かたく(火宅・仮託)

 君は僕を見ない。こうして腕の中にいるのに、君は僕を見れない。

 最初は水鏡越しだった。次は、姿を隠して、声だけが届いた。今は、こうして触れているのに、これほど近いのに、姿も隠していないのに、君のは僕の姿を映すどころか――

 血の滲んだ包帯が痛々しい。だが、痛々しさそのものは、包帯からではなく、彼女の全身から溢れ出していた。窓から身を投げ出し、アモールの腕の中で眠りだしたプシュケは、まだ目覚める様子がない。

 プシュケが眠った寸刻、火山が噴火したため、アモールはプシュケを腕に抱えたまま、天界へと急いだ。人間界のプシュケの王宮は、マグマで焼かれていることだろう。

 今しがた、天界にあるアモールの宮殿の前に着いたのだが、宮殿の入り口には、仁王立ちで待ち構える者の姿があった。腕組みでご自慢の豊満な乳房を強調させながらも、鬼の形相をしたアフロディーテだった。

「見てたわよ」

 頬の筋肉を怒りでヒクつかせながら発した第一声だった。アモールは動じることなく、アフロディーテを静かに見つめ返す。それが余計に腹が立ったのか、アフロディーテは舌打ちをする。組んでいた腕を解いて、アモールの腕に抱えられているプシュケを指差した。

「何をどうしたのかは知らないけど、この餓鬼の目を自分自身の手で潰させたのと、国をマグマで焼き払った所までは最高だったわ。だけど、これはどういうこと!? あのまま地面に叩きつけてやればよかったじゃない!」

「僕はもう二度と貴女のために力を使わない」

 母と呼ぶことをやめた。敬語を使うこともやめた。アフロディーテの息子としてではなく、アモールという名の一柱の神として、自分の意見を述べた。

「……なんですって??」

 アフロディーテは、信じられないものを見ているかのように、口をぽっかり開けて、目を見開く。プシュケを指差していた腕がゆっくり下りていく。

「アンタは私が拾ってやったのよ! アタシが拾った、アタシのものなのよ!」

「この力は僕の力だ。貴女の力じゃない」

「クソが! アタシが拾ってやらなきゃ、あのまま消えてた癖に、恩を仇で返しやがって……ッ!」

 アフロディーテの平手がアモールの左頬に直撃した。口内に鉄の味。口の中が切れて出血したようだ。平手打ちを食らった左頬が、アフロディーテの手の形に熱を持つ。鏡を見なくても、自分の頬が赤くなっていることは分かった。

「その餓鬼を捨ててきなさい!」

「捨てない」

「このアタシが捨てろっつってんだろうが!」

「捨てない」

「クソ野郎! 意地でもアタシの言うことは聞かないつもり!?」

 アフロディーテは恨めしくアモールを睨みながら、爪を噛んだ。

「形や経緯はどうあれ、僕とこのがこうして出逢ったのも一つの縁だ。この縁をどう扱うかは、僕の勝手だ」

「じゃあ、アタシがこの女をどうしようが、アタシの勝手ね」

 アフロディーテがプシュケに手を伸ばして一歩近づくと、その手がプシュケに触れないようにアモールは一歩後ずさる。

「……さっきから何なの?」

「このを傷付けるようなことは、もうしないで欲しい」

 アモールはプシュケを庇うように、体を横に捻らせた。アフロディーテはみるみる内に顔を真っ赤にさせる。

「何なの?! そもそも、その餓鬼が――」

「このが貴女に何をしたっていうんだッ!」

 アモールの怒声に、アフロディーテの体が強張った。

「でも……だって、コイツがアタシより美しいとか、ちやほやされてるから……」

「でも? だって? 相手は人間じゃないか。人間は神のような力もなければ、否が応でも年老いもするし、命にも限りがある。そして、貴女は神だ。力もあれば、年老いもせず、命に限りもない。貴女がすることに、この娘は抗う術を持たないんだ。貴女はそんなの唯一無二で有限の人生の中で得られたはずの愛を、愛されない呪いによって理不尽に奪ったんだ。それがどれだけむごいことか、分からないとは言わせないよ」

 アモールは、冷めた目でアフロディーテを見据えた。

「僕達のことは、放っておいて欲しい」

「ほっとけ? ほっとけるわけないでしょ!? 人間の癖して、弱者の癖して、アタシの顔に泥を塗ったのよ!」

「神は人間の信仰によって力と存在を維持している。人間が誰一人信仰しなくなり、その名も歴史のいざこざの中で消え去れば、僕達の存在は容易く消える。貴女がさげすんでいる人間によって生かされている存在こそが僕達だ」

「じゃあ、コイツはアタシの信者を横取りしたのよ。アタシの存在を危うくしたのよ!」

「貴女の信者が、貴女ではなくこのを信仰するようになったのは、貴女がその程度神であって、信者もその程度の信者だったということでしょ? 心から人間に愛される神は、より容姿が優れている者が現れようが、能力の勝る者が現れようが、その信仰は揺るがない。このに罪はない。不平不満を募らせたり、嫉妬や妬み、僻みで他者を無闇に傷付けてばかりいる貴女より、このの方が王女としてよっぽど国民しんじゃ達のことを想っていた。その結果、もたらされた事実にすぎないんだよ」

