第2話

 昼休みになると、教室内には一気に弛緩した空気が流れる。四時間連続の授業の後の一時間もの休憩だ。各々差はあれど、肩を解したり立ち上がって友人の元へ向かったり購買へ走ったり、昼休みを謳歌しようと俄かに騒ぎ出す。

 常ならば僕もその中の一人となっていたのだが、残念なことに今日はそうならずにいる。

 今朝、朝礼の前に白雪桜からお呼びが掛かった。しかもクラスメイトの殆ど全員が見ている前で。

 授業の合間の短い休憩の時に嫌でも聞こえてくる声を潜めた話し声は、その殆どが今朝の出来事についてだった。なにせあの『白雪姫』のゴシップの予感がするのだから。呼ばれた側の僕としては、そんな予感は微塵もしないのだが。

 仮に相手が白雪で無いのなら、僕も健全な男子高校生なりにちょっとドキドキしたり、もしかして告白されるのかもとか期待したりするかもしれないけれど。


 弁当を食べ終わり席を立つと、教室内の人間が一斉にこちらを向く。見事なチームワークのようで。このクラスはどうやらみんな仲良しなようで安心だ。


「それじゃあ、ちょっと行ってくるよ」

「おう。精々死なないように頑張れよ」


 一緒に昼食を摂っていた三枝に一言断りを入れ、あまり心地がいいとは言えない視線を背に受けながらも教室を出る。


 僕の通う蘆屋高校には三つの校舎がある。職員室に生徒会室、各クラスの教室にその他諸々が配置されている五階建ての第一校舎。食堂や特別教室などが存在する三階建ての第二校舎。各部室と体育館で構成される二階建ての第三校舎。

 図書室は第二校舎の一階、食堂の隣にポツリと佇んでいる。昼休みになればその隣の食堂は人が大量に出入りするし、図書室の近くの扉から外に出れば自動販売機も置いてある。だから第二校舎のこの廊下は多くの生徒が歩いているのだが。

 そんな外の様子とは打って変わって、図書室内は閑散としたものだった。防音性に優れているのか、廊下からは一切音が聞こえてこない。勿論一般常識の範疇として、こう言った場所では静かにしているものだから、数少ない利用生徒は一言も喋らずに本と向き合っている。


 そんな静謐な空間の中で、白雪は長い睫毛を伏せて、憂いを帯びた顔をして文庫本を読んでいた。

 教室と同じく窓際の一角を陣取り、開いた窓から吹く風が髪を靡かせる。それに気を取られることもなく、彼女はひたすらに活字を追っている。果たして読んでいるのはどのような本なのか。高尚な哲学本か。はたまた低俗なラブコメか。高度な推理小説か。そのどれであってもこの美しさが損なわれることはないのだろう。

 まるで絵画のような光景に、不覚にも魅入ってしまった。

 芸術品のようだと揶揄した親友の言葉が脳裏によぎる。全くもってその通りだ。今なら諸手を上げて賛同できる。ついでに国宝だと言う言葉にも、信憑性が出て来てしまった。


「いつまでそこで私の事を視姦しているつもり? 図書委員の権限で追い出そうかしら」


 こちらに一瞥もくれることなく、彼女の罵倒が耳に響く。芸術品からただの人間へと戻ったようだ。

 果たして図書委員の権限とやらがそのような効力を持つのかは些か以上に疑問の余地があるが、本当に追い出されでもしたら敵わないので、彼女の対面の椅子に腰を下ろした。


「呼び出したのは君の方だろう。それで、今日は何を読んでるんだ?」

「異世界転生チートハーレム無双モノ」

「······」


 どうやら、前言撤回しなくてはならないらしい。どこが芸術品だ。美しさのかけらも持ち合わせてはいなかった。

 そもそも、どうしてそんなライトノベルを読みながら、あんな表情を浮かべることが出来るのか。僕には全く理解出来ない。


「なによ、その顔は」

「いや、なんでもない」


 どうやらよっぽど間抜けな顔を晒していたらしい。ついに文庫本から顔を上げた白雪から、訝しげな声と視線を頂戴してしまった。

 趣味は人それぞれだし、この世の誰にも人の趣味嗜好を悪し様に言う権利など持ち得ない。勿論一般常識の範疇で、だが。人殺しが趣味です、なんて言おうものなら即座に警察の厄介になるのだし。

