第五章 白無垢の呪い

 稲についている虫を棕櫚しゅろの葉を束ねたはたきで叩き落としていく。落とされた虫のほとんどは水の中に落ちるが、中には上手く羽ばたいて別の稲へ飛んで行ってしまうものもある。

 盆祭りから二月が過ぎた頃、綾女達親子にとっては虫を払うのに今が一番忙しい季節だ。

 稲の茎をはたくと、頭を垂らした稲穂がしゃんとくすんだ鈴のような音を立てる。綾女はこの音を聞くのが大好きだった。

 たあんと、おいしいまんまになっておくれ。今年は飢えることのないように、しーっかり実っておくれ。

 今年は摂津の方の戦に男たちが駆り出されている。幸いと言うべきか、その前の戦で足を怪我した父親は戦に取られなかったが、来年は税の取り立てが一等厳しくなると噂されており、ここでどれだけ虫から米を守れるかが親子の命を握っている。

 とはいえ、できるのは田んぼを回って虫を落とすことだけ。鼻歌を歌いながら、膨らんできた稲穂の間を見て回る。

「おーい」

 田んぼの反対側から父親の声がした。

「虫取りはいいから、そろそろ朝飯炊いてきてくれよ」

 はーいと返して家へと向かう。途中、牛の前を通ると大きな声を出して鼻を摺り寄せてくる。その頭を一撫でしてやると、嬉しそうな顔をした。五西月さしき村の皆で飼っている牛で、小さな頃からよく遊びに行ったせいか、綾女には随分と懐いていた。

 虫取りの間に少し緩んでいたたすきを締め直し、釜を火にかける。中に入っているのは、米に麦、そして小芋。刈り入れが近いとはいえ、貴重な米はできるだけ始末しないといけない。実際、入っている物の半分近くが小芋である。

 生活はこんなに厳しいってのに、なんで金持ちなんだか。

 役人が来て、綾女が物の怪の衣を着たという話が広まった後、大きな尾ひれの付いた噂が流れるようになった。

 あれだけ高価な衣を着られたのだから、実はあの家には隠れた財宝があるはずだ。

 その噂が流れ始めた頃、村の人々は誰も取り合わなかった。それよりも、物の怪の衣がどんな物だったかとか、それを何日も経ってからどうして役人が聞きに来たのかとか、そういうことの方が皆知りたがった。

 しかし、村の外で流れる噂は止むところを知らず、あの家は床下に砂金を隠しているだの、裏で湯浅の殿様と繋がっているだのと、ますます尾ひれが大きくなっていく一方だった。

 そうして、村の人々も噂が長引くにつれて、噂を鵜呑みにする者、鵜呑みにした誰かが物取りに押し入るのではないかと巻き込まれるのを恐れる者、様々な考えで綾女達親子を避けるようになっていった。

 そんな薄情な里の人々のことを思い出して腹を立てつつ、竈に小枝を放り込む。炎の上で暫くくすぶっていた小枝は、やがてパチンッと火の粉を飛ばして燃え始めた。


「そろそろ水を抜くか」

 大根の味噌汁を啜り、作次郎はほうと息を吐いた。

 刈り入れは、田んぼの水を抜き、地面を乾かしてから行う。水を抜けば刈り入れまでは後十日といったところだ。

「今年は虫も少ないし、嵐も来なかったからようさん穫れるぞ。案外あの衣のお蔭かもな」

 まるで縁起物のように言って笑う。綾女にはとてもそうは思えなかったが、そう信じたい気持ちも分からない訳でもない。

 娘の綾女がまだ小さい内に妻を亡くし、昨年の戦に駆り出されては矢傷を受け、今も右足は思うように動かせない。そんなところに現れたのがあの白無垢だった。色々と噂は立っているが、実際に何かをされた訳ではなく、田も畑も久しぶりの豊作となれば、そう思いたくなるのも無理はない。

 肯定も否定もせずに笑っていると、小芋を摘まみ上げた箸を止め「そうだ」と綾女を見た。

「昼過ぎまで虫を払ってから抜くから、抜き出したら友達と遊んで来ればいい」

 うん、と喜んで見せる。

 やっぱり気にしているんだ。

 綾女達のことを遠巻きに見るようになった大人達とは異なり、子ども達は綾女を遊び仲間として受けれ入れてくれていた。ちょっぴり怖くて不思議な話が大好きな子ども達は目の前に降って湧いたお伽話に飛び付き、その主人公となり物の怪の衣を羽織った綾女のことを桃太郎やかぐや姫を見るような目で見ていた。

 父親の方でも、ここで子ども達から見放されては村から孤立しかねないと思うのだろう。刈り取り前の忙しい時期にもかかわらず、よくこうして遊びに行ける時間を作ってくれた。


 日が少し傾き始めた頃、一通りの虫払いを終え、子ども達の遊び場所へ行く。行くとはいっても遊び場所も田んぼの周り。追いかけっこをしている中に勝手に入り、一緒に逃げ回れば、皆快く受け入れてくれる。

 ぽん、と背を叩かれて、腰の辺りをおかっぱの女の子の頭が駆け抜けていった。

「綾女ちゃんの鬼ー」

 下は四つから、上は十三まで。好き勝手に出入りしながら走り回っている。

「……なーな、はーち、くーう、とう!」

 十を数えて、ぐるりと見回す。狙いを定めると、田んぼを一枚隔てた向かいへと畦道を駆けて行った。


 鮮やかな夕焼けが少しずつ暗さを増してきた頃、一人、また一人と減ってくる中で、稀に一人増えていることがある。人の顔が分からなくなる頃に現れるのは、いつも同じ男の子だったが、皆その子の名前も顔も知らなかった。

