蠱毒(こどく)

 空から地上を見下ろしていると、奴隷と思われる女性が、細い腕に水瓶を抱いて水汲み場にやってきた。石囲いに溜まった水の中に水瓶をつけると、水は不規則に陽光を反射させながら、水瓶の中に吸い込まれていく。水瓶の中では、泡が出来ては消えてを繰り返していた。

 アフロディーテは海の泡から生まれた。アフロディーテの誕生には西風ピュロスも関わっている。ゼピュロスは風の神の中でも特に人々から愛されている神だ。中でも船乗り達からの人気は絶大だ。北風のような荒々しい風に苦しめられる船乗り達にとって、春の季節風でもある優しく穏やかな西風は、どの風よりも安全に船を導いてくれる風なのだ。ゼピュロスはその優しい息吹で、海上の真ん中でまだ泡の中にいたアフロディーテをキュプロス島の海岸まで運んだとされている。

「ハニービー、何見てんの? いい男でもいたか? 親友のオレにも見せろよ」

 人々からは、そよ風だと評されているゼピュロスだが、実際はアモールのことを蜜蜂ハニービーなどと呼び、時々人間の美少年に手を出す男色だ。矢の力を恐れられて他の神からは避けられているアモールにとっては、少々鬱陶しいとはいえ、親交のある数少ない神でもある。

 いくら母親の誕生に関わった神とはいえ、かつてはさほど付き合いはなかった。今では、ゼピュロスが一方的にではあるがアモールのことを親友と呼び、こうして人間界に降りる時に同行する程度に交流はある。きっかけは、ヒュアキントスという人間の美少年の死がきっかけだ。

 元々、ヒュアキントスはゼピュロスと仲良くしていた。そんな二人の姿を見かけたアポロンは、ヒュアキントスの美貌に惹かれ、ヒュアキントスに求愛する。万能神とも呼ばれ、最も美しい三柱の内の一柱でもあるアポロンの求愛を、ヒュアキントスが拒むはずがなく、ヒュアキントスはゼピュロスからアポロンへと乗り換えてしまった。

 ある日、アポロンとヒュアキントスが円盤投げをして遊んでいる所を見かけたゼピュロスは、二人の円盤の投げ合いを止めたい一心で、ヒュアキントスが円盤を受け損ねるよう、風を吹かせた。円盤は軌道を外れ、地面に落ちるかと思われたが、ヒュアキントスは何とか円盤を受けようと落下する円盤に向かって走った。それにより、円盤は地面ではなく、ヒュアキントスの頭に直撃してしまった。ヒュアキントスは即死。アポロンの医学の英知を持ってしても、死んだ人間を蘇らせることはできない。ヒュアキントスは帰らぬ人となってしまった。

 以来、ゼピュロスはアポロンと仲が悪い。アモールもダフネの一件があってからアポロンとは仲が悪い。共通の敵がいると仲が深まりやすいとはいうが、アモールとゼピュロスもそれと同じ原理で仲が深まったのだろう。

 神は人間に姿を見られてはならないが、それは本来の姿であって、姿を変えてなら見られても構わない。姿を変えられる神は、ゼウスがよく行っているように、人間に会うため、姿を変えて人間界へと降りることもある。

 神によって、別の人型への変化の度合は異なる。それは、神としての性質や地位、人々からの信仰具合によって左右されるらしく、神といえど、誰もが自由に様々な人型に変身できるわけではない(※オリジナル設定)。例えば、ゼウスなら普段は髭面だが、人間に会う時は動物を除けば金髪碧眼の色白美青年に変身することが多い。ただし、ゼウスに限っては美青年に限らず人型・動物・無生物問わずどんな姿にも自由に変身できる。ゼピュロスなら、髪の毛が東雲色に変化する程度だ。アポロンとアフロディーテの場合、外見年齢が変化する。二柱とも大きな年齢の変化はなく、二十代ぐらいの外見から、十代後半程度の外見に変わる程度だ。その理由について、二柱とも口を揃えて「元が美しすぎて変えようがないから」と勝手に言っている。

 アモールも、アフロディーテ、アポロンと並んで、最も美しい三柱の内の一柱でもある。だからなのか、アモールも二柱同様に外見年齢の変化ではあるが、二柱と比べて人々からの信仰も神としての能力も劣り、更には十二神の中にも入っていないアモールは、幼児の姿まで外見年齢が退行する。

 アフロディーテの息子という肩書きと母親譲りのその容姿、他に類を見ない特殊な一点特化の能力で、十二神でないにも関わらず知名度だけは高いが、信仰は船乗り達からの絶大な支持があるゼピュロスに劣る。幼児としてもアモールの姿は天使と同じで、人間界に単独で降りる時は、天使に紛れることでしか身を隠すことができない。

 今回、ゼピュロスに同行してもらっているのは、彼の風の神としての能力を利用させてもらうためだ。西風の神であるゼピュロスは、風に姿を変えることができ、風に変身している間は、傍にいる神も風の姿に変えて、人間の目には見えなくすることができる。プシュケを不幸にする男性を探すためとはいえ、天使のような姿で人間界を彷徨いても、悪目立ちするだけで圧倒的に効率が悪い。

「俺のことをハニービーと呼ぶのはやめてくれ。そんな甘くていいものじゃない」

 矢で刺して甘い恋物語を誕生させるアモールを蜜蜂に例えているのだろうが、自分としては甘い恋物語など生み出しているとは思っていない。今やろうとしていることも、かつてミュラーに行なったことも、甘い恋物語とは到底言えない。

「お前の母親には蜂蜜みたいにあっま~い恋愛を提供してるじゃねぇか。オレからすれば、ゲロ甘すぎて糖分過多で死にそうな恋愛だけど」

 アフロディーテの甘すぎる恋愛に浸っている姿でも思い出したのか、うげぇっと舌を出すゼピュロス。

「にしても、あのフェロモン番長は色気の暴力みたいな女だな。というか、フェロモン爆弾? 恋情の帯も装備しているから、火力がハンパねぇ。お陰でいい男がみんなあの女に持って行かれちまう」

「母さんはそういう神様として生まれたからね」

「あのおっぱいだって、おっぱい星人バキュームだからな。おっぱい星人バキューム、略してOSB」

 ゼピュロスはOSBだけやたら発音よく言う。アモールは適当に相槌を打ち、聞き流す。

「全身フェロモン爆弾にOBS、加えて恋情の帯の無敵武装であらゆる男達をノックアウトしまくる恐ろしい女神だ。チートでしかない」

 ふざけた神だと思えるが、本人によると、

 ――ふざけている? 違うな! オレは楽しんでいるんだ。楽しいことほど集中するし、真剣マジになる。だからオレはいつだって真剣マジだ!

 と言っていた。どうやら、真面目な神様……らしい?

「おっ! 噂の王宮から愛しい男ピロスの香りが……!」

 ゼピュロスは鼻でクンクンと空気中に漂う『愛しい男ピロスの香り』とやらを嗅ぐ。

「どんな香りだ」

愛しい男ピロスがオレを呼んでいる!」

 王宮の一室に向かって、まさしく風の如く翔けるゼピュロスの後ろをアモールは仕方がなしについていった。

 愛しい男ピロスとやらがいるらしい一室に着いた。丁度、部屋の主である青年が奴隷に起こされている最中だった。

「……クソッ。眠い」

 青年は枕に顔を埋めて、数秒した後にスイッチを切り替えたかのように身を起こして、ベッドから降りる。

「顔を洗う。洗面器を」

 まだ眠そうな表情で青年が言うと、すかさず奴隷が洗面器を彼の前に持ってきた。洗面器の水で顔を濯ぐと、別の奴隷が持っていた布で顔を拭いた。彼のように朝起きて顔を洗う者は珍しい。

 青年は顔を拭き終え、水分を含んだ布を奴隷に渡す。洗顔前のまどろみが残っていた目は、しっかりと開かれていた。

「あら、いい男~っ!」

 青年の凛とした横顔を見て、ゼピュロスは鼻の下を伸ばした。

「は?」

 青年がこちらを向いた。人間に風状態の神の声は聞こえないはずだが、彼は明らかにゼピュロスの声に反応してこちらを向いた。奴隷たちは青年の着替えの用意をしながら、主人の様子を不思議そうに見ている。