 だから白雪がライトノベル好きのガチガチのオタクであることについて、何かを言う権利は僕にもないし、そもそも言うつもりもない。


「それより夏目。あなた、ここに来る途中誰かに尾けられたりしなかった?」

「君もこの付近の廊下の人通りは知ってるだろう? 仮に僕が誰かに尾けられていると感じたのなら、それは単なる自意識過剰のイタいやつだ」

「あなたがイタいやつなんてのは今更よ」

「僕のどこが」

「話し方が胡散臭い」

「酷い言い草だ」

「事実じゃない」


 そんなつもりで話しているわけではないのだが、まあ、こと会話においては相手によって受け取り方も異なる。日本語の妙だ。白雪がそう言った受け取り方をしていると言うのであれば、彼女の中ではそうなのだろう。


「あなた、確か文芸部だったわよね」

「そうだけど?」

「文芸部名義で借りてる本、期限が昨日までなんだけど」


 どうやら、僕を呼び出した本題はそっちのようだ。借りたのは神楽坂先輩だろう。先々週にどこからか持ってきた大量の本を部室の長机に積み上げていたから。


「それ、わざわざここに呼び出してまで言うことか?」

「ええ」

「またなんで」

「あなたは知らなくてもいいこと。余計な詮索は辞めなさい。モテないわよ?」

「余計なお世話だ」


 現在残酷な罰ゲームを言い渡されている僕にとっては割と死活問題な気もするけど。そしてその相手にそんな言葉を投げかけられると言うのも、なんだか遣る瀬無い気持ちになってしまう。


「それで、要件はもう終わりか? だったら僕は教室に帰らせて貰いたいんだけど」

「ええ。あなた程度に用事なんてもうないわ。さっさと出て行きなさい」


 一々傷つくような言い方をするやつだが、僕のメンタルはダイヤモンド並みに硬いので傷つくことはない。多分引っかかれたりするのには弱いけど。あれ、ダイヤモンドって引っ掻き傷に強いんだっけ? どっちだったっけな。


「ああ、最後に一つだけ」

「ん?」


 立ち去ろうとした僕を呼び止めるように、静かな図書室内に白雪の声が響く。それを咎めるものは誰もいない。さして大きい声でもないので、この程度では誰も文句は言わないのだろう。文句を言うほど人がいないとも言える。

 果たして振り返った先の彼女は、とても綺麗な笑顔を浮かべていた。目を細めて口元で弧を描くその表情は、どこか儚げにも見える。


「次の定期考査、期待してるわ」


 その笑顔を直視してしまったせいだろうか。頬にほんのりと熱が集まるのを自覚した。こんなものをそこらの男になり見せたら、そりゃモテるのも当たり前だな、と関係のない思考が過ぎる。

 再び出口の方を向いて、赤くなった顔を悟られないようにしてから口を開く。


「君の期待に応えられないように頑張るよ」

「それは残念ね。本気を出したあなたを叩き潰して地べたに這いつくばらせてあげようと思っていたのに」


 このドSめ。僕が本気で勉強してテストに挑んだ結果をもう忘れたのか。


「本気で勉強なんて、もうそんなことをするつもりはないよ。頑張って努力しても、それが報われなかったら何の意味もないだろう?」


 努力したその過程が大事だと大人は言うけれど。結果が伴わないのならばそれはなんの慰めにもならない。僕はそれを知っている。少なくとも、今会話している彼女よりは。

 なにも努力している人間をバカにしているわけではない。何かに向かって一心不乱に頑張るその姿はきっと美しい。ただ、僕自身にその強さがもうないだけの話で。


「······そう」


 僕の言葉に何か感じるところでもあったのか、小さく相槌を打った白雪の声は低いものだった。

 なんだか変な雰囲気になって来たので、それを払拭させるためにも、努めて明るい声で話を続けた。


「そんなことより、君はもう少しテスト以外の学校生活を楽しんだらどうだ? 6月には文化祭だってあるんだし」

「無理ね」

「即答かよ」

「文化祭なんてのはクラスのリア充どもに任せてりゃいいのよ。あんなのに積極的に参加するのは、エネルギーの無駄遣いだわ」

「典型的な根暗オタクの考え方じゃないか······」

「そんなことはどうでもいいから、あなたはさっさと教室に帰りなさい。と言うか帰れ」

「はいはい、言われなくても」


 扉に向かって歩きながらも一応手を振るだけ振って、図書室を出る。

 廊下の賑わいは図書室に入る前と変わらず。歩いていると、運動場からも生徒たちの声が聞こえて来た。どうやら野球部が昼練をしているらしい。ティーバッティングの音が聞こえてくる。それにどこか懐かしさを感じながらも、足早に教室へ戻っていった。

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