 この日も太陽が山の端に掛かった頃、彼は現れた。

 ちょうど「かくれんぼ」で、綾女が背の高い稲の間の畦道に隠れていた時だった。気が付くと、村の子ではない男の子が音一つ立てずに隣にしゃがんでいた。

 彼の顔は綾女の方を向ており、じっと見ている。暗くて顔の見分けはつかないが、口元が笑っていることは分かった。

 また、いつもの子。

 夏の頃から見かけるようになった。たまに遊びに来てはすぐにいなくなるから、話をしたことはないが、声くらいなら何度か聞いたことはあった。

「ねえ、あんたどこの子」

 田を抜ける風がさやさやと穂を鳴らした。

「村の子じゃないでしょう」

 男の子は「んー」と少し考えて

「そうだね」と笑う。

 そうして何か言おうとしたが、ふいに口をつぐんで身を伏せる。綾女もつられて伏せたが、その時、すぐ脇を鬼が走って行った。

「じゃあ、どこの子だと思う」

 鬼が行ったのを確かめて笑いかけてくる。

 どこの子だろうか。普通に考えれば、市に来ていた隣町の子か、行商の子か。でも、その問にこの答えじゃあつまらない。

「物の怪の子、とか」

 それを口にした途端、僅かな間ではあったが、それまでの男の子の笑顔が凍りついた。

 すぐにぷっと噴き出すと、口の端が釣り上がった。

「当たり」

 風が駆け抜ける。少し向こうの木々の間から烏の鳴き交わす声が聞こえた。

「え……」

 思わぬ答えに言葉が詰まる。

「どうしたの」

「嘘」

「じゃあ嘘」

「もう」

 怖いと思ったのを笑ってごまかす。

 どうせ冗談だ。本当なはずがない。

 軽く息を吐いて、ひやりとした気持ちを落ち着かせる。と、腰の辺りから衣の裾がふわりと膨らんでいるのが目に入った。それは、どうしても何かがその下に隠れているように見える。

 例えば、尻尾とか。

「どうかした」

 綾女の心の内には気付かないまま、目の前の男の子は無邪気に話しかける。

「いや、その、尻尾」

 言ってから、まだ尻尾と決まった訳じゃないのにと気付く。男の子は何のことか分からない、といった風だったが、「あっ」と気付くと、「尻尾」を撫で、曖昧に笑ってごまかした。

「その下には何が」

 あるの、と尋ねる声が思わず尻すぼみになってしまった。

 もし、本当に尻尾だったら? 本当に物の怪だったら?

 そう思い至って、急に怖くなる。

 綾女の恐怖を察したのか、くすりと笑った男の子の声にはこれまでの悪戯っぽさが消え、なだめる様な優しさが含まれていた。

「内緒」

 立ち上がって、うーんと伸びをする。辺りはすっかり暗くなっていた。

「みんな帰っちゃったか」

 目を凝らしても、動く物は何も見えない。耳を澄ましても、稲穂の触れ合う音だけで子どもの声も足音も聞こえなかった。

「じゃあ、俺も帰るわ」

 またね、と背を向ける時にちらりと月に照らされたその頬には、狐の髭の様な筋が一本入っていた。


 それから両の手の指を全て折るだけの日が過ぎた。村では稲刈りが始まり、大人の背丈程に組まれた竿には、刈り取った稲束が干され、稲わらの香ばしい香りが村中に広がっていた。

 頭の上から足の先まで全身を泥だらけにしながら、綾女も稲刈りを手伝っていた。

 中腰で鎌を振るい続けるのは楽ではないが、稲穂の間に隠れてしまうと少しだけ心が楽になる。しかし、稲刈りが進んで道から丸見えになる背中には人々の視線が痛い程に刺さった。

 狐の髭の男の子と会った翌日には、綾女が子ども達に話した噂は村中に広まっていた。子ども達は新しいお伽話、しかも自分達が遊んでいた謎の子の話に大いに盛り上がったが、それを聞いた大人達は悪いものに子どもを取られてしまうのではないかと恐れ、それと出会った綾女から距離を置くようになった。

 そして、物の怪の衣の話と相まって、綾女がそれを引き寄せたのだと、非難の視線を浴びせかけた。

「おーい。今日はもういいぞ。夕餉までちょっと休んでこい」

 隣の田で刈っていた作次郎が声をかける。

 日はまだ高く、刈り取りは忙しいが、村人達の視線で毎日ぐったりと倒れ込むまで疲れ果てる綾女を、人目のある所に放ってはおけなかった。

 うんと頷き、これまでに刈った稲わらを束にして干すと、よろよろと家に戻る。

 だが、家の中にいても人々の噂する声が聞こえてくる。

 子どものおもちゃの様な小さな弓を持つと、人の来ない村の外れまで逃げるように走って行った。

 そこは村と山との境目にある祠。

 祠とはいっても中身は別の大きな神社に移された祠の抜け殻。祠の内には何も置かれておらず、その前にあったはずの鳥居も根元から切り倒され、切り株の様な跡が残るだけになっている。

 少しだけ山を登り、人々の手が入らない鬱蒼とした木々に囲まれたこの場所は村人の目から逃れるにはちょうど良かった。

 弓の弦を張り直して指で弾く。少し緩い弦はびよんと鈍い音を立てて震えた。

 綾女は弓が得意な訳ではない。

 物陰に隠れて雉や兎、狸などを狙うが、綾女のひ弱な腕ではたいてい狙いを外すか、届く前に気付かれて逃げられてしまう。それでも何もしないよりかは気が紛れたし、たまに当たれば夕餉の足しになった。

 ただ、それもこのところの大人達の仕打ちに疲れ果てた身体では、弓を引くことすらも思うに任せられなくなっていた。

 祠の石組に背を預け、弓を抱いたまま目を閉じると、木々の間を抜けて来る風が心地良い。葉の擦れる音は遠くで聞こえる大人達の声をかき消してくれた。

 かさりと落ち葉を踏む足音が聞こえて目を開けると、既に辺りは真っ暗。空には日の代わりに丸々と太った月が辺りを照らしていた。

「大丈夫?」

 すっかり寝過ごしたことに気を取られていた綾女は、目の前に人がいることに気付いて小さな悲鳴を上げた。

 周りの木々に留まっていた小鳥達が一斉に飛び立った。

 思わず身構えたが、何も起きないことに気付いてゆるゆると顔の前で構えた腕を降ろす。目の前にいたのは、あの男の子だった。表情は読み取れないが頬の端に細い筋が光って見えた。

