>>9 弱者のジレンマ

 次の日。

 驚くべきことに、神原が学校を休んだ。

 昨日の俺のせい……っていうのは、さすがにないよな。病み上がりに軽いアルコールが入ったせいで体調を崩したんだ、うんそうだ。

 ということで、俺は以前のように叶人と二人楽しく過ごしていた。のだが。


「……のはいいんだけど、なんでお前がここにいるんだ?」


 実は、昼休みのランチ現場屋上には叶人以外にもう一人いた。


「っ。察しなさいよ。明らかにあなたたち何かあったじゃない。気を使ってるの」


 そのエクストラメンバー、篠崎愛華は箸の先でビシッと俺を指さした。


「え、今日神原がいないのって結叶関係なの?」


 あーあ。叶人が興味示しちゃったよ。余計なお世話だっつーのに。

 叶人には――この俺と一緒にいる時点でわかると思うのだが――世話焼き癖がある。

 だから、こいつに何かしら興味や心配を持たれてしまったら、それが終結、または解決するまで終わらない。いい例が、ほら、最初に告白されて俺が変な回答をしたあとの告白者本人捜索とか。


「休み中なんかあったのか?」


 こうしてズイズイズイー、と眼前に迫られると為す術がない。リア充の必殺技、異常なまでの至近距離感だ。


「え、えっと……」


 間近で唯一見ることのできる叶人の顔を見ながら、どういうBLだよ、と心の中でツッコミを入れつつ、俺は口ごもった。


「教えてくれ。喧嘩か? それなら仲直りに協力するぞ。なあ愛華?」


「え、ああ、うん」


 少し顔を赤らめて頷く篠崎を見て、名前呼びしてるしこいつら本当に付き合ってんじゃね? なんて考えてしまう。ま、それはないか。みんなウェルカムな叶人のことだ、他の女子にも名前呼びしてるだろ。

 ……閑話休題。


「いや、本当に何もなかったんだって」


 大々的に喧嘩したとか殴りあったなんていう事実は存在しないので俺は叶人を遠ざけてこう言った。


「むしろ、俺は自分の立場を見直したんだ。ただ、それだけ。神原とは喧嘩どころかそういうことをする気力すらない」


「……うーん、結叶がそう言うならいいのか?」


 俺の隠し事のない澄んだ顔(想像)を見たのか、叶人がこれ以上踏み込むもんじゃないな、というように引いてくれた。


「そうだよ。意外と心配してることっていうのは上手くいくもんだ」


 そう言って俺は母親お手製の甘々玉子焼きを口に入れた。それは俺が今見ている険しくて救いようのない現実とは正反対にスパイスの塩と砂糖を間違えたような甘さだった。……って、母さん、絶対間違えてるな。


 *


 昼を済ませたあとクラスの違う叶人と別れて教室へ戻る途中、俺は篠崎に忠告しておくことにした。


「あんま俺に近づかない方がいいぞ」


「……なんで?」


「俺みたいなクズと一緒にいたらお前の株が下がる。他のマネージャー仲間とか部のメンバーと一緒にいた方がよっぽどいい」


 こいつは叶人と違って同じクラスだから、休み時間以外にもどうしても繋がりはできてしまう。


「別に、俺みたいに孤立してるわけじゃないんだろ? それなら楽しめよ。俺なんかといたら人生つまらなく――」


「……それ、本気で言ってんの?」


 いつの間にか篠崎の歩が止まっていた。

 そして、睨むだけで獲物を殺すバケモノみたいに、このセリフの中には聞いただけで命を落とすような殺気がこもっていた。


「……本気も何も、俺は本当のことをただ単純に述べてるだけだ」


 筋違いだった。なんだよ、本当のことじゃないか。お前ら、いや、この社会では陽に生きたやつがとにかく敬われ、褒められ、讃えられ、勝手に認め合って集団を形成していって、そこらにポツンといる陰キャなんて見向きもしないくせに。

 どうせ、お前だって俺が神原のお気に入りにならなかったら、今だって話しかけすらしてこないだろ。

 だから、俺はこの殺気のこもったセリフにも平然と対処することができた。

 だが、それは続く次の言葉で瓦解することになる。


「……それを、夢望の前でも言えるの? 告白されてオーケーした彼女に、俺といると人生つまらなくなるって」


 これは、ずいぶんな不意打ちで俺の思考は数秒停止した。

 ……たしかに、俺は矛盾している。

 考えてみれば、あの日あの時、告白された時だって、俺がクズだと自己認識をしていたなら『あんた、誰だっけ』ではなく『すまん、俺といると不幸になるから無理』と言っていたはずだ。

