第七章 見えない相手の掌上で

「せーのっ」

 宗弘の屋敷では、憎たらしい程にからりと晴れた青空の下、朝から昨夜の嵐の後片付けが行われていた。義長も物の怪の里を探すことを一度、中断して、屋敷に流れ着いた瓦礫の運び出しを手伝っている。

 その前の夜中から嫌な感じの風が吹いていた。それまで降っていた雨は、明け方には一度止んだものの、少し外を出歩けば、農民は刈り入れた稲を少しでも守ろうと家の中に持ち込み、漁民は舟を浜辺深くに引き上げている。見上げると、雲が千切れたり重なったりを繰り返しながら、勢いよく流れていた。

 朝の内に空が段々暗くなっていき、一滴二滴降ってきたかと思うと、後は一昼夜酷い嵐に襲われた。特に雨が酷く、川から溢れた水は夜半過ぎには上がり框のすぐ下にまで達した。暗闇の向こうからは龍の咆哮のような流れの音が聞こえ、時折岸辺の木々を折り倒すような音と人々の悲鳴がこだまする。生きた心地がしなかったが、日の出の前にはようやく雨もやみ、水も引き始めた。

 そうして今に至るのだが、屋敷に流れ着いた瓦礫と土砂で出歩くこともままならない。更に男衆の多くは戦のために摂津まで出て行っているので、何をするにも人手が足りない。宗弘の屋敷で宿を借りている義長も根元から折られた流木を薪置場まで持って行ったり、鋤で泥を掻き出したりと肉体労働に汗を流していた。

「いや済みませんなあ。義長殿にこんなことまで」

「いやなんの。こんな非常時ですからな。私一人のんびりなど、しておれませんよ」

 一緒に流木を担いでいる宗弘は恐縮していたが、屋敷ですらこの有様では当分外での調査などできないだろう。特に、川を遡って本格的に物の怪の里に乗り込むなど、当面できるとは思えなかった。


 藤並氏の祝言以来、義長は地道な聞き取り調査を続けていた。元々調べるのは川一本分だけで、山に入ってからの支流を虱潰しに見て行けば済む話ではあるが、誤って二人で山賊の巣にでも入ってしまえば命はない。大方の目星を付けるために、狸に化かされただの、おかしなものを見ただの人々の笑い話の種を一つ一つ聞いて回っては手書きの地図に丁寧に書き取っていった。

 ある時、「どうですかな」と様子を見にきた宗弘に地図を見せたことがあったが、一帯に散らばる目撃地の印に「これはお手上げですな」と笑われてしまった。

 だが、一見無秩序な印もよくよく見れば緩やかなコの字を描いている。それは二本の支流とその間を繋ぐ本流の周辺だったが、元の地図を描いた茅彦によると、コの字の真ん中にももう一本支流が流れているとのことだった。

 更には、茅彦自身がその支流の口で、十丈もある大きな龍を見たという。その龍は茅彦が放った何本もの矢を体中に受けたのにも関わらず悠々と急流を泳ぎ去り、更には天へと上り雲間に消えて行ったという。

 義長にはそれが何だったか説明はできなかったが、茅彦の話によると、余り目撃情報のない支流が一本あることになる。物の怪のふりをして人を遠ざけているのなら、目撃情報の減るその支流が里のある場所としては怪しいだろう。

 そうしていざ乗り込もうと、準備をしていた時に起きたのがこの大嵐だ。出鼻を挫かれたようで口惜しいが、天のことは人には与り知らぬこと。屋敷の人と建物が無事でよかったと思い、諦めるしかない。