「「え?」」

 アモールとゼピュロスはギクリとして同時に声を上げると、その場で固まった。青年は怪訝な目をする。

「……何をしている?」

「見えてんの?」

 ゼピュロスは小声で青年に訊いた。

「当たり前だろう。西風と……その矢……そっちは父親不詳男か?」

 あからさまに名前を当てたわけではないが、こちらの正体は分かっているようだ。奴隷は主人が何を言っているのか分からず、困惑しながらもトガの着付けを始めた。

「え? ちょっと待って。お前、もしかして……ゼノちん? おっっっとこ前に成長しやがって!」

「ゼノちんじゃない。ゼノンだ」

 ゼノンと名乗った青年と、ゼピュロスは知り合いのようだ。アモールは状況が理解できず、ゼピュロスに耳打ちする。

「どういう関係なんだ?」

「かつて、あまりの美少年っぷりに恋に落ちたオレを、あっさり振った男だよ。九年前にどういうわけかゼノちんの気配がガラッと変わってから、行方知れずだったのに、こんなところで再会するなんて運命じゃな~い?」

「どうして俺たちのことが見えている? 見られても何も起きないのは?」

「ゼノちんは先祖返りだからなぁ。ゼノちんの家系は、ゼウスの血を引く半神の裔の家系だ。僅かな確率だが、神の血を引く人間の子孫の中には、人間の肉体に神と同等の精神体を宿す人間が生まれる。それが先祖返り。神としての力は殆ど無いし、肉体は人間と同じだが、一応曲りなりにもマジもんの神様だ。だから、神様の姿も普通に見れるし、本来の姿をゼノちんに晒しても問題はない。激レアすぎて、オレも最初見たときは驚いた。というか、先祖返りと出会ったのが初めてだったからなぁ。実在するとは夢にも思わなかったぜ。ハニービーは今日初めて見るよな?」

蜜蜂ハニービー?」

 ゼノンは眉をピクリと動かした。アモールを睨むように見ている。

「甘酸っぱい恋を運んでくる蜜蜂ちゃんだから、ハニービー。ピッタリの命名だろう?」

 ゼピュロスは自慢げに笑みを浮かべた。

「貴様が肉食や雑食の蜂だったら、殺してやるところだった」

 ゼノンの発言に、奴隷たちがビクリと反応した。顔面蒼白にさせながら着付けを続けているが、ゼノンは気にしていない。

「ファッ!? いきなりおっかないことを! いくらゼノちんでも神様殺しはヤバいって!」

「どうして肉食や雑食の蜂だと駄目なんだ?」

 アモールは初めてゼノンに直接言葉をかけた。

「奴らは芋虫を食べる。噛み付いて、引きちぎって、肉団子にする。蝶と共に花から花へと飛び回っている蜜蜂とはわけが違う」

「それで、どうして殺してやる程のものになる?」

「蜂を英語で言ってみろ」

 ゼノンの唐突な要求にアモールは会話の食い違いを感じて渋い顔をする。

「なんだ突然」

 答えないアモールに、ゼノンはあからさまに面倒臭そうな顔をしてから、説明を始める。

「HornetとWaspとBeeだ。Beeは蜂全般を指すが、肉食の蜂はHornetやWaspと呼ばれる。呼び方が違うだけあって、見た目も違うよな? 蜜蜂は花粉を集めるための毛が生えているが、HornetやWaspと呼ばれる蜂は毛なんか生えていないし、見るからに危険を感じるルックスをしている。毒の使い方だって違うだろ? 僕は生物学者でも蜂オタクでもないから、例外の蜂のことまでは知らないが、そうした例外を除いて言えば、蜜蜂は仲間や我が身や巣を守るために毒を使い、肉食・雑食の蜂は相手を動けなくして食用にするために毒を使う。前者は一回しか針を刺せないのに対して、後者は何度でも針を刺せる。そんな危険な後者の蜂を、利用目的もなしに殺さずにテリトリーに入れる馬鹿がどこにいる。まあ、比較的大人しい蜜蜂も繁殖期や寒冷期は攻撃的になるらしいし、僕は貴様を無害と見做しはしないがな」

 ゼノンはフンッと鼻で笑った。そんな態度もゼノンは絵になっていた。アフロディーテがもし同じことをしても、ミスマッチな感覚がするだけだろう。態度や口の悪さも自分の物にできるのは、彼の特徴的な魅力だ。

「にしても、ゼノちん。どうしてこの国にいるんだ?」

 ゼピュロスは成長したゼノンを目に焼き付けるかのように、あらゆる角度からジロジロとゼノンを見ながら訊いた。

「そこの社畜蜂のところの股も頭も緩い蓮葉な女王蜂の誘いを断ったら、腹いせに国を滅ぼされたんでね。この国に拾われて、血族貴族パトリキ元老院老いぼれの養子になった。とはいえ、養父母と暮らしていたのは侍従になるまでの間だけだ。侍従になってからは王宮に住まわして頂いている」

 トガの着付け中で両手を動かせないゼノンは、アモールを顎で指した。これだけ美しい男性だ。アフロディーテの目にも止まっただろう。しかし、アフロディーテの誘いを断ったり、神様に対して敬語も使わず、社畜だの蓮葉だのと呼ぶ上に、顎でも指す辺り、ゼノンという男はたいした肝っ玉だ。

「マジか、ゼノちん! あのアフロディーテをフッたって、流石すぎだろ! やっぱゼノちん好きだわ~。抱いて!」

 ゼピュロスはゼノンの正面に立って両手を広げた。

「貴様は相変わらずキモいな。とうとう美少年だけでなく、成人男性にも手を出すようになったか」

 ゼノンは唇を半月形にして嘲笑を浮かべた。その表情と口調の裏側からは、親しげな雰囲気が滲み出ている。存外彼はゼピュロスのことを気に入っているのかもしれない。

 着付けが終わると、ゼノンは奴隷にあれこれ指示を出してから下がらせた。奴隷がいなくなったところで、体を反転させてアモールとゼピュロスに向ける。

「それで? 男色と社畜蜂が何のようだ?」

「この国のおひいさんに、ちょっとな」

 ゼピュロスは言葉を濁した。ゼノンの表情が突如冷淡になる。

「姫様に? 何をするつもりだ」

 ゼノンから親しげな雰囲気は消え失せ、無表情の仮面の裏には殺気を忍ばせている。ゾッとするような一瞬の豹変の中に、彼のプシュケに対する思い入れの重量を感じた。こちら答えによっては、この男は本気でゼピュロスとアモールを排除するだろう。

 それはまるで、全身傷だらけになって血反吐を吐いても最後の砦を護ろうとする騎士を見ているかのような、胸の奥底から何度もひび割れた爪で引っかかれる痛みを感じさせる姿だった。神に対しても余裕で無遠慮な態度を崩さなかったゼノンが、どんなに無様になろうとも決して退くことのない絶対的な聖域の前に、アモールとゼピュロスは立っていた。相手の戦意を削ぐには充分すぎる剣幕だ。人間はおろか、神ですらこれほどの剣幕で立ちはだかる者は滅多にいない。

 下手に目的を隠したところで、何の得もしないだろう。

 アモールはそう感じた。

「プシュケを不幸にする男を探しに来た」

 アモールはゼノンに敬意を払い、正直に答えた。ゼピュロスは小声で「おいっ」とアモールを肘で突っついてきたが、無視をする。

 ゼノンから殺気が消え、自嘲的な笑みを浮かべる。

「姫様を不幸にする男なら、僕がその一人だろう」

 自身を嘲笑う笑みの奥で涙を堪えているように見えた。どんな言葉もかけても意味を成さない気がして、アモールとゼピュロスは何も言えずに息だけを飲み込んだ。息と一緒に彼の涙も飲み込んでしまったのか、何故か涙腺が熱くなった。しかし、きっと彼はこの込み上げかけた涙の何十、何百倍の涙に蓋をしているのだろう。それを気取られないように涼しげに取り繕っているが、彼の内に静かに閉じ込められた涙の量と、彼の聖域への海溝よりも深い想いを思うと、胸を万力で締め付ける苦しみを覚えた。

