4駅目 深冬の夜に

【1. 】

 ––––––これは、つい最近私が経験した不思議な話です。

 その日は朝から曇天で、鈍色をした分厚い雲が空一面を覆い尽くしていました。まさに真冬の空と言うべき色褪せた空模様で、今にも綿氷が零れ落ちて来そうな寂寥を孕んでいたのを覚えています。

 朝からこんな空模様だったために、太陽の光の差し込まない地上は気温がとても低く、寒さに強い生き物でさえ、この日は外を出歩く者は疎らでした。

 私はそんな中、とある駅に足を運んでいました。

 山と山の隙間、その片隅にあるようなその駅に、私はオタク精神で訪れた訳ではなく、歴とした仕事の関係で––––––本来ならばその必要はなかったのに––––––足を運ばざるを得なくなったのです。

 と言うのも、急遽急ぎの予定が舞い込んでしまい、目的地に辿り着くには、鉄道を使う他に無かったため。あぁ、せっかく一仕事終えて、長い休みを使いながら各地を回りながらゆっくりと––––––それこそ、温泉でも行ったり、仕事を頑張った自分への褒美に美味しいもの食べてから職場まで帰ろうと思っていたのに、なんて事だ。上司め上層部め。

 私はそんな事をぶつくさと考えながら、その駅の最寄りの【停竜所バス停】まで交通手段を乗り継ぎました。

 緊急を要する仕事の報せを受けたのがやや遅かったため––––––お分かりかと思いますが、これのせいで私は余計に落胆していました––––––【停竜所】に着いた頃には、夕方を過ぎ始めていました。

 ただでさえ薄暗かった空は、一呼吸の間に見る見るうちに東から黒く塗りつぶされて行きます。同時に息を白く染め上げるほど冷たい空気が、どんどんと冷えていきました。

 冷気が耳を劈いて、耳鳴りを覚える感覚に、夜の足音を聞いた気がします。

【停竜所】から駅までは私が思う以上に距離があり、改札口に着いた時には、私はふぅふぅと肩を弾ませていました。その頃には辺りは暗闇が跋扈し始め、私の数メートル後ろはまるで虚無のように真っ暗でした。黒々とした木々のシルエットすら背景に溶け込んで、現実世界から切り離されたかのよう。

 そんな中で、駅の灯りだけが確かな質感を以てそこにありました。

 入口の看板には、【冬帝ノ下駅WINTEROR THRONE STATION】と書かれた看板が掛かっています。とうだいのもと駅。或いは、冬帝王の玉座駅。何とも尊大でかつ寒気の込み上げる––––––些か、ネーミングセンスに興味を持ってしまうとも––––––思える駅名だと思いませんか。

 私は思いました。

 さて、駅名看板の周りには、蔦のように薄氷が纏わりついていました。よく見れば、屋根には氷柱を取り払った跡も。

 今日は朝から雪は降っていませんでしたが、北の地方の山の奥という事もあります。数日前に発生したものが、未だ溶けていなかったのでしょう。思い返せば、駅まで来る道すがらにも、霜柱や氷溜りがありましたし、常に日陰になっているような場所––––––森の中とか、岩陰とか––––––には雪とも氷ともつかない白い塊が蔓延っていました。

 私が思わず見惚れていると、頰を冷たいものが掠めました。ハッとして上を見上げると、黒々としたこの世の天井から、いよいよ綿氷が零れ落ちて来ています。ちらちらと舞うように降っていたそれは、たった数秒の間に目に見えてわかるほどに量を増していきました。

 途端に、私の身体がぶるっと震えました。寒さがいや増した気がしたのを覚えています。

 私は早くホームに入ろうと、駅の入口を潜りました。

 が、ここで私はあれと思いました。

 改札が無いのです。いや、正確には改札はありました。たった一台だけ、改札機が。しかしその改札機は、本来ならば○か×の表示がされているだろう場所は真っ黒で、その上扉が全開で、そもそも動いてすらいないようでした。

 改札機の右側には柵のようなもので箱型に区切られた人一人分くらいのスペースがあり––––––どういう空間なのでしょう、これは––––––ここに張り紙がしてありました。

『お客様へ。

 こちらの改札機は、ご利用頂けません。当駅の改札口は、場所が移動しております。恐れ入りますが、ご利用の方は、このまま中までお進み下さい』

 このような感じの文章が、赤字と黒字の手書きで書いてあったように思います。

 改札口がここでは無いのに改札機を設置してあるなんて––––––しかも動いていないものを––––––奇妙だなと思いつつ、切符を買うかと辺りを見回した私は、そこでまたあれと思いました。

 券売機も窓口も見当たらなかったのです。いや、それらしいものはあったのですが、その機械が収まっていたと思われる空間に板が貼り付けられており、ここにも張り紙がしてありました。

『乗車券をお求めのお客様へ。

 発券および入場・乗車手続きは中で行なっております。お求めの際は、ご迷惑をお掛け致しますが、駅中の窓口までお越し下さいませ。

 尚、インターホンは現在、お使いになることができません。ご迷惑をおかけして申し訳ございませんが、何卒、ご了承願います』

 確かに––––––目を滑らせると、券売機の空間横にちょこんとタッチ式のインターホンがありました。当たり前のように画面が真っ暗で電源そのものから入っていませんでしたが––––––、こんな感じの文章だったように思います。

 何故そんな所まで覚えていたかと言いますと、気付かれる方は既に気付いていらっしゃるかとは思いますが、ある種、ここがだとは、とても思えなかったからです。

 勿体ぶってしまって申し訳なく思うのですが、何を隠そうこの【冬帝之ノ駅】、所有者は国内最大手––––––大陸最大と言う方も中にはいらっしゃるようですが––––––、ウィエール鉄道でした。

 大陸の各地に蜘蛛の巣のように線路を巡らせるウィエール鉄道は、ご存知の通り––––––と、ここでこのように書くのは何やら奇妙な感じがするのですが––––––誰しもが生涯に一度は利用するとまで言われる鉄道会社です。それ故か、新車や新設備が導入される話題に事欠かず、都市から離れた駅でもそれなりの物が配備されている印象がとても強い会社でもあります。実際、以前に私が出張で使った駅も––––––それなりに田舎にあったにも拘らず––––––、置いてある機械は綺麗なもので、建物の時間の経過具合と若干の乖離があったものです。

