逕庭(けいてい)

「嫌よ、歩けない距離でもないのに馬車に乗るなんて。私は自分の足で歩くわ」

 王宮入口前のアプローチの所で、プシュケは馬車の傍らに立つゼノンに反抗していた。プシュケの頭に被さている外出用のオレンジ色をしたヴェールが風に揺れる(※本作での馬車は座席・屋根付きの馬車とします。古代ローマ・ギリシャ時代の馬車は、主に荷物や怪我人を運ぶためのものなので、実際はリアカーに近い形状だったと思われます)。

「分かっています。自分の眼で見て考え、自分の足で歩き感じ取る。僕もそのように教育しました。そうして差し上げたいのは山々ですが、徒歩は危険なのです。馬車に乗っていれば安全ですから、どうか馬車に乗って下さい。街には狂信的な民もいるのですよ」

「狂信的な民?」

「執着を信仰や愛と混同している者です。そこに妄想が入ると、もはや獣と同じ――」

 ゼノンが話している途中で、王宮門から騒がしい声が上がる。

「お前! 待て!」

 門番が一人の男を追いかける。男は、服装からして見るからに平民プレープスで、王宮に入ってこれる身分ではないのは明らかだ。門番から逃げる男が、プシュケを見つけると、古い井戸のように濁った眼を細めて、恍惚に浸った笑みを浮かべた。

「ああ……姫様……やっと会えた……。外に出ているということは、俺に会いに来てくれたんですね? 言わずとも分かっていますよ。ずっと、ずっと姫様の像を撫でてきました。姫様に触れたくて、触れたくて、触れたくて、触れたくて……。願いを叶えて下さるのですね。姫様はやはり俺の女神だ」

 追いついた門番に取り押さえられながらも、プシュケに手を伸ばす男。プシュケと男の距離が近いわけではない。五メートルほど離れている。それでもプシュケはこの男に触れられるのではないか、という恐怖に襲われた。

「さあ? なんのことやら。――姫様。こんな男、て置きましょう」

 ゼノンがプシュケの肩を抱くと、男はたちまち怒りに顔を真っ赤にさせた。

「姫様は俺の! 俺だけの! 誰よりも姫様を信仰しているこの俺のものになると決まっている! そこの男は誰だ! そこは俺がいるべき場所だ! 俺の姫様を返せ! 俺の姫様から離れろォオオオオオオオオオオオ!」

 何を言っているのだろう、この男は。

 私の居場所を勝手に決められている。私の意思など関係なしに、私の好意すらも勝手に決められている。何故? どうして? これが国民が求める私の姿? 私はこれに従わなければならないのか?

 私は何が好きで、私はどこにいたいのか。どうして会ったことも、話したこともないこの人が言っているの?

「騒がしい。姫様に害をなす者はこの国には不要だ。とっとと斬り捨てろ」

 ゼノンの命令に門番は頷いて、男の首を切り落とした。頭部を失った首から血が噴き出し、ごろんと男の首が地面に落ちた。

「――っ!!」

 プシュケは口を押さえた。目の前で国民が殺されてしまった。

 民と王は一つ。国は王の導きと民の動きで作り上げる。

 私の国はどうなっているの?

 首を落とされた男は、この国の歪みの象徴だと思った。

 この国の王様は……誰? 私の――

 思考が止まった。それ以上は考えてはいけないと、セーフティーが働いたかのように脳内が真っ白になった。代わりに、じわじわイメージが湧き上がってくる。この国の生贄としての自分だ。国民から崇められる身であると同時に、国民に捧げられる身でもある自分の姿だ。今の国王が作った国に、私が生贄として放り込まれる。

は、いつしか美しい姫様を独占することばかりを考えだした者の成れの果てです。姫様に理想の女性像を映し、まるで運命の相手かのように錯覚する。自分は運命だと信じるあまり、相手もそう思っていると錯覚している。姫様は存在しておりますが、彼らは姫様を通して存在しない理想の女性を手に入れようとしているのです。女神のように美しく、自分だけを見てくれる、理想の女性を。でも、それは姫様ではない。他者の中にも自分はいますが、他者の中の自分が自分自身であるとは限らないのです」

