かいじん(灰塵・灰燼)

 アモールは後ろ手でドアを閉めた。

 あの世界からプシュケを連れ出すことには成功した。だが……

 ――触らないで!!

 部屋に入る前、彼女はうなされていた。叫んでいた。

 てっきり、泣いているものだと思っていた。視力を失い、ゼノンも失い、国も失い、資産もなく、帰る場所もない。自分を連れ去った人物は誰なのかも分からず、ここが何処なのかも分からず、これから自分がどういう扱いを受けるのかも分からない。味方はいるのか、敵の数と勢力はどの程度なのか。自力で活路を見出すには、失ったものが多すぎる。行先の見えなさに、泣き崩れているものだと思っていた。

 ――キサマが神託で言っていた怪物か。

 驚いたことに、彼女は毅然としていた。吹けば飛ぶような虚勢なのだろうが、それでも、おのが誇りを見失うことなく、アモールを出迎えてみせた。

 だから……だから、彼女の口からを聞いた時は、憤怒とも悲哀とも言えない感情が渦巻いた。

 あってはならない事だ。

 一度だって、あってはならない事だ。

 彼女はそれを経験したのだ。それでも尚……何もかも失った今だって尚、彼女は気高さを見失わない。

 プシュケの人生を想像してみた。だが、実際の彼女の人生はこんな想像の域を超えていることだろう。

 僕に同じ人生を送れるだろうか?

 愚問だ。

 そういう話ではない。その人生を送れる、送れないの話ではない。彼女は生きていくために今日までやってきただけのことだ。できるできないではない。そういう人生を与えられてしまった限りは、やるしかなかったのだ。

 不幸にすべきはプシュケではない。プシュケではないのだ。なのに、僕は何も知らずに……。

 くっそ……ッ!

 自分自身を赦せなかった。だが、それ以上にプシュケの父親を赦すことはできなかった。

 今からでもいいから、プシュケの父親をこの拳で撲ってやりたい。

「おいおい。すっげー顔してんなぁ、ハニービー」

 柱の影からゼピュロスが姿を現した。目を見開くアモール。

「いつからそこにいた」

「こわっ……」

 自分自身への怒りと、プシュケの父親に対する怒りで、腹の底を沸騰させたアモールの眼は、ゼピュロスを容易く射竦めさせた。

「ん~。その様子だと、おひいさんが過去に何をされたのか、知っちまったんだな」

「黙れ……」

「とんだ傷物拾ったなぁ~、とか思ってるぅ?」

「この――ッ!!」

 アモールはへらへら笑うゼピュロスに大股で歩み寄り、胸ぐらを掴んだ。ゼピュロスから瞬時に表情が消えた。

「思ってはないわな。分かってる。おひいさんの前で取り乱さなかっただけでも、お前はよくやったよ」

「黙れ!」

 アモールはゼピュロスを突き飛ばした。柱に背をぶつけたゼピュロスは、痛そうに自分の背中を撫でた。その姿に、アモールの頭の血管を脈打たせていた血流が、徐々に落ち着きを取り戻していった。

「すまない。この怒りを君にぶつけるのは間違っている……」

「気にすんな。先に挑発したのは俺だし」

「……」

 水鏡に映る彼女からは想像もできない過去だった。未婚の王女だというだけに、であると疑いもしなかった。

 どちらなのか分からない、ではない。そうであるに違いない、と思っていた。そうであるからだ。

 通常の王女としての生活なんて、何一つできてやしないじゃないか。

 女神と崇められ、純潔も早々に奪われ、人間としても扱われず、愛されることもなく、しかし、その苦しみが見た目から分かるわけでもない。公的な情報のみでは、彼女の内に住まうモノなど想像できまい。

 苦しいということが伝わらない。分かってもらえない。自分の苦しみが軽視されていく。なかったことにされていく。自分の苦しみなど、他者から見ればこんなものなのだと思わされる。それがどういうことなのか、このと関わってきた者達は理解しているのか?