 だと言うのにこの駅は、改札機は動いておらずただの置物オブジェ同然で、券売機は取り払われてあった形跡のみが残り、インターホンは使用不可と来ていました。

 つまり私が何が言いたいのかと言いますと、【冬帝ノ下駅】は、ウィエール鉄道の駅にしては雑と言うか、いい加減というか、お粗末というか。何と言いましょうか、手抜きに見えたのです。

 見えない所は適当でも構わないのか、それは何か違うだろう……と。

 がっかりしたような、憤りのような、何とも言えない気持ちになりました。

 しかし、そこでいつまでも肩を落としている訳にはいきません。ひゅうっと急かすような風が吹き、私は慌てて壁に貼り付けられている時刻表を見ました。

 何がどうあれ、この時ばかりはこの【冬帝ノ下駅】から電車に乗らざるを得なかったのですから、もし乗り遅れでもしたら大変です。こんな山奥の、それこそ秘境のような場所にある駅ですから、都心部のように頻繁に電車が来る訳ではない事は想像するに難くありません。

 電車にはあまり詳しくない私ですが、それくらいは分かりました。

 案の定、時刻表は「ペン先からインクが垂れてしまいました」と言わんばかりに、両手で数えられるほど––––––いえ、片手で数えられる数しか本数がありませんでした。

 一日五本。

 ある程度予想していたにも拘らず、私は驚きました。

 ウィエール鉄道共通なのでしょう、縦に並ぶ「4」から「25」までの二十二個の枠。その中に、たった五つしか数字が収まっていません。都心部では朝四時台で始発が動き、終電は二十五時台まで動いており、時刻表は数字が羅列するウィエール鉄道とは思えない空白具合。ここまでくると、時刻表ではなく、何時何分と縦に記載したが分かりやすいかもしれないとさえ思いました。

 過去にそれなりの田舎で使った経験から打ち立てられた私の予測は、呆気なく真っ向から否定されたのです。

 けれど、私がそんな事を考えたのも一瞬で、すぐ様焦ることになりました。

 最終電車の時刻は、私が思うよりもずっとずっと早く、十八時台の電車だったのです。「19時」から下の枠には数字は一つもなく、空白が横たわるのみでした。

 慌てて時計を見ると、二十分ほどは余裕があるのが分かりました。私はホッと息を吐き––––––時刻を予め調べてなかったのかと思うでしょうが、急ぎの私はそんな所まで気が回らず、ついでに言うと、ウィエール鉄道だし本数はそれなりにあるだろうと高を括っていました。……空回り具合がお恥ずかしい限りです––––––改札機の間をすり抜けて駅の中を先へと進みました。

 改札機正面を抜けると短い階段があり、これまたやや短い廊下の突き当たりには白い字の浮かぶ青い看板が吊り下がっていました。

『特急のりば まっすぐ➡︎

 待合・乗車手続き のりば手前の扉➡︎』

 壁には、『角を曲がればすぐ。足元と気温にご注意を』と言ったようなことや『待合にて断寒・暖熱商品の取り扱いあり』のような事の書かれたパネルもあったような気もしますが、残念ながらここはあまり覚えていません。

 ただ、角を曲がるとホームに続いているようで、さながらこの通路はトンネルのようだと感じたのは覚えています。

 そしてこの時私が抱いた感想は、強ち間違いではありませんでした。

「っ……!」

 私は思わず、息を呑みました。

 それは屋外に出た途端に全身で突進してきた風の冷たさに身が竦んだからですが、しかしそれを上回るものが視界を射抜いたからです。

 白い絨毯。

 一見するとモコモコに見えるそれは、見る人によってはそんな風に形容したのかもしれません。

 私の目の前に広がる景色は、辺り一面、寸分の漏れもなく白色に染め上げられていました。

 角を曲がった途端に展開されたそれに、私は絶句。言葉を失なったのです。

 駅の入口に着いた時はまだ降り始めで––––––そこからまだ然程時間が経った訳でもないのに、既にホームは数センチの厚さになるまでに綿氷が積もっていました。

『トンネル抜ければそこは雪の世界だった』

 と言う有名なフレーズがありますが、まさにその通りだったのです。

 ただでさえ普段から気温の低い北の地方の奥地。地面も空気も温度が低過ぎて、積もったものが溶けにくい環境であることは推測に難くありませんが、これ程とは誰が想像できたのでしょう。

 おまけに、吹く風の強さも桁違いでした。

 びゅぉお……と質感を音に変えた風が綿氷を伴って私の顔に叩き込まれ、その度に寒さが肌の奥まで突き刺さっては吹き抜けていき、狂ったように舞う白い破片が視界をまだら模様に妨害します。

「さ……寒い……っ!」

 私は思わず縮こまりました。

 早く待合に行こう!

 迷いもなく決定でした。

 が、しかし。

「え……あれ、え……?」

 ホーム入口のすぐ近くに設置されていた待合に続く扉は難く閉ざされ、押しても引いてもビクともしません。

「まさか、動いてないのか……?」

 そう思いましたが、扉の向こう側の通路の奥は、ぼんやりと灯りが灯っています。と言うことは、駅は動いているのです。

 終電が過ぎ去り、客を扱うことを終えた駅は電気が消えます。幸いにして、私はそれくらいは知っていました。

 しかし何故か扉が開かない。旅客の扱いをやめていないのに。

 まさか鍵が……? と危惧した私は––––––この時の私はもし掛かっていたなら、文句の一つでも言おうかと考えていました––––––が、扉を少し調べてみましたが、そうではないようでした。見た感じ、扉が動くのを遮るかんぬきは見当たらなかったのです。

 ならば何か別の要因で、そうなってしまっていたのでしょう。

「……ホームで、待つか」

 最初、何とかして開ける方法が無いかと模索し健闘しようかとも思いましたが、目の前の扉は結構重厚かつ頑丈そうなもので、無駄に体力を使ってしまいそうなので、やめました。

 体力を使うと言うことは汗をかいてしまうと言うことで、扉が開けば何も問題はありませんが、奮戦の末扉が開かなかったり長期戦になったりしてしまった場合、この風の冷たさではあっという間に体温が下がると考えたからです。

 それならば、電車到着まで二十分もない訳ですし、頑張って外で待とうと思いました。

 乗車券や特急券は、乗ってからすぐ車掌さんにでも申し出ればいいだろう、とも。

 この時の私は、まだ冷静だったように思いますが––––––とは言え正しい選択が何だったのかを聞かれれば分かりませんし、存在したのか実行可能だったのかは、今でも分からないのですが––––––、しかしその実誤った判断を下してしまったと言わざるを得ませんでした。