 村の大人でないことにほっとするが、今度はその人達が口にしていた噂が頭をもたげた。

 攫われるかもしれない。取って食われるかもしれない。

 夜の暗さと共に恐怖がじわりと足元ににじり寄ってくる。

「怖い?」

 少し傷ついたらしい。

「大丈夫だよ。取って食ったりしないから」

 座っている綾女の隣まで歩いて来ると、祠の後ろに広がる小さな草原に目をやった。

「凄いね。これみんな村の人達が植えたの」

 綾女は首を振る。綾女が物心ついた頃に稲荷の御神体を近くの大きな神社に移してから、ここで何かをしたことはない。

「春になると綺麗なんだろうな」

 溜め息を吐く男の子に、思わずくすり。確かに、春先に一面に咲き乱れる片栗の花は可憐で美しかった。

「春になったら見に来る?」

 思わず声に出して聞いていた。

 村の人達も男の子本人も物の怪なんだ、怖いんだと言う。だから綾女も本当のことをいえば、日暮れにしか現れないこの男の子が怖い。

 けれど一方で、これまで一緒に遊んで話をした目の前の男の子が、綾女を取って食ったりするようには見えなかった。

「うん。きっとね」

 夜の暗がりに黒く塗り潰された顔は、笑っているような気がした。

 あーあ、と男の子は組んだ手を前に伸ばして伸びをする。

「夏に会った時には、もっと気楽に話してくれたのになあ」

「え?」

 全く記憶になかった。

「ほら、祭りの時にさ」

 そう言われて、あっと声を上げた。

 祭りの時には近くの里の子や行商人の子達も多いから、全く気にせずに話していたが、考えてみれば夜中の祭りだ。物の怪の一人や二人、混ざっていても不思議ではないのかもしれない。

 そういえば、あの時「またね」と言ってたっけ。

 そう思うと、やっぱり怖い。

 盆祭りの後、男の子は何度か里に現れていた。それが全て綾女を探すためだったのか。

「暗いと、どうしてもね、誰が誰だか中々分からなくってさ」

 そもそも、どうして目を付けられることになったのか。盆祭りの時に何か言ったか、と考えて一つ思い当たる。

「あ、あのさ」

 勇気を振り絞って話しかける。

「うん?」

 男の子は嬉しそうに返事を返した。

「あんたは、あの衣を探してあたしに会いに来たの」

 男の子は話が飲み込めないのか固まっている。

「んー、もしかして」

 頬にこぶしを当て、人差し指でしばらく狐髭の筋をなぞっていたが、ようやく口を開いた。

「取り返しに来たと思った?」

「違う?」

 まさか、と手を振って笑う。

 その無邪気な笑い声に綾女の心も緩やかにほどけていった。けれど、恐怖が減った分、別の感情がむくむくと湧き上がる。

「じゃあさ」

 意地悪く笑って見せる。

「あたしに憑りつきに来た、とか」

 その言葉に男の子が固まった。

「なんで、また」

「大事な物だったんでしょ。それを取られたのなら」

「いや、あれはあげたんだよ」

 だから、いいの。

 そして、にやりと口の端を上げて見せる。

「祟られたいの?」

 その言葉を聞いた時、心の奥に膨らんできていた感情が口をついて出た。

「とっくに祟ってる癖に」

 え、と間の抜けた声に綾女の苛立ちが一気に弾けた。

「村中から白い目で見られて、除け者にされて、干上がるまで祟っておいて、『今更祟られたい?』物の怪だか、稲荷様だか知らんけど、これ以上何を奪ったら気が済むんよ」

 呆然とする男の子に向かってまくし立てると、目に涙を浮かべたまま石段を駆け下りていった。


 残された小太刀丸は一人祠の前に座り込んだまま、雲間から差し込む月の光に浮かび上がる村を見下ろしていた。

「稲荷とは関係ないんだけどな」

 指先で頬の傷をなぞる。

 石段はかなり急になっている。鳥居からは少し奥に入った所にある祠からは、まだ綾女の姿は見えてこない。

 綾女には小太刀丸が狐に見えていることは知っていた。

 頬の傷は見ようによっては狐の鬚に見えなくもないし、意図しなかったとはいえ、刀に膨らんだ裾を尻尾と見間違えば、化け損ないにはちょうどいい。

 けれど、ここまで追い詰められているとは思わなかった。

「いい加減、神様のふりすんのは、止めようと思ったんだけど」

 まだしばらくは、刀を懐にしまったままにしておこう。

 ただでさえ、物の怪に見られるのが嫌で、人の子として夕闇に紛れて遊んでいたのに、今度は勝手に神と間違われた。からかって遊んだりもしたが、ちゃんと人だと明かしてしまおうと思っていた。

 だが、遊んでいて分かったのは、里のせいでどうしようもなく追い詰められた綾女の心。

 たぶん、今欲しいのは新しい人の子の友達ではなく、陰でこっそり助けてくれる狐の子なのだろう。

 そろそろ家に着くかと眺めていた小太刀丸だったが、ふと少し離れた田んぼの端に目が行った。

「なんだ、あれ」

 雲の影で切れ切れに照らし出される畦道を駆ける妙な影が目に留まった。


「皆、家に入りました」

 見張りに出ていた手下の報告に暗闇が微かにざわめく。

 里の少し外れ、急峻な山の中で、大きな栗の木の根元に支えられるようにして建つ小さなあばら家に、与五郎達山賊の集団は詰めていた。

 村八分にされた人が住んでいたのか、今にも壊れそうなほど粗末な作りの家は屋根板の半分が失われ、残りも朽ちてぐずぐずになっている。

 畑があったであろう斜面に沿った裏庭も薄が伸び放題になっており、家の主であったろう人の骨もその茂みの中に転がっていた。

 そうして無人になったこの家は、里からは見えず、人が近づくこともないため、近くの里を襲う山賊の絶好の隠れ家になっていた。

 隠れ家にいるのは五人。頭である与五郎と血気盛んな年若い衆が四人いる。

「行くぞ。あいつらに一泡吹かせるようなお宝を見つけ出せ」

 与五郎が立ち上がると、手下達も「おう」と応え、ぞろぞろとあばら家から出ていった。

 与五郎の率いる一団は全部で二十人余りいるが、ほとんどの手下達は今回ついて来なかった。百姓の家一軒荒らすのには五人もいれば十分ではあるが、皆がついて来ないことが与五郎には不満だった。


