第十章 戦

「戦だってよ」

 川又の奥の木々の陰で、小太刀丸がずぶ濡れになった衣を絞る。義長の後をつけて、山賊と取り引きしているのを見つけ、急いで川を渡って戻ってきた。かなり急いだので、まだぜーぜーと肩で息をしているが、小太刀丸が心配しているのは山賊よりも、目の前で苦しんでいる椿の方だ。

 前の日に近所の家で一緒に夕飯を食べた時には、ここのところ少し食い気がないと話していたので皆心配していたのだが、今は目の前で激しく戻している。

「誰か呼んでくら」

 冷たく湿った衣を脇に持って走り出す小太刀丸を、顔を伏せたままの椿が慌てて引き止める。掴まれた衣がずり落ち、裏葉色の布が広がった。

「いいから。このまま里に帰って迎え撃ちなさい」

 それから、と乱れた長い髪の間から小太刀丸を見上げる。

「私はこれから一度山を下るから、里の人には迎えに来るなと伝えて」

 口を押えてよたよたと立ち上がると、今にも倒れそうになりながら小太刀丸とは反対方向へと歩いていく。

「椿姉、どこへ」

「戦までには戻るから」

 早く行きなさいと急かされて、衣を拾い上げ、森の中を駆け出したが、今まで見たことのない義姉の弱りように不吉な考えが頭をよぎる。そんな考えを振り払うかのように、里に向かう足を速めていった。


 綾女にはこのところ立て続けに不思議なことが起こっていた。

 初夏になったある日、突然お武家様がやってくると褒美をくれると言う。そのお武家様は前々から「税を取り立てる訳でもなく、ただ話を聞きに来る変わり者」として村でも噂になっている人だったが、その人が来た翌日、今度は村長から呼び出しがあった。

 刈り取り途中の麦を置いて、土とわら屑まみれのままで屋敷に行くと、村長から目を疑うようなお達しがあった。

 なんと壊れた家を建て直し、父の墓まで建ててくれるという。夜盗に入られ、すぐ後に降った大雨ですべてが流されてからだがないので、村の墓場に小さな参り墓を置くだけにはなるが、それでも、参ることのできる場所ができるのは嬉しいことだった。

 更には当面の税を免除してくれる上に、綾女が居付いている神社の跡地に新たに小さな社を建てるという。社は元々そこにあった神社からの分社らしい。

 祭っている神様はお稲荷様だから綾女としては嬉しいはずだったが、どうにもしっくりこない。しかし、その理由は綾女自身にもよく分からなかった。

「その社の手入れをお前の夫役ぶやくとする」

 夫役ぶやくとはいっても小さな社である。やることといえば小さな社を拭き清めること、草刈りや落ち葉を掃き清めることくらい。それで税を免除してくれるのであれば、綾女でも勘繰りたくなる。

「吉見様のご厚意だ。感謝するんだな」

 どこか不満げに村長が言い放つ。恐らく村長自身も理由がよく分かっていないのだろう。

 そして翌日からは綾女の身の回りの全てが、がらりと変わった。村の者達が総出で小屋を建てに来てくれた。

 ある者は槌を振るって土間を作り、ある者は礎石や屋根板の押えとするために石を背負って来た。他にも土壁を塗るために粘土と麦わらを捏ねる者や、山に入って木を伐り出す者など、五月雨が降る前の畑仕事が忙しい時期にそこまで時間を割いて大丈夫なのかと綾女が心配する程だった。

「まあ、畑は母ちゃんが見てくれるからな」

 上の衣を脱ぎ捨て汗を流して槌を振るう隣の家のおじさんは、歯を見せて笑った。

「それにお前にお稲荷さんが憑いてるというなら、俺らだって祟られるのはごめんだしよ。関わるなら、怒りを買わないように心を込めて、さっさとやってしまうまでよ」

 三日目の昼頃には柱と梁が建ち、いよいよ家らしくなってきた。柱を伐り出した後の木切れなども家の裏に積み上げられ、しばらくは薪を拾いに行くことさえしなくて済みそうな程になっている。

 物の怪の里から戻ったお武家様が村に寄ったのは、そんな時のことだった。

「順調そうだな」

 満足気に眺める男に畏まる。

「こ、この度は分に過ぎる施しをいただ――」

「構わん。主はそれだけ大事な役割を果たしてくれた。気にせずに受け取っておけばよい」

 物の怪に会ったと言う行商人を泊めて以来、恐れられ避けられることの多い暮らしをしてきた綾女には、自分が何をしたのか、未だに解せなかった。

 しかし、お武家様は綾女の混乱など気にも留めず「達者で暮らせよ」と笑い、家来と一緒に村長の家の方へと行ってしまった。


「一体、何が起きているんだろ」

 見える物全てを茜色に染め上げる夕焼けの中、里を見下ろしながら呟いた。

 里の人々に礼を言って、いつもの祠に戻ってきている。ここで寝泊まりするのも後、二、三日だろう。野宿と変わらない小屋での暮らしを思うと、昔の様な囲炉裏や竈のある家で暮らせることは例えようもなくありがたかったが、空の社を離れるのは今まで助けてくれたお稲荷様から離れてしまうようで、妙に寂しかった。