 ホームで電車到着を待つことに決めた私は、積もる雪を踏みしめて屋外に踏み出しました。

 途端に襲い来る吹雪に歯を食いしばりながら進むと、ザックザックと小気味の良い音がします。

 とは言えそんな音を楽しむ心のゆとりなどあるはずもなく。

 私はホームの中でもなるべく風を避けられそうな場所を探して待機を始めました。

 しかしこれはすぐ前にも書いたように、愚策だったのです。

 風は様々な角度から私を打ち据え、目敏く隙間を見つけてはそこに見えない手を捩じ込んできました。

 これが二十分弱も続くのか……いや、電車が来るまでの辛抱だ。頑張れ。電車の中は暖かいに決まってる。

 正直言って開始数十秒も経たない内に心が傾いていましたが、そう言い聞かせてホームの片隅に縮こまっていました。

『大丈夫。ウィエール鉄道は時刻表を守る。時刻表通りの運行をするのがウィエール鉄道だ』と。

 そうやってどれくらい経ったでしょう。体感だと1時間近く経ったように感じていましたが、恐らく実際はそんなに経っていなかったでしょう。しかしともかく、いつしかぶるぶると震えていた身体は、ガタガタと体全体から振動を始め––––––唐突に、が来ました。

 今思い出しても、あれは不思議な感覚だったように思います。

 ふつり。と。私の中で何かが消えたのです。

 一瞬。

 ほんの一瞬だけ、身体の震えが止まりました。

 そのほんの刹那の間に、私の脳裏を駆け抜けた直感がありました。

 そして同時に––––––凄まじい寒気が自分の奥底から、間欠泉のように噴き上がったのです。

「っ……!?」

 そこからは覚えている限り、一方的でした。

 風が私を掠める度にどんどんと感覚を失っていき、末端の箇所はもはや痛いほどです。

 考えるに、あれは私の中で熱を作るエネルギーが枯渇して、寒さに対する抵抗力が太刀打ちできなくなっていく過程だったのではないでしょうか。

 その時には私はもう、まともに思考が回らなくなっていました。

 頭も目もぼんやりとして––––––死ぬかも知れないとは、至りませんでした。それ程までに、私の胸中も頭の中も、凍結され始めていたのです––––––立っているのかしゃがんでいるのか、自分がどこを向いているのかすら曖昧になり、やがて身体中から力が抜け始めた頃。


「お客様……お客様––––––聞こえますか?」


 朦朧とする意識の中で、そんな声を聞きました。

 目の前には、鈍い黄色の光が灯っていたように思います。



【2. 】

 お恥ずかしながら、私はそこから暫くの記憶がありません。ありがち過ぎる展開で我ながらなんて御都合主義だと思いますが、案外、現実も物語も同じような事が起こるのだとも思いました。

 さて、話を戻しますと、次に気が付いた時、私はどこかの建物の中にいました。

 正確には、「気が付きましたか?」の一言から始まり、そこでようやく建物の中にいると気が付いたのですが。

 とにかく、私が声のした方に目を向けると、青年が一人、私の前に立ち顔を覗き込んでいました。

 上下共に灰色をしたスーツと、制帽。

 紛れもないウィエール鉄道の制服でした。

「まさかお客様がいらっしゃるとは……間に合って良かった」

 青年は私と目が合うと、肩の力を抜きつつそう言いました。とても低い––––––抑揚に欠けた、と表現した方が正しかったのかも知れません––––––声でしたが、それでも人間味は感じられたので、私は少なからず安堵しました。

「お身体の具合は如何ですか?」

「……ぇ、っ、ぁ…………れ?」

 答えようとした私の声は、目に見えて震えて掠れ声になっていました。

 青年の声が普通に聞こえた以上、私の耳がおかしくなっている訳ではない事は明白です。つまり、これでは伝わらない。もう少し力を入れて、声を安定させなければ。

「あぁ。結構です。無理に喋ると身体に障りますから」

 喉に力を入れようとした私を、青年が遮りました。

「寒さで喉が悴んでいるのです。少しお待ちを」

 それから青年は、制止するように手を私に翳してから、どこかに行きました。後ろ姿を目で追いながら、私は置かれた状況を整理しました。

 どうやらそこは建物の中。目の前にはストーブが置いてあり、赤い炎が揺らめいて。その上に置かれているランタンのような照明器具は、橙色とも黄色ともつかない不思議な光を灯しています。部屋の明かりはそれだけらしく、私の対角線上の隅は、ぼんやりと輪郭が浮かぶのみしか確認できません。

 近くを見回してみると、右側の壁の上の方に何やら金額や時刻の書かれた看板があり、そこから少し離れた空間に、ポスターが数枚、綺麗に貼られています。窓と思しきガラスの向こう側は真っ暗なので、あちら側は倉庫か何かなのでしょう。しかし不思議なことに、反対側の扉の窓の向こう側も、真っ暗です。

 そして落ち着いてきて分かったのですが、私はどうやら毛布に包まれているようでした。そしてストーブを囲むようにして一人がけのソファと丸いテーブルが幾つか並び––––––私はこの内の一つに座らされているようです––––––壁際にはロングソファとロングテーブルが。

 はて、ここは一体どう言った場所なのだろうか––––––

「お待たせしました、お客様」

 ––––––と、思考を巡らせようとした矢先に、青年が戻ってきました。

 完璧なタイミングでしたが、偶然でしょう。青年の手には、マグカップが二つ握られていました。白い湯気が立ち上っていたのを見るに、何か温かいものを持ってきてくれたのです。

「指を差してお答え頂けると幸いですが。スープと紅茶、どちらがお好きですか。因みにお客様から見て右のマグカップが卵スープ、左のマグカップがビスケット・ブレンドのストレートです」

「…………」

「スープですね?」

 私は青年が差し出したマグカップを毛布の隙間から手を伸ばして受け取ると彼は私の斜め向かいに座りました。

「どうぞ。遠慮なく。お代などは、もちろん頂きませんから」

 それから一言そう言って、ビスケット・ブレンドの紅茶の入ったマグカップを––––––とても甘い香りのする紅茶のようです。まさしくビスケット菓子のような香りがしていました––––––一口傾けます。