「初めて見たわ。そんな人が我が国には沢山いるの?」

「ああいった者どもに会わないようにしていただけです。姫様は他の王族よりも王宮の外をご覧になられてはいますが、それでも、姫様の知らない民の姿は存在するのです」

 いつも思い出す偶像のプシュケたちが一斉にこちらを向いてニヤリと笑った。見えない所で、気づかぬ内にさっきの男のような人間が増殖していく。いつの間にか、王宮内……いや、私のすぐ傍まで侵食してきているかもしれない。沢山入ってきて、知らない私がのべつ幕なし増えていき、知らない私を私に求めてくる。知らない私に窒息させられる。

「姫様、怖い?」

 震えるプシュケに気付いたゼノンが気遣わしげに訊いた。プシュケは息ができず、その場にしゃがみこむ。すると、ゼノンも一緒にしゃがみこんだ。

「引き返す?」

 上手く息ができず、ハーハー苦しい呼吸を繰り返すプシュケに、ゼノンはまるで幼子に言うかのような優しい声色で言った。

 苦しい。どうしようもなく死にたい気分だ。腐るよりも酷いプロセスでジワジワ殺されていくようだ。

 安全な場所に逃げ込みたい。でも一体それはどこ? どこに行っても、いつの間にか侵入してきそうだ。さっきも厳重な警備の門をくぐり抜けて私の前に現れた。私は一体どこへ逃げればいいの?

 逃げる場所なんて最初からない。立ち向かってなんとかするしかない。わたしにはゼノンがいるから大丈夫だ。

 ……あれ? なんで私、ゼノンのことを?

 ようやく息が整った。プシュケはスッと立ち上がる。

「いえ、行くわ。私はこの国のことをもっと知らねばならない。怖じ気づいている暇などないわ。馬車に乗る」

「畏まりました」

 ゼノンも立ち上がり、扉を開けてプシュケを馬車に乗せた。プシュケが座席に座るのを確認してから、ゼノンも続いて乗った。プシュケの左隣にゼノンが座る。

「窓のカーテンは閉めておきましょう」

 ゼノンは左右にある小窓のカーテンを閉めた。小窓から射し込んでいた光がカーテンによって遮られた。カーテン越しから漏れる、ぼんやりとした光が馬車の中を微かに照らす。

「外が見えないわ」

「姫様が外をするためではございません。姫様が外からするために閉めたのです」

「暗い……。話しているアナタの顔もよく見えないわ」

「話し相手の顔が見えないのは怖い?」

「こんな密室で二人きりの相手がゼノンだと分からないのは厭。ありえないとは思っているのだけど、でも……でも万が一、さっきみたいな人に入ってこられたらって思うと、こんなに暗いと私……私……」

 暗いと私……何だろう?

 不安に思っているのは確かだが、これをどう言葉にすればいいのかが分からない。「不安」の一言では収まらない感情が渦巻いているのだが、これをどう言い表せばいいのかが分からない。思い浮かぶどの言葉もフィットせず、なりを得ない感情ばかりが溜まっていく。プシュケの目はゼノンの顔に向けられていたが、今の彼の表情は見えない。肌に感じる彼の息遣いと薄明かりが作る彼のシルエットから、ゼノンもこちらを向いていることだけは分かる。