 そのあとだって、無理に告白主を探すことも考えなかっただろう。

 そして、篠崎に神原と二人きりにされた時、黙ってその場を去っていくこともできただろうに。

 そうしていれば、今頃俺は人様の迷惑にならぬようなぼっちライフを送っていたのだろう。

 だが、俺はそうしなかった。どうして? 本当は心の中で俺だって、と夢を見ていたのだろうか。

 それとも、ただ単に俺は自分のことをまだ可能性はある、なんて思ってしまっていたのだろうか。


「ねえ、倉永くん。夢望と何かあったなら教えてほしいの。それは私のせいかもしれないことだから。言いたくないんだったら、それでもいい。でも、これだけは忘れないで。夢望があなたを選んでいる時点であなたは救いようのないクズなんかじゃないってこと。少なくとも夢望はそう思ってるはずよ」


 そうではない。俺はそんな言葉をかけて欲しいのではない。


「もっと言うなら私だって、あなたのことは一目置いているのよ」


 違う。いや、そうだ。そうなのだ。


「これであなたの存在価値は証明完了よ。だから、だからね、夢望とはもっと長く恋人でいてほしい」


 いや、違う、違う。違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。


「……ああ、努力するよ」


 頭の中で次々生み出される疑問に肯定と否定が繰り返されてぐちゃぐちゃになっている中、かろうじて言えたのがこの一言だった。


「……そう。どうにもならなかったら私に言ってね」


 そう言い残して、篠崎は一足先に教室へ戻った。

 俺は……。


 *


 今にも雨が降りそうで、それでもギリギリ降っていないという黒くよどんだ空は、まるで俺の今の心理状態を風景によって表しているかのようだった。

 放課後になって、傘を持参していなかった俺は雨の降ってないうちに濡れないようにそそくさと帰っていた。

 今頃部活の連中らは自分たちが帰る時に雨が降らないかとソワソワしているのだろうなしめしめ、とクズのようなことを考えていた。

 そして、そんなことを考えている、俺自身のことも。

 ……結局、俺はクズでもなく、かと言っていいやつというわけでもない、ただ二次元に影響されて高二病を煩わせた中途半端な野郎なのではないか。

 いや、そもそも。

 高二病なんてものを俺は煩わせてなどいなかったのではないか。そういうレッテルを貼って自分のことを誇示して悦に浸りたかっただけなのでは……。

 いいや、いかんな。昨日のあれ以来、俺の感情が矛盾だらけになってどれが合っているのかさえあやふやだ。

 ……ひとまず考えるのはやめにして、俺は今ついた自分の家へ入った。


 家には結梨がもう帰ってきていた。


「あ、おかえりー」

「……ああ」


 その顔を見ると、思いつめていた俺の心もいくらか癒された気がした。……決してシスコンではない。

 いったんカバンを自分の部屋に置きに行って制服から私服に着替えたあと、俺は再び結梨のいるリビングへと戻った。

 冷蔵庫から取り出した麦茶をグラスに注いでそのまま一息に飲んでしまうと、思わずため息が零れた。


「はぁ……」


「どうしたのお兄ちゃん。今日はいつにも増して元気がないよ」


 結梨がそんな俺のため息に反応した。

 いつにも増してって。俺って通常時から元気ないのかよ。……ああ、元気ないわ。


「いやー、最近俺という生き物ってどういう生き物なのかわからなくなってきてな……」


「え、お兄ちゃんって人間じゃなかったの?」


「そういうことじゃない」


 小学生らしい解釈の仕方に微笑ましさを感じながら、俺はセリフを訂正した。


「いや、俺が貫き通してきたことがいきなり間違ってるんじゃないかって思えてきてさ。今まで築いてきた山が一瞬で崩れたような、そんな気分なんだよ」


 ……ちなみに、これは真剣に結梨に話しているわけではない。さすがに小学生にこの人間性に関する話は高度すぎるだろう。

 ただ、とりあえず今の状況を誰かに話してしまえば楽になると思ったのだ。それは一時的なものなのかもしれないが。

 このままひねくれた人間を続けるのか。数少ない友達に頼って少しでも惨めさを紛らわすのか。それとも中途半端に中途半端な人生を送っていくのか。

 弱者の、弱者ならではのジレンマ。

 だが、予想外にもこれには返信が来た。