「僕と婚姻を結べば、姫様はこの国から一生出られなくなる。僕と結婚せずとも、放っておけば勝手に姫様は不幸になる。この世界は姫様にとって、そういう世界だ。蓮葉な女王蜂がそういう呪いをかけただろう? あの呪いのせいで、愛されることもなく、偶像としての人生を強いられている。美の女神にも勝る容姿を持つというだけで、愛情が得られるわけでもなく、姫様と婚姻を結びたがる輩はどいつもこいつも姫様を崇拝のための偶像か血の通った美しいオブジェとしか見ていない。姫様は人間でありながら、人間扱いされずに一生を……終える……」

 話の途中からゼノンの顔色が悪くなっていき、言い終える頃にふらりとよろめいた。

「ゼノちん、大丈夫か?」

だけだ。気にするな」

 ゼノンは抱きとめようとしたゼピュロスの手を払った。何事もなかったかのように自力で体勢を立て直すが、血色は悪いままだ。

「君は、自分がプシュケを不幸にする男の一人だと言ったが、他にも目星い該当者がいるのか?」

 アモールの問いに、ゼノンは冷めた目をして押し黙った。ゼノンがどうして押し黙っているのか分からず、「どうした?」と言うと、ゼノンは鼻で笑う。

「どうもしてない。姫君を不幸にする恋の相手なんて、一度やったことのある貴様ならすぐ分かるだろうに、と思っていただけだ」

「……どういうことだ」

「僕に訊かずとも、ミュラーの時と同じことをすればいいじゃないか」

 ゼノンは片側の口角だけを釣り上げた笑みを浮かべた。プシュケのことになると「殺してやる」とまで言ったのが嘘のように、まるで他人事のような物言いだった。彼の瞳も、先程までの強い意志を秘めた清水のような輝きは失せ、濁水のような鈍い色をしていた。

「それは――」

 できない、と言いかけてアモールは言葉を飲み込んだ。

「できないのか?」

 飲み込んだ言葉をそのままゼノンに言い当てられた。図星だった。アモールは俯き、押し黙る。

「何故? 結果的に、女王蜂が泣くことになる悲劇を呼んだからか?」

「そうじゃない」

「へえ。他に理由が?」

「……」

 できない理由が分からない。否、分かってはいるが、それを認めることができないのだ。

 アモールは生えてはいけない芽を毟り取る。

 芽は毟れど毟れどまた顔を出す。このまま、この手が切れて血だらけになるのが先か、芽が息絶えるのが先か……。

 ……とても無意味なことをしている。

「そんな気分じゃないからだ」

 アモールの口からボロリと言葉の塊が落ちたかのように言った。そこにドアをノックする音がする。

「ゼノン様。よろしいでしょうか」

 礼儀正しい男性の声がドアの向こうから聞こえてくる。ゼノンは「かまわん」とだけ言い、入るよう促した。

「失礼致します」

 声の主である男性が一人入ってきた。その整った身なりからして、地位のある臣下だと思われる。

「礼拝の準備ができました」

 男性の言葉遣いや態度からして、地位はゼノンの方が上のようだ。

「そうか。では、僕は姫様を起こしに行く。姫様の着付けと化粧係の奴隷達に準備をさせておけ。カニーディアはもう出たのか?」

「はい。ですがあの小娘、本当に生かしたまま王宮から出してしまってよろしかったのですか?」

 穏やかじゃない内容の話に、アモールとゼピュロスはぎょっとした。二柱揃ってゼノンを見ると、彼は相変わらず涼しげな顔をしていた。

「あんな下っ端を殺してもどうにもならん。拷問してやるにしても、何も知らんだろう。ここに戻ってこようなんて思えなくなる程度に脅してやったから、あの小娘が何か言ってくることはないだろう」

「承知しました。では、私は神託の準備をして参ります」

 男性はゼノンに一礼し、部屋を出た。ドアが閉まるのを見届けてから、ゼピュロスはゼノンに近づく。

「ゼノちん、オレが知らない間におっかないことを言うようになったのな……」

「あの頃とは違う。何もかも……。僕はもう王子ではないし、両親も兄弟も乳母も、もういない。かと言って、普通の人間としての人生も送れない。僕が今いる世界は、このくらい非情にならねば生きてはいけない世界だ。非情にならないと、大事なものも、自分自身も守れない」

「さっきの話で出てきていたカニーディアって女は何かしたのか?」

「姫様は国民から女神として信仰されている。全員が同じように信仰していればいいが、宗派のようなものが生まれて、中には質の悪い集団もある。ただ崇拝するだけならまだいいが、その集団は姫様の日常を監視して、仲間達に報告するんだ。姫様のスケジュールや、食べ物の好み、その日の体調までこと細かく知ろうとする。そうだな。ストーカー集団とでも言っておこう。このストーカー集団は、姫様の何もかもを知り尽くしている自分たちこそ、姫様に相応しい人間だと主張している。姫様に相応しい人間だから、姫様から愛される存在であるはずだとか、幸福になるべき存在なのだとか、勝手に喚いているな。姫様を愛しているからではなく、姫様に愛されたいから、姫様のご加護が欲しいから、姫様との結婚を望んでいる。今でもしばしば王宮に『俺こそが姫様の夫に相応しい!』だとか言って乗り込んでこようとする輩までいるぐらいだ。カニーディアはそのストーカー集団の一員で、姫様の情報を仲間に漏らしていた。一晩中とまではいかないが、彼女の涙が枯れ尽くすまで恐怖も苦痛も十二分にくれてやったから、もう二度と姫様のことには関わらないだろう」

 ゼノンの話を聞きながら、アモールは背筋が凍りついた。ゼノンがカニーディアにした仕打ちにではなく、プシュケが生きている世界にだ。そして、そんな人生を強いたのはアモールの母親であるアフロディーテ。これほど彼女の人生を狂わせておいて、自身の女としてもプライドのために彼女の更なる不幸を望む母にこの上ない嫌悪感を抱いた。

「それで? 僕は貴様らが不幸にしたくてたまらない姫様を起こしにいくが、ついてくるのか?」

 気づけばゼノンはもう既にドアまで移動し、ドアノブを握ってこちらの返答を待っていた。

「行く。彼女のことを知るためにも、しばらく君についていくよ」

 アモールの返事に、ゼノンはフンと鼻を鳴らす。

「この部屋から出たら、無闇に話しかけるなよ」

 ゼノンが廊下へ出ると、その後をアモールとゼピュロスが続いた。


 プシュケの部屋に入ると、微かな寝息が聞こえた。この部屋の主であるプシュケはまだ夢の中のようだ。眠っている彼女は、とても幼く見えた。

「姫様」

 ベッドから数歩離れた場所からゼノンが声をかけると、プシュケは寝返りをうって、掛け布団を鼻の下まで引っ張り上げた。再びゼノンが声をかけるが、起きる気配はない。

 ゼノンは溜め息を吐き、ベッドのすぐ近くまで寄ると、プシュケの顔の位置に合わせて屈む。

「ひーめーさーまっ」

 驚いたのか、プシュケの体がビクリと反応した。プシュケの目が開かれる。寝起きで頭が働いていないのか、現状をよく理解できていないようだ。

 水鏡越しではなく、動くプシュケを直接この目で見ている喜びが、胸の奥からふつふつと湧き上がった。もしかしたら、彼女もゼノンと同じように今の状態のアモール達のことを視認することができるのではないか、と淡い期待を抱いたが、すぐに打ち砕かれた。ゼノンの真後ろ、彼女の視界に入る場所にいたアモールとゼピュロスの存在に気付いた様子はない。アモールが欲しかった反応は得られなかった。

 ゼノンとプシュケはしばらくやり取りをするが、そのやり取りの中にアモールは何か不純物のような存在を感じた。最もその不純物の存在を大きく感じた瞬間があった。

 ゼノンの問いにプシュケが笑顔を見せたのだが、その笑みが実に不自然であった。昨晩アモールも見とれた、蕩けるような笑みに変わりないのだが、まるで何者かにその表情のマスクを被らされたかのような、彼女の意思とは関係なく笑ったように見えた。

 隣のゼピュロスを見遣ると、ゼピュロスは何かに気付いたように、深刻な表情でゼノンを見つめていた。

 ゼノンは退室すると、部屋の前に控えていた使用人と奴隷に支持を出してから、その場を立ち去った。ひと気がなくなったところで、それまで硬い表情で黙っていたゼピュロスが、ようやく口を開く。