 ふと気が付くと、足元の石段を登ってくる人影がある。若い女のようだが、病を患っているのか、時折手を付きながらふらふらと登ってくる。

「どうしたんですか」

 慌てて石段を降り傍に立つと、女は口元に手をやり激しくえずいた。

「ちょっと待ってて」

 石段を駆け登って小屋から茶碗を持ち出すと、更に奥へと走って行く。そこには岩の裂け目からわずかながら湧き水が染み出していた。

 ひんやりと冷たいその水を茶碗に受けると、石段の途中で動けなくなっている女の背中を抱え、ゆっくりと飲ませる。始めは舐める程しか飲めなかった女は、それでも少しずつ口に含み、半分くらい飲むと少し吐き気も落ち着いたようだった。

「こんな所にどうしたんですか」

 山の向こうに日が沈み、暗くてよく見えない。どこかで見た気もするが、思い出せなかった。

「ねえ、綾女さん」

 茶碗を返すと、吐き気がぶり返さないよう、ゆっくりと呟くように口を開く。

 思いがけず自分の名が出たことに驚くが、考えてみれば村から離れ、何かに憑かれたようにこんな所でひとり暮らす者がいれば噂話のいい種。驚くほどのことではない。

 けれど。

 そんな自分に用のある人など、綾女には想像がつかない。

「物の怪を、人でないものを、助けてはもらえないかしら」

 思わず、あっと声を上げる。やっと誰か分かったと女も理解したのだろう、にっこりと笑い返すが、すぐにまたえづき出した。

「あたしは」

 再び茶碗を渡し、背を撫ぜる。

「何をしたらいいんでしょう」

「あの衣を羽織って里まで来て欲しいの」

 ふうと息を吐き、礼を言って茶碗を返した女は、それまでの弱々しい様子が嘘の様に落ち着きを取り戻していた。

「来て、もらえる?」

 行けばもう、戻ることはできないだろう。女は何も言わなかったが、綾女には分かった。

 しかし、迷いはなかった。

「はい。すぐに衣を取ってきますね」

「ここに来るまでに手間取ったから、時間がないの」

 女は申し訳なさそうに目を伏せる。

「私は先に行ってるから、なるべく早くね。川上側の村の入り口で落ち合いましょう」

「間は取らせませんので」

 道案内とはぐれるのは心許ない。急いで石段を駆け上がり、小屋から白無垢を引っ掴んで戻った綾女だったが、その時にはもう、女の影も形も残ってはいなかった。

 あれ程苦しそうだったのに。

 まるで狐か狸にでも化かされたようだ、と思い、ふっと笑う。

 だからこそ物の怪なのだ。

 そしてこの白無垢を持ってこいと言ったのなら、綾女のすることは決まっている。

 どうせ、もうここには戻らない。

 そう思うと、一人残されたことで、すっと心が軽くなった。

「折角良くして頂いたけれど、あたしももう物の怪の仲間入りね」

 白無垢に袖を通し、髪留めの糸を解くと、風の吹くままに大きくなびかせて石段を下りる。

 畦に下りると遠くから鎧を鳴らす音が聞こえる。

 お武家様もいるだろうか。

 裏切りである。見つかれば命はない。

 けれど、今、綾女が欲しいのは自分の命ではない。やりたいことをやり切って死ねるのなら、それでいい。

 急に腰を折って肩を震わせる。

 腹の底から自然と笑いが込み上げてくる。

 それは、村という重いしがらみから解き放たれた喜び、自分の意思で意のままに動くことのできる喜びの笑いだった。

 風が強く吹いた。

 綾女は笑いながら、畦道を村の真ん中に向かって駆けて行く。

 途中、石に躓いてはくるりと回り、気持ちが高ぶっては手を広げ踊る様に回った。夕日を浴びて鮮やかに赤く輝く衣が大きく舞い、縛る物のない長い黒髪がそれに合せて広がる。そうして、村中に高笑いを響かせて駆け抜けた。

 すれ違った村人達は皆、ああ、と息を吐き、目を伏せ、顔を逸らした。

 村の真ん中を進んでいた討伐隊もこの異様な姿に足を止めた。

 恐怖におののく者、その美しさに見入る者、いずれにせよ彼女を止めようとする者はおらず、ただ目の前を過ぎて行くのを眺めているだけだった。

 そうして見た者は皆、彼女は物の怪に憑りつかれ、最早、人として生きてはいけないのだと納得した。

 ただ一人、義長だけが、里との駆け引きに負けたことを知り、苦虫を潰した様な顔で去ってゆく娘を睨みつけていた。


 村の入り口に着くと、大きな楠の下に一組の若い男女がいた。

「ずいぶん派手に立ち回ったのね」 

 女はついさっき祠で会った女で、今は背負子に乗って男に背負われていた。山道を歩くよりはましだろうが、「よいしょ」と男が背負い直すと大きく揺れた。

「もう大丈夫なんですか」

 周りを見回し、急いで白無垢を脱ぎ、髪を束ねる。小さく畳んで小脇に持てば、先程までの「物の怪に憑りつかれた娘」はもういない。

「ええ、今日はね」

 言葉の意味がよく分からなかったが、考える前に女が尋ねる。

「あんなことをしたんだから、もう戻れないけど。覚悟はいい」

「はい」

 遠くで鎧の触れる音がする。

「早く出ないと追いつかれますよ」

「そうね。でも、敵は彼らじゃない。それは間違えないで」

 速足で赤味の薄れゆく道を歩き始める。

「違うんですか」

 すっかり先の鎧武者が里を襲うのだと思っていた綾女は、つい気の抜けた声で聞いてしまった。

「彼らは負けた方を叩くだけ。私たちの敵がいるのは、このもっと先」

 三人の前には川を挟んで対立するようにそびえる鋭い山肌。片側は燃える様に赤く色付き、もう片側はすっぽりと暗闇に飲み込まれている。その光と影の間を縫うように川上へと進んでいった。