 彼女はそんな経験を何度も何度も数え切れない程味わってきたのだ。そして、僕も彼女のことを何も知らず、誤解してしまっていた。

 笑っていた。彼女は笑っていたのだ。

 そして、僕が怒り狂うのを待っているかのようだった。

 それは、そういう目に合ってきたからだ。ずっと。ずっと――……。

 誤解を解く度に、相手は怒り、彼女を罵る。

 もしくは、泣き崩れ、恨み言を彼女に浴びせるのだろう。

 理解されない。誤解を解けば、罵倒される。彼女自身の苦しみは、誰も取り扱わない。誰も見向きもしない。悪いのは彼女、それで終わってしまうのだ。嫌なものばかりが、彼女の中に溜まっていくのだ。

「今のお前は、一人の命を預かる身だ。そこらの犬猫を拾ってきたのとは訳が違う。お前の覚悟の程を聞こう。おひいさんは、俺にとってはどうでもよかったんだが、それでもおひいさんはゼノちんの大事な半身だ。お前の手に余るってんなら、俺の宮殿の奥で永遠に眠っててもらう。下手な扱いされるより何倍もマシだ」

 柱に背を預け、腕を組んだゼピュロスが、射抜くような視線をアモールに向けた。

「僕が僕の意志で彼女をここへ迎えた。その選択に後悔はない。この先、何を知っても、何が起きても、責任は取るつもりでいるよ。それぐらいのことをしたという自覚ぐらいあるし、最初からそのつもりじゃないとこんなことしない」

「おひいさんのことを嫌いになっても?」

「『嫌いになった』は責任を取らない理由にはならない。嫌いになってしまった時は、感情ではなく、理性的にお互いにとって何が一番いいのかを考えるだけだ。我身だけの損得で動いてはいけない」

「言うは易く行うは難し、だな」

「それでも行うしかない。彼女のこれまでの人生を考えても、できる・できないではなく、こうなった以上はやるんだ」

「ご立派な解答だな。さっき言ったこと、そのままメモに残すぞ。毎年お前の目の前で、そのメモを音読してやるよ」

 ゼピュロスは柱から背を離し、意地悪そうにニヤリと笑った。

「構わない」

 物怖じせず、キッパリ言うアモール。ゼピュロスは組んでいた腕を解いて、ぐいっとアモールに顔を近づける。

黄泉戸喫よもつへぐい。これから、おひいさんに食べ物を与えるんだろう? 天界の食べ物を出せば、人間界へは戻れない。ハデス冥界のじじいに拉致られたペルセポネ春の乙女と同じだ。冥界の食べ物を食べたせいで冥界に半年間過ごさにゃならん。あれは少量しか口にしなかったからな。ならば、おひいさんには充分な量を食べさせればいい」

 ふっと微笑むゼピュロス。

「お前のことだ。天界の食べ物を出すか、人間界の食べ物かを出すかはおひいさんの意志を確認してから~、とか眠たいこと言うんだろうな。それも、というだけだ。今回の場合は、問答無用で天界の食べ物を出しちまっていいと思うんだよなぁ~、俺は。だって、食べたくなかったら食べないだろう? 食べたくなかったら餓えて死ねばいいだけだ。人間界に戻ってもおひいさんには何もない。戻ったところで、あ~んな焼け野原で何をしろってんだ? おひいさんにあるのは、天界で生きるか・そのまま死ぬかの二択だ。連れて来た限りは、天界で生きる覚悟を決めてもらうしかない」

 至近距離の舐めるような、品定めをするようなゼピュロスの眼に、アモールは居心地の悪さを感じてたじろぐ。そんなアモールに、ふんっと鼻を鳴らすゼピュロス。アモールの耳元に口を寄せた。

「おひいさんとしては、天界に留まるにしてもお前に捨てられたらお仕舞いだ。お前がおひいさんをどう扱っていきたいかが答えだろうが。そのくらい、お前のやる事なす事全てがおひいさんの今後を左右する。忘れるな」

 低く、重量のある囁きだった。冷水を静かに頭の上から流されたかのような寒気が降りる。

 ぞわり……。アモールは鳥肌が立った。

 ゼピュロスはアモールに接近していたその身を引き、アモールの肩を軽く叩く。

「味見が必要なら呼べよ~。それと、おひいさんを食べさせた後でいいから、俺にも何か作って。お前の料理美味いから、遅めの朝食として久しぶりに食べたい」

 ゼピュロスは鼻歌を歌いながら、狭い方の食堂トリクリニウムへと歩いて行った。(※古代ローマでは、中流階級以上の居住には食堂が二つ以上ありました。広い方の食堂は大人数で食事をする際に用います。)