「ゼノちん……誰かに契約させられたのか? しかも、無茶な力の使い方をしているせいで、精神体が濁っている」

「既に言ったはずだ。って」

 ゼノンはこちらを振り返りもせずに歩を進める。アモールには、二人が何を言っているのか分からなかった。だが、一つだけ分かったことがある。

 ――だけだ。気にするな。

 あの時、アモールもゼピュロスも疲れているのだと思っていた。しかし、あの時彼は、のではなく、何者かにのだ。

「契約者は後で訊く。でも、どうしてそんなになるまで無茶をしているんだ」

「姫様のためだ。僕の大事な半――」

 ゼノンは歩を止めた。思考を巡らせているかのように、しばらく宙を眺めた後、後に着いているアモールとゼピュロスの方を振り返る。

「姫様は僕の婚約者だ」

 意地の悪い笑みをアモールに向けた。この男はどうやらアモールがプシュケにどんな感情を抱いているのかを見抜いているようだ。

「ああ、そうか。確かここのおひいさんはゼノちんの従妹だったな。ってことは、この国に亡命した理由も王配か何かの事情で?」

「察しがいいな、男色。その通りだ」

 ゼピュロスが的確に言い当てたことで、ゼノンの意地悪い笑みが、ニヤリとした満足げな笑みへと変わった。

「待て。従妹って、親戚じゃないか」

 アモールが面食らっていると、ゼピュロスは呆れたように息を吐く。

「歳の近い従兄妹ってだけでも恵まれている方だろ? 王族・貴族社会では、おじおば姪甥との結婚だってよくある。親子ほど歳が離れていることだって珍しくはないんだぜ?」

「そこまでするほど血筋や権力を維持しようと必死なんだ、王族・貴族の人間ってやつは」

 ゼピュロスの説明に、ゼノンは補足した。

「それで――」

 それまでの軽々しい雰囲気が嘘のように深刻な空気を纏うピュロス。

「あんな小娘のどこがいいんだがオレには分からんが、ゼノちんには大事な存在なんだな。だが、オレとしてはあんな小娘どうでもいい。オレはゼノちんが大事だ。後で契約者のことは聞かせてもらうぞ」

 ゼピュロスの有無を言わせない物言いが、事の重大さを物語っていた。

「……分からない、ねぇ。別にいいさ。他者が分かるものでもない」

 フンと鼻を鳴らすゼノン。

「――ああ、そうだ。兵法では『彼を知り己を知れば百戦殆うからず』というが、社畜蜂、貴様はおのが正体を知っているか? 自分のこともよく知らずに姫様のことを調べるのでは、知略が足りんぞ。朝起きてからずっと貴様を観察していたが、僕の目には貴様は貴様自身のことをよく知らないように見える。第一、知っていれば、こんな風に女王蜂にこき使われはしないだろうし」

 ゼノンは手を首の後ろに当てて、立ち方を崩して片足だけに重心を置いた。余裕の態度を崩さないどころか、逆にその観察力を持ってしてこちらに指摘をしてくる。ゼノンは只者ではないと確信させられた。

「正体……? 父親が分からないぐらいだが……」

「貴様はそもそもよその神話の神様だったろう(※オリジナル設定。エロス(アモール)は原初神だったのですが、後にアフロディーテの息子として扱われるようになったのを、この作品でどう表現しようかと悩んだ末にこうなりました)。例外を除いて色恋沙汰豊富なうちの神話の神々とは毛色が異なっている。処女神のアルテミスもオリオンと恋仲になったことはあるし、アテナでさえヘパイトスに犯されかけた話ぐらいはある。なのに、社畜蜂にはそういった浮ついた話が一つもない。おそらく貴様は、いにしえの戦に破れた何処かの国が信仰していた神の生き残りで、何らかの経緯でうちの神話に吸収された、と僕は推測しているが、実際どうなんだ?」

「ゼピュロス、本当か?」

 アモールは弾かれたようにゼピュロスを見た。アフロディーテの誕生にも関わったほどに古い神であるゼピュロスがこのことを知らないわけがない。

「オレ達の仲間入りする前の記憶がないお前に、そんなことを話す必要がなかっただけだ。お前はもうこっちの神なんだから」

「ってことは……やっぱり……」

「お前だって、父親のことは訊いてきたが、自分自身の正体については訊いてこなかっただろう? それぐらい、お前はオレ達の仲間であることに疑問を抱いていなかった。知ったところで戻れる故郷もない。だから、話す必要を感じなかった。……ゼノちんの推測通りだよ。お前がいた神話は人間の手によって消され、お前自身も消えかけていた。そんなお前をアフロディーテが見つけて、お前の能力が使えそうだったから息子としてこっちの神々へと引き込んだんだ。少なくとも、お前を拾ったのは助けてやろうとか、同情とか、そういった動機ではなかったな。でもさ、本来消えるはずだったのに、まだこうして存在して、人間からも信仰されてんだから、運が良かったじゃないか」

 言ってから荒々しく頭を掻くゼピュロス。

「ああ、もうっ。ゼノちん! 気付いても余計なこと言わない方がいい事だってあるのよ!」

 掻いた部分の髪を乱したまま、ゼピュロスはオカマ口調でゼノンに注意する。それを受けてゼノンは気色ばむ。

「余計なことじゃないっ。僕がどうこうできる問題じゃないにしても、姫様がこんな兵法もなっていない馬鹿に振り回されるのが厭なだけだ! 男色ももっとまともな奴を連れて来い!」

 本人を前にして臆面もなく言ってのけるゼノンに、むしろ清々しさすら感じながらアモールは苦笑を浮かべた。すると、ゼノンはアモールを睨みつける。

「自分を知るには『魂の世話psychotherapy』をする必要があるぞ。『魂の世話psychotherapy』はする側であっても、される側であっても、自身と向き合える。貴様はそれをしてこなかったのだろう」

「魂の世話?」

 聞きなれない言葉をアモールはオウム返しした。

「健康も美も、年齢を重ねる毎に失われていくものだ。金も地位も名誉だって、所詮それらは容易に失われてしまう。じゃあ、何があっても失われないものとは何か……。ソクラテスは『psyche』と答えた。つまり、何があっても失われないものこそ魂であり、自分自身なんだ。そして、psycheを磨くことが『魂の世話psychotherapy』に繋がる」

 そして、ふわりと羽毛が舞い降りてきたかのように、ゼノンの表情が柔らかくなる。

「だから、僕は姫様の半身だ」

 ゼノンは穏やかに微笑んだ。アモールには、ゼノンがどんな理屈で半身だと言っているのか理解できないが、何故だか腑に落ちる妙な説得力があった。


 ――この後やることがあって忙しいから、さっき言っていた契約者の話は夜にでもしてやる。それまで大人しく蜂蜜でも作っとけ、シロップ生産機。

 ゼノンは嘲けた声で言い放ち、アモール達に背を向けてツカツカ廊下を歩いていってしまった。アモールは、もはや社畜蜂どころかシロップ生産機という生物ですらない呼び名を与えられてしまった。

「久々のゼノちん良かったわ~。昔は可愛かったけど、今は美青年すぎて鼻血噴き出しそうだったわ~」

 にやけた顔をするゼピュロスの隣で、アモールは朝食が来るのを待っているプシュケを天井から眺めていた。

 礼拝の後のプシュケと両親のやり取りは見ていたが、これがアフロディーテの逆鱗に触れた女の姿なのかと思うと哀しくなった。愛されない呪いを受けた故に、両親からも愛されず冷遇されている。奴隷も国民も彼女を女神と崇めるばかりで、崇拝することはあれど愛情を向けられることはない。唯一アフロディーテの呪いから免れている先祖返りのゼノンが、彼女の傍にいることだけが救いだった。

 だが、そんなゼノンもどうやら相当無理をしているようだ。このふざけたゼピュロスが深刻な表情をしたぐらいだ。

 彼女をこれ以上不幸にする必要があるのか?

