嫁入り

「痛」


 もう何度目だろう、枯れ枝に足を取られてバランスを崩し、転ぶ。そのたびに少しだけ大きな声を上げる私に珠樹が呆れたような溜息を漏らしている。


「少し、静かにしろよ。逃げているって、自覚あるか?」


 ありますよ……。多分、珠樹よりもずっとね。だって、見つかったら龍神様の供物になるの、私だからね。心の中でブツブツと呟きながら、折れかけている枯れ枝を掴もうと伸ばした手は、暖かい手に取られた。強く引いてくれる大きな暖かい手に、安心する。


 不謹慎ながら、力強い足音に居心地の良さを覚えていれば、そんな空気を切り裂くように後ろから人の気配を感じた。

 たくさんの人の気配。近くないのに、はっきりと感じる。言葉として認識できないような小さな声が聞こえる。言葉としては聞き取れないのに、なぜか言葉の意味が、悪意が伝わる。


 何、これ……。


「珠樹。人が……」


 強すぎる悪意に怯えて動けなくなった私に、珠樹が不思議そうな顔をして首をかしげている。珠樹には、聞こえないんだ。


「こっち」


 私しかわからないなら、守らなくちゃ。少しでも、悪意から遠くに。優しく暖かい手を引き、暗闇を進む。耳に刺さる冷たく強い風の音と一緒に聞こえてきたのは、村長の叫び声。

 聞こえるはずのない距離なのに、はっきりと聞こえた声は尋常ではない。

 痛みに、悲しみに叫んでいる。


「村長!珠樹、村長が危ない。戻ろう!」


 来た道を戻ろうとした私を、珠樹が引き戻す。


「先に、進め」


 訴えかける私の背中を押して先を急ぐ。暗闇なのに、見えないはずの珠樹が痛みを堪えているのがわかる。


「珠樹?村長が……」


「……お前が戻っても、どうにもならない。父様トトサマは、わかっていて、残った」


 知っているんだ。それなのに、珠樹は戻らない。


 小さい頃、泣きじゃくる私を抱き上げてくれた村長。我が子と変わらず愛してくれた奥様。私、今、裏切っている。そんなこと、わかっていた。村長と奥様を置いて、供物が逃げるってことがどういうことか。追いつめられた人たちに、今までと同じような村長への尊敬なんて、期待できないってことぐらい、本当はわかっていた。それでも、逃げた。自分が助かりたくて、逃げた。今も、死にたくない。逃げたい。村長の声なんて、気のせいって思いたい。でも、この想いを抱えてこのまま逃げても、私きっと、生きられない。

 ごめんね、珠樹。姉様。助けようとしてくれたのに。


「珠樹、ごめん。珠樹は、このまま逃げて。姉様を、助けてあげて」


 珠樹の手を払って、走り出した。暗闇なのに、ハッキリと見える。枯れ枝、木の根、そして、村長の家までの最短距離。さっきまで、私の邪魔をするかのように行く手をふさいでいた枯れ枝は、今は私を追う珠樹の邪魔をしている。そう、珠樹は、来なくていい。戻るのは、私だけ。


 村長の家が、見えた。十年暮らした見慣れた家。この村では珍しく、高い生垣に囲まれている。生垣は、ところどころ壊され、中からは罵声が響いている。それに混じった、奥様の泣き声。ああ、やっぱり。壊れた生垣をまたいで庭に入った私の目に飛び込んできたのは、農具を持った村の男達に囲まれ顔を腫らしうずくまる村長と、庇うように村長を抱きしめる奥様。その後ろには、先に行ったはずの姉様が泣きじゃくる美羽を抱いて座り込んでいる。周りには、村の男達。姉様から美羽をなんとか取り上げようとしている。婿様は、村人に腕を取られて地に膝をつきながらも、必死で美羽を守ろうとしていた。


 私の胸に、稲妻が落ちた。


「雪花?何故、戻った……」


 私の顔を見た村長が、苦しそうに呟く。小さな小さな声なのに、私の耳には、正確に届く。


「アンタ達、何しているの?村長に、何しているのよ!」


 私の叫び声は、細くて高くて、村の男達の声にはとうてい勝てないけど、それでも精一杯怒鳴って見せる。許せない。これまで、村長にどれだけのことをしてもらったのか、皆忘れたって言うの?