 アモールは胸を撫で下ろし、台所クチーナへと足を向ける。人間界の食材は、信者からの供物がある。供物として捧げられた時点で天界に届き、以降はそれ以上腐ることもない。(※オリジナル設定)

 神が人間界の食物を口にしても、黄泉戸喫よもつへぐいのようなことは起こらない。しかし、その逆はそうでもない。ゼピュロスが言っていた通り、天界の食物を人間が一定量以上を口にした場合、その人間は二度と人間界へ戻ることはできなくなる。(※オリジナル設定)

 天界の食材を使うべきか、人間界の食材を使うべきか……。

 アモールは天界で採れた林檎を一個手に取った。この林檎一個分は、プシュケは二度と人間界へは戻れなくさせるには充分な量だった。

 アモールは、その林檎を手にしたまま水瓶の水面を使って、人間界の様子を確認した。――プシュケの国は赤黒いマグマに覆われ、何もかもが焼けていた。国民も、付近の国の民も、皆焼け死んでしまったことだろう。無論、プシュケの両親も……。

 他の国にプシュケを返したとて、人間扱いなどされないだろう。盲目な上に、資産も権力も持たないが故に、今までよりも酷い目に遭うかも知れない。「それでもいい」と彼女が仮に答えたとしても、僕はそれを聞き入れることはできない。

 天界にはアフロディーテがいる。安全とはとても言えないが、いつ、誰に、何をされるのか分からない人間界よりはマシなはずだ。それに、アモールの本当の姿を一年間プシュケに見られなければ、アフロディーテは今後一切プシュケに手を出さない。条件を満たすことさえできれば、天界の方が圧倒的に安全だ。

「戻る場所はない……か」

 戻れないのは僕も同じだ。

 アモールは内心呟いた。

 ここまで来た以上、僕も引き返せない。

「そうだった。彼女にとって、今の僕は死の怪物だったな……」

 アポロンのふりをして神託を述べた時も、人間界に戻れないことを伝えていた。喪服を着るように指定したのも、人間界への未練を少しでも断ち切ってもらうためだった。結局、約束よりも早く天界へ連れて来くることになってしまったため、彼女が喪服を着ることはなかったが……。

 ――だって、食べたくなかったら食べないだろう? 食べたくなかったら餓えて死ねばいいだけだ。

「今すべきことは、君のために料理を作ること」

 アモールは早速調理に取り掛かった。

 プシュケの食事のために事前に仕込んでおいたヒヨコ豆の水煮と肉と野菜で作ったブイヨンで、スープを作ることにする。

 人参、玉葱、セロリをみじん切り。豚肉も細かく切っていく。釜戸に火をつけると、釜戸に設置した鍋にオリーブオイルを入れ、先程切った野菜と豚肉を投入する。少し炒めたら、塩胡椒に、ブイヨンと、水切りをしたヒヨコ豆の水煮と、水を入れてじっくり煮込む。

 スープを煮込んでいる間に、林檎の皮を剥き、12等分に櫛切り。林檎の種と芯は取り除く。炉に火をつけてフライパン(※古代ローマ時代には既にフライパンに類似する柄付きの平鍋が存在していました。)を熱している間、蜂蜜とシナモンパウダーをよく混ぜ合わせる。シナモンパウダーが飛んでしまぬように、丁寧に混ぜ合わせていく。シナモンの甘い香りが台所に広がる。

 フライパンが温まったところで、バターを入れて、焦げないように溶かす。バターが溶けたところで、切った林檎を並べて、軽く焦げ目がつくまで火を通す。

 林檎に軽く焦げ目がついたら、ひっくり返し、先に混ぜておいた蜂蜜とシナモンパイダーを林檎にかけるように入れていく。

 照りが出るまで時折匙で汁を林檎に掛けながら煮込んでいく。

 いつもよりも長めに林檎を煮込んでから炉と釜戸の火を消した。林檎とスライスしたパンを別々の皿に乗せ、充分に煮込んだスープを器に注ぐ。食事を運ぶためのランチョントレイにそれぞれの皿とカップを並べて、ナイフとフォークとスプーンを乗せる。

 林檎のソテーはそのまま単品で食べるのもよければ、パンに乗せて食べてもいい。今回は長めに煮込んだ分、林檎は体調が悪くても食べやすい柔らかさになっている。

 どうして僕は彼女にここまでするのだろう?