 考えてみたが、そんな必要性は見いだせない。どうせ人間なのだ。そっとしておけば、その内勝手に事切れる。

「おいおいハニービー。そんなに見つめちゃて、もしかして惚れちまったの?」

「……」

 立場上、肯定するわけにはいかないし、だからと否定する気力もない。これから自分がやろうとしていることを考えるだけで酷い疲労感に苛まれた。今は指を一本動かすだけでも億劫だ。

「嘘っ。やだっ。この子ったら、母親が目の敵にしてる小娘にフォーリンラヴよ! あらやだ! た~いへ~ん!」

 ゼピュロスは、沈黙を肯定と捉えた。大変と言うわりに、これっぽっちも大変そうでない。

「どうする? 娶る? お赤飯炊こうか?」

 ゼピュロスに矢継ぎ早に質問され、アモールは深く溜息を吐く。

「お願いだから静かにしてくれ……」

 娶るなどと簡単に言ってくれる。アモールが人間に見せられる姿は幼児の姿だ。夫が幼児など、相手は大混乱することだろう。ああ、頭が痛くなってきた。

 プシュケは窓の外を眺めながら、ぼうっと考え事をしているようだった。食事ですら彼女だけが爪弾きにされるなんて、どうかしている。今は王子ではなくなったゼノンが国王・王妃と共に食事などできるわけがないのは理解できるが、どうしてプシュケは同じ王族であるにも関わらず、両親と同じ食卓に座らせてももらえないのか。そして、彼女の世界をここまで歪曲させたのは、アモールの母親――正しくは育ての親のアフロディーテだ。そのアフロディーテに命じられるまま、アモールはここにいるわけだが、今回初めてアフロディーテの依頼を拒否したくなった。むしろ、下らない理由で人間一人の人生をここまで踏み荒らしているアフロディーテに嫌気すら感じている。

「……母さんにとって俺は最初から道具だったんだ」

 人間の人生を狂わせる片棒を担がされてきた。それを今まで拒むことができなかったのは自分の弱さだ。道具に甘んじていた自分の責任だ。

「それで? あのおひいさんはどうすんの?」

「悪いようにはしない」

「依頼断っちゃう?」

 アモールが依頼を拒否しても、アフロディーテは怒り狂って自力で彼女に手を下すまでだろう。説得するにも、相手は大人しく人ならぬ神の話を聞く柄でもない。

「単に断るだけでは駄目だ。依頼を断りつつ、彼女に危害が及ばないように……」

 そのためには、どうすればいい?

 少なくとも穏便な手段はなさそうだ。

「まずは、母さんの危害が及ばないように保護する」

 まずはこの世界からも、アフロディーテからの脅威からも遠ざけねばならない。

「ほほう」

 ゼピュロスは相槌を打った。

「それから……母さんとは喧嘩になるだろうな」

「ひたすら喧嘩」

「そう。どう喧嘩するか考えてないが」

「いいんじゃね? 対策考えても予想通りにならないもんだし」

「で、保護するにはどこがいい?」

「オレのところはやめろよ。美少年なら大歓迎だが、女は好かん(※本作でのゼピュロスはゲイですが、神話のゼピュロスは多妻)。ただ居座らせるだけならともかく、おひいさんを探しに来たご立腹アフロディーテの相手をするのはもっと御免だ。他の神に頼むにも、男神ならアフロディーテのOSBで陥落させられて、すぐに手渡しちまうだろうな。女神がいいんじゃないか? アフロディーテに脅されても、知らぬ存ぜぬを突き通せるぐらいの女神」

「……そんな面倒事を頼めるほど信頼関係のある女神の友達が俺にいると思うか?」

「いなかった」

 ゼピュロスはぷぷっと笑った。失礼な奴だ。アモールがムッとしていると、ゼピュロスは「御免、御免」と笑いながらも謝った。反省しているのか、こいつは。

「そもそも、そんな女神そうそういないもんな。じゃあさ、ハニービーのところでよくね?」

「幼児の姿で彼女と暮らせと?」

「仕方がなくね? 嫌なら暗い場所でしか会わないようにするか、目隠しをさせるか、眼球潰してやれば?」

 へらへら笑いながら言うゼピュロスを見て、アモールの背筋に冷気が這う。

「君は時々とんでもなく残酷なことを言うな」

 ゼピュロスの太陽のような笑顔と発せられた言葉の内容とのギャップにアモールは狼狽えた。

「目が見えたところで、おひいさんにとってもハニービーにとっても不便なんだから、隠すよりも潰した方がお互いのためかもよ? 気が引けるなら、オレが眼球潰してやろうか?」

「ずっと保護するわけじゃないんだ。潰すのは可哀想だ」

 アモールが言うと、ゼピュロスから表情が消え失せる。

「じゃあ、全部片付いたらこの世界に戻してやるってことか? 仮にその時、愛されない呪いが解除されていたとしても、ここまで見てきた限りの印象では、呪いも解けて元の王宮に戻ってめでたしめでたしになるとは思えないけどな」

「どうしてそう思う?」

「この王宮は百虫ひゃくちゅうがうじゃうじゃ住まう蠱毒こどくの壺だ。でないと、ゼノちんがあそこまで蝕まれるわけがない」

「蠱毒?」

「百足や蚰蜒ゲジや蛇、蛙といった生物を同じ壺の中に入れ、蓋と封をした後、土に埋めて、共食いをさせる。そうして最後に生き残った巫蟲ふこから得た毒を飲食物に混入させると、それを摂取した人間は身体中を巫蟲ふこの毒で蝕まれ、散々苦しみながらジワジワと、しかし確実に死へと向かう。すぐに息の根を止めずに、着実に死に近づく恐怖を味あわせながら殺すんだ、相当タチが悪い。単に中身を入れ替えたところで蠱毒は蠱毒にしかならん。また閉じ込められ、土に埋められて共食いをし、新たな毒を生み出す。オレからすれば、眼を潰すよりも、そんな王宮におひいさんを再び放り込むハニービーの方が残酷だと思うぜ。オレだったら、ここに戻すぐらいならいっそ眼を潰して、せいぜい死ぬまでは囲ってやるかな。人の幸せをオレが勝手に言うのは気が引けるが、それでもここで死ぬより、安全な檻の中で腐るように殺してやる方がおひいさんにとって幸せだろう」

 ゼピュロスの説明を聞き、アモールは全身に虫が這い回ったような感覚に襲われた。武者震いをする。震えながら、これがプシュケが毎日感じている感覚だと思えてた。

 早くここから逃げ出さなければ。

 本能がこの気持ちの悪い感覚に反応して必死に訴えてくる。サイレンがけたたましく脳内で鳴り響く。他にこれほどおぞましい危機感を僕は知らない。もしも飢えて目をギラつかせた猛獣が襲いかかってきたとしても、これほどの生命の危機は感じないだろう。この危機感に、虫が這い回っているかのような気色の悪い感覚が加わるのだ。とても耐えられない。

「ここは駄目だ。早く連れ出さないと。どうやって連れ出す? 今なら簡単に誘拐できそうだけど」

 アモールは、実体のない正体不明の黒い影が迫ってきている気がした。ここを出た後どうするか、出た後どうなるか等を考える余裕など失くす緊迫感だ。

「おいおい親友。人間ってのは何かと儀式をする生き物なんだぜ? 成人式に結婚式に葬式にその他諸々。そうやって儀式して区切りをつけなきゃ次の段階にいけない性質してんだ。自発的なただの旅立ちでもないのに、気持ちの踏ん切りもさせずに一生戻れないかもしれない場所へ誘拐するとか鬼畜かよ」

「ああ、うん。確かにそうだ……。冷静になろう」

「もっとスマートで紳士的にってやつ? 心の準備もさせずに勝手に誘拐して、帰りたいってずっと泣かれるのは嫌だろ? 保護しても、そのせいで逃げ出されたら台無しじゃん?」

「それもそうだ」

 頷くアモール。

「つまりは、まず『どうやってこの世界にお別れをさせるか』を考える必要があるんだな」

「こういう時は無理にきっかけを生み出すより、手近にある何かを工夫してきっかけにする方が楽で自然に上手くいくぞ。きっかけになりそうな何かを探すと楽なんじゃね?」

 ゼピュロスのヒントを得て、王宮内で得た情報を脳内でまとめていく。

「そういえば、王宮の人々が神託がどうのとか言っていた」

 アモールが思い出すと、ゼピュロスはパンッと手を叩いた。

「それだ! それを利用してやろう。誰のためにどの神様の神託を仰いでいるのか知らないが、こっちが先に割り込んでやればいい。神託なら、人間どもは何の疑問も抱かずに聞いてくれるだろう」