「その結果がアタシがその餓鬼に存在を危うくさせられたのよ! それが答えよ! それが全てよ! コイツはアタシを攻撃したも同然よ!」

「結果は答えじゃない。単なる事実だ。もう一度言わせてもらうけど、このに罪はない。何度も言わせないで」

「このクソがァッ!!」

 アフロディーテは怒りで血走らせた目をアモールに向け、腹の底から湧き出る憎しみを全て乗せたかのように重量のある声を発した。

 自分の感情も上手く処理できずに喚くしかできない憐れな女神だ。

「もう、貴女に手を貸さなければ、邪魔もしない。僕達のことは放っておいて」

「嫌! 無理!」

 アフロディーテは駄々っ子のように首を横に振る。

「どうして?」

「私の気が済まない! こうなったら、アレスに頼んで、コイツを殺して貰うわ!」

「……貴女の邪魔はしないと言っているのに?」

「存在そのものが邪魔! 存在が気に入らない!」

「このの存在が気に入らないのは何故」

「アタシより美しいからよ!」

「美しかったら何」

「何って……ッ! ムカつくじゃない!」

「ムカつくから殺すの?」

「そうよ!」

 なんて身勝手な理由だ。

「そもそもアンタ、コイツをどうするつもり?? 飼うの? 目も見えない、力もない。国もなくなって、帰る場所もない。その包帯と目の傷じゃあ、ご自慢の美貌も台無し! こんなの、存在価値もないただのゴミ屑じゃない! とっとと捨てるか殺すかすべきよ!」

「まずはこのの目を治すよ。治して、それからどうするかは、このと一緒に考えたい」

「治す? 治したら、アンタの本当の姿を見られちゃうじゃない。偽りのチビの姿でこの餓鬼と一緒に暮らす気? 飼うなら、汚い傷を残して、潰れた目まま――」

 アフロディーテは何か閃いたのか、ハッと口を手で覆った。そして、にんまり笑みを浮かべる。

「……そうよ。その目を治せばいいのよ。アンタがこの餓鬼に本当の姿を見られずに、半年……いえ、一年間一緒に過ごすことが出来たら、アンタ達のことはほっとくわ。今後一切、コイツにも手を出さない。約束するわ」

「一年以内に、本当の姿を見られた場合は?」

「人間が肉眼で神を見てしまった場合、その人間は罰を与えられる。それはこの餓鬼にも当てはまるわよね? アタシが直接手を下さずとも、勝手にコイツは不幸な目に遭うのよ。どんな罰を与えられるのか、楽しみじゃない? そこにアタシが更に追い打ちをかけてやれば、最ッッッ高ォオじゃない!」

 目を輝かせながら、残酷なことを言うアフロディテに、アモールは眉を寄せた。

「それは――」

「これが呑めなかったら、すぐにでもアレスに頼んで殺して貰うわ。苦しみながら死ねって思ってたけど、こんなにしぶといなら、とっとと殺しちゃった方がいいに決まってる。でもね、アタシもかなり良心的だと思うわよ? だって、たった一年間無事に過ごせたら、アタシは何も干渉しないんだから、悪い条件ではないでしょ? まあ、コイツが一年間、どんな姿なのか、本当は何者なのかも分からない正体不明の男に匿われ続けて、どう思うか……だけどね。あ~、アタシったら、なんて優しいのかしら~」

 アフロディーテは、悪びれる風もなく、ふふっと笑った。アモールは毛が逆立つほどの怒りを覚えた。

「こんなの脅しじゃないか! 貴女はどこまで自分勝手なんだ。どれだけこのを苦しめれば気が済むんだ! このの人生を、一体なんだと思っているんだ!」

「何言ってんの? アタシだけじゃなくて、み~んな我が身のことばっか考えて生きてんのよ。なんなら、問答無用でこの女を殺してやってもいいのよ?」

 ゼノンなら、きっと上手く切り返せるのだろうが、僕は……

 どう切り返せばいいのか、何も浮かばない。

 こんな僕がプシュケを守れるのだろうか……。

 弱気になった。圧倒的と言えるほど、ゼノンは優秀な男性おとこだった。自分では、到底かないそうにない。

 ……違う。そうじゃない。そういう考え方で、この問題と向き合っても解決にはならない。僕がやるんだ。他の誰でもなく、この僕がやるんだ。ゼノンのように上手く切り返せなくてもいい。今、この目の前にある問題に対して、今の自分にできるベストを尽くす。やるべきことをやる。僕にできることは、それをひたすら繰り返すことだ。『ゼノンならできる』ではない。『ここでできる僕のベストは何なのか』を考えるんだ。

 一番回避せねばならないことは、プシュケの死。条件を無視すれば、怒り狂ったアフロディーテは何をしでかすか分からない。僕が上手く切り返せない以上、この条件は呑むしかない。だが、ただ呑むだけでいいのか?