 疑問が浮かんだ。

 少し考えてみたが、明確な答えが出なかった。ただ、僕はこの状況を面倒だとも、嫌だとも思っていないことだけは確かだ。

 彼女に好かれたいのか? ――違うな。好かれたいんじゃない。幸せになって欲しいという願いだ。

 つまり、彼女を応援したいのか? どうして幸せになって欲しい? そこに僕がいる必要はないんじゃないか?

 ……それでも、今の彼女には僕が必要だ。

 アモールはランチョントレイを持って、プシュケがいる寝室へ向かった。ドアの前でバランスに気を付けながらトレイを片手に持ち、ドアをノックする。

「プシュケ。食事を持ってきたよ」

 ドアノブを持ち、ドアを開けた。ドアが開いた音に、プシュケはベッドの中で微かに身を強ばらせる。アモールが部屋を出た時は上半身を起こしていたが、今はぐったりとした様子で横になっていた。緊張と、疲労と、貧血が彼女をそうさせているのだろう。窓から射し込む陽光が、プシュケの青白い肌を照らしている。

「甘い……匂い?」

 部屋に漂いだしたシナモンの香りに、プシュケは鼻をひくひく動かして反応した。

「シナモンの匂いだよ。この匂いは嫌い?」

「嫌いじゃない……」

 プシュケは起き上がろうと試みるが、上半身を起こすこともままならない。結局、諦めてベッドの上で大人しく横たわる。ずっと気を張っていたのだろう。起きた直後よりも体調が悪い。

「頭痛い。気持ち悪い……。つらい……」

 温かい食事の香りに気が緩んだのか、プシュケの声は泣きそうに震えていた。

 アモールはサイドテーブルに食事を乗せ、ベッド脇の椅子に座った。

「食事はできそう?」

「……食べなきゃ治らない。血が足りない」

「……うん。そうだね。でも、プシュケ。この食事は――」

「知っている」

 さっきまでの弱々しかったプシュケの声が打って変わった。それは、芯の通った声だった。

「え?」

「俗に言う黄泉戸喫だろう。この世界で飯を喰らえばどうなるのかぐらい、理解している。それとも、キサマがしたかったのは別の話だったか?」

「いや……君の言う通りだよ。それでも食べるの?」

「下らん。神託を聞いた時から、覚悟はできている。目を潰したのは、自分でも誤算だったが……。どうにせよ、私に帰る場所などない。今更それが何だと言うのだ。黄泉戸喫……。上等だ。喰らってやる」

 プシュケは身を起こそうとするが、やはり起き上がれない。「うぅ……」と、また泣きそうな声を出す。

「食べられない……。食べさせて」

 プシュケの変わり様にアモールは思わず吹き出しそうになったのを堪えながら、上半身を起こさせ、背中とベッドの間に枕やクッションを入れて誤嚥防止の傾斜をつけさせた。林檎のソテーをナイフとフォークで一口サイズに切ると、プシュケの口にそれを近付ける。

「はい。あーんして」

「自力で食べれたら、こんなことには……ッ」

 プシュケはブツブツ言いながらも、口に運ばれる林檎のソテーやスープを、ゆっくりだが嫌がることなく食べる。

「今はしっかり休まなきゃならない時期なんだよ」

「……」

 食べ始めは小言を言っていたが、流石に頭を起こしている状態がつらいのか、プシュケは何も喋らなくなった。

「やっぱり、横になったままの方が楽かな?」

「いい」

 プシュケは小さな声で短く答えた。

 その後もプシュケは黙々とゆっくり食べ続けた。パンは一口も食べられなかったが、林檎のソテー全量と、スープ半量食べることはできた。

 食べ終えたプシュケは掛け布団を自力で掛け直すこともできないほど力尽きていた。アモールは枕をベッドの端に置き、クッションを足の下に入れた。頭部を足よりも低くすることで、脳へできるだけ血が流れるようにしたのだ。

「頭痛い。吐かないように頑張るけど、吐きそう……」

 プシュケはアモールに布団を掛け直してもらいながら、苦しげに訴えた。

「ベッドは汚してもらって大丈夫だから。桶か何か持ってこようか?」

「……一応持ってきて」

「分かった」

 アモールが食事を下げて、桶を持って来た頃には、プシュケは寝息を立てて夢の中へと旅立っていた。

 部屋に残るシナモンの香り。心地好い陽光。穏やかな光景だった。

 だが、次に彼女が目を覚ますのはいつなのだろうか……。

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