「決まりだ。神託だけど、俺たちが割り込んで虚偽の神託を述べるにも、どんな内容にするかだよな。そのためには、何のために神託を仰いでいるかを知る必要がある。あと、神託がどこで行われるのか確認しなければ」

「ゼノちんとお姫さんの年齢や、周囲の雰囲気からして、十中八九ゼノちんとおひいさんの結婚についてだろ。王族にとって結婚は国の未来も左右するからな。だから、多くの王族は婚姻の際に、二人の将来を神に見てもらうんだ。神託が悪い内容なら、時期をズラすか、破談にするかだな」

 そうか、結婚するのか。

 相手がゼノンでまだよかった。他の人間はプシュケを人間として扱わないし、アモールたちのことも見えない。ゼノンが夫ならば、もしもの時も、ゼノンを介して何か手助けができるかもしれない。アモールたちのことが見えなかったとしても、ゼノンは充分頼りになる男だと思う。だが、それは『ここが普通の王宮だったら』だ。この蟲毒の壺にゼノンもプシュケも居てはならない。巫蟲となる蟲に喰い殺される前に、二人をここから連れ出さねば。

 やろうと思えばプシュケだけを連れ出して、自分のものにすることだってできる。しかし、それをするのは身勝手極まりない。プシュケが人間であり、アモールが神である以上、生きている時間の流れが違いすぎる。彼女には、同じ世界を共有し、同じ時間の流れの中を一緒に生きてくれる存在が必要だ。

 そしてそれはアモールではない。

 どうしてこうも早急に連れ出さねばならないのかと問われれば、蟲が全身を這い回る感覚が早く脱出しなければいけないと警告音を鳴らし続けているのだとしか言えない。連れ出した後、どうするかもまだ決めていないが、それでもまずはここから脱する方が先決だ。ゼピュロスも何も言ってこないということは、彼も同じように、二人を――もしかすると彼の場合はゼノンだけかもしれないが――ここからできるだけ早く連れ出したいのだろう。

 でも、俺は二人を連れ出した後、ちゃんと二人を祝福できるだろうか……?

「あらあら~? ハニービーったら難しい顔しちゃって~。神と人間の壁は、結婚って場所から見ると、と~っても大きかったみたいね」

 ゼピュロスはオカマ口調で鋭いところを突いてくる。まるで先が吸盤の矢が頭に当たったかのような気分だ。

「どこで神託の儀式を行うのか調べる」

 アモールがプシュケの部屋を出ると、ゼピュロスがすぐ後を追う。

「おっと。あんまりオレから離れると、その美しいお姿が丸見えになっちゃうぞっ」

 ゼピュロスがウインクをしておどけてみせたが、無視をした。

「はわっ! もしかして、黙ってオレについてこいってやつ!? 黙ってオレについてこいってやつなのね!? 男前の中でも昭和の男前だわ! やだ! 好き!」

 勝手にときめきだしたゼピュロスを放っておいて、行き来する臣下や奴隷たちの動きを見る。その中で見覚えのある姿を発見する。今朝、ゼノンの部屋でカニーディアの話をしていた臣下だ。

 アモールはゼピュロスの肩をつつく。

「彼についていこう」

 親指で例の臣下を指すと、ゼピュロスは頷く。

「確かに彼なら神託の準備にも関わっていそうだな」

 ゼピュロスは、さっきまでとは打って変わって冷静な面持ちだ。まさに風のような男だ。急に強風が吹いたかと思えば、凪いだり、風向きが変わったりする。

 例の臣下の後を追っていると、読み通り神託の間に到着した。

「ありゃ~。あの祭壇にブランキダイの巫女ってこたぁ、神託仰いでる神はアポロンじゃん。まあ、そうだよな。アポロンには未来予知の能力があるもんな~」

 ゼピュロスはばつが悪そうに頭を掻いた。

「アポロンが巫女に呼ばれる前に割り込んでしまえば、バレずに済むけど、あまりに割り込むのが早すぎると巫女に不審がられる。巫女が不審がらない程度のタイミングを図るのが難しそうだ」

 後は、神託の内容をどうするかだ。ゼノンには直接事情を話して、ついてきてもらうとして、プシュケがこの王宮に戻ってこれなくなるだけの口実を作らねば。しかも一時的ではなく、永久的に。

「割り込むタイミングはオレに任せろ。空気を読めばいいんだろう?」

 自信満々すぎるくらいに胸を張るゼピュロスに、アモールは一抹の不安を覚えたが、信用して任せることにした。

「じゃあ、タイミングは任せる。神託の内容だけど、プシュケがこの王宮に戻ってこれないような名目って何がある?」

「え? 死亡じゃね? 死んだら戻ってこれない」

「……は?」

 ゼピュロスの突拍子もない発言に、アモールは目を丸くした。

「よく考えてみろよ。葬儀って別れの儀式じゃん? この世からあの世へ行き、永久の別れ。人間世界からも、この王宮からも、永久にお別れさせちゃいたいなら、お姫さんの死という悲劇が起きるって虚言を吐けばいいじゃん? マジで殺さなくても、お姫さんはこれから死んじゃう運命なんだって人間たちに思わせればいい。神託なんだから、ぶっ飛んだこと言っても人間どもは信じるって」

 確かに名案ではあるが、よくそんな案がパッと浮かぶものだ。

 ゼピュロスはまるでボードゲームの盤面を分析し、最善の一手を選び出したプレイヤーのように提案を続ける。

「生贄なんかどうよ? 神から指定された生贄という大義名分があれば、差し出さないわけにはいかないだろう?」

「……お前を敵にしたら面倒だろうな」

「確かに、風は敵にするもんじゃねぇなぁ。火事の時、風向き一つで被害がどこにどう広がるかが変わる。矢の飛距離だって変わる。風で戦局の有利不利が逆転することなんてザラだ。船だって、風を敵にしちゃあ船は進まないし、沈没することだってある。順風満帆って言葉だって風を味方にしているから順風満帆。だが、風がどこにどう吹くのかはその日その時次第だ。戦も船乗りも男が関係している。男と風ってのは案外深い繋がりがあるんだぜ?」

 得意げな笑みを浮かべるゼピュロス。

「日の本の国にはこんな有名な和歌うたがある。まず一つは、在原業平昔男が詠んだとされる和歌うただ。『吹く風に わが身をなさば 玉すだれ ひま求めつつ 入るべきものを』 そしてもう一つが、僧正遍昭の和歌うたで、『あまつ風 雲のかよひ路 ふきとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ』 こっちの方が百人一首に入っているから有名だな。この二つの和歌うたの共通点って分かるか?」

 ゼピュロスの問いに、アモールはさっき聞いた和歌を思いだしながら考える。

「……風と男性と女性? それと、どちらも男性が詠んだ和歌だ」

「その通り。どちらも男の願いで、その願いのために風が男と女を繋げるんだ。今のオレたちも、この西風の神様がいるから、おひいさんに会いに来れているんだぜ?」

「確かに」

「T.●.Revolutionだって風を味方につけている」

「それはあまりに現代すぎて世界観が壊れかねん」

 アモールが渋い顔をすると、ゼピュロスは悪びれた様子もなくケタケタ笑う。

「とにかく、男の夢や希望の中には風が必要なんだって。そして風は味方でもあり、試練でもある。オレを崇拝してくれている船乗りたちは、北風に立ち向かい、西風に助けられながら船を操っている。北風であれ、西風であれ、風がなければ船は進まん。船が進まなければ、目的の場所にも辿りつけず、ただただ海の波に流され、大海原を彷徨うだけ。面白いのは、海ってのは母なる海って言うじゃん? ハニービーにとっての風はオレかもしれないが、今は帆がないんだよな。でも、今日のゼノちんとハニービーのやり取りを見てると、ゼノちんがハニービーの帆なのかもしれんな」

 言うと、真顔で考え込みだすゼピュロス。

「その帆を連れているお姫さんは何者なんだ? ゼノちんと同じ顔をしていたのも気になる。ゼノちんは半身って言っていたが……。まさか――いや、そんなこと……。お姫さんにくっついているのも納得できるが……」