「分かった。条件を呑むよ。ただし、一年間無事に過ごせなかったとしても、このの命に関わることは絶対にしないでもらいたい」

「はぁ? 何なのそれ?」

 馬鹿らしそうに、鼻で笑ったものの、ふと何かを思い立つアフロディーテ。

「――そうだわ。あの男よ」

「あの男?」

「コイツの傍にずっといて、怪我したコイツの看病もつきっきりでしていた凄く綺麗な男のことよ。コイツが窓から落ちてからは、その男の様子を見ようにも、何故か水鏡の水面が風で波打って、生きてるのか死んでいるのかすら確認ができないんだけどね。もし、アンタが失敗したら、その男を連れてきて。人間界からでも、冥界からでも、どこからでもいいから必ず。連れてきてくれたら、赦してあげる」

 ゼノンだ。

 生死が分からないのが気になるが、アフロディーテがプシュケの様子を見ていたとなると、必然的にプシュケと一緒にいるゼノンも見ていたことになる。

「彼を見た瞬間、『アタシの理想が服を着て歩いてる!』って思ったわ! アポロンよりも美しいかもしれない! いえ、絶対そうよ! 彼ほど完璧な男は天界にもいないわ! 絶対にアタシのものにしたい! 連れてきてくれるだけでいいの! このアタシに会って、落ちない男なんていないもの!! ――ああ~。でも、連れてくる前に声を掛けてよね。最高に綺麗なアタシで出迎えたいから、身支度の時間を頂戴。絶対に逃がせない獲物なんだから! 彼が手に入るのなら、今アタシと付き合いのある男全員捨てたっていい! なんだったら、過去にアタシと付き合いがあった男とも完全に縁を切ったっていいわ! 他の女のものになっていたら、その女を殺して奪い取ってやる!」

 アフロディーテの興奮の度合いからして、どれだけ彼女がゼノンに入れ込んでいるのかは明白だった。

 確か、ゼノンとアフロディーテは以前に一度会っているはずだが……。断られたこともあって、アフロディーテは記憶から消してしまったのだろう。彼女にとって、自分の誘いを断られるなど、あってはならない。この様子だと、まるっきり覚えていないようだ。

 ゼノンがアフロディーテに靡くわけないだろうし、ゼノンもプシュケの命に関わるのなら承諾してくれるはずだ。――きっと僕は、ゼノンにぐうの音も出ないほど徹底的に責められるのだろうけど……。

「分かった。それで構わない」

 後でゼノンに責められることを覚悟で、アモールは頷いた。

「じゃあ、今日からキッチリ一年間ね。あの男が手に入るのが楽しみだわ~。アタシの理想そのものだもの!」

 鬼の形相で待ち構えていたのが嘘のように、アフロディーテはゼノンのことで頭を一杯にさせて浮き立っていた。

 そのゼノンの正体は、殺してやりたい女の半身であるとは知る由もない。

 アフロディーテは上機嫌で自分の宮殿へと帰っていった。

 アフロディーテの姿が見えなくなったのを確認してから、ようやくアモールはふうっと息を吐いた。宮殿へ入り、プシュケを寝室へと運ぶ。

 肌触りのよい絹のシーツに、羽毛の柔らかな掛け布団のベッドにプシュケを下ろした瞬間――

「んん……」

 プシュケが目覚めた。アモールはまだプシュケとベッドの間から腕を抜いておらず、プシュケの顔が間近にあった。思わず息を止め、身を硬直させた。

「……ゼノン?」

 寝ぼけ混じりの声だった。プシュケは気怠げな動作で手を宙に彷徨わせる。その手がアモールの頬に触れた。アモールは驚きながらも、努めて静かに、浅く息をした。プシュケは、ペタペタと両手でアモールの顔に触れる。アモールの左頬に触れると手が止まった。

「……痛い? これは血が乾いた痕?」

 唇の傷口と血が流れた痕を指でなぞられ、ビクリとアモールの体が反応する。しかし、プシュケがアモールのことをゼノンだと思い込んでいる以上、声を出すわけにもいかず、黙って頷いた。

「誰にやられたの?」

 答えられず、アモールが黙っていると、左頬に触れているプシュケの右手が、アモールの左頬を優しく撫でる。

「夢を……見たの。ゼノンが倒れる夢……。アナタが消えちゃうと思った……。でも、ちゃんと……私もアナタもここにいる……。夢で……よかっ……た」

 プシュケの両手から力が抜け、ベッドの上へと落ちた。直後に聞こえてくる寝息。彼女は再び眠りに落ちてしまった。

 アモールはプシュケとベッドの間から腕を引き抜き、一度大きく息をした。心臓の鼓動が激しい。

 ゼノンに間違えられたとはいえ、プシュケに頬を触れられ、心配されたことに喜びを感じていた。同時に、なんの迷いもなく真っ先に名を呼ばれたゼノンに、微かだが確かな嫉妬心を抱いた。

 羽毛の掛け布団を、そっとプシュケに掛ける。起きる気配は全くない。

 アモールは恐る恐るプシュケの頬に手を伸ばした。柔らかな頬の感触が、掌から伝わった。

 ……嗚呼、僕はようやく君の寝顔に触れられたんだ……。

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