 山際に残った最後の日の光も消え、辺りがすっかり暗くなってから麦が炊けるだけの時が過ぎた。老婆の周りには今か今かと荒くれどもが集まっている。

 彼らがじりじりとし始めた頃、暗闇の中から一人の若者が現れた。川沿いの偵察に出していた若者を遅いとなじり、老婆は報告を受ける。それを聞いて、ふんと鼻で笑った。

「話した通りに動いているようだね」

 どんと杖を突き、荒くれどもに命令する。

「川下から役人どもがちんたら歩いて来とるそうだ。奴らが来る前に川又を越えて、後は川に沿って奴の言っていた里まで攻め上がる。いいね」

 おう、と獣の吠える様な相づちを打つと、一斉に山中を走り出した。

 月の光の届かない暗い山道を駆け下り、満月に白波が輝く早瀬を突っ切って、人気のない川原に辿り着いた。

 ここまで来れば、余計な心配はいらない。月が少々明るいのが気に入らないが、お陰で見通しはいい。後は獲物のことだけを考えれば良かった。

 と、老婆の前を行く手下の一人が急に立ち止まった。

「おい、あれ」

 ぶつかりそうになった老婆が、怒鳴りつけたくなるのを堪えて見上げると、ちょうど老婆の前の山中に白い布がひらひらとはためいている。

「ふん。ただの衣じゃないか。どこかから飛ばされたんだろうよ」

 早くも臆病風に吹かれる手下を怒鳴りつけると、大きく曲がりくねった川に沿って歩を進める。他の手下達も臆病者を笑い者にして進んでいく。

 だが、彼らが過ぎた後、風に揺れる衣が木の後ろから伸びる手に引き込まれたことには誰も気付かなかった。

 老婆の一行が蛇行する川に沿って大回りしてくると、ちょうど月の光が向かいの山肌を明るく照らし出す。

 そして、その中の一本の木の枝に再び白く輝く衣が掛かっていた。

 遠くから狼の遠吠えが聞こえた。

 皆、一斉に押し黙り、辺りを警戒する。白い衣には心当たりがある。明らかに自分達を狙っていることを確信し、老婆の口元に下卑た笑みが浮かんだ。

「おい、九郎」

 意地の悪い声で先程の臆病者を呼びつける。

「お前、ちょっと行って見てこい」

 九郎と呼ばれた小男は少しためらっている様であったが、囃し立てる周りの声に「黙れ」と言い返すと、そこここでシャガの白い花が月の光で妖しく輝く崖を登っていった。


 あのババア、お頭でもない癖に偉そうにしやがって。戦のどさくさで殺してやろうか。

 崖を登りながら、九郎は心の中で悪態をついた。

 九郎は捨て子だった。幼い頃に飢饉の折の口減らしで山中に捨てられ、彷徨さまよっていたところを、山賊の頭に拾われ育てられた。根が臆病なので皆がお前は山賊には向かないと言って笑ったが、頭はよく気が付くし刀も弓も筋がいいと、目をかけていた。

 頭が行く場所には必ず九郎を連れて行った。それは九郎が一人で人を襲うようになってからも変わることはなく、頭から声が掛かれば必ず一緒について出ていった。

 頭が「物の怪の里から持ち出された白無垢」を狙うと決めた時、他の仲間は乗り気ではなかった。街中のそれも守りの堅い武家屋敷を狙うなど正気の沙汰ではない。

 だが、九郎が街で噂を集め、どうやら戦で屋敷に男手がいないらしいこと、そしてどうやら負け戦らしいことを知ると、一気に話が進んだ。結果的に白無垢は手に入らなかったが、それでも鎧兜や絹の衣など十分な収穫があった。頭の覚えもめでたく、山賊内での九郎の立ち位置も随分と高くなった。

 しかし、五西月さしきの村で状況は一辺する。

「白無垢」を持った行商人が泊まったという家を襲った時、九郎もその場にいた。だが、頭が娘を担いで出て行ったすぐ後に九郎達も謎の男に襲われた。それはあっという間に三人に増え、しかも三人とも強かった。

 命からがら逃げ延びたが、一緒に行っていた仲間は翌日、頭と一緒に変わり果てた姿で河原に転がっていた。

 隠れ家に戻った九郎は一人逃げたと笑われ、皆から「臆病者」と呼ばれるようになった。

 頭の妻だった老婆は夫を亡くしたことを悲しむ素振りも見せず、当然の様に頭を名乗り、老婆と仲の悪かった九郎は追いやられてしまった。

 毎日のように遠くまで見回りに行かされ、収穫がないと罵倒された。かといって、例え収穫があっても、見つかれば巻き上げられるだけなので、それすらもあまり言わなくなった。

 だから、老婆達と一緒にどこかに襲いに行くのは気の向かないことではあったのだが、今回は始めから話の大きさが違った。いきなり関東武士の大物を名乗る男が現れたかと思えば、件の白無垢の元の持ち主の里を襲えと言う。更には成功すれば家来にしてやるとまで言った。

 これは怪しい。

 老婆も他の仲間も皆、男の置いて行った財宝に酔い痴れていたが、九郎は財宝には目もくれずに男を追っていった。馬の足跡を追って湯浅の屋敷まで来てみると、屋敷の前にはすでに鎧に身を包んだ一団が集まっていた。