 事は半月程前に遡る。その晩、与五郎達は皆である役人の家を襲った。少し前に物の怪の白無垢で祝言を挙げたという、噂の家だ。

 丁度、男衆が領民からの税の取り立てに出ていたので、狙うにはお誂え向きの日だった。

 寝込みを襲って金目の物を盗み出し、他の家からの援軍が来る前に引き上げる。収穫といい、引き際といい与五郎にとって文句なしの襲撃のはずだった。

 しかし、与五郎の心の内を占めたのは唯一奪えなかった純白の衣だった。

 与五郎がそれを見つけた時、暗い室内で淡い月の光を受けてぼんやりと浮かび上がる衣にあっという間に心を奪われた。

 元々、この衣の噂を聞きつけて盗みに入った屋敷である。噂通りの、いっそ妖艶な程の美しさに一瞬我を忘れ、よろよろと吸い寄せられていった。

 だが、与五郎が衣に手を掛けたその時、すぐ脇の戸から駆け込んでくる影があった。

 敵の援軍が来たかと身構えたが、相手は丸腰の年若い女だった。女は衣にしがみつくと、抜き身の刀を持つ与五郎からそれを取り返そうと闇雲に引っ張り始めた。

「放せ。放さんと切るぞ」

 女の首元に刃を当てて脅すが、女は心底怯えた表情を見せるものの決して衣から手を放そうとしない。首から刃を滑らせ、切っ先を肩に押し付け、遂には女の寝間着に血が滲んできても放すどころか、ますます力を込めて衣を引っ張る。

 そしてとうとう、純白の衣は与五郎と女の間で無残にも裂けてしまった。その時に女が上げた身が裂けるような悲鳴は、与五郎の耳に消えずに残っている。

 余りにも激しい悲鳴に、慌てて撤退を命じた与五郎だったが、奪い損ねたその衣をどうしても諦めきれない。

 そんな中で聞いたのが、川上にある里にあの衣を着た村人がいるという噂だった。噂は行商人を泊めたある男は実は隠れた大金持ちで、財を積んで娘にその衣を着せたという。

 ならば、他にも買い取った物があるかもしれない。そうでなくても、奪い甲斐のある物の一つや二つくらい転がっていそうなものだ。

 しかし、他の仲間達はその噂を信じようとはしなかった。

「お前さんも馬鹿だねえ」

 腰の曲がった白髪の老婆がいかにも馬鹿にしたように笑う。

「百姓風情がそんな財、持ってる訳がないだろうに」

「いやいや分からんぞ。百姓どもが、懐が寒い寒い言うのはいつものことだからな」

 ふん、と老婆は鼻で笑う。

 この老婆は四十絡みの与五郎に比べ、随分と年上ではあるが妻である。

 昔、まだ与五郎が駆け出しの頃に襲った行商人の女で、「こいつを俺の妻にする」と意気揚々と隠れ家にまで連れ込んだまでは良かったが、歳の差の分か知恵の回りに差が大きく、あっという間に尻に敷かれるようになってしまった。

 知恵が回るお蔭で夜襲の成果が良くなり、実入りも大きくはなったが、逐一馬鹿にされるのが与五郎にとっては我慢ならない。

「だったら、行ってみればいい。百姓の家の一軒くらい襲うのは何でもないことだろう」

 後で吠え面をかかせてやる、と売り言葉に買い言葉で決めたことだったが、結局、与五郎の話に乗ってついて来たのは、この年若い四人だけだった。


 カサカサと枯葉を踏む音を立てて五人の男達が山を駆け下りる。

 途中、小さな堂の横を通った時、堂の縁側に市に来ていたと思しき男が二人、並んで腰かけているのが見えた。

 この二人を襲ってもいいが、市に物を売り買いに来る連中はたいした物は持ち合わせていない。もしこれから行く先が空振りだった時に、駄賃代わりに来ればいい。

 堂の前で立ち止まることなく、与五郎達は先を急いだ。

 手下の一人が家の戸の前に立つ。与五郎達残りは少し離れた所で控えている。今回は少し探し物をする時間が欲しいので、身の危険を感じて叫ばれては困る。

 戸を叩いて一夜の宿を頼む。戸が開き、出てきた主人を一突きにするのを見届けてから、与五郎達は家の中に走り込んだ。

 虫の息の主人の他に誰もいないことを確かめると、早速家捜しにかかる。水瓶の中、行李の中、果ては漬物樽の中まで掻き回したがそれらしき物は出てこない。

「やっぱり、ないんすかね」

 ぼやく手下をふざけるなと殴り飛ばして床板を剥がしにかかった時、不意にずずずずずと戸の開く音がした。

 ぎょっとして見ると、まだ小さな娘が立っている。

「お、とう……」

 不安げに呟く声から十かそこらの娘がいたことを思い出した。

 恐る恐る一歩踏み出した娘が父親につまづくのが見えた。

 目の前に横たわる身体と足の裏に伝わるぬらりとした感触で、何が起きたか分かったのだろう。硬直した身体からそれが見て取れる。大きくなる恐怖にがくがくと身体を震わせ、大きく息を吸うのが分かった。

 まずい。

 考えるよりも先に足が動き、与五郎の抜き身の刃が娘の喉に当てられる。一瞬だけ叫び声を挙げられたが、この程度で気付く者もいないだろう。

 何より、今この家は他から避けられている。他の村人も自身の身に危険が来ないようなら、少々のことが起きても、こんな夜中に助けには来ないはずだ。

 だがその時、腹に衝撃を食らい突き飛ばされた。

 思わず刀を取り落とし、尻もちをつくが、体当たりの相手が死に損ないであれば、どうと言うことはない。

 娘が怖さに竦んでいるのを横目に見ると、落とした刀を探すまでもなく殴りかかる。刀傷をえぐるように拳を入れると、力無く呻いて大人しくなった。また思い出したように暴れられても面倒なので、近くの水瓶に頭から投げ込む。

