不死者(ノスフェラトウ)に愛の手を!

赤丸そふと

第一章  ファフルーキーズ

第001話  轢死体験



 青々と広がる高い空。

 燦々と輝く大きな赤色と衛星のような小さな緑色の二つの太陽。


 ごつごつとした岩が転がる、礫砂漠に一人の男が歩いていた。


「腹……減った……」


 男が虚空に向かって呟く。


 まだ若い背の高い青年だ。

 整っていると言って良い、掘りの深い顔立ち。

 ウェーブがかった長めの黒髪と、吊り上った眉。少し垂れ目がちの大きな瞳は、今は疲れ切ったように据わっている。

 擦り切れ汚れたベージュ色の膝丈ズボンと、青色のシャツを羽織った男は恨みがましそうに太陽を一瞥すると、大きな溜息を漏らす。


 男は太陽から逃げる様に岩の影へと入って行く。

 二つの太陽の光は、乾いた大地に濃い色の影を落としていた。


「こういう岩陰に蜥蜴とかいねえのかよ……」


 岩の下を覗きこむように男は身を屈める。

 背丈を超えるような大岩の下には小さな岩がいくつも積み上がっている。

 童心に返っている訳では無い。男はかなり切羽詰まっていた。


 男は飢えていた。

 この何も無い砂漠のど真ん中で、自殺行為にも等しい軽装からも分かる通り、男は何も持ってはおらず、飢餓と乾きで選択肢などもう無かった。

 

「何かいてくれよぉ……」


 男は祈るように独り言を呟きながら、小さな岩をどけはじめる。

 まるで穴を掘る犬のように小さな岩を後ろに放り、大岩の下を掘り進める。

 砂漠で水を求めるかのように、一心に、必死な形相で。


「っんだよ! くそっ! なんもいやしねえっ!」


 灼熱の太陽の位置が数度傾いた頃。

 いくら岩の下をさらっても獲物の影すら見えない事に苛立った様子で男が岩を蹴飛ばす。

 途端影が男を濃く隠す。

 大岩の下を掘れば傾くのも道理。

 身の丈を優に超える岩がぐらりと動き―――


「え゛?」


 間の抜けた断末魔が誰にも知られないまま消えていった。 

 グチャリと何かが潰れた嫌な音が荒野に響く。

 間をおいて岩と大地の隙間から赤黒い液体が広がる。

 乾いた大地に突如溢れだした血の池。

 その光景が男の命の終わりを告げていた―――――筈だった。


 赤黒い液体に赤い粒子が湧いた。


「くそっ……痛ぇ……」


 ガラガラと音を立てて崩れ落ちた岩の中に、男が蹲っていた。

 その体には傷一つ見当たらない。

 暫くうずくまっていた男は何事も無かったかのように立ち上がると、崩れた岩を蹴飛ばし再び歩き始める。


「なんかねえのかよぉぉぉ……」


 舌をだらしなく伸ばし、ふらふらと彷徨い歩くその姿は、さながらゾンビのようであった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「さみーよぉ……腹減ったよぅ……ってかマジありえなくない?」


 満点の星空と青い月が照らす暗闇の中、寒さに震えながら富士 九郎は独り呟く。

 最後に物を口にしたのはいつだったか。

 指折り数えてその虚しさに嘆息する。


 人の営みなど全く感じられない暗闇にポツンと取り残された心細さ。

 食べ物どころか飲み水さえ満足に取れないひもじさ。

 そして何より、異世界に飛ばされたと言う非現実さが九郎の心を苛んでいた。


「焼き鳥……ちゃんと食っときゃ良かった……」


 安い全国チェーンの居酒屋の、冷えた焼き鳥が今は恋しい。

 飽食の時代に生まれ、飢えた経験など無い。

 飢えがこんなにも人の心を荒ませるとは考えてもいなかった。


 夜空を見上げ、星だけは綺麗だと感じながらも、九郎は溢さずにはいられなかった。


「なんでこんな事になっちまったんだろうなぁ……」


 その呟きも誰に聞かれる事無く、煌めく星空に消えていった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「あれれ~? フジキュー帰んの~?」

「もう電車ねえべ?」


「うっせ! 明日バイトあんの忘れてたんだよっ!」


 大学合格を機に上京し憧れの一人暮らし。S欄とはいかずともF欄とも言われないであろうそこそこの大学に合格し、サークルに飲み会にと順風満帆な毎日。2か月前には可愛い彼女もでき、九郎は大学生活を謳歌していた。

 今日はサークルの仲間たちと渋谷での飲み会だった。入学当初には飲みなれない酒に不覚を晒したりもしたが、最近は飲みすぎることも無くほろ酔い気分を継続させる飲み方も覚えてきた。足腰が立たなくなる前にと仲間の抗議をかわしつつ中座した九郎は、少しふらつく足取りで店を出る。


