02

「――――!?」

 目が覚めた。

 いや。

 彼女ほどの兵法者が、自分の部屋以外で完全に眠るということはない。羊飼いが群れに異変があればすぐさま目が覚めるように、訓練された兵法者は浅い眠りの最中にも何者かが自分に接近していることが解る。そのような訓練を受けている。

 三年間、ほとんどほったらかしにしていた前髪を掻き分け、周囲を見渡した。

(…………誰?)

 目の前――というにはやや遠いが、真紀の座るベンチの真正面、三メートルほど離れたところに、ランニングスタイルの老人が突っ立っている。

 ほんの数分ほど前に自分の前で立ち止まったのを記憶している。

(何処かで見た、ような……)

 気のせいだろう、と思ったが、気のせいではないかもしれない。

 真紀は記憶を探るが、すぐには記憶に一致する顔は出てこなかった。胴体こそ中年太りを経過して樽に似た形にはなっているが、そこに生えている手足は太く、筋肉質だ。相当に鍛え上げている。恐らくはの使い手だろう。だがこれほどの者に出会っていたのならば僅かでも印象くらい残っていそうなものだが。

「いや、魘されているのを見かけた時は、どうしようかと思ったものだが……うかつに近寄らなくてよかったな」

 老人は、ほっとしたような、しかし何処か困っているかのような苦笑を浮かべた。

 その視線の先にあるのは、真紀の左手にある木剣だ。

(ああ……) 

 右手がその柄に自然と延びている。もしかしなくとも、真紀にこの老人が接近していたのならば彼女の身体は最速の反応からの横なぎの一撃をくらわせていたはずだ。

 三メートルという距離は彼女にとって問題にならないが、それでも警戒領域のぎりぎり外側だった。

 この老人は、それを本能か経験かは解らないが察知した上で、彼女を心配して声をかけてくれたらしい。

(運がよかった)

 心底から思う。

 もしもここにいたのが親切なだけの通りがかりのジョギングを趣味でしている老人だったのならば、彼女は攻撃対象として軽く撃ち殺していたかもしれない。精神制御のリミッターはかけてあるが、自己流のそれの、しかも三年ぶりに使用した護法などあてになるはずもない。

 そもそもを言えば、心気が充実していたのならばあんな夢など見ないはずだ。

 もっといえば、あの程度の稽古で疲労など覚えることはなかったはずで、それでひと休みして、あんな夢を見るだなんて――――

(鈍り切っている)

 三年ぶりのまともな稽古だったのだ。

 三年ぶりに、彼女は剣をとったのだ。

「すみません。心配していただいたのに、こんな非礼なことをしてしまって」

 実際は何もしていないのだが、仮にも兵法者がするにはあまりにもあまりな無様を曝してしまっていたのだ。他にどうしていいのかもわからず、とにかく真紀はベンチから立ち上がり、深々と頭を下げた。

 兵法者たるもの、見知らぬ武人を前にして目を離すような姿勢をとるべきではない――と頭の中で囁く声がするが、無視する。たった今、この老人に打ち据えられて死んでしまっていいとまで思ってしまっている。公園のベンチで転寝して魘されているのを見られるだなんて恥を曝してしまったのならば、もう殺されても仕方がない。

「いや、なんというか……顔をあげよ、兵法者、御法真紀」

「あ、はい」

 慌てて上体を起こしたが、そういえばこの人は私を知っているのか、と改めて思う。

 別に不思議でもなんでもない。この世界ではともかくとして、からきたのならば自分の悪名を知っていてもむしろ当然だろうと思う。もしかしたら自分が忘れているだけで、過去に直接に対峙したことがあるのかもしれない。

 老人は軽く息を吐いたが、やがてベンチの、真紀の隣りに座った。そして彼女にも腰かけるように手で促す。

 真紀はそれに応じ、座った。

「…………」

「…………」

 しばらく、いわく言い難い沈黙が続き。

「なあ」

 と先に声をかけたのは老人だった。

「兵法者、御法真紀――だよな。

「あ、はい。それは間違いなく……」

 そういえば、自分は名乗りもしていなかったなあと思いだす。老人に聞かれたわけでもないし、向うも自分を知っているようだから特にそうしなかったのだが、やはりそれは失礼だったかもしれない。真紀は改めて名乗ろうかとしたが、老人は困惑したように首を振った。

「ジョギング中に見かけた時は、目を疑ったぞ。野暮ったいジャージ姿に髪も伸ばし放題、見るからに人前に出ることなど年単位でしていない若い娘がベンチで昼間から魘されておると思っていたら、よく見れば、あの、悪魔の化身、魔王の剣士と謳われた兵法者であったなぞ――さすがに、無防備にというわけでもなかったようだが、な」

「はあ……」

 面目ない。

 真紀は身が縮こまっていくような気がした。以前の自分の仲間たちに罵倒されるのも覚悟の上で生きていたが、かつての敵対しただろう者に呆れられるというのはまったく考えてなかった。そして、想定していたどんな侮蔑よりも辛かった。

