一章

 6月初旬、午前7時を過ぎたのに、まるで冬のように暗かった。

 城岡美名しろおかみなはマンションの自室の窓から空を見上げて、軽くため息を吐いた。窓の外は、まるで水を限界まで吸い込んだ灰色のスポンジのような雨雲で覆われている。

 姿見の鏡の前に立ち、ブラウスの襟のすぐ下で学校指定の紺色の棒タイを結んだ。

 覚悟を決めるかのように思い切って自室から出ると、リビングは台所の灯りしかついておらず、空間全体が暗褐色に染まっている。

 ドアが開いた気配を察してか、父の城岡唯介しろおかゆいすけが台所で料理をする手を止めて振り返り、

「おはようございます」と破顔して美名に言った。

「おはようございます」と美名は返事をした。

「お母さん、今日も夜勤みたいだから。たぶん、あと1時間くらいしたら帰ってくると思うけど」

 青色の二人掛けのソファを隔てて、テレビの小さな音が聞こえてくる。テレビの画面には、男女のアナウンサーが横に並んでニュースを伝える姿が映っている。

 唯介は朝に見るテレビ番組はこだわりがないらしく、日によってチャンネルを変える。前に一度、遠慮がちにそのことを指摘したことがあるのだが、「どの番組も似たようなこと言ってるだけだし、時報替わり点けてるだけだから」と言っていた。

 ”去年十月、都内のアパートで女性の遺体が発見された事件で、警視庁は女性の勤務先の元上司だった52歳の男を逮捕しました”

 薄いピンク色のスーツを着た女性アナウンサーが機械的に原稿を読んだ。

 美名は首を右に向けた。人ひとりが通るのがやっとの、マンションの細い廊下には、右手側に兄の部屋である六畳の和室、左手側には母の部屋の洋室の扉がはす向かいに並んでいて、洋室のとなりは風呂とトレイと洗面台になっている。

 玄関の靴脱ぎ場の手前には、自治体指定の半透明の黄色いゴミ袋がふたつ無造作に置いてあった。

「あれ、今日出すゴミ?」美名は引き続き台所で料理をしている唯介にたずねた。

「あ、うん。そうだよ」唯介はちらと顔をこちらに向けて言った。

「じゃ、わたし出してくるね」

「ありがとう、お願い」

 美名は廊下を通りゴミ袋をまたいで、マンションのネコの額ほどしかない狭い靴脱ぎ場に立ち、靴下を履いたままの足でサンダルを履いて、ゴミ袋を手に持って表に出た。


 外に出ると、しめった空気がまるで美名を待ち構えていたかのように、じっとりと皮膚に貼り付いてきた。真向かいの、コンクリに亀裂の入った古い雑居ビルの屋上で、黒いカラスが魚の骨のようなアンテナにしがみつき、何かを訴えるかのように鳴き声をあげている。

 美名の一家が住んでいるのは305号室で、マンションのエレベーターからは一番遠いところにある。

 303号室は去年までは70代の老夫婦が住んでいたが、どういう経緯か知るすべもないが、多田という40代の独身男性が一人で住んでいる。

 302号室は吉田という名字の30代半ばの夫婦がふたりで住んでいる。

 301号室も吉田家と同じにように夫婦がふたりだけで住んでいるのだが、親子以上に歳が離れた夫婦。

 吉田家は美名の一家と同じく、このマンションが新築分譲された最初から、ここに住み続けている。そのため、かつては家族ぐるみの付き合いがあった。

 吉田夫婦には、聖羅せいらという名前の、美名と同い年の子供がいた。美名と聖羅は、同じマンションのふたつ隣ということで朝は一緒に学校に登校し、放課後は毎日どちらかの部屋に行って遊ぶほど仲が良かったのだが、小学校一年の夏休みのある日、不幸な交通事故で聖羅は亡くなった。

 以来、最愛の一人娘を失った吉田夫婦は、まるでマッチ棒のように痩せ細り、たまに見せる愛想笑いを除いては、常に疲労に満ちたような顔をしている。マンションの共有部分で会えば挨拶はするものの、何と声を掛けていいものかわからず、近所付き合いは少なくなっていた。

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