 薪置場では使用人の男が集まった流木の枝を打ち落としていた。

「ここ置いとくぞ」

「へえ」

 言いながらも鉈を振るい、次々に打ち落としていく。

「上手いもんですな」

「そうですかな」

 思わず見入ってしまった義長が褒めると、宗弘は嬉しそうに笑った。

「今は一刻も早く元に戻してしまわないと。屋敷が手薄と思われては、また山賊共の餌食になりかねませんからな」

「また、ですか」

 おや、ご存じないですか。と宗重が首をかしげる。

「半月前ですか。藤並の屋敷が襲われたんですよ」

 どうも白無垢の噂が随分と広がっていたようで、と声を潜めた。

「それで、屋敷はご無事だったんですか」

「いや、なかなか派手に荒らされたようで。幸い嫁御は命を取られることはなかったんですがね。白無垢の方は賊と取り合いになった時に無残に破れてしまいまして」

 いやしかし、抜き身を持った賊と丸腰で取り合うなど、嫁御も正気ではないですな。少し広くなった額を撫でる。

「ちょうど、婿殿が百姓に斬られたと早馬が来て、参っていたところの出来事でして。今はすっかり伏せっておるとか」

 連日、茅彦と共に里から里へと夢中になって回っていたせいで、こんな足元の出来事すら気づいていなかったとは。衣が噂になっていることは知っていたが、そちらに気が回っていなかったと一人反省した。きっと村人も自分よりも義長の方が詳しいだろうと、わざわざ話さなかったのだろう。

「しかし、家来が襲われたとあっては、宗弘殿もここで瓦礫など運んでいる場合ではないでしょう」

「とはいえ、今は人手がないですからなあ」

 それにと、辺りを見回す。

「天災に遭ってしまえば、それどころでもないのです」

 力なく笑う宗弘の顔は、心なしか頬が少しこけているように見えた。

「義長殿も出歩かれる時には気を付けなされよ。飢饉になるようなら、暴れ出す輩も増えましょう」

 さあ、もう一踏ん張り、と倒木を担ぎに行く宗弘に付き合いつつも、破れた白無垢のことが義長の頭から離れなかった。


 翌日、床板を外して屋敷の下に流れ込んだ泥を掻き出していると「頼もー」と聞き慣れた声がした。

 一間を借りて出迎える。やって来たのは義長の家来で名を佐竹丸という。まだ年若いこの青年は屋敷のある武蔵から、長期間離れることの多い義長のために定期的に路銀や文を運んでくれている。

「ご苦労」

「はっ」

 巾着の中身を検め、懐に入れる。形式ばったやり取りを済まし、要件は終わりと立ち上がろうとすると、佐竹丸が慌てて引き止めた。

「奥方様より文を預かっておりますので」

「いや、いい。無事にやっていると伝えてくれ」

 しかし佐竹丸も脇を通り抜けようとする義長の袖をぐいと掴むと、無理矢理に文を握らせに掛かる。

「返しの文を書いて頂きませんと、奥方様に合わせる顔がございません」

「お主は儂の家来だろうが」

「皆が、心配、しているのっ、ですっ」

 歳の差があるにもかかわらず、組み合って手紙を押し付けながら、いがみ合う姿はとても主従の関係には見えない。

「特に今回は大きな嵐に巻き込まれたご様子。きちんと文を書いて頂かないことには、誰も御身の無事を確認できません」

 渋々文を受け取り、文机に向かう。

 内容はいつも変わらない。こちらは大丈夫だと短い近況が書かれており、最後には必ずお家のためにしっかりお役を果たして下さい、で結ばれている。

「まったく。だからいつも儂の花押を練習しろとあれ程言っておるのに」

「そんなことをすれば、私の首がありませんよ」

 文句の尽きない義長を佐竹丸がまあまあと宥める。やがて書き終わると、丁寧に文を包み、佐竹丸に手渡した。

「これで帰りに少し何か買うといい」

 先程受け取った巾着から少し付けてやろうとする手を佐竹丸が押し返した。

「それは御身を守るための大切な物。こんなところで無駄にしてはなりません」

「ならば次は少し早目に来ればよい」

 しかし、それでも受け取ろうとはしない。

「ここまで来るだけでも結構な路銀がかかるのです。それに私が贅沢すれば義長様が賄賂でも受け取ったのではないかと、あらぬ疑いを受ける口実になってしまいます」

 結局、そうか、と引き下がったのは義長の方だった。

 平家の落人の影がちらついたために、しばらく滞在してはいるが、義長の本来の役目は御家人達に謀反の兆しがないか見て回ることである。

 先だって九州に元からの軍が襲来して以来、御家人の間では恩賞が貰えないことへの不満が高まっていた。また、農民達が離散したなどを言い訳に、明らかに少ない数の兵しか連れていなかったなど、幕府側から見て忠誠心を疑う事例も報告されている。