 足だけが口から飛び出したその姿に、手下が下品な笑い声を上げた。

「黙れ」

 まだ何を見つけた訳ではない。ここで騒いで、探すだけの間がなくなってしまっては元も子もない。

 水は半分も残っていなかったようで、溺れているのか、いないのかよく分からなかったが、どちらにしても水瓶を倒して這い出るだけの力は残っていないようだった。

「さて、と」

 振り返ると、娘はまだ同じ所にいる。腰を抜かしたらしく、その場にへたり込んで声を上げる気配もない。もはや逃げられる心配もないだろう。

 だからと言って、これ以上叫ばれてもいけない。与五郎は娘の手足を縛り、近くにあった手ぬぐいを口の中に押し込むと、隠し財産を探すのは手下に任せて先に隠れ家に戻ることとした。

「何か見つけるまでは、戻ってくるな!」

 どすの利いた低い声で命じると、震える娘を担いで一人、家を後にした。

 

 月はあるが、折よく現れた雲が光を遮っていた。竿に干した稲穂は与五郎の姿を隠し、穂が風になびく音は娘のくぐもった弱々しい悲鳴を隠してくれた。

 一足先に帰路に就く与五郎は満足していた。

 娘の器量の程は分からないが、この年の頃なら買い手はいくらでもあるだろう。後は手下が何か少しでも金目の物を持ってくればいうことはない。老婆の鼻を明かしたと、機嫌良く畦道を駆け抜ける。

 突然足に鋭い痛みを感じて、与五郎の身体が崩れ落ちた。

 咄嗟に刀を一振りすると、背後で慌てて身を引く者がいる。与五郎はようやく自分が後ろから左の腿を斬られたらしいと思い当たった。

「ど畜生めが」

 娘を畦に転がして立ち上がる。

 見れば目の前に立っているのは与五郎の肩にも届かない小さな子どもである。

 暗くて顔は見えないが、刀をがたがたと震わせながら構えている。月の光を返すその刀からは与五郎の血がしたたり落ちたが、こんな物に切られたのかと笑いたくなる程に短い代物だった。

 斬られた足には力は入らなかったが、相手がおもちゃのような短い刀を持った子どもであれば、これくらいの怪我で負けるはずがなかった。

 勢い良く踏み込んできた斬撃を受け止め、そのまま弾き飛ばす。

 よく稽古しているのだろう。弾かれても刀を落とすことはしなかったが、所詮はまだまだ小さな子ども。与五郎の重い一撃で身体ごと飛ばされ、思わず尻もちをついた。

 慌てて立ち上がろうとするところに、薙ぐように斬りかかる。右手で背を押えてなんとか両手で受け止めたが、今度は横向きに飛ばされ、ごろんと一回転。どうにか立ち上がるが、力の差ははっきりしていた。

 斬られた方の足を引きずりながら、ゆっくりと向かう。

 今度は上から押し斬ってやろうか。

 薄ら笑いを浮かべた与五郎が、振り上げた刀を真っ直ぐ子どもの頭へと振り下ろす。子どもも必死の形相で受け止めようとする。しかし、その刃が子どもの刀と触れることはなかった。

 キンッと鋭い音を立てて与五郎の刃を受けたのは若い男だった。男は与五郎の刃を受け止めるとぐいと押し返し、田んぼの中へと押し飛ばした。

 今度は与五郎が力で押し込まれる側になった。

 与五郎と男、二人の力は左程変わらないのだろう。それだけに、足の怪我の分だけ大きく不利になった。

 田んぼに落ちた与五郎が男と睨み合っている隙に、さっきの子どもが娘の縄を切り、稲穂の中に消えていったが、今となってはどうすることもできない。目の前の男に集中しなければ、命がない。

 遠くで誰かが斬り合う音が聞こえてくる。さっきの子どもが行った方向とはまた別の方向だ。二人以外にも仲間がいたらしい。そろそろ、里の男衆が助けに来たのかもしれない。

 妙だな。

 何か違和感を覚えたが、与五郎にはそれが何か分からない。

 間合いを取ってゆっくりと畦に上がる。男と対面し、稲穂の擦れる音が聞こえた時、ようやく違和感の正体を理解した。

 静か過ぎる。

 切り結んでいる間、誰も声を発してないのだ。

 普通、戦場では「やー」だの「ぎゃー」だのといった怒声が響き渡る。一方で、与五郎達山賊はあまり声を上げて襲い掛かることはない。人里を襲う時は尚更だ。

 では今、与五郎が向き合っているこの男はなぜ声を上げない。そういえば、さっきの餓鬼も黙ったままだった。里の人間を助けるのであれば、少しでも騒ぎを大きくして村中に気付かせる方が良いはずなのに。

 男の斬撃が与五郎の刀を弾き飛ばす。間髪入れず、与五郎の肩に男の刃が突き刺さった。

 地面に崩れ落ち、痛みに呻く。

 暫く呻いて、与五郎はふと気付く。

 止めがこない。

 霞む目で見まわすが、誰の人影も見えない。

 止めを刺さずに行ったのか、あるいは……

 この場で声を上げないのは与五郎達のように後ろ暗い者達か、あるいは口がないか。

 あの娘は衣を着たという。物の怪の衣をである。ならば、娘の周りに物の怪の類が憑りついていることだって十分にあり得る。物の怪であれば、己を誇示するような叫び声などきっと上げないだろう。