「何があったかは――やはり、聞くべきではないのだろうが、聞かずにはおれん。この三年間、何をしていたのだ? あの三年前、我らが《魔法世界》をめちゃくちゃにしてから、貴女はいかに生きてきたのだ?」

「それは――」

 三年前。

 それは彼女の先ほどの悪夢が、現実にあった時のことだった。

 魔法世界の大山脈〈神々の住処〉と呼ばれる氷雪の領域を、輸送用の飛行艇で乗り越えようとして、ベルセルクに遭遇した。

 いや、待ち伏せられた。

 真相は今もって明らかではない。ただ、あのコースをあの時に彼女たちの部隊が選んだことは日本帝國の越境部隊でも知る者はほとんどおらず、情報が漏れたとは考えにくい。それでもなお、待ち伏せられたとしか考えようはなかった。そうでなければ、あの子があそこにいたことの説明がつかない。あの子は知っていたのだ。

 なぜならば。

 

 ベルセルクになった者は、二度と正気に帰ることはない。


 真紀を狙うためにそれを選択するのは当然であったにせよ、真紀がそれに乗っているという確信もなくそうなるとは、とても考えられなかった。

 今になって、ようやく真紀はそう思う。

 しかし、それはもはや永遠に解けることがない謎だ。

 あれから三年がたっている。

 仮に上層部なり同僚なりが彼女の存在を許しがたいと考えて罠に陥れたとしても、その記録など当然残っているはずもない。

 あの子だって、証言はできないだろう。生きているのかも死んでいるのか解らないが、ひとたびベルセルクとなったのならば、もはや人間として対峙することは二度はない。あれは、人であることを捨てて神になる方法なのだ。

 そう。

 あの少女は神となった。

 そして、その神と戦い、御法真紀は生き延びたのだ。

 そのような事情を一通り聞いてから、老人は大きく。深く頷いた。

「ベルセルク――そうおぬしらが呼ぶ現象は知っておる。確かに、その力をもってすれば〈神々の住処〉の真ん中に二度と消えない大穴を穿つことも可能だろう。にして、も……そうなった代表戦士を相手にしてなお勝つとは、さすがというかなんというか」

「たいしたことでもないですよ」

 どうでもいいことのように、真紀は言う。

「結局、決着はつけられなかった」

「『大魔法』に比肩する力をも持つという神の戦士を相手にしてその傲岸、恐るべし。《魔法世界》のすべての戦士と騎士と魔法使いが、その言葉を聞いた時にどんな顔をするのか、想像がつくな。海が干上がってもしないほどに青ざめるであろう。現に、わしがそうなっておる」

「嘘」

 笑っている――じゃない。

 そう言いかけたが、やめた。

 こうして外に出て戦闘者の類と話すのは三年ぶりだが、向こう側、いや、騎士だの戦士、剣士だのという人種がどういう存在なのかは身をもって知っている。

 話に聞いた武勇談などで顔が蒼くなるような、そんなやわな連中なんかではないはずだ。

 それが仮に、自分のことを直接知っていたにしても。

 老人は「嘘ではない」と言ってから。

「に、しても、神霊憑きと戦ったとなれば、生き延びただけででも大金星であろうに。確かにあの時の被害は、周囲の国々多大な被害を与えたとは聞いているが」

「仲間が死んだんです」

 簡潔に、真紀は答えた。

「それも、私が邪魔をするなって拒んだせいで」

「それは――」

 老人も、言葉が詰まったようだった。

 そうなのだ。

 当時の状況において、真紀の行動はただ戦闘行為という点ではなんら問題はない。

 ベルセルクなどという超常の存在と戦えたのはあの時にあの場所にいたのは彼女だけで、どうにかしようと護法を送り込もうとした人間は空気が読めてないという以上に状況が解っていない。獣同士の争いでも、第三者が入り込もうとしたのならばまず協力してそれを排除しようとする、という。あの時の真紀もあの子も人間ではなくまだしも獣に近かった。まだ片方だけで済んだのはましだった、というべき事態だ。

 それでも――それで、その人は死んだのだ。

 より正確には、護法を破られたショックで失神した直後に、あの大爆発に巻き込まれたのだ。

 他の兵法者や修験者はどうにか護身法なり転移術なりで災禍から免れたが、彼女だけはそれができなかった。

 今も遺体は見つかっていない。

 だが、生存は絶望的だ。

 そしてその時のことを、生き延びた者たちは詳細に報告している。確かに隊長は『抜刀許可』を得ずに刀を抜き、援護しようとした者に攻撃を加えた、と。

 ……実を言えば、御法真紀が軍法会議にかけられた理由は、後者ではなく前者が主だった理由だった。絶対に個人の事情では抜くことが許されない抜刀をしたというのは、規律が第一の軍隊では許されるはずがない。勿論、特別な事情があるとなればそれなりに酌量される余地はないでもないのだが、援護を拒否したということが私闘であるという印象を強く与えたのは間違いない。