「べつに、お兄ちゃんがそう決めて貫き通してきたものなら間違ってないんじゃないの? 山が崩れたならまた初めから作ればいいじゃん」


 小学生らしい理論の、至極簡単なものだった。

 だけど、俺にはこれが今世紀最大の名言に思えてきてならなかった。

 深く考えすぎてしまっていたから、こんな簡単なことにも気づけなかった。自分で自分をがんじがらめにしていた。


「……そうか。そうだよな」


 一筋の光明が、その時微かに、それでもたしかに見えた気がした。

 貫き通してきたことは、きっと間違っていない。

 それでもその認識が崩れてボロボロになってしまったなら、また一から、ついでに手直しも加えて作り直してしまえばいいのだ。

 なんだ、何も悩むことなんてなかったんじゃないか。

 俺はまさかの解決法を教えてくれた結梨を一通り撫で回して(……だから、シスコンではない)、気分も軽やかに自分の部屋に戻ったのだった。


 *


 ……と、タカをくくっていたのだが。

 風呂に肩まで浸かって息を吐き出しながら、俺はまたしても悩んでいた。

 ……もし神原と別れてしまったらどうしよう。

 いや、別に俺が今になって神原たん尊い手離したくない、なんて思い始めたわけではない。

 むしろ俺は今まで通りのひねくれた、物事を歪曲して見ることの方に決めている。

 だから、俺が神原とのことに悩んでいる理由はただ一つだ。

 ……篠崎愛華がそのあと何かしてこないか怖い。

 だって、声音だけで魂抜くような気迫出すんだよあいつ? さっきは平然と返してたけど今考えてたら恐ろしすぎて全身鳥肌立つわ。俺が今ここに生きているだけでも幸運な気がするぞ。

 しかも、あいつたしか前に……。


『あなたたちにはできるだけ別れてもらいたくないってわけ』


 という願望を先に述べてから、もし俺が神原と別れたら的なニュアンスから、


『私があなたを処すわ』


 いやー、昨日も思ったけどあれマジトーンだったからなあ。声音であのくらいの気迫出せるんだったら、もし神原と別れた時俺はどうなってしまうのやら。殺られるな。確実に。

 だから、神原には先手を打っておくことにした。

 風呂から出て、自分の部屋に戻ると、


『昨日はすまん。具合は大丈夫か?』


 メッセージでこんなことを送った。結局今悩んでいることは、あの時のことを神原がどう受け止めているかに依存するのだ。

 既読はまもなくついて、直後に返信がきた。


『はい、やっぱり昨日言われた通りにまた風邪ひいちゃいました……(´๐_๐)』

『でも、今度こそ治したので明日は大丈夫です!(`・ω・´)b』


 ……昨日はすまん、というワードに過剰に反応しないあたり、神原自身はあんまり覚えてないのか……?

 とりあえず、返信を返しておく。


『それはよかった。人間は健康が一番だ』

『おじいさんみたいなこと言うんですね(笑)』

『失礼だな。人間の真実だぞ?』


 文面上のやりとりなので、俺はあまり気負いせずに返信できた。内心は若干ヒヤヒヤしているのだが。


『あの』


 だから、今までの会話に関係のないこの前置詞が来た時にはびっくりしてスマホを落としてしまった。あぶないあぶない。下が絨毯じゃなかったら割れてたかもしれん。


『なんだ?』


 打つ手が震えていても、向こうに伝わらないのがネットのいいところだ。俺はこちらの動揺を窺われないように無難な四文字を使った。

 おそらく、この返しで俺の明日の生き死にが決まる。

 ゴクリ……。さっきより三倍くらいたっぷり時間をかけた後、遅れて返事はやってきた。


『あ、あの……よく考えたら私、昨日はおかしかった気がします。なので、昨日見たことと私が結叶くんにしたことはご内密にお願いします……』


 ……俺はこの文面を四周ほどしてから、


「はぁぁぁぁ……」


 全身を弛緩させてベッドに身を預けた。

 よかったー。どうやら神原は姉の深夢のように口調と顔だけ見て核心をついてくるような特異な才能はないようだった。あ、それにあの時の神原は軽く酔ってたしな。

 どうやら篠崎の魔の手はまだ伸びないようだ。

 だが、不意に外を見た時についに小康状態を破って降っていた雨が、このままでは終わらないと言っているような気がしてならなかった。

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