 俺は物の怪に斬られたのか。

 血の流れ出る肩を手で押さえて、足を引き摺りながらゆっくりと山へと向かう。

 くそっ。こんなものに手を出すんじゃなかった。

 後悔の念が与五郎の内に湧きあがった時、急に背中に強烈な痛みを覚え、そのまま崩れ落ちた。

 薄れゆく意識の端で、与五郎は女が近づいてくるのを見た。左手には短刀の鞘が握られている。

「やはり鷹之進様はお優し過ぎるのですよ」

 そう独り言ちると、痙攣する与五郎の背中から躊躇いなく短刀を引き抜く。

 短く鋭い痛みと共に与五郎の意識はここで途絶えた。


「逃がしてはやらんかったか」

 椿の背後の暗闇から穏やかな声がする。死体を目の前にしているとは思えない程に落ち着いたその声は、近づくにつれてぼんやりと男の姿を映し出す。

 夜盗共は皆追い払ったと、椿を呼び戻しに来た鷹之進に当然ですと返す。

「逃がしたら顔が割れますよ」

 二人並ぶと、夜盗に襲われた家へと歩き始める。

「こんな暗闇での顔なんか、日の下に出れば分からんだろうに」

「だからといって無用な危険は冒さないで下さい」

 はいはい、と鷹之進は肩をすくめて見せた。

「これでまた、椿の手柄が増えるな」

「怒りますよ」

 鷹之進を見上げて睨みつけるが、当の本人は全く気にする素振りを見せない。

「ま、いいじゃないか。それくらい強いのは確かだ」

「代わりに鷹之進様のやったことが無かったことになっては、話がおかしくなるだけです」

 椿が鷹之進と組んで里の近くまで侵入してくる山賊などと対峙する時、鷹之進は決まって相手を生かしたまま帰そうとする。

 鷹之進は、自身の姿をはっきりと見られている訳ではなく、帰しても正体不明な者あるいは物の怪の類にやられた、としかならない時にだけ殺さずに帰すのだと言うが、椿にはどうしてもそれを認めることができなかった。

 以前、どうしても気になって、なぜ物の怪の噂にこだわるのかと問い詰めたことがあった。

「この山には『本物』がいるから」

 だから、物の怪の噂で人々の注意がこちらに来るならそれでいい。後は里が見つからないように、その都度応じていけばいい。

 鷹之進はそう言ったが、「本物」が何なのか、結局口にすることはなかった。

「本物」が何を指しているにしても、里を守ることに変わりはない。

 里を知られる恐れがあり、襲われる危険があるのなら生かして帰してはならないと考えるのが椿である。

 結果、鷹之進に斬りつけられ、逃げる山賊のとどめを椿が刺すことになる。それを里に報告する時には鷹之進が取り逃した山賊を椿が捕えたと言い、椿の手柄が本来以上に増えているのだった。

 もっとも椿自身、元より里で一二を争う程の力があり、手柄の話が増えたところで誰も気にしなかったが、代わりに鷹之進の評判が落ちるのではないかと椿にはそちらが心配の種になっていた。

「いいんだよ」曇りがちな夜空を見上げて鷹之進が笑う。

「俺は殺さなくてもいいのを殺したくないんでさ」

「武士とは敵を殺めて名を挙げる者ではないのです」

 冗談めかして聞く椿に、まさかと首を振る。

「里で名が挙がっても、暮らしが良くなる訳でもあるまいしに」

「代わりに手落ちがあれば、里の皆の命が無くなりますよ」

「そこは常に考えて動いているさ」

 綾女の家には既に勘蔵が入っていた。

「おう。悪いが鷹之進は水汲んできてくれ」

 家に入るや水桶を押し付けられ、鷹之進は再び外の暗闇へと消えていった。

「椿は家の中片付けるの手伝ってくれ。明け方までに小太刀丸とあの子を連れて来れるようにするからな。急ぐぞ」

 夜盗達を追い出した後の未だ血生臭い家の中、二つの人影がぞわぞわと蠢き回っていた。


 人影のない田んぼの畦を二人の子どもが駆け抜けていく。小さな足音は風に揺れる稲穂と水路で鳴き交わす蛙が掻き消してくれた。

 夜盗の元を逃げ出してから、男の子は血の匂いのする抜き身の刀もそのままに、一言も口を利かずに綾女の手を引いて走り続けていた。

 時折、まだ刈り取りの終わっていない田んぼの端でしゃがみ込んでは人影と畦の向きを確かめ、再び走り出す。どこかへ向かうのではなく、ひたすらに夜盗から逃げるために走っていた。

 里の反対側にまで来たところで、男の子はようやく足を止めた。

 既に打ち合う刀の音は聞こえない。

 少し首を伸ばしてまだ刈り取っていない稲穂の上に顔を出し、耳を澄まして人気のないことを確かめると、聞こえるかどうかの小さな声で囁いた。

「大丈夫?」

 その一言で綾女は、自分は助かったのだと分かった。

 頷くと、今まで押さえつけていた恐怖と、父親を殺された悲しみが堰を切って溢れ出した。思わず声を上げて泣き出した口を男の子が慌てて押えたが、構わず泣き続けた。

 どれだけ泣き続けただろう。気が付くと綾女は男の子に両手で頭を抱きかかえられるようにして座り込んでいた。

 雨?

