ギャンブらぶ!

フルティング

少年少女よ、幸せを抱け

第1話 惨めな敗北

 稲葉愛莉(いなばあいり)は目の前で広がる光景に、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

「ほらほら、早くしないと無くなっちゃうよー!」

 学生の波が幾重にも押し寄せて、次々と販売棚にあるパンが減っていく。

 アンパン一つ三百円。メロンパン一つ五百円。チョココロネ一つ千円だ。

 味は近くで売っているコンビニと遜色のないごく普通のパンなのに、学生たちは何かに憑りつかれたように次々とパンを買っていった。

 対する愛莉の周りには誰もこなかった。

 勝負の内容は、いかにパンを多く売捌き、多くの利益を得ることができるかという、単純明快な勝負だったはずだ。

 しかし、愛莉側の販売棚に置いてあるパンは一つも売れていない。愛情を込めて作り上げたパンたちが泣いているようにみえた。

 一律百円、全て手作り、味はもちろん自信がある。

――なのに、なんで、みんな。

 愛莉の悲痛な思いとは裏腹に、愛莉の真向いで営業していたパン屋の青年は、鈍く染まった金髪をなびかせて意地汚く嗤った。

「チョココロネ完売だー! メロンパンも後十個! みんなー、早いもん勝ちだぞー!」

 青年の声に後押しされ、学生たちは俺が私がの押し合いへし合いで大盛況だ。

 愛莉はもうこの勝負に勝ち目がない事を悟った。

 誰にも負けることが無いと思っていたパン作りで、こんなにも圧倒的にやられてしまうとは思っていなかった為、震える拳を強く握りしめることで、なんとか感情の津波を抑え込んでいた。

「……おいしい、おいしいパンですよ!」

 唇を噛み、愛莉は眉間に熱い痺れがくるのをぐっと堪えた。

「私のパンは、世界一なんです。人を幸せな笑顔にできる自信があります! 試食だけでも、どうですか?」

 愛莉は溢れ出す感情を必死に押し止め、声を張り上げ学生たちに訴えかけた。

「サックサクのクロワッサンに、ふわっふわの食感がたまらないクリームパン。マフィンもあって、デザートにも最適です!」

 しかし、どれだけ声を出そうと、必死に思いを伝えようと、目の前の学生たちは愛莉のことを見向きもしなかった。

 これが、本当の勝負……。

 自分の見通しの甘さを思い知らされ、愛莉の視界に靄がかかった。

 風景が歪み、自分が本当に真っ直ぐ立っているのかどうかが分からなくなる。

 よろめいて販売棚に当たると、丸っとした小さなクリームパンが一つ転がった。

 愛莉はそのパンを見て、父親が自分の作ったパンを初めて褒めてくれた時のことを思い出した。

『おいしいよ、愛莉。愛莉のパンは世界一だなぁ』

「ぱぱ……」

 愛莉に優しかった父親は、もういない。ギャンブルの圧倒的な熱量に焼かれ、愛莉を残して死んでしまった。

「ぱぱ。私もう、ダメかも」

 ぐわんぐわんと鳴る絶望の鐘の音が、愛莉の頭の中で強く響く。

「ごめんね。ごめんね、ぱぱ……」

 熱を纏った大粒の雫が一滴、頬を伝って地に落ちた。

「――あの、すみません。大丈夫ですか?」

 うつむいた顔をあげると、見知らぬ青年が愛莉に声を掛けていた。

 身長は愛莉より少し高いぐらいで、男にしては低身長、髪は整っていて清潔感のある風体だ。

 まさかここにきて声を掛けられるとは思ってもいなかった愛莉は、瞳を丸くさせながらも涙を拭いて接客に応じた。

「い、いらっしゃいませ! お見苦しいところを見せてしまい、申し訳ありません。少し目にゴミが入ってしまいまして」

「そう、良かった。大分具合が悪そうだと思って、声を掛けたんだ」

「すみません、お客様に心配していただいて。もう大丈夫ですよ!」

 力こぶを作る仕草で元気なことをアピールする。

「はは、この調子じゃあ大丈夫そうだね。ボクの名前は黒石啓介(くろいしけいすけ)っていうんだ。よければ、君の名前を教えてもらえないかな?」

「っえ? 私、わたしは……稲葉愛莉っていいます、けど」

「愛莉ちゃんか、いい名前だ」

 頬を横に広げて、啓介は頷いた。

 愛莉は啓介の不気味な笑みに悪寒を感じた。

「ねぇ、愛莉ちゃん。今回の勝負、このままだと確実に愛莉ちゃんが負けちゃうね」

 啓介は向かいの学生の列を見て言った。

「うまいよねー。この学園のアイドルである、椎名望(しいなのぞみ)の握手券やらサイン色紙を付属品にして売り出すことで、生徒たちの購買意欲を飛躍的に上げた。また、愛莉ちゃんの店のパンを一切買わないことが絶対的な購入条件なんだから、これじゃあ愛莉ちゃんのパンは一つも売れないよねぇ」