 ゼピュロスは大抵、Aを見れば一気に何もかもを把握して、数段飛ばしにFという答えを出してくるが、ゼノンのことになると考え込み始める。ゼピュロスは、ゼノンがプシュケの傍にいることが不可解のようだ。

 アモールたちがプシュケに用があると知った時のゼノンの反応から、ゼノンがプシュケに対して主従ではない、もっと強烈な想いを感じた。アモールはゼノンがプシュケを深く愛しているから彼女の傍にいるのだと思っている。だから、ゼノンはプシュケの帆であるべきだ。

「ゼノンはプシュケのことを相当愛しているんだろうな……」

「そんなんじゃない。二人は狼と狽のような関係だし、ゼノちんはお姫さんだ」

 狽とは狼の背中にいつも乗っているとされる想像上の動物だ。狼は前足が短く、後ろ足が長いが、狽は狼とは逆に前足が長く、後ろ足が短い。狼と狽は一組になることで歩行することができ、離れると倒れてしまい、言葉通り二匹は『狼狽える』のだ。

「プシュケがゼノン? 性別も年齢も違うのに?」

「別物である必要があったんだから、性別が違って当たり前だし、年齢が離れていても不思議じゃない」

「別物である必要って?」

「知らん。別物が必要だったから、別物を創ったとしか言えん。何かしらの事情があったんだろう。どちらが狽なのかも分からん。――いいか? 狽は想像上の動物だ。実際の狼は狽が存在しなくても己の足だけで歩ける。ゼノちんかお姫さん、どちらかが『存在するはずがないのに、巧みにこの世に紛れ込んでいる』ってことだ。これが物語なら、登場するはずのない人物が登場しているってこと。そういう視点から考えると、狽は……」

 ゼピュロスは口を噤む。彼の中で答えが出たようだが、認めたくないのだろう。

「……比翼の鳥は、隻眼・隻翼の雌雄の鳥が一体となり、互いに足りない片方を補って飛ぶ。陸の上では一羽でもやっていけるが、飛ぶことはできない。二羽なら高みを目指すことができる」

 ゼピュロスは抑揚のない口調で言った。

長恨歌ちょうごんかっていう漢詩だっけ? ……でも、プシュケとゼノンは比翼の鳥ではなく、狼と狽なんだろう?」

「……自身を背中に乗せて生きるというのか。そうでもしないと均衡がとれなくなったのは何故だ?」

 もはや、ゼピュロスはアモールの言葉を聞いていないようだ。

 比翼の鳥は互いが翼になるが、狼と狽は安定を保つための重り。あれだけ一緒にいる相手が翼ではなく、重りであることが問題なのだろうか?

 ゼピュロスは沈思の後、開口する。

「――お姫さんが先祖返りだ」

 それを聞き、アモールは馬鹿馬鹿しいと首を横に振る。

「彼女には俺たちの姿が見えていなかったのに? 先祖返りはお前もゼノン以外見たことがないぐらい稀有な存在なんだろう? ゼノンとプシュケの両方が先祖返りなのか?」

「ゼノちんは先祖返りという存在ではなく、先祖返りの能力そのものだ」

 ゼピュロスの言い分が理解できず、眉を顰めるアモール。

「……意味が分からない」

「ゼノちんはおひいさんだって、ゼノちんもオレも言っているだろう。おひいさんは普通の先祖返りだったが、先祖返りの能力を彼女の何かと一緒に切り離して、ただの人間になったんだ。自分自身を守るためにはそうせざるを得なかったんだろう。――おひいさんはその血筋からしてゼウスの先祖返りだ。ゼノンって名前もゼウスの名から来ている。ようは、ゼノちんは『ゼノン』以外の名では呼びようがない存在なんだ。おひいさんもおひいさんで、純血の神でもないのに、能力の切り離しなんて荒技ができる時点で、先祖返りの中でも珍無類だろうな。先祖返りといえど、流石はゼウスの血……といったところか?」

「じゃあ、先祖返りの能力であるゼノンをプシュケに戻してやれば、俺はプシュケに姿を見せられるようになるのか?」

「小童め」

 期待に目を輝かせるアモールを、ゼピュロスにしては珍しく不快感を露わにして目を眇める。

「そんな簡単な問題だったら、運命の悪戯だかなんだかでおひいさんと再会した時点で、ゼノちんはもう姿を消している。おひいさんは自分を守るために、自分の能力ごと捨てなきゃならん何かがあったんだ。未だに半身同士でなければ歩けないのに、一体に戻そうなんて危険すぎるだろうが。おひいさんが危険になることをゼノちんがするわけがない。ゼノちんは、おひいさんに捨てたれたおひいさんの半身だ。ゼノちんがおひいさんのために動いているのは、それがゼノちんの存在理由だからだ。捨てられなきゃならなかったとはいえ、ゼノちんがゼノちんとして形を成したのは、おひいさんを守るためだからな。ゼノちんがしてないってことは、それをするのはおひいさんにとって危険でしかないからだ」

 浅はかだった。彼女が先祖返りの能力と一緒に何を捨てたのか、捨てねばならないほどの出来事は何だったのか、もっと慮るべきだった。惚れた女性のことなのに情けない。ゼピュロスが不快感を露わにするのも無理もない。

 アモールは唇を堅く噤んだ。

 ゼノンには敵わない。

 つくづく思った。

「おひいさんの場合、ゼノちんが戻ることはそうそうないだろうな。相当な荒技で切り離したんだ。元通りになる方が難しい」

 ゼピュロスはまた、盤面を眺めるかのような目をしていた。

「先祖返りのはずなのに、プシュケはただの人間のまま過ごすのか? 貴重な能力もゼノンに預けたまま」

「おひいさんがこの王宮から出られまいが、オレたちの計画通り出れようが、それだけでは半身同士のままだ。あくまで、それだけでは、だ。オレが読めるのは風向きぐらいで、未来は分からんよ。風も時間も運命も、流れるまま流れるだけだ」

 そう言って、ゼノンはぼんやり虚空を見つめた。


 神託の準備が終わりかけている中、アモールとゼピュロスは神託の内容を考えていた。

「やっぱ、スゲー恐ろしい怪物じゃないと、ここまで神格視されているお姫さんを生贄に出してこないだろう」

 言い方は投げやりなものの、ゼピュロスはアモールの案に対して意見を返す。いい加減なようで真面目である。

「じゃあ、恐ろしい怪物?」

「それだと、どのくらいヤバい怪物か想像できねぇって。漠然としたイメージだと攻撃力不足」

「じゃあ、最高神ゼウスでも恐れる怪物?」

「それいいね。怪物さんは超機嫌悪いから、ちゃんと生贄差し出さないと国が滅びるぞ~ってのも加えておこう」

「日時は? いつにする?」

「もう明朝でよくね? 人間ってさ、下手に猶予を与えてやると、『ひょっとして、当日もこのまま何も起こらず大丈夫なんじゃね?』とか甘っちょろいこと考えちゃうし、小賢しい輩が猶予期間の間に何か閃いて細工をしたり面倒なだけだ。恐怖は目前に迫らせて、冷静に考えさせる時間も与えずに、わけもわからないままパッと差し出させるのがいい。『よく分からんが、とにかく出すしかない』って状況にした方が楽ちん」

「他に指定は?」

「ん~。喪服?」

「喪服?」

 アモールはオウム返しした。

「おひいさんには表向きは死んでもらうことになるが、女性にとって結婚も死なんだよな。生贄になる女が花嫁衣裳着せられる話もよくある。だから、別に花嫁衣装でもいいかとも思ったが……おひいさんを二度と人間界に帰すつもりがないなら、人間界現世に帰ってこれないんだってことを人々にちゃ~んと理解させる必要があるじゃん? ………にしてもさ、生贄が花嫁だなんて、まさに身を捧げるって感じだよな。それまでの自分は死んで、他の男の元で新しく家族として暮らす。それまでの自分とは別の自分になるような、変化や変身? まさに芋虫から蛹に、蛹から蝶に変わるようだ。実際は、そんな綺麗な段階を踏んで変化できるわけないがな」