 布擦れの音と同時に、ゼノンのシルエットが動いた。左側の小窓から光が飛び込んできた。

「僕側の窓は開けておきましょう。ただし、外を覗き込んだりしないようにして下さいね」

 小窓のカーテンを開けたゼノンの顔が、光に照らされる。

「これで僕だと分かりますね?」

 ゼノンは蕩けるような笑みをプシュケに向けていた。その笑顔は誰かに似ているような気がした。

「ありがとう、ゼノン」

「構いませんよ」

 ゼノンは御者に合図を送ると、馬車が走りだした。

「外に出る時は、いつもゼノンと一緒ね」

「他の人間は、姫様を女神様として見てしまいますから」

 そうか。外に出てしまえば、プシュケを人間として見てくれる者はいなくなってしまう。外出中ずっと女神として扱われ続けるのは、想像しただけでどっと疲れる。

「まあ、後は虫除けのためとでも思って下さい」

「虫除け?」

「そのカーテンと同じですよ。そして、さっきみたいに姫様を不安にさせてしまう。姫様にとっての安全な場所を、僕は……提供できない」

「そんなことないわ。アナタはいつだって私の傍にいてくれるじゃない」

「僕の傍が必ずしも安全とは限りません。僕ができることなんて、ほんの僅かです。ほんと、無能ですよ」

「何故アナタは時々自分をそんな風に卑下するの?」

「亡命直後、身の安全を確保するために、一ヶ月地下牢にいました。あの閉塞感と暗さは心を荒ませます」

「それだけ?」

「姫様の前では、従僕でいた方が気分がいいんです」

「どうして」

「今の僕の存在理由だからです」

 パッとしない答えだが、これ以上の答えを彼から聞き出せそうにないと感受した。

「あまり卑下しないでね」

「……善処しましょうかね」

 馬車は進み、集合住宅地までやってきた。馬の足が石畳を叩く音。やや後方からは護衛ドメスティキが乗る馬の足音。静かな場所だったならば、心地よさを感じられるだろうが、いかんせん人が生み出す雑音が勝る。

 水汲み場で噂話に花を咲かせていた女性たちも、明らかに王族が乗る馬車を見るなり一度は静まるが、国王のお付きの者がいないことや、王妃はよほどのことがない限り王宮を出ることがないことから、乗っている王族はプシュケであると察して、再び話し声が湧いてくる。「お姿は確認できないけど、プシュケ様だわ」だの「生き神様がいらした」だのといった声があちこちから聞こえてくる。カーテンの開いた小窓からは、時折国民たちの姿を見ることができた。例のプシュケに似た偶像を胸に抱いて窓から覗いている者。祈り手を組み始める者。崇拝の度合いは、年々悪化しているように思える。悪化と表現するのは間違っているかもしれないが、プシュケにとって崇拝されることは好ましくなく、悪化の方が感覚的にフィットする。

 煉瓦造りの約二十メートルほどの高さのある建物がいくつも並んでいるが、これはすべて集合住宅インスラだ。この辺りは、この国の貧富の差が分かりやすく集約されている。貧しい者も、裕福な者も同じ建物に住んでいるからだ。とはいえ、裕福層は二階より上には住まない。上に行けば行く程に倒壊の危険が増す上に、火事の時には逃げ遅れてしまうからだ。一階に住めるのは富裕層やエリート階級の者だけ。二階やせいぜい三階までは中流階級エクィテスが住み、それよりも上になると下層階級プレブスが住んでいる。

 こうして見ると、王族の生活と下層階級の生活は、同じ国に住んでいながら、別世界のような生活をしている。

「人は皆平等だと言う人もいるけど、この世はそんな世界ではないと思うわ」

 王族と比較しなくとも、同じ集合住宅に住んでいる者同士であっても、明らかに生活の質が異なる。

「この世に平等なんてものはありませんよ。生まれ落ちたときには、既に差がついています。生まれた国はどこか、家庭は貧しいか、環境は悪いか、障害はあるか、生まれ持った気質はどうか……。全部差ですよ。そして、この差がなくして個性もない。人は皆平等なんて馬鹿な綺麗事は大嫌いですね。皆平等だとか言い切る人間は、無個性しか生まない上っ面の台詞を述べて格好をつけたい無知蒙昧な人間です。もしくは、平等という名に縋って夢見ることしかできない輩です」

「確かに、生まれつきの能力差や個性もあるでしょう。でも、人間社会としての構造としてもそうなのよ。とても遠くの国では、古くからカーストという身分制度があるらしいわね。他の国でも、身分の差が存在するわ。そういうのを見ていると、これはもはや複雑だの悪だのっていう範疇には入らないくらい、もう人間のごうそのものなのではないかと思うの。まさに、知恵の実を食べたと言うに相応しいほどに。差をつくるのも虐げるのも、革命という名を翳して反撃するのも、自然法則じゃなくて全て人間だけの感性にすぎない。ここまでの不平等を生んでいるのは人間自身だわ。そして、人間の社会に生きるには、その不平等に身をおかねばならないのよ。人間の感性に沿って生きるしかできないのならね」

「鶏の世界でも上下関係は存在します。人間のそれは、それよりも複雑で高度なものだという意味では?」

「自然のそれは、人間のそれよりも徹底された固定感はないわ。家系だとか、血筋ではなく、行動や知恵や体格や生まれた順や力によって変わる。それこそ、私やアナタよりも、ぽっと出の新貴族や解放奴隷の方が自然なのよ。貴族に生まれたって、破産した貴族の子が奴隷市場に奴隷として売られていることだってあるわ。上流階級の人間は、自分の立場が落ちるのが怖くて、必死にしがみついているのよ。しがみつくだけの言い訳を沢山主張しながらね。人間は言い訳を考えるのが得意だから。だからって、アナタの血を重んじる考え方を否定するつもりもない。神様のように尊い血は確かに存在するのだろうと思うもの」