「それは……」

「大体、愛莉ちゃんは勝負の世界に自分の力だけで勝てると思ってるんだから、その認識が大間違いなんだよね」

「……でも、私のパンは!」

「いやね、いくら愛莉ちゃんのパンがおいしかろうとさ、これは勝負なんだから。いくらでもやりようがあるんだよ」

 向かいの購買でパンを買った学生の集団がこちらにやってきた。

「あっ、とっとっと!」

 何もない空間に躓いた学生が、いきなり愛莉の販売棚に倒れこんでくる。

「ちょっと、お客様!」

 わざとらしくパンに覆いかぶさるように倒れた学生に、周囲の友人が肩を支えて立ち上がらせた。

「あーすみませーん。こいつ何もないところでこけちゃうぐらいトロいやつなんですよー。ほんとすみませーん。弁償とか言われるなら、一回先生を通してくださいねー。ほら、ちゃっちゃと行くぞ!」

 愛莉が何かを言う前に、学生たちは手早くその場から離れていく。

 後に残ったのは、つぶれてしまって中身がはみ出たパンだけだった。

 これを食べた人が元気に、笑顔になるようにと、必死に思いを込めて練り上げた、自信作のパンたちだ。

「あ、あぁ。ああああああ!」

 目の前が消え失せてしまうぐらいのホワイトノイズに、愛莉は声にもならない悲鳴をあげた。

 どうしてこんな酷いことができるのだろう。私は彼らに何かをしたわけじゃない。彼らの笑顔が見たいからやっていることなのに、どうして?

 止め度目もなく流れる涙がつぶれたパンを濡らし、確定した敗北の未来が絶望となってのしかかる。

 誰か、助けて。

 もう打つ手なしのこの状況をみて、啓介は乾いた笑い声をあげながら愛莉に詰め寄った。

「ねぇ。これがさ、ここから逆転できる術があるといったら、どうする?」

「っえ?」

「愛莉ちゃんにとって大切なパンがさぁ、あんなゴミみたいなやつらに台無しにされちゃって。見返したいだろう? 懲らしめてやりたいだろう?」

「それ、は……」

 当たり前だ。パパが褒めてくれた、世界一のパンをこんなに惨めな姿にしたあいつが、握手券なんていう卑劣な手段で勝利を得たあいつが、どうしようもなく憎い。

「ボクなら、彼らを懲らしめることができる。愛莉ちゃんはただ委ねるだけでいいんだ」

「どう、やって?」

 どす黒い感情が粘着性の液体となって愛莉の体にへばりつく。

 毛穴という毛穴から体内に侵入し、蹂躙し、負の感情が焔となって体の奥で燃え上がる。

「なぁに、簡単なことさ」

 啓介は愛莉が来ていたエプロンを無理やりに脱がし、咄嗟に暴れる愛莉の両腕を抑え込んだ。

「ちょっ! なに、するのよ!」

「ボクが、ここの商品全部言い値で買ってあげる。そうすれば、彼に勝つことなんて容易いだろう?」

 愛莉のボディラインをなぞるように視線を這わしてから、啓介はゆっくりと愛莉の頬を撫でる。

「ここで負けたら、君は一生この場所まで辿り着けない。人々にパンを作る事はおろか、人としての生活すら許されることはない。毎日ゴミ溜めを漁り、泥水を啜って生きていくことになるんだよ? それに比べたら、ボクの奴隷になる方が断然いいってもんさ」

 啓介の右手が愛莉の制服に触れた。これまで感じたことのない寒気が背筋を走る。

「何事も勝たなきゃ嘘だ。富も、名声も、権力も、友も、親も、恋も、全ては勝ち取って得るものなんだ。そうだろ? 愛莉ちゃん」

 愛莉は啓介を振り払おうと必死にもがいた。

 一方で、このまま啓介を引き離してしまっていいのだろうかと問う自分がいることに気が付いた。

 このまま負けてしまえば人として扱われることもない。

 おいしいパンを作れない。人々を笑顔にすることができない。

 なによりも、パパとの約束を守れない。

「ふふ……体の力が弱まったよ? ボクの奴隷になる覚悟が決まったかい?」

 愛莉は、今までの自分の人生を振り返った。

 優しい母親と父親は、ギャンブルが原因で死んでしまった。

 そして今、選択を誤れば私も死と同様の生活を送ることになる。

 両親を殺したギャンブルは嫌いだ。大っ嫌いだ。

 でも、闘わないといけない。死ぬほど大っ嫌いだけど、向き合って勝たなければいけない。

 それが、死んでしまった両親に対する、私が唯一できることだ。

「覚悟を決めたかい? ……それじゃあ、まずは自分からスカートを降ろしてもらおうか」

 下卑た笑いを浮かべる啓介に対して、愛莉は不敵に笑った。

「私をバカにすんな! 私のパンは、世界一おいしいんだ。お前みたいなゲス野郎に手を貸してもらわなくたって、私は勝つ!」

 腹の底から捻りだした大声に、啓介は驚愕して顔色を変えた。

 まるで、虫けらを見下すような、冷酷な目つき。

「そうか……だったら、死ね。無残に醜く死んでしまえ」

 啓介の本性が見えた気がして、愛莉は自分の選択が間違っていなかったと確信した。

 人は人を助けない。愛莉は心底そう思った。

「お前の思い通りにはいかない」

 しかし、心底そう思うからこそ、願うのだ。

「私のパンがおいしいと言ってくれる人がいる限り、私はパンを作り続ける!」

 本当に信頼できる人が現れることを。

 そしたら、毎日愛情込めたパンを作ってあげて、日々を笑顔で過ごすのだ。


――ねぇ、パパ。私にも、そんな人ができるのかな。

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