 額に落ちた雫に空を見上げる。曇りがちではあるが、まだ星の見える夜空が広がっていた。

「泣い、てんの?」

 震える声でそっと聞く。声を出すと、また涙がこぼれた。

 口元に当てられていた手を掴む。それは小刻みに震えており、綾女はやっと男の子も怖かったのだと気が付いた。

「ちょっと、もらっただけ」

 首を振って笑って見せたが、収まらない手の震えが決してもらい泣きではない、と教えてくれた。

 それもそう。男の子の戦いぶりを思い出して一人納得する。

 最初に一太刀浴びせたとはいえ、あの体格差。面と向かってからは全く歯が立っていなかった。助太刀が来なければ、きっと斬り伏せられていたことだろう。

 そんなことがあって怖くなかった訳がない。

 それでも、それだけの身体と力の差があってなお、綾女を助けるために飛び出してきたのである。そのことが綾女には不思議で、とても愛おしかった。

「お稲荷様」

 顔も名前も分からない男の子に向かい合って座り、呼びかける。神の化身と呼ばれた男の子は曖昧に笑って綾女を見た。

「なんで、助けて下さったんです」

 酷い言葉を投げつけた後なのに。

 命を張るだけの理由は無いはずなのに。

「なんでかな。悲鳴を聞いたら、居ても立ってもいられんかった」

 男の子は照れ臭そうに微かに笑った。隣に転がっていた刀を拾うと水路で血を洗い、立ち上がる。

「さ、行こう。ここにおっても、しゃあないし」

 水を切った刀を右手に待ったまま、左手で綾女の手を掴む。

「でも、どこへ」

「家は?」

 父親のことを思い出して、また泣き出しそうになったが、なんとか堪えて首を振る。

「まだ盗っ人が何人か残ってたから」

「じゃあ親戚は?」

 そう言われて思わず押し黙る。

 山際の小さな村のこと。村の人達は例えではなく皆親戚のようなものだ。少し前までは、皆親切にしてくれたし、綾女もそんな村の人達が好きだった。

 けれど今、衣の噂で里の大人達は誰も綾女達と関わろうとはしない。子ども達だけなら皆喜んで助けてくれただろうが、その親はきっと家に匿ってあげるとは言わないだろう。

 それを敢えて確かめる気にはならなかった。

「たぶん、誰も」

 言って自分で虚しくなる。

 じゃあ、これからどうするか。答えが出てこない。

「とにかく、今はどっかに隠れんと。いつまでもここにおったら、見つかるかもしれんしさ」

 男の子が小声で、でも努めて明るく宥める。綾女も落ち込んでいる場合ではないと、「うん」と小さく答えた。

「夕方の祠なら」

 あそこなら、隠れるにはいいかも。そう言いかけた時、不意に男の子が綾女の頭に手を当てて地面へと押し付ける。

 何が起きたか分からず、声を出しそうになった時、遠くから人の走る足音が聞こえてきた。

 追ってきた?

 慌てて口をつぐみ、動きを止める。お腹の下では丁度さっき男の子が持っていた刀の刃が裾に当たっていた。

 見つかりませんようにと心の中で必死に祈っていたのが通じたのか、走ってきた足音は稲穂の足元にうずくまる綾女達に気付くこともなく走り去っていった。

 しばらくして、続く足音がないことを確かめた二人は、ようやく身体を起こした。

「さ、次のやつが来る前にさっさと行こら」

 ぐいぐいと綾女の手を引いて歩き出した。


 石段の一番上で、うつらうつら舟を漕いでいた綾女がふと気が付くと、東の空が黒から濃紺へと移ろい始めていた。

 祠の回りは木々が多く隠れるにはちょうど良かった。森の裏には滝が流れていて周りから遮られているから、後ろから出てきた夜盗と鉢合わせる心配も無い。村の人達に助けを求められない綾女には、これ以上なく安全な場所だった。

 ふと、周りに人の気配がないことに気付く。見回してみるが、少し前まで隣で一緒に里を見下ろしていた男の子はもういなかった。

 心細くはあったが、しかし綾女にはそれが不思議なことには思えなかった。

「大丈夫。絶対死なせたりしないから」

 祠まで辿り着いた時、鳥の鳴き声にすら怯えていた綾女にそう言ってくれた。

 あの男の子は物の怪の子。

 姿は見えなくても、きっといつだって見守っていてくれる。

 父親を殺された悲しみで胸は張り裂けそうだったが、明けゆく空を眺めながら「生かされた」のだと強く感じていた。

 だが、日が上り、村に下りてきた綾女を待っていたのは、それ程優しいものではなかった。

 田畑の間を歩くと、既に皆、外に出て刈り入れの続きに精を出している。それを見るだけで、ひとまず夜盗は残っていないのだと安心した。

 だが、家までの道すがら、出会った人々は皆、綾女に冷たい視線を送りつけた。それに気付いた綾女が振り向くと慌ててそっぽを向く。

 いつものこと、と気にしないように歩くが、その耳に心無い言葉が刺さった。

「死んで化けの皮がはがれたか」

「まさか河童に騙されてたとはな」

「いやいや、前世の行いが悪かったのよ」

 河童?

 大人達の言葉を理解できないまま、家への道を急ぐ。

 そうして辿り着いた家の前で、少し戸を引くのをためらう。開ければきっと目の前に無残な父親の姿がある。

 しかし、恐々と開けた戸の内側には父親の躰も血だまりもなかった。よくよく嗅げば、まだ生臭い血の匂いがかすかに残っているものの、見た目にはここで恐ろしいことがあったようには見えない。

 見回せば、部屋の中も荒らされた跡はなく、綺麗に整えられていた。

 きっと誰かが片付けてくれたんだ。

 そう思い至った時、思い浮かんだのは、あの時助けてくれた男の子ともう一人の男の人だった。

 村で関わってくれそうな人は、誰も思い浮かばなかった。

 恐らくは綾女を安全な祠まで連れて行った後、暗い内にせっせと片付けていたのだろう。

 父親の躰は板の間に敷いたむしろにきちんと寝かせてくれていた。

 と、被せたむしろから左手がはみ出していることに気が付いた。最後に握ってあげようと近付いた時、思わず息を飲んだ。

 薄暗い部屋の中で気付かなかったが、父親の手は苔の様な少しくすんだ緑色をしていた。

 恐る恐る、顔に被せられた布を取ると、閉じた瞼も、少し開いた口もやはり同じ色をしている。

 だから「河童」だって?