 私は始めどうしようか迷いましたが、マグカップ越しに両手に伝わるスープの熱と優しい匂いに抗い切れず、釣られるようにして卵スープを一口口に運びました。

「!」

 喉の奥をスープが流れ落ち、通り過ぎたと感じた瞬間––––––胸の奥からじんわりと温かいものが広がっていきました。染み渡る。この表現がこれ以上にピタリと当てはまったのは、私はこれが初めてでした。指先を始め、強張っていた身体中の至る所が瞬く間に自由を取り戻し始めました。

 私は思わず––––––言い忘れていたのですが、この卵スープが絶妙に美味しく食欲を誘ったのです––––––続けて何度もスープを口に運びました。一口二口と飲むほどに、身体の内側から熱が込み上げてきます。

 あっという間に飲み干すと、青年は私を見て満足そうににこりと笑いました。

「身体の内側から冷えてしまっていましたからね。そういう時は、やはり外から温めるより、直接内側から温めるに限ります」

「ふぅ……ありがとうございました」

「いいえ。どういたしまして。では、もう一度お聞き直ししますが。お身体の具合はどうですか?」

「……はい。今頂いたスープのお陰で、温まりました」

「それは良かった」

 青年はどこか満足そうに頷きましたが、次に彼が発した一言に、私は面食らうことになります。

「所で、お客様。何故、この駅に?」

「え?」

 何故、とは––––––?

「で、電車に乗りに……ですけど」

「本日は十三時の運行を持って、運転を見合わせておりますが」

「えっ?」

「【冬氷峡谷線】–––––【Glacies Valles Lineグラキエス・ワレース・ライン】––––––は、本日十三時を以て全線運休––––––いえ、運行停止しております」

 思わず瞬きをして呆けた私に、青年はわざわざ付け加えてまで言い直してくれました。

 しかしだからと言って、理解が追いつく訳ではありません。

「そんなはずは……」

 と、未だ呆然とする私に––––––青年は首を傾げました。

「……お客様。本日は、どちらから? 【冬氷峡谷線】の午前のダイヤで来られて、それからずっとこの駅にいらっしゃったのですか?」

「ぇっ……と、いえ。ここに来たのは一週間前で、その時は別の手段で来ました。駅に着いたのは、最終電車の二十分と少し前だったと思います」

「ふむ? それでしたら、妙ですね」

「妙? 何がですか?」

「お気を悪くしないで頂きたいのですが。私共が運行停止のお知らせアナウンスを開始したのは、十三時の最終列車の運行が終了してからで、運行停止の該当路線の全線および全駅にお知らせが行き届いたとの報告および確認が取れたのが十四時四十九分なのです。つまり……」

「でも、駅にそんなお知らせ、ありませんでしたよ。電光掲示板的な表示も張り紙もなかったですし、駅の入り口の閉鎖みたいなのもありませんでした。大体……」

「お待ち下さい、お待ち下さい」

 この時点で私は、幾分か興奮していました。気持ちが昂ぶっていた理由は、今思えば、恐らく不満や怒りだったのでしょう。

 思わず言葉を遮った私を、しかし青年は遮り返しました。

 言いたいことを––––––それも興奮している時に––––––遮られると、普通に考えれば腹立たしくムッとする所ですが、不思議なことに、私はその遮蔽をこの時は破る事ができませんでした。

 私の言葉を喉の奥に押しやった彼は、聞きます。

「同じようなことを聞いてしまいますが。お客様は本日、こちらの駅まで、どのような手段で来られましたか?」

「【停竜便バス】ですけど」

「なるほど。それです」

「どれですか」

「【停竜便】です」

「【停竜便】がどうかしたんですか」

「説明いたしますが」

 青年はそう前置きをすると、こほんと一つ咳払いをして、私の目を見て話し出しました。

「確かにお客様の仰る通り、私共は駅に封鎖措置をしておりませんでした。しかしこれは、この駅の立地の関係故なのです。お客様はもしかすると既に把握していらっしゃるかも知れませんが、この駅は、山と山の隙間、その更に奥地のような場所にございます。人の集まる場所から非常に離れている為、駅へ来る手段はごくごく限られており、徒歩で来られる方は先ずいらっしゃいません。お客様のように【停竜便】に乗られるか、【直地到使タクシー】を使われる方が殆どです。ですので我々は、近隣の【停竜便】会社や【直地到使】会社に委託と言う形で連絡をし、その時間以降、利用客に『運休および運行停止等に始まる運行状況の異常』をお知らせを代行して頂き、必要に応じてお声掛け及び説明の実施も行なって頂いています。そうして、列車を利用しようとする方に予め伝えて頂くのです」

「説明なんて、されませんでしたよ」

「そこがおかしいのです。委託と言う以上、我々と【停竜便】会社との間には、金銭関係が発生しています。つまり、【停竜便】会社の操縦士には、お客様がこの駅最寄りの【停竜所】で降りられる際に、お客様にお声掛けする義務が発生しているのです。再度確認致しますが、【停竜便】を降りられる際、操縦士から何か聞かれましたか?」

「……いいえ。ただ」

「ただ?」

「酔狂だな、みたいな顔はされました」

「……なるほど。それは、お間違いないですか?」

「間違いないです」

「分かりました」

 私がきっぱりと言い切ると––––––確かに降りる時に、【停竜便】の操縦士に「こんなところで降りるなんて、変わった奴」みたいな顔をされていましたし、興奮状態も、あまり落ち着いたとは言えませんでした––––––青年は一つ頷くと、徐に立ち上がり、

「––––––お客様。この度はご迷惑をお掛けいたした。申し訳ございません。差し支えなければ、今後の対応の参考までに、詳細をお聞かせ願えますでしょうか」

 私に対して深々と頭を下げました。

 恐ろしく綺麗なお辞儀でした。

 まだ若いのに––––––それは見た目だけだと言われれば返す言葉がないですが––––––あまりにも洗練された美しさと、厳格さや重圧がひしひしと伝わるそれに、私は思わず勢いを削がれてしまいました。

 とは言え、幾分か落ち着いたことで幾分理論的に頭が回るようになった私は、青年に対して思った事を言いました。

「いえ……あの、それは構いませんけど。でも先に、幾つか聞きたいことがあります」

「……私にできる範囲で全て、お答え致しましょう」

 青年は顔を上げて居住まいを正すと、ソファに座り直しました。

 やはり、この動作も洗練された美しさのようなものがあり、私も思わず、毛布に包まれた背筋を伸ばしました。

「まず……私は会社に急ぎの仕事を頼まれて、どうしても明日の昼までにはポラリスまで行かなければならなかったのです。その為には電車しかなかったのですが、これではもはや間に合いません。どうすれば良いのでしょう」