 いくらなんでも早過ぎる。

 恐らく初めから、白無垢の里と俺達、どちらが戦で勝っても、後からまとめて攻めて両方潰すつもりなのだろう。

 上手く逃げおおせたところで、どのみち隠れ家の場所も知られている。今のままではいられまい。

 それは必ずしも正しくはなかったが、その時九郎の中に芽生えたのは、この機会にあの老婆達に復讐してやろうという暗い気持ちだった。

 戦が終わった後、上げ前を掻っ攫って逃げてしまおう。どうせババアどものことだ、俺が戻らなくてもどこかで斬られた位にしか思わないだろう。そのまま戻って役人どもに捕まってしまえばいい。

 老婆には役人が言葉通りに兵を連れてきているとだけ伝えた。

 崖の途中から生えている樫の、ぐにゃりと曲がった根元に足を掛け、ようやく人が立てるだけの斜面まで辿り着いた。見回すと、少し上に無造作に枝に掛けられた衣が風に煽られて大きくたなびいている。

 あれは、もしや。

 周りの木々に掴まりながら斜面をよじ登る。満月に照らされて輝く衣に手を伸ばした。

 衣は光沢があり、肌触りも良い。明らかに絹の衣だ。裾には羽ばたく大きな蝶の刺繍。そして、背には幾筋もの裂け目とそれを繋ぎ合わせる稚拙な縫目。

 月の光に照らし出された大きな裂け目を見て、九郎の目が大きく見開かれた。

 これは、間違いなく、あの時頭が取り合って破いた件の白無垢。呪いだか、穢れているだかで捨てられたのではなかったのか。

 それとも、捨てられた衣の怨霊が里まで戻るのか。

 そう考え、いやいやと思い直す。あの衣の呪いの半分は俺たちが襲ったことだ。結局、衣は衣。そうでなければ、奪える財宝などなくなってしまう。

 近くにこれを持って来た奴がいるはずである。九郎は刀を抜くと、ゆっくりと辺りを見回した。満月の夜とはいえ、木々の影は全てを黒く塗りつぶし、身を隠す者には無限の空間を与えている。

 少しでも物音が立たないかと耳を澄ますが、風が木々を揺らし、藪をぐ中では明らかな一歩を踏み出さない限り、聞き分けることなどできはしない。

 謀られたか。

 今更価値のない白無垢を手放すと、抜き身を手にしたままゆっくりと斜面を下る。

 今や状況は完全に逆転している。九郎は自分が狩る側から狩られる側になっていることを肌身に感じていた。

 焦ってはいけない。今はとにかく、敵を近付けずに川原に下りることだけを考えろ。

 一歩下がるごとに周りを注意深く確認し、ゆっくりと少しずつ崖へと戻る。

 崖まで来た時、いよいよ九郎は決断を迫られた。両手両足を使って確実に降りるか、足を挫くのを覚悟してまだ高さのある崖を飛び降りるか。

 しばらく悩むが、結論を出すとゆっくりと更に注意深く周りを見渡す。

 ここで動けなくなれば、どのみち命はない。

 抜き身をくわえて、両手を大きく伸ばし、一歩一歩静かにゆっくりと下りる。

 そうして三歩降りた時、目の前に女の顔があった。


 どさりと派手な物音を立てて、九郎が落ちた。一緒に落ちてきた刀が月の光に一瞬虚しく輝いた。

 ゆっくり降りてきているところを遠目に見ていた荒くれどもは一斉に笑い、囃し立てる。

 だが、すぐに血の臭いに気付くと、しん、と押し黙った。

 ある者は刀を抜き、ある者は弓に矢をつがえて、九郎の落ちた場所へと向かう。

 九郎は既に事切れていた。首の左側が大きく切り裂かれている。目は見開かれており、信じられない物を見たかのように口元が大きく歪んでいた。

 気が付いた老婆が視線を上げたが、白無垢はどこにも見えず、九郎を殺めた者の姿も見当たらなかった。

「くそっ。何があったって言うんだい」

 悪態をつく老婆の後ろで、自分の身を案じる声が出始めた。

「おい。これ、やばくないか」

「やっぱり物の怪の祟りってやつか」

「今更尻込みか。臆病者はとっとと失せろ」

 祟りを恐れる者とさっさと里を襲いに行きたい者とで口論となり、血に逸った荒くれどものそれはあっという間に血を見る喧嘩へと変わった。

「ええい、直らんかい」

 杖を叩きつけ、響き渡る大声で怒鳴りつける。荒くれどもの何人かは、なおも抜き身をかざしての喧嘩をしていたが、何度も怒鳴りつける内に一人また一人とおとなしくなっていった。

「ここで怯えさせて仲間割れさせるのが狙いだと分からないのかい。こんな所で味方の数を減らすんじゃないよ。馬鹿共が」

 薄くなった所の目立つ斑の白髪を逆立てて、老婆が怒りをぶちまける。

「誰が何と言おうが、儂らは里に攻め入る。文句のある奴は今すぐ出て行きな」

 そのまま後ろを振り返ることなく歩き始める。

 結局、誰もそれ以上文句は言わず老婆について行った。後には、血の臭いと数人の屍が置き去りにされていた。


 暗い。

 満月の夜ではあるが、小太刀丸のいる川辺は高い尾根に遮られ、月の光は届かない。視線を真下に向けるが、自分の手ですら見えない。もっとも、数歩先は昼間かと思う程明るく照らし出されている。

 蛍の一つも飛んでくれれば、妖しい雰囲気も出たのにな。

 大雨で幼虫も全て流されてしまったのだろう。去年は川辺一帯に溢れていた光も、今はよくよく探して一つ見つかるかどうか、といったところ。この先数年は川が若草色の光で満ちることもないのだろう。