 確かに河童は緑色の身体だと聞く。実際、川辺で河童の死体が出たと聞いた時、葦原の陰からちらりと見えた手は緑色だった。

 けれど、今、目の前にいるのはそんな物の怪ではない、昨日まで笑っていた人間の亡骸だ。その顔は色を除けばいつもの綾女がよく知っている父親のものだったし、その手のごつごつは毎日畑で鍬を握っているそれだった。

 綾女には父親の前世がどうだったかなど知る由もなかったが、少なくとも父親が、綾女自身が物の怪でないことは疑う隙もなかった。

 きっとむしろをめくれば腹には大きな傷があるのだろう。それでも、と、床やむしろと同じ冷たさになった大きな手を両手で握りしめる。

 このまま目を開けて、起き上がって、おはようと言ってくれたらいいのに。

 この手が冷たいままでもいい。この肌が生ける者の色でなくてもいい。腹の傷が塞がっていなくてもいい。ただ、起きてこっちを見てくれれば、それでいい。

 けれども、それは決して叶わないこと。

 それが悲しくて、ただただ悲しくて、声を上げて泣いた。

 どれくらい経っただろうか。気が付けば、格子をはめた窓の外は暗く、ざあざあと雨音が聞こえていた。暗くて見えないが、どうやら、風もあるようで窓から雨が吹き込んできているようだった。

 もうすっかり夜だった。

 丸一日泣き続けていたらしい。あるいは、泣いて、寝て、夢と現とを何度も行き来していたのかもしれない。それすら思い出せなかった。

 と、表で戸を叩く音がした。

 通夜の家には慣習として誰も行かない。それでなくとも、衣の噂が広まってから綾女の家を訪れる人などいなかった。

 また夜盗だったら、という不安を感じつつも、心張り棒も立てずに放っていた戸を引き開ける。

 そこにいたのは蓑を着、笠を被った人達。笠の影になった顔を確かめる前に、彼らはずかずかと家の中に入り込んできた。

「あの、あなた方は」

 何も言わずに押し入り、そのまま引き戸を閉められると、じわりと恐怖が這い上がって来る。囲炉裏の火も消え、ほとんど真っ暗な中、何人が入ってきたのかすら分からなかった。

「大丈夫だよ」

 笠を取らないまま、一番小さな人影が声をかける。その男の子の声には聞き覚えがあった。

「あ、あなたはお稲荷様の」

「うん? 稲荷?」

 それを尋ねる女の人の声は、少しおもしろがっているようだった。

「ああ、ええっとねえ」

 男の子が人影に説明する間に、別の人影が綾女に話しかけてきた。

「昨日は大変だったね」

 男の子の父親だろうか。大人の男の声が優しく降ってきた。

「うちの里の衣のせいで、こんなことになってしまって申し訳なかったね。大変だろうけど、お父さんの分までしっかり生きないといけないよ」

 そう言って、蓑の内から筍の皮の包みを取り出した。開くと大きな握り飯が三つ並んでいる。

 悲しみと疲れで空腹のことなど頭にもなかったが、思えば昨日の朝から何も食べていない。一度思い出してしまうと、耐えられない程にお腹が空いた。

 ぐぐぐるぐるーーーー。

 男の人を見上げると、笑い声と共に「おたべ」という声が降ってきた。その隣では男の子がうんと頷く。

 一言礼を言うと、周りに人がいることも忘れてかぶりついた。こんな時にもかかわらず、少し塩味のもっちりとした握り飯は飲み込むのが惜しい程おいしかった。考えてみれば、麦の入っていない米だけの握り飯など、これまで食べたことがなかった。

 一息に二つを食べてしまうと、ようやく落ち着きを取り戻した。

 今度は綾女から聞きたいことを思い出した。

「あなた様はお稲荷様、なんですか」

 その問いに少し間が空く。

「物の怪、なんですか」

「そうだね」

 今度はすぐに返事があった。少し笑っているようだった。

「じゃあ」

 両手で父親の手を握って持ち上げる。暗い家の中では、もう、その手の色ははっきりとは分からなくなっていたが、それでも笑い声が消えたところを見ると、色のことは知っているようだった。

「おとうに何か呪いでもかけたのでしょうか。おとうが死んだのは呪いのせいなんでしょうか」

 怖い。物の怪相手にこんなことを聞いて、自分まで呪われるんじゃないか。そう思うと堪らないが、それでもどうしても聞かないといけない気がした。

 その人はうーんと少し考えていたが、やがて優しく諭すように話し始めた。

「儂らは物の怪だ。だから、人を怖がらせるようなこともできるし、呪いだってかける時もある」

 その口調は到底人を祟り殺せるような恐ろしいものではなかった。親が子をあやすようにゆっくり穏やかに言葉を紡いでいった。

「でもな、儂らがお前さんのお父上を殺そうと呪いをかけたことはないし、お父上の躰の色が変わったのは呪いや祟りのせいじゃない。世の中には信じられないことだってあるが、全てが呪いや日頃や前世の報いで起きている訳ではないよ」

 それだけは忘れないでおくれ。と綾女の頭を撫でた。

「それでさ」男の子少し言いにくそうに切り出した。

「これからどうするの」

「どうって」

 ここでできるだけ弔って、お墓なんて掘れないから河原まで運んで。

「一人で米作れるの」

「そ、それは」

 考えてもいなかったところを突かれ、思わず口ごもる。

 きっと刈り取りはできる。時間は掛かるけど脱穀だってできない訳じゃない。けれど、村の大人達の手を借りられない今、きっと来年の田植えは一人じゃできっこない。

「うちに来る?」

 思わぬ提案に綾女だけでなく、他の人影からも驚きの声が漏れた。

「来たらきっともう人には戻れないけど」

 物の怪の里で物の怪として生きる。綾女にはそれがどういうことか、想像できなかった。それを「生きている」といって良いかすらも分からない。

 それをしてあの世のおとうは無事でいられるのだろうか。もしかして、余計な罪を被って責め苦を受けたりはしないのだろうか。

「大丈夫だ」

 おにぎりをくれた大きな手がもう一度頭の上に乗せられた。

「今は余計なことは考えなくていい。困った時には物の怪達が助けに来る。それだけ覚えていなさい」

 だから、安心して生きなさい。

 その言葉は綾女に慈雨のように沁みた。

 殺された上に何か悪いことでもしていたかのように言われ、気付かない内に傷ついていた心が癒されて、改めて父親の死の悲しみだけのために泣いた。

 その間、物の怪を名乗る人々は何も言わず、ただ綾女と一緒に悲しみを分かち合っていた。

 外では彼らを村人達の目から守るかのように、夜の雨が音を立てて降り続き、風が不穏な音を立て始めていた。

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