「お答えする前に、こちらからも聞かせて頂きたいのですが。会社より指示があった時刻と、その時滞在していた場所は覚えていらっしゃいますか?」

「確か、十四時頃で、その時私は【寒断町ブロックール・シティ】にいました」

「【寒断町】ですか。なるほど、その時刻帯にその場所から明日の昼までにポラリスに着こうとすると––––––移動手段を公共交通に限定するならば––––––確かに、我が社の利用以外は絶望的です。承知致しました。であれば、運休証明書をお出し致しましょう。……お客様のご質問が全て終わり次第、発行させて頂きます」

 運休証明書、か。

 恐らく、遅延証明書の上位互換––––––と言うと幾分か意味合いが異なってくるようにも思えますが––––––とも言える証明書なのでしょう。

 文面的にもおいそれと簡単に発行できそうな物にも思えませんでしたし、それならば、仕事の不遂行や停滞に対する弁明に充分なり得るはず。何せ、国内最大手のウィエール鉄道ですものね。

 私は頷きました。

「次に……何故、駅の入り口の封鎖は行なわれていなかったんです? せめて入り口だけでも閉じていれば、私はすぐ様【直地到地】会社に電話して、町に戻り、会社に連絡を入れることができていました」

「そちらに関しましては、先ず先に、改めてお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。次にお答えさせて頂きますと、先程も申し上げました通り、この駅では運行停止および運休が決定した場合、我々は周囲の運輸・輸送の提供を行う会社に連絡をし、旅館への案内を委託しているのです。これが何故かと申しますと、各町––––––ここは私の呼び方で拠点とさせて頂きますが––––––一般の方々が先ず徒歩で来られる距離に位置していないと言うのが理由でして。ここ、【冬帝ノ下駅WINTEROR THRONE STATION】まで徒歩で来られる方は、裏を返せばそれほどまでの能力を持ち合わせていらっしゃる方で、そもそも鉄道など利用なさらないのです。その上、我々が申し出るよりも早く状況の把握をしてしまうので、情報掲示をした所で余計なお世話になってしまいます。これに関しては、過去にアンケートを取った結果、全ての実施において『必要ない』との結論が出されており、記録も残っております。因みに、社外の人間も閲覧可能なデータですので、必要であればお客様にお見せできますが、ご覧になりますか?」

「い、いえ……それは、大丈夫です。今ので納得がいきました」

 かなりの長い返答と説得力のある回答に、私は納得せざるを得ませんでした。今思えば気圧されていたのかも知れませんが、どちらにせよ、筋の通った話でしたし、調べれば分かる事だと思ったので同じ事でした。

 事実、地図で確認しても、体感としても、近くの町から【停竜便】も【直地到地】も使わずに【冬帝ノ下駅】まで来ることのできる人物は、相当の実力の持ち主で、自力が群を抜いている事は容易に–––––そのような方はきっと、【瞬間転移Warp】を獲得していたり、長距離移動用の生き物を自前で所有していたりするに違いないと––––––想像できたからです。

 私が首を振ると、青年はやや黙してから––––––言外に、「本当によろしいのですか」と聞かれているようでしたが––––––、何事もないかのように「お次の質問をどうぞ」と言いました。

 これに、私も二、三度と深呼吸をして、調子を整えてから喋りました。

「運休になった原因は、何ですか?」

「【暴風雪ブリザード・ストーム】です。具体的には、【暴風雪】による路面凍結かつ埋没、機器類の使用停止と言った所ですが。原因は氷の女神の気紛れですね。気紛れと言うよりは、気損ねですが」

「気損ね……ですか?」

「えぇ。何方かは存じあげませんが、氷の女神の怒りを買われたようです。午前中に、そのように通達がございました。……お客様は、もしかすると気付いていらっしゃったかも知れませんが。昼頃より野外において、生物の気配が徐々に、しかし急速に途絶えていったので、我々はこれが事実であるとの確信を得た次第です」

「生物が……? …………あっ」

「お心当たりが、おありですか」

 青年は私が思わず零した声に、ほんの僅かに表情を緩めました。どこか嬉しそうに笑っていたようにも見えましたが、真意は分かりません。

 何故なら私はこの時、駅に来る道中の事を思い出していたのですから。

 思えば、【停竜便】に乗る時も降りた時も、私は自分以外に誰かに殆ど会っていないのです。それは人間だけでなく、野生動物にしてもそうでした。どこにでもいて、よく見かける小鳥ですら、姿はおろか囀りすらも耳に拾った記憶が曖昧なのです。

 しかしそれも、氷の女神の機嫌の意向を敏感に察知したからと言われれば納得がいきました。

 人間よりも動物の方が、その手の事象への察知能力が高いものですから。

 そしてそうなると、私は次にしようとしていた質問の答えが、薄々分かってしまいました。

「他に、ご質問は?」

「はい、えーと……改札機とか券売機が動いてないのって……」

「それに関しては、申し訳ございません。あれらは近々、撤去する予定なのです」

 青年は柳眉を下げてそう前置きをすると、続けました。

「少し前まで––––––ほんの三十年程ですが––––––きちんと機械が設置されていたのですが。ここは女神のお膝元……と言うより、吐息がかかる程の懐深くですから、些細な事ですぐに凍結してしまうのです。何せ、凍結防止の暖房機が数日から数週間で壊れてしまう程ですからね。その度に買い直すのはコスト的に釣り合いませんし、この駅は利用者が少ないので従来通りの改札の仕方でも問題ない。そういう訳で撤去が決まったのですが、悲しくも中々こちらまで手が回らない次第でして。ついこの間、券売機の撤去は終わったのですが」