「なるほど。それを聞いてようやく納得しました。僕にはそういう見解はなかったので、視野が一気に広がったような気分です。やはり姫様とお話しするのは楽しいですね。頭の固い元老院ろうじんどもと話すよりも遥かに楽しい。この世は、知識や教養があっても考えない馬鹿が多すぎます。頭に入っているものの使い方がなっていない。僕には、そういった人間が普段一体何を考えて生きているのか、皆目見当がつかない」

「馬鹿ではなく、考え方の違いよ」

「知識や教養があるだけで、他の使い方ができないなら馬鹿でしょう。考え方の違いなどではなく、そもそも考えておらんのですから。世界を変える力と、世界に適応する力の両方が必要ですが、そういった馬鹿はどちらも伴っていないか、適応する力しかないかのどちらかです」

「辛辣ね」

「そういった馬鹿にはいつも悩まされていますから。世界の見方が違いすぎて話が合わない。同じ世界に住んでいないのだとすら感じます。これは疎外感ですね」

「私もそれは感じるわ。世界に適応するには、考えないほうが適応的かもしれない。その方が生きやすそう」

「姫様は国民を導く女王になられるのですから、よく考え、よく理解し、本質を見極める力が必要です」

「だからと言って、私が諭したことを、ちゃんと理解してくれて、実行に移してくれる国民はどれだけいるのかしら? 一体どれだけの人が、私の話を理解してくれる? 言い方を工夫したとしても、やっぱり世界の見方が違いすぎたら、人間は自分の世界を守ることを優先しがちだわ」

「……そもそも、姫様は女王になりたいのでしょうか?」

「なりたくなんかないわ。でも、お父様の命令だもの」

「姫様、覚えていますか? 僕と出会った時のこと」

「覚えているわ。今朝も夢で見た」

「僕の両親は国民のために血を流しました。姫様は、それができるのですか?」

「それが役目なら、やるわ」

「姫様はこの国の女王になるという意味を分かっていない」

「さっきの答えで、どうしてそうなるの?」

「女王になれば、この国に縛られるんですよ? よその国に嫁げば、この国から抜け出すこともできるのに」

「私と結婚したくないってこと?」

「違う。そうやって国王様に縛られていいのかと訊いているのです」

「国は私とアナタとで治めるのでしょう? どうしてお父様が出てくるの?」

「王宮を出る前、貴女は感じたはずだ。生贄に捧げられる感覚を。貴女はこの国をこんな形にしたあの男に――」

 ゼノンの言葉が馬が駆けてくる音にかき消された。猛スピードでこちらに近づいてくる。ゼノンは御者に馬車を止めさせ、馬車から降りた。

「王宮からの使いです。姫様はこのままお待ちを」

 ゼノンは馬を走らせている者を確認すると、扉を少し開けてプシュケにだけ聞こえるトーンの声で言った。

「姫様! ゼノン様! 大変です! 今すぐ王宮にお戻り下さい!」

 使者は馬車の付近で馬を止める。切羽詰まった様子だ。これはすぐに戻らねばならなそうだ。

「どうした。火急か?」

「火急でございます。神託……なのですが……。すみません、ここでは……」

 使者は辺りに集まってきた国民たちをチラチラ見ながら口ごもった。確かに、王族の未来がかかっている神託の内容を広めるわけにはいかない。

「分かった。今から戻る」

 簡潔に述べると、ゼノンは馬車に乗り込んだ。御者に指示を出すと、馬車は方向転換して王宮方面へと引き返していく。

「先程の話の続きですが――」

 ゼノンは窓の外を眺めながら口を開く。

「王と民は一つ。女王になれば、貴女はこの国と一体になってしまう。僕にも貴女にも拒否権はありませんが、それでも貴女はその意味を考えることを放棄してはいけませんよ」

 その重みのある真剣な声色に、プシュケはゼノンの表情を見たくなった。しかし、彼は王宮に着くまでプシュケの方を見ることはなかった。

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