「何が、村長だ。龍神様への供物を逃がしたのだ。俺達を裏切って、飢え死にさせようとしたのだ!」


 怒鳴った男は、山菜取りがうまくて、明るくて、畑仕事の合間に良く遊んでくれた。その横で松明を持って鬼のような形相をしている男は、狩りがうまく、月に一度は犬を連れて山に入って猪やら鹿やらを取ってきていた。「命をもらったのだから」と言って、肉も毛皮も、骨までうまく加工してすべてに感謝して食べることを教えてくれた。そう広くはない村。今、村長を囲んでいる男達は、皆知っている。


 気のいい、話のわかる村人だった。どうして……。


 そんなに、龍神様への供物が、大事なの?供物を必要とするような神様、きっと助けてなんかくれないよ。声にならない声が、涙になって頬を伝う。


 飢えへの恐怖は、何よりも勝る。そんなこと、本当は、知っている。 


「雪花」


 後ろから、腕を引かれる。珠樹だ。追って来てくれた。でも、ここに来たら、珠樹も、村長みたいに……。危ないのに、喜んじゃいけないのに、心の底から嬉しいと思う私は最低だ。

 珠樹が私を庇うように前にでる。手には、納屋にしまいこんでいるはずの木刀を持っているけど、勝てるわけ、ない。何より、誰かを傷つけて平気でいられる人じゃないんだから。


「珠樹、いいよ。大丈夫」


 何を言っているんだ、と言いたげな顔の珠樹を押しのけて、前に出る。殺気立つ男達。ああ、やっぱり怖い。足が震える。声も、出るかな……。でも、ここで、怯えたら、珠樹も、村長も、奥様も、殺されちゃう。震える身体をなだめるために、深く夜の空気を吸い込んだ。こんなに悪意があふれているのに夜の空気は澄んでいて、この山がまだ生きていることを感じる。  

    

 覚悟は、決まった。


「私は、逃げたりしていない。龍神様の妻になる身として、身体を清めていただけです。私を、龍神様の妻にと思うなら、私への無礼は龍神様への無礼。今すぐ、出て行ってください」


「美羽も、龍神様への、供物だ」


 供物……。皆、美羽が産まれたとき、あんなに一緒に喜んだじゃない。一緒に桜の木を、植えたでしょう。それなのに、供物って、どうして……。


「永くにわたり、村を守った龍神様が幼子を供物にほしがると思いますか?龍神様は、お一人でお寂しいのです。私が、妻としてお側に行きます。幼子など不要。必ず、私が龍神様の怒りを鎮めます。だから、今はお帰り下さい」


 暗闇の中、松明の明りが揺れている。殺気立っていた男達が、少しずつ落ち着きを取り戻していくのを感じる。もう、少しだ。もう一度、静かに夜の闇を吸い込んだ。


「明日の夕刻、陽が沈む時間に私は龍神様の元に嫁ぎます。龍神様に願い、春を呼んでいただきます。だから、どうか幼子を供物にするのは、今少しお待ちください」


 夕刻、陽が沈む時間には、龍神様が村を守るために飛びまわると言われている。その時、私は龍神様の妻になろう。皆の気持ちが、少しでも救われるように。


「今少し、とはどの程度だ?」


「十日。十日で春の兆を呼びます」


 幼子を供物とするまでに、一月は待ってくれないだろう。でも十日なら。十日あれば、なんとか姉様は逃げられる。


「村長を離して。お帰り下さい」


 皆、少しずつ冷静さを取り戻したのか、気まずそうに村長を離し、一歩ずつ離れて行った。 


「明日の夕刻、だな。お前が逃げれば、この家の者は、全員供物だ」


 そう言ったのは、昨年息子が産まれた男。昨年産まれた子を、龍神様に差し出す。男の妻は、それを了承しているのだろうか。婿様と姉様のように、息子を連れて逃げようとは思わなかったのだろうか。

 我が子を供物にして、生き延びる事が幸せなのだろうか。


「逃げません。龍神様の妻、名誉なことですから」


 女の覚悟を、なめるな。にっこりと笑って見せた、つもりだった。舌打ちをしながら、庭を出て行く男達の後ろ姿に石でも投げつけてやりたい気分だったけど、そんなことしても仕方ない。まずは、村長の手当をしなきゃ。


 酒で傷口を綺麗に洗い、薬草で傷口を抑える。よく怪我をする珠樹のおかげで、他の娘よりも傷の手当には慣れている。ひどい怪我も見慣れている、はずだったのに。

 村長の額も耳もザックリと裂け、肋骨は何本もおられている。婿様は背も腕も足も、何度も殴られたのだろうと一目でわかるぐらいに黒く変色している。


 どうして、ここまでできるの?


