 瑞穂おばさんと数人の看護婦、そしてタカ姉が付き添っている。

 俺の姿を認めたタカ姉が立ち止まり、俺の前に立った。白衣を着たタカ姉を見のはこれが初めてだった。

「……なしてタカ姉がここに」

「あたしは臨床医学の実習で高階医院じっかに来てんの。……エータロ、何があったのか説明しろ!」

 腰に手を当てたタカ姉が睨んでくる。

「そんなことより、幸は……幸はどーなったんだよ!」

 立ちはだかるタカ姉を押しのけて、前に出ようとする。

 ——パンッ!

 小気味よい音が響き、頬がジーンと熱くなる。

「落ち着け、エータロ! みゆは無事だ。あたしにだって分かる。みゆは植え込みに落ちたんだ。怪我してるとは思うけど、生命に別状はない——」

 俺は平手を喰らった頬に手を当てて頷いていた。

「——で、どうしたってのよ」

 タカ姉は俺の背中をを軽く叩いて、病院の中へと促す。

 手術室までの途次みちすがら、俺はこれまでの経緯を話すと、タカ姉はいきなり跳び上がって俺の頭にゲンコツを落とした。

「……痛ってぇ! 何すんだよ、タカ姉!」

「何じゃない! エータロ、アンタ、なしてみゆを止めなかった!」

「止めたってば! 幸のヤローの自殺は未然に防いだんだぞ。……で、ゲン直しにいずみ亭に行こうぜって誘ったら、その矢先にアイツが立ち眩みかなんかを起こして、転落おちちゃったんだよ……」

「そんなの、お前が身体張って止めろ!」

「俺に飛び降りろってのか!」

 侃々諤々かんかんがくがくの言い合いは手術室前まで続いたが——

「二人ともいい加減になさい! ……ここは病院、しかも手術室の前よ!」

 二人揃って、手術室の中から出てきた人物に諫められた。瑞穂おばさんだった。同時に、「手術中」の赤ランプが消えた。

 俺もタカ姉もバツが悪くなって、一気に黙り込む。

 眉間に皺を寄せた瑞穂おばさんが手術室横のベンチに腰掛け、深い深い溜息を漏らして壁により掛かる。

「おばさん……幸は?」

「大丈夫……幸は、大丈夫。でも、大丈夫……とは言っても、右肩脱臼、右第三第四肋骨骨折、打撲は数知れず、みたいな感じで、決して軽傷とは言えない。でも、衛ちゃん……ありがとね、すぐに知らせてくれて」

 幸が無事なのは分かった。医者であり、母親である瑞穂おばさんが言うんだ、間違いはない。

「……じゃ、幸は今は?」

 瑞穂おばさんが俺を手術室へと誘った。

 手術台の横に置かれているストレッチャーに幸が横たわっている。

 光の加減だろうが、血の気が引いたみたいに顔が白い。

 麻酔が効いているからなのか、身じろぎ一つしない。

 タカ姉が言ったとおり、俺が身体張って止めていれば、こんなことにはならなかった。

「……幸」

 瑞穂おばさんが俺の肩を叩いていた。

「幸は生きている……それは、衛ちゃんのお陰なのよ。あなたが知らせてくれなかったら、違う結果になったかもしれない。それと……今更だけど、いつも幸を大事にしてくれてありがとね。特に、幸俊さん……幸のお父さんが亡くなってからは、それまで以上に幸の支えになってくれていたでしょ? おばさん……嬉しかったな。本当にありがとう」

 深々と礼をしてくる瑞穂おばさん。

 そんなおばさんの仕草に、俺はしどろもどろになってしまった。

「ちょっと、おばさん! 大袈裟だよ……」

 幸の父親である幸俊おじさんは、二年前に亡くなった。

 世界的な大企業、スパイラル・エンタープライズ日本支社で人工衛星関係の仕事していたらしいが、開発中の事故に巻き込まれてしまったのだ。

 そのショックから、幸は完全に鬱ぎ込んでしまった。

 瑞穂おばさんがなだめても、タカ姉がすかしてもダメだった。

 見かねた俺は、荒療治を敢行した。

 秋の連休を利用して、札幌でやっているイベントに幸を強制連行してやったのだ。……勿論、おばさんの許しをもらってだ。

 それは札幌市が毎年やっている秋の恒例イベントで、道内の名物、名店が大通公園に一堂に会して、店を出す。

 ちんちくりんのチビの癖に、妙に食い意地の張った幸は、ことある毎に「行きたいなー」と言っていた。

 だが、やっぱりというか、最初は全然乗り気じゃなく、特急の中でも一度も口を開かなかった。でも、現地に着いて、前々から食べたがっていた何とかって名前のスイーツを見てからは、それまでの箍が外れたように、食べたり飲んだり喋ったりし始めた。

 日曜日の帰る時間までの間、さんざっぱら飲み食いをした俺たちは、満腹のおなかを抱えて、帰りの特急に乗り込んだ。その頃にはすっかり元の幸に戻っていた。

 俺は心底ほっとした――いや、そうでなくては困る。何たって、俺がそれまで貯金してきたバイク購入資金をほとんど突っ込んだんだからな。

 戻ってから、瑞穂おばさんには大層お礼を言われたが、タカ姉からは「いい年頃の男女が泊まり掛けで何してンのよ! 受験もあるってのに!」と、がっつり怒られた。

 何だか、幸と過ごした日々が次々思い出されてくる。

「……衛ちゃん、幸から……『網膜褐縮硬化症』の話を聞いたの?」

 不意におばさんが、そんなことを口にした。

「はい、聞きました。……失明して、最後には死んじまう、治療不可能な病気だって」

「……そっか……いつかはバレてしまうとは思っていたけど……こんなことになるなら、もっと早くに話しておくべきだった——」

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