「暖房機が寒さで壊れる……?」

「えぇ。ですからこの駅では、暖房と呼ばれるものが、この部屋の中しか機能しておりません」

 私が唖然としていると、青年は更に申し訳なさそうに付け加えました。

 暖房機が破壊されるほどの寒さ。

 そんなもの、想像もできません。

 私が言葉も無く黙っていると、そこで青年は徐にパチンと指を鳴らしました。

 照明器具の光がそれに合わせるようにぶわりと揺れたのが印象的でした。

 脈絡のないそれに、やはり私がぽかんとしていると、青年は穏やかな顔で先程私が飲み干したマグカップを指差します。

「スープのお代わりをどうぞ。まだまだ、貴方の身体は温まり切っていないようですから」

 きっと、それは魔法を使った合図だったのでしょう。見れば私のマグカップから湯気が立ち上り、中を覗くとたっぷりとスープが入っていました。

「あ、いえ、お代わりは別に……」

「どうぞ、お召し上がり下さい。私の見解では、お客様のお身体は、まだまだ燃料が足りておられないはずです」

「燃料……?」

「えぇ。機械にしろ生物にしろ、化学反応にしろ生体反応にしろ、結果や効果を得たいのならば、稼働させねばなりません。そしてその為には、が必要不可欠であり、それを創り出すにはその素となる燃料エネルギーが必要となります。機械であれば、電力や火力が。生き物であれば、食物が」

「食物……」

 私がぽつりと、反芻するように呟くと、途端に、毛布の内側からくぐもった音が響きました。

 私の腹の虫の音でした。まごう事なき、空腹エネルギー切れを報せる警告アラームです。

「……特に後者は、摂取する食べ物そのものの温度で賄うには、限界がありますからね。さぁ、どうぞ。遠慮なく。私も食事にしますから」

 青年の後押しするような台詞に、私は尚も喉元に居座っていた遠慮の言葉を飲み込みました。おまけに、青年がもう一度指を鳴らして食事を出すものですから、根負けせざるを得ません。私と彼の間の丸テーブルに、バターの乗ったトーストや焦げ目のついたソーセージ、シロップの入った小瓶、スティック状にカットされた野菜、ディップソースの小皿などが並びます。ご丁寧に濡れた小さなタオルとフォークも一緒でした。

 テーブルから溢れ出さんばかりに所狭しと並ぶそれらの内から青年がトーストを一枚手に取ると、すぐ様新しい物が皿の上に現れたので、きっと【定点共繋・呼出Tool Link・Call】を使ってどこかと空間を繋げていたのでしょう。

 ……しかしながら、思い起こしていて思ったのですが、随分と魔法に精通した駅員さんだと思いました。何故なら、トーストが勝手に補充されたということは、【呼出Call】に加えて【適時発動魔法Automatic Magic】も重ね掛けしているという事です。本人は澄まし顔で当たり前のようにしていましたが、誰にでもできる芸当でない事は––––––何せ、後者に至っては高い技術力を求められるのは、有名な話ですから––––––明らかでした。

「ご質問があれば、引き続きお受けいたします。ただ、より丁寧な回答のために、空腹障害を除去させて頂きたく思います」

 頂きたく、と言いながらも否を聞くつもりは無いと言わんばかりに、青年はトーストに齧り付きました。サクリと、香ばしくも軽快な音が静かな部屋に小さく反響し、私の口内でじわじわと水位が上がります。

 彼は続けて、ソーセージに手を伸ばしました。フォークで刺した時、かぶりついた瞬間に、パリッと皮の破れるジューシーな音が弾けます。

 私は堪らなくなって、トーストに手を伸ばしました。

「焼きたてですよ」

 少しの躊躇いと食欲とがせめぎ合っていましたが、青年が呟くように零した一言で、前者に軍配が上がります。若干の後ろめたさに動きがゆっくりになりながらも、私はとうとうそれに口を付けました。

 一口。

「っ……!」

 齧った途端––––––バターの優しい香りが鼻腔いっぱいに広がり、私の全身をゾクッとした震えが走りました。

 気が付けば、私はしばらくの間無言で食べ続けていました。トーストに蜜をたっぷりかけ、野菜にソースを程よく絡ませソーセージを食み、時々スープを喉に流し込んで、その幸福を飲み込みました。

 食事中に喋る訳にもいかず––––––と言うのは、あの時の私の言い訳でしょう。確かにあの時私は、の補給に夢中になっていました––––––、あらかた腹に詰め込んで、そこで初めて私は青年の言葉の意味を理解したのです。

「あ……ご馳走、様でした」

「はい。ご馳走様でした」

「あの、さっきの燃料って……」

「つまり、そういう事です」

 結構食べてしまった罪悪感に怯む私でしたが、青年は気を悪くした様子もなく食後の紅茶を味わっていました。

 むしろ、自分が言った言葉の意図を私が理解した事に、喜色を見せているようにさえ見えます。口元に薄っすらと満足そうな笑みが含まれていたように見えたのは、私の気の所為だったのでしょうか。

「さて。では、話の続きといきましょうか」

 紅茶で喉を潤したらしい青年は、そう言って手をぽん、ぽんと二回叩きました。すると丸テーブルを覆い尽くしていた食器類が全て消え失せ、マグカップのみになりました。

 食事が済んだので、片付けたのでしょう。

 そして代わりに砂糖菓子の乗った皿がちょこんと現れました。

「何か、聞きたいことは?」

「あ、いえ……えーと……」

 この時点で私は、すっかりと青年のペースに呑み込まれていました。

 いつだったか前は私が強く意志を持ってあれこれと言葉が出てきたと言うのに、今は少しも浮かんできません。

 しどろもどろになりつつも––––––その間、青年がやはり嫌な顔一つせずにいるものですから、余計にそうなりました––––––暫し考えた末に、私の口から言葉は、

「何故、この駅にいたのですか?」

 でした。

 自分で言ってから気付いたのですが、言われてみれば、それが何故気付かなかったのかと思う程の疑問でありました。

 駅が封鎖されて、運行停止の情報発信が委託という形で行われているならば、この駅員さんがこの駅にいる必要があるかと言うと、その必要は無さそうですから。

「駅守を命じられましたので」

「えきもり?」

「寝ずの番で、駅の設備や施設を監視することです。【冬帝ノ下駅WINTEROR THRONE STATION】は、機器が壊れたりしてもすぐに代替品を持ち込めませんので、温度調節や機械動作の管理を行い、故障防止に努めるよう、上から指示があったのです。ですから、こうして暖房を焚き、幾つかの機器類は固まらないように動かし続けています。––––––初めは憂鬱でしたが、今はこれで良かったと思っております。でなければ、お客様を救えなかったでしょうから」

 そう言うと、青年はにこりと笑いました。

 まだどこか幼さの残る、外見に見合った笑顔でした。

 頭を下げた時にあれほどの圧を放っていた相手とはとても思えません。

「……本当に、ありがとうございました」

「いいえ。人命救助は我々が最優先すべき事項の一つですから。当たり前のことをしたまでです」

 青年は至って穏やかな声でそう言うと、砂糖菓子を一つ摘まんで口に放り込みマグカップを傾けました。釣られて私も同じ物を口にすると––––––いつの間にか、私のマグカップの中身が紅茶に入れ替えられていました––––––益々強張ったものが緩んでいくのを感じました。

