1-2 鮮卑族の慕容部たち

 この地は塞外の地であり、私のような漢人ではない胡族こぞくたちが六畜りくちく、馬・牛・羊・鶏・犬・豚といった家畜とともに移動して暮らす土地だ。


 昔ここは匈奴きょうどが支配したが、匈奴は漢の武帝に敗れ、塞内さいない、万里の長城の内側に移り住み強兵として名を馳せた。


 次に烏丸うがんが栄えたが、魏の武帝・曹操に敗れてやはり塞内に住むようになり、勇猛な騎兵として誉れ高かった。


 そうして匈奴と烏丸が去ったあとで強勢を誇ったのが鮮卑せんぴだ。鮮卑のなかでも慕容ぼようという部族は強く、支配領域が長城と接しているため漢人との交流が深い。また現在のところ、我々のしん王朝とは比較的友好関係にある。


 その慕容の大人たいじん、つまり酋長である慕容廆ぼようかいは、私の見聞録執筆のための取材に快く応じてくれた。彼らの王庭・棘城に招待してくれたばかりでなく、慕容の勇敢な戦士十名を護衛に派遣してくれた上、通訳兼道案内もつけてくれた。


 通訳と道案内をしてくれる史栄しえいは二十歳ほどの精悍な青年だ。色の黒い肌に高い鼻、深い眼窩、それに灰色の瞳と赤い髪を備えた彼は若いが優秀な商人だった。この地域で活動する商人たちは匈奴でも烏丸でも鮮卑でもなく、驚くべきことに、敦煌とんこうなど西域を拠点とする商胡たちと同族なのだという。

「旦那がた漢人は驚くかもしれませんが、俺たちにとっては特別なことでもなんでもありません」


 と道すがら彼は語った。


「陸はつながってますから」


 言われてみればその通りだ。それでもやはり、隊商を組み移動を常とする彼らと、城壁に囲まれ基本的に生まれた土地から離れることのない漢人である私とでは感覚がまるでちがう。


 私の感覚では、敦煌は西の果てであり、ここ昌黎は東の果ての向こう側だ。どちらも自分の生まれ故郷からはほど遠い場所であり、果てと果てとがつながっていると言われても、感覚として、なんとなく納得がいかない。


 しかしそういった感覚の乖離は鮮卑たちに対しても同じであり、その乖離を記録するために私はいる。


「あなたがた漢人を理解できません」


 と慕容の戦士たちを率いている慕容樹左車ぼようじゅさしゃは、簡潔に語った。正しくは、樹左車がしわがれた声で切れ切れに言った言葉を史栄はこう通訳した。「何もかもがちがいます。同じ人間の心を持っていても、その表し方が、すべて」。そう語ると、彼はもはや一切の言葉は不要とばかりに口を閉じた。


 樹左車は三十歳ごろの熟練の戦士で、鉄のように屈強な男だ。五人張りの強弓を引き、彼以外に手綱を握らせない荒馬を乗りこなす。慕容と名乗るのだから慕容の酋長である慕容廆と縁者なのだろうか。私は無意識に自分たち漢人の常識で彼らを測ってしまったが、すぐにその誤りに気付いてかぶりを振った。


 彼ら鮮卑は名字を持たない。必要とあれば「慕容」と名乗るが、これは我々漢人向けに名乗っているだけであり、彼らの間で名字は使われない。また慕容と名乗っている人々全員が家族親戚、血縁関係にあるというわけでもない。


 彼らが相手を同胞と見るか否か、つまり同じ「慕容」を名乗れるかどうかは、ひとえに「戦士」であるか否かにかかっている。つまり羊など家畜の放牧を手伝い、狼や他の部族の人間から家畜を守るために、あるいは部族や一族同士の戦いに参加できるかどうかで、仲間かそうでないかを見極めるのだ。


 だから匈奴や烏丸や、あるいは史栄のような商胡ですら、望めば、そして戦士たり得るならば、「鮮卑」にもなれるし「慕容」にもなれる。実際、そうやって慕容になった人々もいると史栄は語った。


「弱かったですからね」


 史栄は彼らが慕容になりたがった理由を一言で表した。


「弱くちゃ、土地を守れないですから」


 土地というのは牧草地のことだ。彼らの財産である家畜は個々の家々のものだが、牧草地は部族のものであり、家畜を放牧できるのはその牧草地を所有する部族の者だけだ。だから部族の戦力が弱くなり牧草地を守れなくなれば、より強い部族に合流し、新しい部族の名前を名乗るようになる。


 私たち漢人が耕すための大地を愛し、所有地に固執する方法とはかなり趣がちがうが、彼らもまた大地があるから生きていけるのであり、所有地に執着することに何ら変わりはないのだ。


 しかし、やはりこういった名字、ひいては「家」に対する執着の薄さは、頭ではわかっていても面食らうときがある。祖先に名高き人物がいれば、二十世代あとでも三十世代あとでも系図をきちんと作り、自分が今その人物から何代目かを言えるし、また誇りでもあるのが我々漢人だ。きっと一〇〇代あとでも二〇〇代あとでも、それは変わらないだろう。


 だが彼らが我々漢人とちがう理由も納得できる。生きている土地の環境がちがいすぎるのだ。


 鮮卑の文化は匈奴や烏丸と同じく、ただただ軍事的だ。馬に乗れるか、弓は引けるか、度胸はあるか、そして強いか。そういった事々が最重要になる程度には、この土地で生きることは厳しい。棘城までの道程で私はそのことを肌で感じた。まだ七月に入ったばかり、秋のはじめだというのに、地面をおおう草やたまに見かける木々は急速に赤茶けていく。乾ききって冷たい風は初秋のもとは思えず、ただ屋外にいるだけで体力を奪っていく。この地では夏は短く冬は長く、冬に備えるための秋は一瞬で、息をつく暇もないのだ。そして厳重に冬に備えなければ、死ぬ。この単純明快な過酷さのなかでは、家だの名字だの血筋だのに構ってはいられないだろう。


 家といえば、私は彼らと同じ移動できる天幕の家、いわゆる穹廬きゅうろのなかで毛皮をかぶって寝た。穹廬には史栄だけでなく樹左車などもいて、ともに夜を明かした。彼らは客人とか身分が上であるとか、あるいは親子であるとかといった理由で部屋を、穹廬は一部屋しかないので穹廬を、別にしたりはしない。漢人流にいえば上下の分を弁えないということであり、礼の欠けたありえないことだ。昔このことを野蛮だと指摘されたと史書に見えるが、私は仕方のないことだと思う。そういくつも穹廬を建てていると、素早く移動できない。恐らく理由はそれだけで、彼らにしてみればそれだけで充分なのだ。

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