 そして、それは直接戦に参加していない西海道以東の国々でも同じで、新たな状況に対応できない幕府への不信はそこかしこで燻っていた。

 そこで義長に下されたのが各地の御家人を回って、軍備や兵糧の備蓄具合を確認することだった。

 だが、そんなことは建前に過ぎない。

 それなら、わざわざ一人で回る必要がない。結局のところ、処分したいのは御家人よりも義長自身の方。もし訪れた先の御家人が謀反の準備をしていたのなら、それを見つけた義長をむざむざ帰したりはしないし、その時には謀反の兆しは無くても後から謀反が起これば、幕府はそれを口実に処分することができる。

 そもそも頼朝の異母兄弟だった義長の祖父は、頼朝の謀略によって失脚させられている。義長自身も相当に冷遇されてきた身である。今更幕府が義長に何を望んでいるかなど考えるまでもない。

 それを承知で輿入れしてくれた「よし」や、信じてついて来てくれる家来達には感謝しているが、狭い所領から得られる税では贅沢の一つもさせてやることはできなかった。


 数日の後、ようやく馬場や屋敷の周りに溜まった土砂まで片付け終わり、藤並の屋敷へと向かう。

 屋敷は忌中のため入ることはできず、また故人の家族から直接話を聞くこともできない。

 大っぴらに門を叩くのも気が引けるので、使用人を探しがてら屋敷の周りを見て回ることとした。

 昨日の嵐で所々壊れた粗い竹編みの垣根から見える庭は泥に埋もれており、なかなか片付けまで手が回っていないようだ。それでも、縁側や奥に見える障子は綺麗になっており、悲しみに暮れつつも少しずつ日常を取り戻す努力をしている様子が見て取れた。

 屋敷の裏の角まで来た時、ごみ捨て場に大量の土砂に紛れて薄汚れた布きれが落ちているのが見えた。近づいてよく見ると、見覚えのある刺繍。泥に汚されて、大振りの揚羽蝶の刺繍が祝言の時よりもはっきりと浮かび上がっている。

 どれ、と上に被さった土砂を払って持ち上げてみると、かなり酷い裂かれ方をしていた。右の袖がほとんど千切れてしまいそうな程に裂け、背中にも幾重もの切れ目がある。こちらは縫目とは無関係に縦横に真っ直ぐ走っており、明らかに切りつけた跡だと分かった。

 宗弘殿の話では、取り合いになった時に破れて賊はそれで諦めたはず。ならば背中のこれは、後から誰かが改めて切ったのか。

「諸悪の根源として扱われたか。随分と濡れ衣を着せられたものだな」

 思わず苦笑したが、討死のことはともかく、白無垢の噂を聞いて賊が襲ってきたのなら、案外濡れ衣という訳でもないかもしれない。

「しかし、よく破かずに取り出せたものだな」

 一つ溜め息を吐いて、改めて土砂の山を眺める。白無垢を押えていた土砂は申し訳程度の物で、ほとんどの土砂はそのすぐ隣に山と積まれていた。土砂の量からいって近くの農民達もここに持ってきたのだろう。

 土砂と一緒に埋めてしまえと言われたが、彼らも祟られると思って嫌がったか。風で飛ばない程度に押えて終わりにした、というところだろう。

 衣を戻そうと畳んでいると、遠くから走ってくる足音が聞こえてきた。

「その衣に触れてはなりません」

 穢れが移りますと息を切らせて言うのは二十歳にもならないような若い娘。淡い紅の小袖に似つかわしくない濃い藍色の包みが目を引いた。

「この屋敷の者か」

「はい。ここで、抱えて頂いております」

 余程慌てて来たのだろう、胸を押えてなんとか話すが、それでもぜーぜーと息が荒れている。頭の上で結んだ手ぬぐいから、纏めた髪の毛が落ちかけていた。

「穢れが移るというのは、どういうことだ」

「それは物の怪から奪った衣なのだそうです。それを着て輿入れしたせいで物の怪の呪いに触れ、為則さまは討死され、屋敷は夜盗に襲われました。屋敷にいた者も何人かは斬られ、無事だったおふき様も立て続けの災難に狂われて」