 手が震えてうまく治療を手伝えない私を見かねて、村長は、もう下がれと言ってくれた。治療が終わるまで、お茶でも入れていろ、と。

 湯を沸かそうと土間に下りて行けば、箱に敷かれた土から、やっとで芽を出した芋があった。ああ、暗いけど、寒いけど、ちゃんと生きている。まだ、この村は死んでなんかいない。だから、今はちょっと皆気が立っているけど、少ししたらまた元の優しい村に戻る。大丈夫、大丈夫。そう胸の中で繰り返すと、涙が出てきた。


 私は、もう元の優しい村を見られないだろう。


 珠樹の側に居られなくなるのが、悲しい。いつか、私じゃない女性が珠樹の隣に並ぶと思うと、悔しい。決めたのに、珠樹には生きてもらうって決めたのに。女々しい自分が、抑えきれない。

 声を殺して、息を止めて、涙を堪える。


釜戸の火は、とうに切れている。お茶を入れるために、釜戸に火をいれようとして、水瓶みずがめがこわれていることに気がついた。夕方は、何ともなかったのに。さっき、村の人が壊していったのかな。


「ったく。明日から、どこに水ためるんだよ、なぁ?」

 

 いつの間に来たのか、珠樹が後ろに立っていた。いつから、居た?もしかして、私が泣いていたの、見ていた?オロオロとする私に、もう一度、なぁ?と尋ねる。いや、明日からの話しをされても。おそらくしょんぼりとしただろう私の頭をなでて、鉄瓶を持って外に出て行った。井戸から直接鉄瓶に入れるのか。珠樹が戻る前に釜戸に火を入れて、二人並んで湯が沸くのを待った。


「お前、なんで戻った?」


 珠樹の怒ったような声。空気が少し、ひんやりとした。


「村長と奥様の声が、聞こえたの。十年、お世話になったのにこんな形で裏切れない。美羽を、龍神様の供物になんてできない」


「……父様も母様も、俺達が逃げること、知っていた。知っていて、残ったんだ。姉様だって。別々に逃げたのは、一緒に捕まることを避けるため、だ」


「……」


 わかっているよ。それでも、嫌だったんだから仕方ないでしょう? 拾ってもらって、たくさん愛してもらって、たくさん慈しんでもらって、どうやって返していいのかわからないぐらい恩があるのに……。


「大丈夫。ちゃんと龍神様の怒りは鎮めるから!珠樹も村長も奥様も、この村で飢えることなんて、無い。豊かな村にもどったら、また皆で笑って暮らせる」


 火を見ながら、精一杯、笑って見せる。重い沈黙が続く。珠樹の声、聞きたい。もう、聞けなくなっちゃうかもしれないから、少しでも、聞きたい。その願いはかなうことなく、鉄瓶の中の水はぐらぐらと暴れ出した。お茶、いれなきゃ。もう治療終わったかな。6人分のお茶をお盆に入れて部屋に戻ると、治療を終えた村長と奥様が待っていた。ああ、空気が重い。


「なぜ、戻ってきた?」


 村長、珠樹と同じことを聞くのね。さすが親子。クスリ、と笑うと村長の表情はさらに固く、重くなる。ああ、そんなに怒らないで。最後の夜なんだから笑ってほしい。村長の気持ちに、涙が出そう。


