焔少年の事件簿

ミカヅキ

第一章 猿の駅

プロローグ

 昔から人には見えないものが見えていた。

 彼にとっては、それが普通の世界だった。

 彼はまだ幼く、人は自分の理解の及ばないものを恐ろしく感じるものだと知らなかった。


 彼が、彼の見ている景色が『異常』だと知ったのは。

 母と呼ぶべきひとが、「今日から貴方の家になるのよ」とだけ言って。


 ――彼を孤児院に置き去りにした、ある雨の日だった。




 ピピピピ、と、耳障りな機械音が鳴り響く。覚醒しきらない頭は殆ど回らず、ただ習慣づけられた惰性でその音の主に手を伸ばした。べち、と叩いて、音を止めてやる。

 もぞりと布団の山が動き、中から覗いた艶やかな黒髪は、寝癖がついてあちらこちらに跳ねていた。彼の眠たげな黒い瞳は未だにどこか焦点が合わないまま、6時を示す時計をぼんやりと眺めている。


 ――烏間高校一年生、焔圭太。今年で16歳。

 二学期の始業式を控えた彼は、低血圧であった。



「新田ー」

「はーい」

「野坂ー」

「はぁい」

 教師の呼び掛けに従順に――というには間延びした返事ではあるが――生徒が答えていく。夏休みという間隔を開け再び戻ってきた代わり映えのない学校生活に、気だるそうに頬杖をつく者、久方振りに会う友人と小声で笑いあう者――人それぞれ、と言った具合で、始業式前のHRは進んでいく。

「焔ー」

 教師と生徒の応酬は、応えるべき生徒の返事が無いことで一時途絶えた。教師が出席簿から顔を上げ、教室を見渡す。

「焔は休みかー?」

 そう言って、教師が出席簿にバツ印を付けようとペンを握り直した時、後ろのドアがガラガラと音を立て、大して焦った風もなく、開いた。

「すみません遅れました」

 学ランを緩く着込んで、横分けにした前髪は癖なのかツンツンと跳ねている。後ろは肩につくかつかないかの長さを下ろし、その顔は整ってはいるが眠たげである――そんな風貌の少年は、己の名前を呼ばれたことは一応外から聞こえていたらしく、こてんと首を傾げて「セーフですか」と尋ねた。

「ギリギリアウトだ……と言いたいとこだがな、学期初めだしセーフにしてやろう。夏休みで弛むのはわかるが気を引き締めるように」

「はーい」

 間延びした返事を返して、焔は己の席に向かう。窓際の一番後ろという学生の人気席、その椅子を引いて悠々と座った。

 背凭れに体重を乗せ、教室を一望する。

 ああ、と、焔は表情を変えずに密かに肩を落とした。

 ――夏休み前と比べて、人口密度が増している。

 気だるそうに頬杖をつく者。小声で近くの友人と話に花を咲かせる者。気だるげを通り越して机に突っ伏して寝ている者。本を読んでいる者。何やら書き物をしている者。

 そして、教室の天井付近でふよふよと浮かぶ、人間『だった』者。

 クラス全員が登録されたグループSNSに、夏休みが終わる数日前、「肝試しをしよう」という提案があったことは知っている。確か、焔自身を除けばクラスの殆どの人間が参加していたはずだった。大方、そこで連れてきたのだろう。

 心做しか痛む頭を抑えながら、焔は一人ため息をついた。とりあえず幽霊と目を合わせることは避けようと、下を見る。こんなに人が多い場所で、『使う』わけにもいかない。

「(……人外や怪奇じゃなく、幽霊ならまだ、襲われる可能性は低い……か?)」

 微妙に自信はない。己が、『そういうもの』に狙われる類の存在だという自覚はこれまでの人生経験上持たざるを得なかった。

 点呼を終わらせた教師が、生徒に廊下に出るよう呼び掛ける。ざわめきながら教室を出ていく生徒達に倣い、焔も立ち上がって扉の方向へ歩いていく。


 ――せめて始業式が終わるまで、何事も無く終わってくれ。というか仕事しろ裁判者。


 不本意ながら馴染みとなってしまった、不気味な仮面を携えた黒の集団を思いながら、哀れな焔少年は、もう一度深くため息をついた。

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