「歩きでも帰れるか……」


 独り言のように呟き九郎は携帯の地図アプリを起動させる。

 時刻は夜中の3時過ぎ。始発にはまだ時間がありそうだし、タクシーは大学生の自分には少し高い。手の中の画面に表示されたルートを確認しつつ九郎は人が疎らな道玄坂を歩き出す。


 夏の残暑が残る9月の夜は生暖かい風を運んでいたが、居酒屋の冷えすぎた空気に晒していた体には心地良い。


(大学生になって一番うれしいのは夏休みが長い事だよなぁ)


 外の空気に触れ、幾分酔いが醒めるのを感じながら九郎は思った。

 環状線の高架下は人通りは無く、大型のトラックやタクシーが昼間とは違うスピードで通り過ぎていく。

 九郎は携帯の画面を見つつ道を確認しようと交差点の対面に目をやり、


「…………え?」


 と一言声を漏らした。


 頭が真っ白になるとはこのような事だろうか……。

 急激に冷めていく酔った頭の中で九郎は目の前を見つめていた。

 夜間、人通りの少ない交差点に一際ひときわ目を引くネオンのビル。そこから出てきた男女に九郎は眼は釘着けだった。正確には男の腕に腕をからめる女の方に。


「美樹?」


 呆けたようにつぶやいた九郎の言葉は対面の交差点の男女に聞こえるはずもなく流れていく。


(なんだ!? 浮気!? なんで!? どうして!? いつからだ!?)


 新しく出来たばかりの九郎の彼女は、今日は家族で食事だと言っていた。

 飲み会に誘った時には可愛く弾んだ笑顔で、久しぶりの家族団らんだと喜んでいたではないか。

 それがどうして、こんな真夜中ピンクのネオンが煌めくお城から出てくるのか、分かっていても理解したくない。


「はははははは……。今時のレストランは洒落てるなぁ……。まるでラブホテルのようだぜ……」


 しかし現在進行形で流れている映像は、決して自分の妄想でも酔いの幻でも無い。

 青天の霹靂ともいうべき事態に、九郎の口から乾いた笑いが込み上がる。


「うまく行ってると思ってたんだがなぁ……」


 九郎は交差点の先を見つめながらため息を吐いた。

 付き合いだしたばかりの彼女ミキは、まだこちらには気付いていないようで、男の腕に腕を絡めながら楽しそうに話しをしている。


(まあ、こんな現場を見ちまったら、流石にどうしょうもねえか……)


 ショックは大きく、見たくは無かった光景。

 ただ知ってしまった以上見過ごすわけにも行かない。

 九郎は信号が変わると同時に早足で歩きだした。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「美樹!!!」


 歩き出した男女が交差点の高架下辺りにさしかかった瞬間、すれ違いざまに九郎は声をかけた。


 女は、いや、美樹は最初ビクッとした表情で振り返りながら九郎を見た。

 目を見開き、バッと男の腕を放す。そして何か言いたげに口を開きかけ何も言わずに口を閉じる。


(まあ……ゴメンって言われて、その後……いや、どーすんの? 勢いで呼び止めたけど、これ俺もなんか気まずくね?)


 勢い任せに呼び止めて見たものの、その後のプランを九郎も全く考えていなかった。

 関係はもうお終いだと理解しているが、いざ浮気現場に立ってみるとどうにも居心地が悪く狼狽えてしまう。


 美樹は九郎を見詰めながら何か考えているようだった。横の男は事態が飲み込めずにぽかんとしている。

 九郎よりも大分年上の男性。彼女を寝取られたことへの怒りが、九郎の中にふつふつと湧いてくるが、それよりも彼女を繋ぎとめられなかった自分の情けなさに、九郎は消沈していた。

 つい先程目にした、彼女ミキの楽しそうな顔が、起こる気持ちを萎えさせる。


 男二人が沈黙する中、美樹は数秒動きを止めると、大声を上げて腕を突き出した。


「変質者っっっっ!!!!!」

「………へ?」


 美樹は九郎を突き飛ばし、男の腕を掴んで走り出していた。

 呆然としながら横断歩道にぺたんと尻餅をついた九郎だけが一人残される。


(っははっっ。成程……そう来たか……。もう俺との関係は諦めて横の男との関係を保守キープしようとしたんか……! 女はコエ~なぁ……)


 一瞬何が起こったのか分からなかった九郎は、彼女の取った行動を整理し呆れていた。

 そのとっさの判断には恐れ入る。と涙目で考えながら九郎は起き上がろうと道路に手をつく。やけに眩しい道に。


「九郎っっっ!!!!!」


 振られたばかりの元彼女の悲鳴のような叫び声。

 九郎がふと横を見ると、眩しいほど真っ白な光が金属のこすり合わせる激しい音と共に迫っていた。

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