 川下から多くの足音が聞こえてくる。沢の水音で詳しくは聞き取れないが声も聞こえる。

 そうこうしている内に、川原を歩いて来る山賊の一行が見えてきた。数は十、いや二十程はいるかもしれない。

 こちらはご老体を除く男衆に小太刀丸と椿を加えても十人と少し。

 地の利も、物の怪の噂も、刀を握らない女子どもも、使えるものは全て使い切らなければ生き延びることは叶わない。

 山賊達の顔がはっきりと見える所まで来た時、小太刀丸がゆっくりと音を立てずに山の影から歩み出る。

 月を背にして立つその姿は、染めていない生成りの小袖に背中まである長い髪を束ねた女のもの。顔は月の影になって見えず、まだ手足も細く、背も高くはない小太刀丸は暗闇に突然現れた若い娘にしか見えない。

「おい、あれ」

 急に現れた娘に山賊達が明らかにざわつく。しかし、それもすぐに下卑た笑い声に変わった。

 石を打ちつける音と共に山賊達が一斉に襲い掛かってくる。

「女子どもは生け捕りじゃ。男なら片っ端から斬り殺せ」

 その後ろから老婆の声が響く。

 さあ、ついておいで。

 小太刀丸は山賊達に笑いかけると、川原から家々の並ぶ山の方へ、そして家々の間を走る細い道を駆け抜ける。

 まんまと誘いに乗った山賊達は小太刀丸を追って駆けてくる。

 普段は決して着ることのない小袖の裾が膝に掛かって速く走れず、もう少しで捕まるというところで、ようやく自分の家の前に辿り着いた。

 そこに待ち構えているのは胴丸に身を包んだ里の男達。

 その手前には大人二人が両腕を広げた幅程の小さな畑があり、少しだけ広くなっている。それでも並んで刀を振るには二人か三人がやっとの幅、ここであれば数で押されても戦えるという皆の判断だった。

 畑には菜種や蕗などを植えていたはずだったが、山賊と戦うのに身を隠されるとまずいと考えたのだろう、丈のある物は全て抜かれてしまっている。

 仕方のないこととはいえ、ようやく飢饉から抜け出せそうという時に食べ物を抜くなど、思い出すだけで切なさが胸を満たした。

 それを振り切るように小さく首を振って男達の横を抜ける。すれ違い様、最前で構えていた鷹之進と頷き合うと、いよいよ抜き身で切り結ぶ戦が始まった。

 激しく打ち合う音と怒号を背中で聞きつつ、小太刀丸は家の裏へと回る。

 石垣に囲まれた狭い路にまだ山賊が入り込んでいないことを確かめると、そこから屋根へとよじ登った。

 屋根は火矢対策にたっぷりと水を吸っている。家の中にもたっぷりと水を撒き、水瓶も用意していたが、彼らのやり方ではなかったのか、山賊は火矢も松明も使ってはこなかった。

 よじ登ると衣がぐっしょりと水浸しになった。夜風が吹くと少し肌寒い。

 屋根の上では既に椿と綾女が弓を放って援護していた。

「はい。小太刀の分」

 この場に綾女がいることを問う間もなく、しっかり弦の張った弓を受け取ると、茅葺の屋根の上から山賊達を射掛けていく。山賊も下から射掛けて来るが、屋根の陰に出入りしながら射掛けられる小太刀丸達の方が分が良い。