 そこまで言って、急に言葉を詰まらせ涙を流した。話の流れから、ふきというのが件の花嫁なのだろう。女は袖で涙を拭うと、ふうと息を吐いた。

「失礼致しました。それで、おふき様はその衣をご自分で切り捨てなさったのでございます。ですが、その後心労から伏せってしまわれまして。今では誰もこの衣に触れたがりません。貴方様も触れない方がよろしゅうございます」

 なるほど、切ったのは嫁自身だったか。

 これが姑だったりすれば、忌中の家に入ってでも引き離さなければ惨劇になってしまうと思ったが、一先ずその心配はなさそうだ。

「できれば、払うか焼き捨ててしまうかしたいのですが、誰も触りたがらないですから」

 義長に話しているのか、独り言か、分からないままに呟く。

 それでは、と女が去るのを見送ると、義長は丁寧に衣を畳んで山の上に戻し、漬物石程度の重石をしてその場を後にした。


 馬に乗って向かったのは、五西月さしき村の娘のところ。

 今回は茅彦を連れていない。一人でなら馬を駆けさせてもいいかとは思ったが、道中は散々に荒れており、結局遠くまで見渡せること以外は歩くのと変わらなかった。

 作次郎の家が二日前に夜盗に襲われたことは、宗弘から聞いていた。作次郎は殺されてむごい姿になり、娘だけが生き残ったという。

 そして夜盗と見られる男の死骸が近くの川原で見つかっている。それも三体並べて置かれていたらしい。にもかかわらず、五西月さしき村では誰も斬った者はいなかった。これは物の怪の仕業に違いない。やはりあの親子は呪われていたのだ、というのが村人達の言い分ということだった。

 義長自身はそれを物の怪だとは思っていなかったが、人目を避けて隠れ暮らしているであろう彼らが、なぜわざわざ別の村の娘を助けるために騒動を引き起こしたかに興味を覚えていた。

 山奥の里では行商人を追い回した一方で、里から遠く離れたその地ではほとんど関わりのないような娘を身体を張って助けたという。その意味が義長にはどうしても掴めなかった。

 掴めないといえば、彼ら自身の里での動きもそうだ。なぜ散々もてなしておいて、寝込んだ後になって襲うのか。それも、わざわざ起こしているとしか思えないような方法で。

 とにかく、彼らの正体もさることながら、心の内を知る手立てが欲しかった。

 しかし、色々考えを巡らせて村にやって来た義長の当ては大きく外れる。

 そもそも娘の家が綺麗に無くなってしまっていた。後には竈の残骸が見えるだけで、柱の一本も見当たらない。家の隣に立っていた柿の木が、根っこを露わにした状態で横倒しになっており、何とか場所が分かったという有様だ。

 見回せば、何も娘の家だけが特別だった訳ではなく、里中が家の修理や建て直しに忙しくしている。余裕のある者は数人がかりで材木を運び入れ、そうでない者は小枝や茅を縄で結び合わせ、とりあえず雨風をしのげる場所を作ろうとしている。

 しかし肝心の娘の姿が見当たらない。

 余所の家を手伝いに出ているのかと、少し馬を回して探してみるが、どこにもいなかった。

「そういえば見ませんな」

 三人目として聞かれた男も、前の二人と同じ答えしかしなかった。

「だが、毎日畑には出てきているのだろう?」

 作次郎の畑も大水で流され、作物は残っていなかったが、畦は直され、転がり込んでいた岩も隅に固めて運ばれていた。

「いえ」

 男はとんでもないと首を振る。

「あの大水の後から、娘の姿は見ておらんのです。ただ、確かに畑は片付けられているので夜中にでも来ているのかもしれませんが」

 ふむ、と少し考えて馬を下りる。座って休んでいた男に顔を近づけ、懐の巾着から黒い粒を取り出し男の前にかざした。

「何か知っていることはないか」

 義長の指先に摘ままれた銀の粒に目を奪われていた男だったが、残念そうに首を竦める。

「本当に知らんのです。夜盗に襲われた時も父親は無残な姿になった中で朝になってひょっこり現れますし、その後すぐに起きた大雨でも皆家も人も流された中で、あれだけは家も父親の亡骸も流されながら身一つで生き残っておるんで。皆、あれには稲荷か何かが憑りついているのだと怖がって近寄らんのです」