「喪服でいい。怪物と共に生きていくのではなく、本当に死んでしまうのだと思って欲しいね」

「そこで、『花嫁衣装は俺が着せてやるよ』って言ったら超素敵なんですけどぉ~」

 ゼピュロスはオネエ口調で言い、目を輝かせた。

「違う。俺は彼女にふさわしくない」

 アモールが否定すると、ゼピュロスは白けた顔で、ふぅんと鼻を鳴らす。

「つまらない男ね」

「つまらなくていい。俺の母親が彼女にしたことだって、俺は……どうやって償えばいいのか」

「へえ。償う……ねぇ。自分がしたことでもないのに? ふぅん……。お前はそう考えるのな。ゼノちんなら、『親は親で、貴様は貴様だろう』とか言いそうだ」

 オカマ口調をやめて、醒めた目をアモールに向けるゼピュロス。

「パンドラだって、箱を開けるという罪を犯すが、最後に残るのは希望だ。その目が絶望に眩んでいなければ、希望を見つけられるだろうな。箱を開けた後、残された希望を使って、お前は何を取り戻す? お前に箱の底の希望は見つけられそうか?」

 ゼピュロスの表情からは、何を考えているのか、何を思っているのか読み取れなかった。

 自分が何を取り戻すのか、何を取り戻したいのか、アモールの中ではなかなか答えが出ない。

「ところで、ハニービーは蛹の中身って知ってるか? 蜂も蝶と同じく、幼虫から蛹になり、成虫に変態するが」

 唐突なゼピュロスの問いに、アモールは首を横に振った。

「ドロドロに溶けているんだ。寒い冬を越すために。芋虫の体を捨てて、蝶に変わるために。だから蛹を割ると、わけの分からない液体が出てくる。それは芋虫でも蝶でもなんでもなく、堅い殻がなければ形すら保てない液化した生物。蛹から羽化したとしても、羽化に失敗すれば羽ばたけずに死んでいく。そう思うと、変態する虫って不思議だよな。一生同じ形でいた方が楽そうなのに、わざわざそれまでの形をドロドロに溶かしてリセットして、死のリスクまで背負って別の形で生きようとする。彼らはそこまでして空を飛ばねばならないみたいだな。生きていくために、空を飛ぶんだ」

 そう言ってから、ゼピュロスは少し騒がしくなった神託の間を見下ろした。揉めるような声に、アモールも下を見下ろす。

 国王がブランキダイの巫女に向かって苛立たしげに何か言っている。途切れ途切れに聞こえてくる会話を繋げると、どうやら国王は、ブランキダイの巫女に国王の考えた神託の内容を言わせたいようだ。歴史あるブランキダイの巫女としては、それは受け入れられないのだろう。巫女は頑なに拒否していた。

「おいおい。こっちもガセ神託か? こっちは神だが、あいつは人間だろう。罰当たりなこった。苛立つことしてくれるねぇ」

 ゼピュロスの口調は軽かったが、その表情は険しかった。

「この国王は、国王に相応しいとは思えないが、よく国を維持できているな」

 アモールは思った疑問をそのまま口にした。ゼピュロスは隣で、「そうだよな」と呟いて考え込み始める。

「なあ、ハニービー。オレらの神託に『プシュケは怪物に一目惚れする』ってのを加えないか?」

「いいけど、なんでだ?」

「この身の程知らずな国王様のために動いているのが誰かが分かるかもね~。誰であっても、オレたちの都合の悪い結果にはならないって。むしろ上手くいけば都合よくなっちゃうかも? とにかく、ライバル登場だ。後手に回ると面倒だから、先にこっちから仕掛けるぞ」

「人間に声だけを聞こえるようにできるのか?」

「できなかったら、最初からこんなのに付き合わねぇって。今から声が聞こえるように風向きを変えるから、オレが合図してから言えよ?」

 アモールたちの周囲に吹いていた風の動きが変わった。ゼピュロスがオッケーサインを出す。アモールは頷き、第一声を発した。

「ブランキダイの巫女よ」

 神託の間が一気に騒がしくなった。ブランキダイの巫女は驚きながらも、すぐに跪き、アポロンの像に向かって祈り手を組む。

「アポロン様。非礼をお許しください」

「君が王命を拒否している姿は見ていた。君を責めるつもりはない。今回は僕が直々に神託を伝えよう」

「恐悦至極に存じます……」

 巫女は深々と頭を下げた。

「プシュケの婚姻のことだね?」

 万が一間違っていてはいけないと思い、確認すると、巫女は「その通りでございます」と返事をした。

「プシュケが結婚する相手は人間ではない。ゼウスをも恐れる怪物だ。プシュケはその怪物を一目見て、恋に落ちるだろう」

 だんだんフェードアウトしてきていたざわめきが、再び大きくなった。

「明朝、プシュケには喪服を着せて、岩山の頂上に彼女を置いて行きなさい。今、怪物はとても機嫌が悪い。プシュケを怪物の生贄として置かねば、この国は滅ぼされてしまうだろう」

 ざわめきの中に、悲鳴や、啜り泣く音、人が倒れる音が混じりだした。ただ一人が、声を荒げだす。

「出鱈目だ!! こんな神託、出鱈目に決まっている!」

 国王は怒りで顔を真っ赤に染めていた。

「はいはい。煩いから退場させちゃいま~す」

 ゼピュロスが人差し指を軽く動かすと、国王の体が宙に浮いた。神託の間にいる人間全員の視線が国王に集まり、静まりかえった。国王も驚きのあまり声を失った。

「今、人間にオレの声は聞こえていない。お前から人間たちに『僕の神託を出鱈目だと言うなら出て行け』って言ってくれ」

 アモールはゼピュロスの指示通り、「僕の神託を出鱈目だと言うなら出て行け」と言うと、神託の間の扉を始め、外へと続く扉が次々と開く音がした後、宙に浮いていた国王が外へ向かって飛ばされていった。

「演出もしたし、神様の声だってことは信じちゃうでしょ」

 ゼピュロスは扉をすべて閉じた後、得意げに笑った。

 神託の間に居た人間は皆、数秒硬直したが、すぐさま跪いて異口同音にアポロンの名を口にした。

「あの国王、信用ならねぇな」

 ゼピュロスの呟きに、アモールは頷く。

 あの男だと、プシュケに違う内容の神託を伝えかねない。まだプシュケは神託の間には来ていないようだから、呼び出してもらい、直接伝えるのがいいだろう。

「僕の神託が誤ってプシュケに伝わらないように、念のため、プシュケにも直接言おう。誰か、プシュケを呼んできてくれないか?」

「は、はい!」

 何人かの臣下が返事をして、慌ただしく動き出す。

 相当急いで呼んできたのか、待っている時間は長くなかった。国王が神託の間に戻ってきると、それほど間を置かずに臣下がプシュケと半身ゼノンを連れて来た。

「おかえり、プシュケ」

 声をかけるが、プシュケの瞳は相変わらずアモールを捉えない。キョロキョロと周囲を見渡すばかりだ。その代わり、ゼノンだけが睨むようにこちらを見上げている。

「……どういうつもりだ」

 こうして改めて真っ直ぐに顔を見合わせると、ゼピュロスの言う通り、確かにゼノンはプシュケと同じ顔をしている。

「ゼノちん、おひいさんを悪いようにするつもりじゃないからさ、安心して! オレたち話し合ったんだけど、おひいさんをこの王宮から出してやらないとなってなってな。今言ってる神託、脱出計画のためのガセだから信じなくて大丈夫! 細かい質問は夜会ったときにお願いねっ! 夜のサービスも受け付けているわよ、ダーリンっ」

 ゼピュロスは顔の前で手を合わせ、ウインクして戯けてみせた。ゼピュロスは全力で可愛くやったようだが、ハッキリ言ってキモい。ゼノンも冷え冷えした目をゼピュロスに向けている。

 ゼノンは額を手で抑えて俯き、長い溜息を吐く。

「おそらく、アポロン様でしょう」

 ゼノンは隣のプシュケに、どこから聞こえているのか分からぬ声の、嘘の正体を述べた。プシュケはゼノンが見ていた方向を辿ってアモールたちの方を向くが、目の焦点は合っていない。

 どれだけ望んでも、君の瞳は僕を映さない。

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