 それに、下から射掛けようとすると、どうしても目の前が疎かになる。それだけでも十分な手助けになっていた。

「ええい。散れ、散れ」

 最前で戦っている老婆が手下に怒鳴りつける。

 自身は今や杖は持たず、両手に持った短刀を腰の曲がった老婆とはとても思えない速さで振り回している。

 相対する鷹之進も負けてはいないが、この狭い戦場では短刀を振るう老婆の方が動きやすいらしい。老婆の口が好き勝手に動くのを、どうにもできないでいた。

「敵は儂らよりも少ない上に、女子どもも一緒じゃ。一気にやっちまえ」

 鷹之進に力で無理矢理押し飛ばされたが、猿の如く素早く立ち上がって次の一撃を捌くと、大きく踏み込んでいた鷹之進を手下と共に囲い込む。

 しかし、背後を取っていた手下の肩を椿の矢が射抜くと、怯んだ手下の腹に鷹之進の刀の柄が打ち込まれる。

 返す手で老婆の斬撃も受け切ると、再び差しで向かい合った。

 ひとまずの危機を脱したのを見届け、再び奥の山賊に狙いを戻していた屋根の上の三人だったが、戦況は少しずつ悪くなっていた。

 まだ里の誰かが討ち取られた訳ではない。だが、老婆の声に手下の気勢が上がってきているのが目に見えて分かる。

「くそっ。誘い込む時に、もう少し脅かしてやった方が良かったか」

「今更仕方のないことは言わない」

 今できるのは下で戦う者達の援護をし、後ろの敵が逃げ出せないように戦場を制御することだけ。

 ちらりと夜空を振り仰ぐと山際で月が煌々と輝いている。

 あれが山陰に隠れた時、物の怪の時が始まる。だが、その時まではまだここに引きつけなければならない。

 戦場を睨んだまま、矢筒に手を伸ばす。

 矢羽の端に手が触れ、をつかもうと指が動く。

 しかし、指で弾いてしまい矢はカランとかすかな音を立てて矢筒の中を回った。

 思いの外、残りの矢が少なくなっていた。

 と、視界の端を細い物が掠めた。

 何かと考える前に身体を捩り、弓をぐ。

 弾いた矢が足元の茅葺屋根に突き刺さった。

 それを引き抜くと、飛んできた方向に射返す。

 硬い金物が当たる音が響き、同時に振るった刀が月の光に照り返されて輝くのが見えた。どうやら、隣にいた男が打ち落としたらしい。

 残りの矢を掴んで再び射掛ける。

 悲鳴が上がり、どうやら射抜いたらしいことは分かったが、男達のいる戦場の端はすでに月の光の影に入り、その様子は見ることができなかった。

 そして、矢筒は空になった。

 すぐ後ろから射ている綾女の矢をもらおうと振り返る。その時、綾女の脇の下に白く輝く物が見えた。

 それは、あの縫い合わせた白無垢。

 冬に祠で見た時には泥だらけで薄汚れていたその衣は、今やその美しさを取り戻し、月の光の下で純白の輝きを放っていた。

 様子を察した綾女が矢筒を差し出す。

 いきなり戦場に放り込まれて弓を渡されても、遊びで触った程度の綾女の腕ではなかなか人を射抜くことはできないだろう。矢筒にはまだたっぷりと矢が残っている。

 少し考えて二本程抜き取り、合わせて衣にも手を伸ばした。

 それは不思議な感覚だった。

 川又で射られてから後、小太刀丸は物の怪として振る舞うことを躊躇ためらっていた。だから五西月さしきの村に行った時も、人混みに、暗闇に紛れることはしても積極的に物の怪として驚かせるようなことはしなかった。

 綾女が見た狐の尻尾ですら、懐に隠した刀を勘違いされたに過ぎなかった。

 だが今、何の躊躇ためらいもなくその衣を手にし、袖を通す。

 そうして、弓を持って立ち上がるとゆっくりと棟へと登っていった。

 屋根の陰からの矢が止んだことで、射手を落としたと思った山賊達はにわかかに勢いを増してきていた。

「そおれそれえ。上は落としたなら、後は突っ込めえ」

 老婆の口もすでに勝ち誇ったかのように滑らかに動く。

 屋根の上に立ったことに気付かれていない中、小太刀丸は一番奥で弓を低く構えている男に狙いを絞る。

 放った矢が唸りを上げた一瞬の後、男が倒れ、引いていた矢が力なく跳ねた。

 ここからは怨念を吸った衣の物の怪の時。

 いよいよ山際にかかり始めた月の光に照らされて、白く妖しく輝く衣が振り乱した長い髪と共にくるくるくるりと舞い踊る。

 山賊達の目が十分に引き付けられた所で、振り返りざまに最後の一本を打ち込んだ。

 しっかり狙いを付けられていた訳ではなかったが、それでもどこかには当たったらしく悲鳴が上がった。

 後はひたすら舞い踊る。

 月の出ている限り、この衣に沁み込んだ悲哀を、それを引き起こした本人達の目にしかと焼き付けるように。

 戦意を取り戻した山賊達から矢が飛んでくるようになっても、その舞は止まらない。

 見える矢は時には身を捩ってかわす。かわし切れなかった矢が耳を裂き、足をかすった。

 それでも舞う足は、手は止まらない。

 近くを矢がかすめる度、背中に冷たい汗が噴き出し、恐れにかすかに手が震えるが、それでも不思議と舞を止めたいとは思わなかった。

 それは山賊達がこの姿を見て怯えていることが分かるから。

 彼らの目に心に容易く忘れられない程に刻み込まれるのならば、この身が傷つくことも大した問題ではない。

 だが、所詮は放つ矢もない丸腰のこと。いくら相手に恐怖を刻んだとて、そんな無防備な姿では戦場で生き続けることはできるはずもない。

 くるりと一回りする間に三本もの矢が顔の横をかすめていく。

 次に喉元に真っ直ぐ飛んできた矢ははたき落としたが、ほぼ同時に飛んできたもう一本は見事に右の脇腹に突き刺さった。

 痛みで頭の中が真っ白になり、矢の力でそのままくるりと回る。

 更に後ろから肩に深々と刺さり、矢に飛ばされるように棟から転げ落ちた。

 そこから先は痛みで記憶がない。しかし、朦朧とする意識の中で、誰かの謝る声と命が終わりそうな鋭い痛みだけは分かった。

 気が付くと、小太刀丸は屋根の上に寝転がっていた。

 頭のすぐ上に真剣な顔をした椿が肩の傷の辺りを何かの布で締め上げている。凄まじい痛みが襲ったが、今の小太刀丸にはそれすらも遠い世界のことのようだった。

 視線を少し遠くへ向けると、すぐそこに竹藪が広がっている。

 どうやら戦場の裏側の屋根に転げ落ちたようだった。その時すぐ上を矢が飛んで行き、一気に現実に引き戻された。

 戦は未だ終わっておらず、月もまだ陰り切っていない。気を失っていたのは、それ程長い時間ではなかったらしい。

 と、視界の端にひらひらと舞う物が見えた。それが、ついさっきまでの小太刀丸自身と同じように白無垢をまとって舞い踊る綾女だと気付くのに、たっぷり五つ数えるだけの時間がかかった。

「な、んで」

 思わず口をついて出た声は、自分の耳にさえも届かない程の弱々しいものだったが、棟の上で舞い踊る綾女がちらりと振り返った。その顔は月を背にして笑っているように見えた。