 固結びがするすると解けるように、菓子の甘みが染み込んでいきます。

「あの、所で」

「はい。何でしょう」

「外は今、どうなっているのですか? 窓が無いので、よくわからないのですが」

「窓なら、ございますよ」

「え、どこに?」

「そこです。あの向こう側がホームです。ただ、綿氷が張り付いていて、どちらにせよ外を見ることは叶いませんが」

 青年が指差したのは、私が倉庫の窓だと思っていたガラスでした。

「あの向こう、外なんですか? てっきり、倉庫か何かだと……」

「えぇ。驚く事に、外なのです。強い風でぶつけられた雪や氷が張り付いて、寒さで凍り付いき張り付いてしまっているのです。恐らく今も尚、窓の向こうは凍結した世界でしょう」

「へぇー……今外に出たら、どうなります?」

「下手を打つと死んでしまうでしょうね。少なくとも私は、出たくありません。……寒いのは、あまり好きではありませんから」

「…………」

 私と青年の間に、暫しの沈黙が降りました。それからどちらともなく、微笑を浮かべて肩を揺すりました。

 私と彼との間に、奇妙な連帯感が芽生えていたのです。

 この頃には、私が抱いていたの感情は殆ど抜け落ちていたのです。

 それからすっかり機嫌が直った私は、青年と様々な話をしました。

 ウィエール鉄道のことや自分の仕事のこと、分けて頂いた食べ物のことから始まり料理のことや季節のことなど、結構な話題を転々としていたように思います。

 一頻り話していると、その内に、私はうつらうつらとしていました。

 身体がすっかり温まり、そこに疲れが相乗して眠気が呼び寄せられたのでしょう。

 ぼんやりとする中で、青年が穏やかな声で言いました。

「どうぞ、このままお眠り下さい。お疲れでしょうから。無理に起こしておくほど、私は無粋者ではありません。明日の朝始発の特急乗車券と、運休証明書を準備しておきますので、ごゆっくりお休み下さい」

 これまでで一番、優しい声音でした。

 それこそまるで子守唄のように、彼の声は私の耳にするすると流れ込んできて、不思議な安堵をもたらしました。

 誘惑に負けて、私は目を閉じました。瞼を閉じてすぐ、青年が身動いだ気配がしましたが、それらもすぐに微睡みの中に溶けて消えていきます。甘く蕩けるような睡眠欲に包まれて、私は極めて心地よく眠りに落ちました。



【3.】

「––––––お客様、お客様? ……お客様!」

 とんとん、と肩を叩かれる音と声で、私は目が覚めました。

 目の奥で座り続ける眠気を追いやって瞼を開くと、光の奔流が飛び込んで来ました。あまりの目映さに思わずぎゅっと防波堤を講じると、それで頭も覚醒したらしく、ようやく、自分の周囲の環境ががらりと変わっている事に気付きました。

 部屋の中はすっかり明るくなり、大量の光が注ぎ込んでいます。私の前に立つ何者かの姿は、滂沱の光の中で逆光になってよく見えません。

 あぁ、青年が言ったのは、本当に窓だったのだ。と、ぼんやりと考えていると、するすると目の前の人物に焦点が定まっていきます。

「目が覚めましたか?」

「……あれ?」

 てっきり、青年が起こしてくれたものだと思っていた私は、何者かの正体を認めて目を丸くしました。

 上下共に灰色のスーツ。

 ウィエール鉄道の駅員さんの制服。制帽。

 しかし私の顔を覗き込んでいたのは、女性でした。

「目が覚めましたか?」

 長い亜麻色の髪を揺らした女性は、もう一度尋ねてきました。

「え、えぇ……はい」

「それはよかったです。えーと、お目覚め直後で大変頭の回っていないと思うんですけど、聞きたいことがありまして。よろしいですか?」

 女性はおっとりとした喋り方で私に尋ねました。全体的にほんわりとした雰囲気の方で、私の中の警戒心は眠りの中です。

「何でしょうか」

「もうすぐ始発の電車が来ますけど、乗りますか?」

「あ…………はい!」

 一瞬、何のことか分からずぽかんとしてしまいましたが、パズルのピースが合わさるように合点のいった私は、自分でも驚く程に大きな声で返事をしてしまいました。

「分かりました」

 女性駅員さんはびっくりしたような丸くなった目をしましたが、態度には出さず頷いて言いました。

「それでは、乗車券と特急券の確認をさせて頂きますね」

「ぁ……っと……」

 私はその瞬間、はっとしました。

 昨晩、私が眠りに落ちる前、青年は確かに「始発の特急券」を手配するといったのですが、それは一体どのような形なのでしょう。事前に会社の方へ連絡してくれている……というのは、今の女性駅員さんの様子を見る限り、なさそうです。では、チケットはどこに––––––。

「あぁ、これですね。拝見します」

 などと私が一人あたふたとしていると女性駅員さんは私の傍をごそごそと物色し始めました。

「ハイクラスのお座席ですね。特急券、乗車券共に本日の日付でダイヤの一致を……はい、確認できました。それでは、ついでにチェックインも入れさせて頂きます」

 駅員さんはふんわりとした声のまま、制服の内ポケットから取り出した道具で乗車券に印を入れていきます。

「こちら、降りられる駅で係員に見せて降りてくださいね。それから、こちらはお客様がお持ち頂く物になりますので、別でお持ちください」

 テキパキと作業を終わらせた彼女は、チェックを済ませただろう切符を私に手渡しました。特急券と乗車券に、【冬帝ノ下駅WINTEROR THRONE STATION】の文字の記入と「入場」の記載が成されています。

 それとは別にと示された物をよく見ると、白い紙に「運休証明書」と書かれ、その下に「記載日の記載時刻より、ウィエール鉄道が運行そのものを休止していたことを証明いたします」と記載があり、更にその下の枠に手書きで数字が書き込まれていました。そして右下に、駅名と日付の入った判子と、それとは別に何やら独特の文字と記号の入った印鑑が押されています。