 それでは俺はこれでと、男は鍬を担いでそそくさと去って行った。

「何だというのだ、一体」

 物の怪を平家の落人だと半ば決めつけている義長にはどうにも腑に落ちないことが多過ぎた。

 なぜ作次郎の家が襲われたのに合わせて居合わせられたのか。なぜ大水の後でも娘一人で生き残っていられたのか。それすらも物の怪が居合わせて助けたのであれば、それはもう、人知を超えた行いではないか。

 今回の件は本当に神仏や物の怪によるものなのか。

 元々信心深い義長である。物の怪の存在についても人並みに信じている。今回はたまたま白無垢の刺繍について見つけたことで、これは物の怪ではなく人の手によるものだと信じて動いているに過ぎない。

「それにしても」

 先程の男との話を振り返る。

「姿は見ていないが、生きてることは知っている、か。村八分というのも面倒臭いものだ」

 とにかく、あの娘を見つけ出して話を聞かないことには先に進めない。

 そうして隈なく探していったが一向に娘の姿は見当たらない。日も傾き始め、今日は諦めようか考え始めた頃、里の外れで木々に紛れるように細い石段が、うねりながら斜面を登っているのが見えた。

 馬から降りて近づくと、急に足を取られた。どうやら小川が流れていたところが土砂で埋まったらしい。橋は流されたのか見当たらない。

 少し迷ったが、袴の裾を持ち上げて結ぶとゆっくりと泥の中に足を入れる。

 なんだ、こんなものか。

 気合いを入れた割りに、底が浅くて思わず苦笑する。

 結局、最初に足を取られた時の位置が最も深かったらしい。脛の中程まで埋めながら五六歩歩けば石段に足が掛かった。

 薄っすらと色づき始めた木々の中、足元に気を付けてつづら折りの石段を登っていく。

 石段とはいっても、近場にあった石をただ闇雲に積み上げただけのようで、形も大きさもばらばらで滑りやすい上に登りにくい。普段通る人もいないのか、石段は全面が苔むして、それが歩きにくさに拍車をかけていた。先日の大雨の影響で足場の緩い場所もあり、一歩一歩確かめるようにして進んでいくと、小さな祠の前に出た。

 小さな鳥居があったであろう場所には切り株のような柱の跡があり、祠の上には五西月さしき稲荷と書かれている。

 稲荷、か。これは当たり臭いな。

 義長の胸元程しかない小さな祠の中には、古ぼけた注連縄と千切れた紙垂が掛けられているだけで御神体と思しき物は無い。それでも、誰かが手入れをしたのか祠の中の土埃は綺麗に掃除されていた。

 よく見ると、ぬかるんだ地面には祠の周り一帯に無数の裸足の足跡が重なっている。どうやら誰かがこの周辺にいたのは確からしい。

 と、祠の裏の方でがさがさと何かが動く音がした。

 あの娘だろうか、と期待する一方で、猪や蝮かもしれない、娘だとしても夜盗を斬った手練れも一緒かもしれない、と刀を抜いてそっと近づく。祠の裏はろくに手入れもされておらず、鬱蒼と生い茂る森の中に様々な蔦が縦横無尽に張り巡らされている。その非常に悪い視界の向こう側に何かが動いているのが見えた。

「そこで何をしている」

 いるのが丸腰の人だと分かり、刀を鞘に戻しながら声をかける。相手は驚いて身体を震わせたが、直ぐに顔を上げると義長の元へと駆けつけ再度額づいた。

「食べられる物がないかと木の根を漁っておりました」

 そう言うのは紛れもなくあの時の娘だった。だが顔を上げさせて義長は背中にぞくりと冷たい汗が流れるのを感じた。

 父も家も田畑も実りも立て続けに全てを失ったことで、心に負った傷は計り知れない程に深かったことだろう。顔も体も凶行があってからたった数日しか経っていないとは思えない程にやつれている。義長の目にはとてもこの冬を乗り切れるようには見えなかった。