 そして実際、彼女は笑っていた。

 矢の飛び交う戦場の中、まるで春の野を喜ぶかのように朗らかな、実に楽しそうな笑い声がその場を包み込み、舞っていた。

 山賊達の攻撃は決して止まってはいなかったが、放たれる矢の数は減り、戦場からは怒号とは違う戸惑いに満ちた声がさざめいていた。

「なぜ死なん」

「お、俺は確かに射抜いたぞ」

「じゃあ、なんで射抜かれて嬉しそうに笑う」

「あれじゃあ、まるで」

「人じゃねえ」

 月の陰りはようやく半分を過ぎ、伸びてきた山陰は綾女の腰までを隠している。

 月の光の中、山賊達の目には白無垢をまとった髪の長い娘としか映っていない。女ものの着物を着て、上に白無垢を羽織り、髪を解いていた小太刀丸と今の綾女の姿は見分けがつかなくても不思議ではなかった。

 いつの間に動いていたのか椿が今度は綾女のすぐ足元に潜み、飛んでくる矢を弓ではたき落としていた。

 すでに戦場はすっぽり影の中。屋根の上からは打ち合う刀の音や怒号は聞こえても、その姿はほとんど見えない。

 戦場は狭く、矢の飛んでくる向きは大体定まっている。後は飛んでくる矢が見えるか、かすかに鳴っているはずの弦の音が聞こえれば落とせるのだろうが、小太刀丸にはどちらもまるでできる気がしなかった。

 そんな中でも綾女は飛んでくる矢などないかのように、無邪気な笑い声を響かせて舞い踊っている。

 椿のはたき落とせなかった矢が、時に袖を切り裂いてははらひらりと切れ端が舞い散り、時に髪の間を突き抜けてはパッと飛沫のように長い髪が舞った。

 今や月はほとんど山陰に隠れ、峰の木々の間からかすかに漏れる光が時折綾女の髪や舞い上がった袖の端を浮き上がらせるだけになっていた。山賊達からはもうほとんど見えていないことだろう。

 ただ、消えることのない笑い声だけが呪いのように山賊達を苦しめていた。

 もうそろそろ屋根の陰に隠れさせないと。

 小太刀丸が痛みに霞む頭でそう思い始めた時、不意に息を飲む声と共に笑い声が途絶え、どさりと倒れ込む音が聞こえた。

 梁伝いに伝わる振動で激しい痛みが小太刀丸を襲う。

 ようやく見開いた目には暗くて何も見えなかったが、痛みに喘ぐ息が聞こえていた。

「動かないで」

 椿の押し殺した声が聞こえる。それでも、もぞもぞと振動が伝わってくる。

「動かないで。死ぬよ」椿が繰り返す。

「そんなことしても、着ないから」

 どうやら綾女が白無垢を託そうとするのを椿が必死で止めようとしているらしい。

 もう十分だから。大丈夫だから。

 それを伝えられないもどかしさに身悶えしていると、戦場の方でもそれに気付いたらしく怒号に喝采が混ざるのが聞こえてきた。

 それが更に綾女を暴れさせた時、遠くからかすかに笑い声が聞こえてきた。

 あははははは――

 それ程大きな声ではなかったはずだったが、場所の分からない遠くの暗闇から聞こえる屈託のない無邪気な子どもの笑い声は、山賊達の喝采をあっという間にかき消した。

 あかね……。

 それは戦の前に決めた予定にはなかったこと。子ども達には女衆と共に別の仕事が割り振られているはずだった。

 しかし、それを皮切りに、暗闇に紛れて遠くに近くに戦場を囲うように様々な場所から子ども達の笑い声が聞こえてきた。

 猪助、他の子達もみんな……。

 小太刀丸が守をしてきた子ども達が今、物の怪として山賊達と戦っていた。小太刀丸が舞い、綾女が繋いだ白無垢の物の怪は子ども達の手で里中に広がり、戦場を包み込んでいる。

 きっと皆怖くて堪らんだろうに。

 それでも、怯えを一切感じさせない楽しそうな笑い声だった。

 うふふふふふ――。

 気が付くと椿までが笑い声を上げている。先程まで衣が舞っていた屋根の上から聞こえる若い女の笑い声に戦場からは遂に悲鳴が上がり出した。

 それが合図だった訳ではないだろうが、悲鳴の中にどすっ、どすっ、と何かを叩きつける音が混じり始める。

 それが、かんっ、と刀に当たった時、山賊達の間から先程とは違う現実の痛みに対する悲鳴が上がり始めた。

 それは女衆が戦場を囲む屋根の上から投げ込む石つぶて。今やそれは笑い声と同じく、戦場の四方八方から投げ込まれていた。

 痛みと恐怖に憑りつかれた山賊達の悲鳴と、子ども達の無邪気な笑い声、そして屋根の上の不死の物の怪の残像が自分の手元も見えない里の暗闇の中に異様な空気を生み出していた。

「引け! 引けー!」

 ついに山賊達が退却し始めた。

 足元の見えない崖沿いの細い道を、山賊達が我先に駆けて行く。途中で木の根に躓く者、崖から踏み外して一段下の家の軒先へと落ちる者、里の者に追いつかれて悲鳴の中で斬られる者。細い路には所々から動けなくなった山賊のうめき声が地面を這うように響いていた。


 松明の火を消してから、どれくらいが経ったろうか。

 宗弘の手勢五十余人と共に義長は山陰で息を潜めていた。時折、誰かが我慢できずに身動きするのだろう、胴丸の擦れる物音が聞こえてくる。山賊どもが里を落としに隠れ家を出てから、もう、かなりの時が立つはずである。

