歌ふ事。
その瞬間、世界が止まったような気がしたんだ。
街灯もじめっとした風も息を潜めたように思った。
夜風に歌う秋虫のように、湖面に光る蛍のように。
この世界の森羅万象すべてをこの身に感じる。
そんな気がしたんだ。
「えーと、末松さん?何をされてるんですか?」
洗面所で膝を付きながら両手を広げ顔を上に向けてこの世界の森羅万象すべてを感じていた俺の世界はその声で一気に動き出した。
俺は夜風に歌う秋虫でもなければ湖面を光る蛍でもなかった。
困った顔をした彼女の顔が目に写る。
俺は、俺は何をしてるんだろう。
この体になり誰にも認知されなくなって唯一自分の存在を認めてくれた人を裏切ってしまった。
彼女は俺を軽蔑するだろう。
彼女は親切心から助けたのにその人物から裏切られるのだ。
それも仕方ないだろう。
自分にここまでしてくれた人は誰もいなかった。
だからこそ知らなかったんだ。
本当に大事な人を裏切った時の罪悪感を。
大事なものが自分の手の中から零れ落ちていく感覚を。
「それはなんかの儀式なんですか?私はお腹が空いたのでご飯食べちゃいますね!」
そう言うと彼女は落ちていたTシャツを洗濯カゴに投げ入れキッチンへと消えていった。
あゝ消えたい。
死んでいるがもう一度死ねるなら死にたい。
あゝ神よ。どうして俺にこんな苦難をあた・・・
ん?え?あれ?
これだけ?軽蔑されないの?
寧ろほとんど気にされてない感じ?
ん?まって!童貞の俺にはわかんないよ!!
「あれ?儀式は終わったんですか?」
俺が部屋に戻るとそう言いながら彼女は夜ご飯に買ってきたであろうコロッケを頬張っていた。
「末松さんって、号泣したり儀式したり表現豊かで面白いですね」
儀式をしていたとしてもなんの儀式か言い訳も思いつかない俺はただただニッコリすることしか出来なかった。
「ま、まぁ!儀式は成功です!そ、そんなことより熊井さんの所要は無事完遂できましたか?!」
平然を装っていたがたぶんめっちゃキョドっていたと思う。
「ええ、まぁ。事務所で簡単なオーディションだったんです。
アーティストが歌う前の仮歌の。次は誰が歌うかって、そこで認められて才能あるなってなればデビューにも手が届くんですけどね。
たぶんだめだと思います。
おかしいですよね!歌が歌いたくて東京に来たのにやってるのは手伝いばっかり。
さらには歌の手伝いは出来てもいない。
私ってなんの為にここにいるんだろって」
彼女の悲しそうな表情が痛い。
今までなんの努力もしてこなかった俺には掛ける言葉も見当たらない。
自分のやりたいこと、したいことが目の前にあるのに出来ない。
そんな経験が今までなかった俺だったが彼女の表情で想像はつく。
「俺、熊井さんの歌聞いてみたいです」
彼女の考えていること、思い、情熱。
それを知りたいと思った。
勝手にこの言葉が口から出ていた。
「私は自分の歌がだめだーって話をしたのに聞いたみたいって末松さんはほんとに変な人ですね!
聞いてがっかりしないでくださいね!」
彼女はそう言うとアコースティックギターを取り出してきた。
使い込まれたようなくすみが見て取れる。
これも彼女の情熱の欠片なのかもしれない。
「オリジナルです。なんかこう改まると恥ずかしいですね」
そう言うと彼女はゆっくりとギターを弾き始めた。
バラードのようなゆっくりとしたテンポ。
指が弦を滑る音。
そんな音が部屋を包み込む中彼女はゆっくりと歌い始めた。
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