 しかし、その眼だけは信じ難い程にらんらんと輝いていた。

「ここで暮らしているのか」

「はい」

「元の家には戻らないのか」

「今は食べ物を探すので精一杯ですので」

 娘の後ろを見ると先程いた辺りに幾つか掘り返した跡があった。近づくとそこには確かに掘り返した根っこのような物が並んでいる。だが、これは木の根ではない。義長にも見覚えがあった。

 片栗か。

 飢饉への備えとして生やしてある草であれば、勝手に採って食っては里から爪弾きにされる。もっと飢饉が深刻になれば殺されることだってあるだろう。義長が里に密告することはないが、木の根と嘘を吐いた娘の気持ちも分からなくはない。

 だが、すでに知られてるのだろうな。

 先程の男は娘に稲荷が憑いていると言っていた。これまでは「物の怪」と言うことはあっても、「稲荷」とは言わなかったはず。村人がこれらを別物として分けているかどうかは定かではないが、稲荷と言ったのなら、ここにいるということは村の中に広まっているのだろう。

「洪水の時からここにいるのか」

「はい。稲荷様ならきっと助けてくれると信じてここに参りました」

 やはり稲荷、か。だが。

「祠の中には何もないようだが」

「あったのは昔の話ですので」

 今は他の神社とまとめて別の場所に祭られています。と特に気にする様子もなく答える。

「なら、なぜそちらに行かぬ。今はここには稲荷はおわさぬのだろう?」

「いえ、います」

 そう言って娘はうっとりと微笑んだ。

「姿は見えませんが、いつでも傍にいてくれます」

 その表情を目にし、義長は即座に娘に異を唱えることはしまいと決めた。娘の信仰は一切の疑いを受け付けない盲目的なもののように見えた。

 しばらく娘の狂信とも思える信心深さに圧倒されていた義長だったが、ようやく娘が助かった理由に合点がいった。夜盗に襲われた時と同じく、今回の洪水でも助けてもらえると思ってここに来たのだろう。そして実際、そのお蔭で命拾いをしている。

「その稲荷とやらには、今回の洪水でも会ったのか」

「いえ」と首を振ったが、目を伏せることはなく、その視線には力があった。

「ですが、知らない内に色んな物を届けてくれます」

「ほう。どんな」

「おにぎりですとか、蓑ですとか。あの祠の中に」

 と言い掛けて止まる。釣られて振り返った義長も思わず固まった。

 そこからは祠の裏側しか見えないが、その向こう側で風に煽られて白い布がはためくのがちらりと見えた。

「嘘、だろ」

 思わず狼狽えて祠に駆け寄る。正面に回り込んで見ると、泥まみれの白い布。恐る恐る手を伸ばし広げると

「そんな」

 隣から息を飲むのが聞こえた。それはそうだろう。少し前に自分の着た衣がずたずたに引き裂かれて目の前に現れたのだから。

 だが、義長にとっての衝撃はそこではない。

 来た時には確かに中は空だった。背を向けて話していたとはいえ、両手を広げて五人分。それでも気付かせないなら、いつだって殺せるということだ。

 藤並殿の屋敷で見てから追いかけてきたのなら、儂を意識しているのは間違いない。神仏物の怪の類ならいざ知らず、人の手によるものというのなら

「端から視られていたと。これはちょっと勝てんな」


 石段を下りながら義長は敗北感に打ちひしがれていた。

 不用心に出した尻尾を掴んだと思ったが、どうやら炙り出されたのはこちらだったらしい。

 だが、と小川を渡り終えて足の泥を落とす。

 見つけた以上、こちらも関東武士の沽券にかけて見逃す訳にはいかん。しばらくは湯浅殿から兵を借りる訳にもいかんだろうし、一度戻って作戦を練ることとしよう。

「必ずやその正体、暴いてくれるわ」

 呟くように言い捨てると、馬に跨りその場を後にするのだった。

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