 これがきっと、青年が言っていた運休証明書なのでしょう。

「それでは、こちらへどうぞ。足元滑りやすくなっているので、お気をつけ下さい。あ、毛布はその辺に置いていて下されば結構ですよ」

 私がポケットに証明書をしまい込んだのを確認した駅員さんは、手で示しながら先を行きます。

 私は言われた通り毛布を畳むと、それまで座っていたソファに置きました。

 彼女に先を歩かれながら出入口と思しきガラス戸を開けて外に出ると––––––待っていましたと言わんばかりに、冷たい風が私の全身を撫でて行きました。おかげで、薄ぼんやりと居座っていた眠気が煙が風で飛ばされるように消えてくれました––––––目の前に濃い青色の電車が控えていました。

 ホームは雪掻きをしたのか、想像していた雪は片端にしか積雪しておらず、電車までの道のりがかなり融通の利くように整備されています。始発からここまでに整えるのは重労働だっただろうに、流石ウィエール鉄道の職員さんです。

「列車と線路の隙間が開いている箇所がございます。お気を付けてご乗車下さい」

 駅員さんの注意を聞きながらステップに足を掛けますと、しかしふと思い出したように彼女が口にした言葉に、私は足を止めました。

 いいえ、止めざるを得なかったのです。


「そう言えば。今回はその運休証明書の印鑑に命じてお見逃ししますけれど、駅に勝手に入って一夜を明かすのは感心できかねます。ですので、次回からは決してしないで下さいますよう、お願い致します。こちらも、それなりの対応を取らざるを得ませんからね」


 こちらを嗜めるような語調ではなく、あくまでもゆったりと穏やかな声のままでしたが、その発言は、私にとって混乱と困惑を招くに十分でした。

「もちろん、私共も施錠や閉鎖等を心掛けますけれど。でも次回からは、【停竜便バス】や【直地到使タクシー】が動いている間に、それらで町に戻ってください」

 どうも駅員さんの中では、運行が停止した後、私が駅に滞在しつつ勝手に駅に上がり込み、暖を取りつつ勝手に一夜を明かしたことになっているようでした。

 しかし、そんなはずはありません。

 私はここで、寒さで意識が朦朧としていた所を青年の駅員さんに助けられ、あれやこれやと手配をされながら一晩を過ごしたのですから。

「え? 話が通っていないんですか? 私、昨日、別の駅員さんに助けられたのですけど……」

「そんなはずはないです。何故なら、昨晩は、ここの駅に誰も来ていませんもの。それに、その話が本当なら、その駅係員は何故この場にいないのでしょう。お客様のお話が本当なら、今ここで出てきて、私に説明して下さらないと」

「でも、駅守を命じられたと仰って……」

「それなら尚更のこと、今この場にいないのが不自然です。駅守は、次の係員が来るまでは駅を離れてはいけないんです。引き継ぎがありますから」

「いえ、しかし確かに……」

『ご案内致します。発車時刻となりました、発車時刻となりました。担当係員は、旅客案内を実施し、至急発車合図を送られたい。また、ご乗車のお客様は、お近くのドアからご乗車頂き、ご質問やご意見がありましたら、車内の乗務係員にお声がけ下さいますようお願い致します』

 真実を理解して貰うために食い下がろうとした私の言葉は、ホーム全体に響く列車からのマイク音声で遮られてしまいました。

 女性駅員さんはそれに対し申し訳なさそうな顔になると、私に乗車を促します。

「大変申し訳ございませんが、一先ずご乗車頂き、中の係員に再度お申し付けくださいませ」

「……分かりました」

 言いたいことはありましたが、この方は何も知らないようですし、あまり執拗に食い下がって迷惑をかける訳にもいきません。たとえどのような理由があったとしても、今日までには私はポラリスに向かわなければなりませんし、会社に連絡もしなければなりません。それに、特急券はその時刻に効力を発揮するものですし、せっかく手配されたチケットを無下にする訳にもいきませんでした。

 なので、私はやむなく電車に乗りました。

 私の乗車と同時に発車ベルが鳴り、続けてドアが閉まると、特急は緩やかに走り出します。辺り一面純白の雪を尻目に、私は【冬帝ノ下駅】を後にしたのでした。



【4.】

 結論から言いますと、私は無事に目的地まで辿り着くことができました。

 些かの疑心と不安を抱きつつも、指示された時間に戻れなかった事を詫びつつ受け取っていた運休証明書を会社に提出すると、特に何も言われずに終わりました。むしろ、大変だったなと労われ、処罰はおろか注意もありませんでした。

 ウィエール鉄道の持つ影響力の大きさを感じつつ、余計に、あの時私を助けてくれた駅員さんが誰なのかが謎になりました。

 そうです。

 あの後結局、駅守をしていた駅員さんの正体は分からずじまいなのです。

 特急の中で尋ねた乗務員さんも、その乗務員さんに教えて頂いた担当部署の方も、皆口を揃えて「申し訳ございませんが、そのような者は存じ上げません」「確認しましたが、その日、そちらの駅に駅守の配置はございませんでした」との返答ばかりで、本当に実在したのかどうかすら怪しくなってくるほどでした。

 しかも不思議な事に––––––特定に至らないのは、ここに一因があるのでしょうが––––––私は彼の容姿をきちんと思い出せずにいました。

 確かにあの時、寒さに凍える私を駅舎まで運んで下さり、毛布をかけ、私の話を質疑応答も世間話も聞いてくださった方は、ウィエール鉄道の駅員さんでした。彼が「手配する」と言った特急券と乗車券、それに運休証明書が実際に発行されていたのが証拠と言えます。

 しかし、どれだけ問い合わせても、窓口もメールフォームの返信も、「お調べしましたが分かりかねます」で––––––命を救われた上に食事まで振舞ってくださったので、一言だけでも何とかお礼を言いたいのですが––––––結局、私の勘違いという事で収まってしまいました。

 この話をした一部の人には、チケットを切った女性駅員さんが同一人物で、間違えただけだとか、バレると罰則を受けるから知らないふりを貫いたのだと言う見解を示した方もいましたが、私はそうではないと思っています。

 何故なら、私は自分を助けてくれた駅員さんが、青年であったと言うことだけははっきりと覚えているのです。

 若くて背の高い、男の人であったと。

 もしあの時の駅員さんが本当にいたなら、もしかしたらこれを読んで下さるかも知れない。

 そう思い、こちらの文章を書かせて頂きました。

 とても長くなってしまいましたが、これで私の経験話を終わります。

 読んで頂き、ありがとうございました。

 願わくば、私のこの投稿があの時の青年駅員さんに届きますように。

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