 結果として、彼女は三年間にも及ぶ幽閉生活を余儀なくされた。

『抜刀許可』を破った罰としては破格に軽い刑であったが、御法真紀という兵法者のキャリアはここで終わった、といっても過言ではなく、また彼女ほどの達人が軍紀違反を犯したことは表沙汰にはしたくないという政府の意向もあり、世間にはほとんど報道されなかったのである。

「なるほど」

 老人は納得したように頷いた。

「道理で、おぬしの話を聞かぬはずだ。いや、訝しんではいたのだ。あの魔人の故国とあれば、その噂も数多と聞くこともあろうと思っていたのに、こちらに流民として来てより、ほとんどその名も聞かぬ。聞くことがあったとしても過去の話ばかり」

「……はい」

 真紀はそう言いながら、流民、という言葉にひっかかりを覚えていた。この国にあちら側の人間がいる以上、その可能性は高いとは考えてはいたが、この老人のような使い手が流民、というのは考えられるケースは多くない。

 恐らく騎士でありながら亡命者でもなく流民――ということは、祖国を失っているということを意味する。

 騎士階級は主に殉ずるものだからだ。

 主のある限り、騎士はそのために戦う。

 あの日以来、多くのあちら側の国々は混乱に陥った。その中の幾つかは王家の者がこちら側に亡命し、仕える騎士や魔法使いもこちらに移動した。この老人もそういう中の一人であると思っていたのだが、違うとなると……。

(滅んだ国の騎士……日本にいるとなると、かつての友好国で――)

 まさか、と思った。

 まさか、と思いたかった。

(ならば、見覚えがあっても、全然不思議ではなくて……)

 否定したいのに、否定できない答えばかりを脳みそは生み出していく。

 いつから、自分の頭はこんなにポンコツになったのだろう、と思う。

 ずっと以前、三年以上前は、こんなことでいちいちびくびくしたりはしなかった。どんな絶望だって、乗り越えることができた。どんな怪物だって、倒してきた。どんな罵倒にも負けたりしなかった。

 なのに、今は弾劾の言葉のひとつも聞けば心が壊れてしまいそうだ。お前は役立たずの人殺しだと言われたら、それだけで涙が止まらなくなってしまうのではないか。

 老人は、俯いて黙り込んだ真紀を見て、何かを察したのか何も解らなくなったのか、「ふうむ」と唸り。

「それで、晴れて解放されて――お主はこれからどうするつもりなのだ、兵法者、御法真紀よ?」

「それは――」

 言おうか、と思ってから、躊躇ためらう。

 そのことはまだ確定しているわけではないし、そもそもを言えば自分のやる気もほとんどない。だから、躊躇う。

 だけど。

「教官になってくれ、と昔の知己から頼まれています」

「教官?」


「政府の兵法者養成機関――通称『講武所』の」


 そうなのだ。

 三年で蟄居の開けた真紀には、仕事といえるものはなくなっていた。かつての軍籍は剥奪こそされなかったものの予備役扱いとなっている。所属していた部隊はとうの昔に解散されて再統合され、もはや彼女の戻る場所ではなくなっていた。であるのならばずっと以前のようにフリーの兵法者として仕事をするということも考えなくもなかったが、凶状持ちの自分を雇ってくれるところなどこの地上の何処にもないだろう。あったとしても、それはヤクザかそれと大差ない非合法組織くらいだ。

 そんな彼女に『講武所』が声をかけてきたというのは、ありえないことと言ってよかった。

 なぜならば、『講武所』は兵法者と呼ばれる第一級の戦闘者を養成し、世に出す機関だからだ。

 兵法者たるもの、技量のみならず品行方正であるべし。

 そんなお題目の元に素質のある希望者を鍛え、振り落し、育てあげていく機関なのだ。

 そこに自分のような人間が……いや、ひとでなしが教官として任官するだなんて、あっていいはずがない。

 そもそもが、未来を失った自分が後輩になる者の未来のための手本になるだなんて、考えるだにおぞましい。

 なくなった自分の未来を託すだなんてそんなきれいごとを、真紀は信じていない。

 失ったのは自分で、まだ失っていない後輩たちは、自分のために学び、戦えばいいのだ。教官になるべき人というのは、何かを補うためではなくて、何かを与えるために生きてくことができる人であるべきだ。

 そう思う。

 だから、自分はこの老人に叱られると思う。

 自分らの未来を奪った者たちが、後ろ向きに考えて後輩に教えることになるなど、決して高潔な騎士であったものは認めまい。

 そして、それをこそ今、彼女は求めていたのだ。

 果たして老人は「うーむ」と難しげな顔をして。

「五年前、だったかな。お主が火の国にきたのは」

 と言った。

 真紀は目を閉じた。

 やはり、と思っていた。

 火の国――それは、かつてあった《魔法世界》の古い王国の名だ。神話時代よりの命脈を今に伝える国は数多あれど、地水火風の四大を冠するその国は特別な位置と意味を持っていた。不落の伝説と不滅の神話があった。幾百とあった大乱を生き延びた国だった。あの“大衝突”においてさえ、国体の護持を揺るぎなく保ってきた国だった。

 それが、五年前に、全てが崩壊した。

 たった一人の兵法者の手によって。

 御法真紀の手によって。

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