「本当にこんな所にのこのこ出てきますかね」

 義長が湯浅に戻るやいなや、予想とは違う命令で多くの手勢を連れて来ることとなった宗弘が不安そうに尋ねる。

「何、少し罠を張ったんでな、明け方までには来るだろうよ」

 宗弘には、「物の怪の隠れ里で藤並殿の屋敷を襲った山賊を見つけた。今夜おびき出すから討ち取るのを手伝ってくれ」と言って兵を出させている。

 これで返り討ちに遭った山賊が出てくればそのままだし、里が負けたようなら隠れ家に戻る山賊を捕えさせ、川を上って焼け落ちた里を確かめて山賊の里だと吹き込めば、こちらも山狩りができるだろう。

 少々まどろっこしいが、源平の合戦から世代を越えるだけの時間が過ぎ去った今、平家そのものですらない落人を捕えるためには、色々と理屈を捏ねる必要があった。

 不意に子どもの声が耳に届いた。それは隣を流れる川のせせらぎや蛙の鳴き声に容易くかき消される本当に微かなものだったが、確かに子どもの笑い声だ。

 他の者達も気付いたのか、宵闇に紛れて聞こえる無邪気な笑い声に身を震わせている。

「おい」

「ああ」

 隠れている場所が普段決して入ることのない、支流に入った先だということもあるのだろう。祟りを恐れる声が彼らの間から静かに染み出していた。

「喋るな」宗弘の押し殺した声に、皆口を閉じる。

 とにかく、今は静かに隠れているしかない。

 ようやく義長の隠れている所に足音が聞こえてきたのは、笑い声が聞こえてから、更に随分と経った後だった。

 川原の砂利を踏む不規則な足音。数は少なく、十人もいないかもしれない。足を引き摺っている怪我人もいるようだ。

 宗弘の兵は先程までの不安などなかったかのように、物音一つ立てることなく身を潜めている。

 しかし、何もいないのとは違う。明らかに殺気立った雰囲気が漂っている。

 山賊がこれに気付いたのは、互いの距離がほんの数丈になった時だった。

 義長の顔を見て少しほっとした山賊達だったが、無言のまま表情を変えないところを見て、ようやく嵌められたことを悟る。場は静寂から一転して戦場となった。

 すぐに松明に火がつけられ、五十余人もの兵が照らし出されると、不利を悟った山賊達はあっという間に山の中へと逃げ込んでいく。

「追え。一人も逃すな」

 宗弘の指示に手勢の半分が、松明を手に山賊を追って険しい山の中に入って行った。

 残されたのは怪我を負った者達。抵抗する者はその場で切り捨てられ、抵抗できない者は次々に捕えられた。

「くそっ。なんだ、このばばあは」

 老婆も足を痛めたのかこの場に残されていたが、三人を相手に一歩も引くことなく立ち回っている。

「あれは」

「この山賊の長ですな。なるほど、あの荒くれ共を押さえつけられるだけはある」

 宗弘に説明していると、老婆と目が合った。

「おのれ、謀ったな」

 松明に照らし出された義長を睨みつけると、足の怪我などなかったかのように飛び掛かる。

「おのれ、おのれ、おのれ」

 だが、その短刀が届く前に老婆の喉に矢が突き刺さった。振り返ると茅彦が早くも次の矢を番えている。

「おのれ、千年とても許すまじ」

 口から血を溢れさせ、掠れた声と血走った眼で呪いの言葉をかける。

「末代までも祟り殺してくれる」

 それだけ言うと、糸が切れたかのように地に臥した。見開かれた目は憎しみを湛えたまま、いずこをともなく睨みつけている。焦点を失い、命のない「物」となったにも関わらず、その眼と残した言葉は兵どもを震え上がらせた。

「祟りだ。物の怪が祟りおった」

 だが、義長は動じない。正体を知っている茅彦も、ふんと睨みつけるだけで怯えることはなかった。

「助かった。並の武家よりも肝が据わっておる」

「父の仇ですから」

 一言言うと、視線をまだ争っている残りの山賊の方へと戻す。

「しかし」引き連れてきた兵達に聞こえないように宗弘が呟く。

「これで良かったのですか」

「どうかされたか」

「私はてっきり、山賊を言い訳にして落人狩りをするのだと思っていたのですが」

「思ったよりも小物だったのだ」

 義長が歯噛みする。

「あれでは山狩りの言い訳にもならん。それで、山賊どもをけしかけてやったのだが、見事に返り討ちにされたな」

「私共としては謀反の意思のない証を立てられた上に、家臣の屋敷を襲った夜盗共を討てたのですから、構いませんがね」

 世の中、なかなか上手くはいかないものだ。

「で、次の手は」

「ない。当面は様子見だな」

 それでなのだが、と茅彦の肩をぐいと掴む。

「この者をあの里に置く。一応、形の上は宗弘殿の家臣として取り立てていただきたいのだが、良いかな」

 思わぬ指名に宗弘も茅彦も目を白黒させるが、義長は大出世だなと茅彦の背を叩いた。

「なに、宗弘殿のところは皆忙しいだろうからな。こんなことに手間を取らせはせんよ」

 にやりと笑いかける。宗弘もようやく義長の案内役に自分の家臣を付けなかったことを根に持たれていると気付き、何か言いたそうにしていたが、結局「承知致しました」とだけ静かに答えた。

「鎌倉に戻れば正式な書状を送らせる。あんな里でもお主一人分くらいの税は取れるだろうよ」

 目の前の争いは終結し、狭い空を見上げると淡く緑色がかっている。

 夜明けも、もう間もなくだろう。

 山中に追っていった兵の報告を待ちつつ、里を落とせなかった悔しさをぶつけた小さな八つ当たりに溜飲を下げるのだった。

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