「親は、子を守るもの。逃げてくれて良かったのよ」


 きっと、奥様は本気で『子』と言ってくれている。奥様も、村長も。ありがとう。そんな人達だから、戻ってきたの。


「それなら、叔母である私は、姪である美羽を守るのが道理です。私が、必ず龍神様の怒りを鎮めて見せます。大丈夫、今年も村の畑は豊作だから」


 精一杯の笑顔を見せるが、空気は重たいまま。どうしたらいいんだろう。


「龍神様なんて、居るわけない」


 珠樹の悔しそうな声が響く。ちょっと、それを言ったら、私の覚悟はどうなるのさ……。

 困った顔を見せると、ふっと顔をそらされた。


「龍神様は、いるよ。だって、この龍庭はずっと守られていたじゃない。周和国に面しているのに、戦にもならず、水は豊かで、夏は充分すぎるくらいの陽の光がある。こんな恵まれた村は、清華国の中でもこの村だけ……。今はちょっと龍神様の機嫌が悪いみたいだから、私が側で機嫌を直してもらうようにする。だから珠樹、この村を守る龍神様を、居ないなんて言っちゃ、ダメだよ」


 ね?と問いかけるが、珠樹から返事は帰ってこない。そのまま、お茶が冷えて行くのを黙って見ている。


 朝、だ。いつもと同じ、曇天の空。まだ雪の残る山から下りてくる風が冷たく肌を刺す。水を汲もうと庭にでると、昨日の襲撃の跡が生々しく残っていた。これが、村の人達の焦りであり、絶望であり、怒り。初めて、人の心を本気で怖いと思った。


 今日の夕刻、私は龍神様の妻になる。

天下一の恐妻家になってやるんだから。この龍庭の皆が、金輪際困ることのないように。笑い声と涙が同時に出てきた。


「お前、器用なことするな」


 頭の上から呆れたような珠樹の声が降ってくる。昨日はすごく離れた場所に居る人達の気配を感じることもできたのに、どうして珠樹の気配はわからないのだろう。一番、知りたい気配なんだけどなぁ。


「器用でしょ? こんなこと出来る人、そうはいないわ。だから、しっかり覚えていてよね」


 本当に、覚えていて。お嫁さんをもらっても、子供が出来ても、孫が出来ても、覚えていてね。ああ、また涙が出てきそう。歯を食いしばって息を止めて、根性で涙を止める。よし、止まった。顔を上げようとすると、珠樹の手がそれをさせてくれなかった。髪をグシャグシャにして、一言。


「泣け!」


 ……嫌です。

 無理やり顔を上げれば目の前にある珠樹の顔は、私よりもずっと泣きだしそう。ああ、ごめん。


「珠樹、私がお嫁に行くの、寂しいんだぁ。珠樹こそ、泣いてもいいよ」


 思いっきり軽口を叩いてやれば、平手が飛んできた。

 音を立てて私の頬に向かった大きな手は、頬にぶつかる直前で止まった。なぜ、止めた…。痛い思いしたら、少しすっきりしたかもしれないのに。恨めしげに顔をあげると、赤くなった目がある。ああ、ごめん。なんか、色んなところが痛い。


 時の流れは残酷で、太陽も青い空も見えなかったのにあっという間に夕刻。ああ、最後ぐらいスッキリとした青い空が見たかったよぉ。

 

 神楽を舞うときの、巫女様の衣装を身にまとい、龍神様を祭る山の中腹にある神社へと向かう。籠、と言えば聞こえはいいが、実際は手足を縛られ身動きが取れない状態で放り込まれている。だから、覚悟は決まっているんだからこんなことしなくっても逃げないって。揺れる籠の中で身動きとれなくって、身体中が痛い……。


「着いたぞ、降りろ」


 降りろ、と言われても自分で動けないんですけど。情けない声を上げれば、昨日私に舌打ちをした男が、ゆったりとした動きでおろしてくれた。自分の足で立つと少しクラクラする。で、この先は……。


「そこから、嫁入りだ」


 男の指した先は、川。

 はい。行きますよ。でも、その前に。


「この先、村長達に手をだしたら、許さないから。龍神様の所から脱走して、呪って、祟ってやるんだからね」


「ああ、お前が龍神様を鎮められれば、な」


「……」


 いるのなら、鎮めてやりますよ、もちろん。龍神様が私じゃ嫌だって言っても、どこかの神様に頼み込んで、この村に春を呼んできます。だから、お願い。

 最後になるであろう深呼吸をして、川に飛び込んだ。冷たい水が肌に刺さる。巫女様の衣装は水を含むと重くなり、私の身体はどんどん水の中に沈んでいった。川の底に沈んでいくのを感じながら、私は心の中で、龍神様、龍神様、と繰り返した。

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