彼岸の奇跡

河原セイ

第1話 ケンカ、そして出会い

 目の前で何が起きているか、私にさえ分からなかった。

 目に映るのは見開かれた姉の瞳。はじかれた華奢な姉の左手。


「────もう、私に関わらないでよ!」


 そして───振り切った私の右手だけだった。




  ***




 それからどうしたのか覚えていない。

 確か家から飛び出して、ひたすらに走り続けていたような気がする。人混みを駆け抜けながら、空気を切り裂くように足を前に出し続けた。


 足が鉛のように重くなって自然と動きは止まっていた。気がつくと胸を押さえながら肩で息をしていた。

 自分のやったことが信じられなくて、姉の顔が脳裏にこびり付いて。壁に手を付きながら、頬から滴り落ちる汗を拭う。


「───はあ……」


 口から漏れ出たのは荒れた呼気か、それとも溜め息なのか判別が付かない。でも自分の出した息で気が沈んでいくのだけは分かった。


 初めてだったんだ。お姉ちゃんにそんな反抗的な態度をしたのは。声を荒げたのは。手を、振り払ったのは。


 発端は些細なこと。いつか爆発するかもとは思っていた。長年積み重なった鬱憤というか、いやもっと微細な思いの重なり合いからか。でも、まさかそんな小さなことがきっかけになるとは思っていなかった。


 だから自分は逃げ出していた。自分のやったことが信じられなくて。まるで自分を否定するかのようだった。


「……何やってんだろ、私」


 その独り言は誰に言ったわけでもない。誰の耳に届くこともなく、虚空に消えていった。ただ一人、私の中だけに反響していた。


 長く息を吐きだして心臓を落ち着かせる。少しづつ落ち着いていく心拍を感じながら辺りを見回した。

 どうやら私は駅近くまで走っていたようだ。多くの人が賑わいを見せる中に、私は一人ぽつんと高架下の壁沿いに立っていた。


 その頃になってようやく自分の現状が把握できてきた。決して近くない距離を全速力で走っていた私は、おかげで髪の毛もスカートの裾も乱れ折れていた。真夏の太陽は容赦なく熱を私へと飛ばしており、額や背中など全身から汗がにじみ出てくる。


 まあ、つまりを言ってしまえば、とても卑しい姿というわけだ。

 手早く髪や衣服の乱れを直して、最低限の身なりを整える。そこまでしてようやく一息がつけた。


 ───これからどうしようか。


 今、お姉ちゃんと会える勇気はない。何を言えばいいのか、何をすればいいのかわからない。どんな顔で会えばいいのか、見当も付かない。

 倦怠感に包まれた体を静かに動かした。宛があるわけでもないが、ここにとどまっていても仕方がない。ほぼ無意識に歩きだした。



「───えぐっ…ひっ、ひっ……」



 そんな私にその声は鮮明に耳に届いてきた。

 途切れ途切れの空気を切るような声。か弱くて今にも消えてしまいそうな音。

 振り向いたそこには───うずくまって泣いている、小さな女の子がいた。




  ***




 見たところ幼稚園児くらいだろうか。淡いピンク色に彩られたワンピースをまとい、膝を抱えて駅前から少し外れた角地で小さくなっていた。膝や肘は薄く赤味を帯びていて、幼さが見える肌色をしている。持ち物は肩から掛けたショルダーバックくらいしかなさそうだ。


 母親とでもはぐれたのだろうか、物悲しそうに泣き続けている。周りには母親や家族と見える人も、また気に掛ける人もいなかった。まるで彼女を見えているのは私だけのような、そんな錯覚さえ感じてしまう。


 誰もいない世界で、一人。彼女は今何を思っているのだろうか、何を感じているんだろうか。


 ───ほっとけない。そんな柄にもない感覚を抱いてしまった。でも私は生憎子供と話したことも、困っている人に話しかけたこともない。そんな陽キャみたいなことは私の専門外だ。


 私は道化師のように路上で慌てふためていた。あの子を助けてくれる適任そうな誰かを目で探して、それでも彼女から目が離せなくて。誰かが助けに入ってくれる、そう信じて。


 でも時間が経っても誰一人彼女に話しかけなかった。それは私も、だった。


 私は唇を噛みしめて拳を握った。自身を鼓舞して意志を固める。彼女との距離は縮まっていき、眼前に少女の姿が映った。

 一心不乱に泣き続ける彼女は、私が近くに来たことにさえ気が付いてないようだった。


 腰をかがめて出来るだけ優しく声を出した。


「……えーと?どうしたの?」


 すると彼女は一度大きく肩を震わしてから、恐る恐るといった様子で顔を上げてきた。泣き腫らした目蓋と半開きになった口。それだけで彼女が不安に潰れていることが分かった。


「どうしたの?お母さんとはぐれちゃった?」


「う、うっ…ううぅぅ……」


 でもその応答は返ってこなかった。言葉にならない涙声しか聞き取れなかった。


 こ、こういう時はどうすればいいの!?出会ったことのない局面に正直混乱しかない。泣いている子供だなんて……!


「ほ、ほら!泣かなくていいよ!?ね?」


 そう言っても彼女は聞く耳がないように嗚咽を上げつづける。再び顔を膝に埋めてしまって、自分の世界に閉じ込もってしまったようだった。


 ああぁああぁぁぁぁっ!!??私の頭の中はオーバーヒート寸前だった。彼女が泣けば泣くほど私も泣きたくなってきた。

 こういう時こういう時こういう時───!?



 ───だいじょうぶ!お姉ちゃんにまかして!



 ふと、お姉ちゃんの顔が浮かんだ。


 あれはいつのことだったのだろうか。かなり昔のことだ。

 幼稚園でお母さんと離れ離れになったのが寂しくて、幼稚園の遊び場の端で一人で泣いていた時があった。友達もいなくて先生とも仲良くなれなくて。早く家に帰りたい、それだけ思って泣いていた。


 そんな時、お姉ちゃんが来てくれた。


 そっと頭を撫でてくれた。泣いている私をあやしてくれた。

 お姉ちゃんは軽快に笑うと私の手を引っ張って幼稚園の群れに突っ込んでいった。そしてお姉ちゃんは皆と遊んだ。私も混ぜて遊んでくれた。


 その日から私に友達が出来た。だから幼稚園が寂しくなくなったんだ。お姉ちゃんのおかげで、お姉ちゃんがあの時来てくれたおかげで。



「───だ、大丈夫……?」


 そう言って彼女の頭に手を載せた。

 かなりぎこちのない仕草だと思う。人の頭だなんて撫でたことがないから許して欲しい。


 すると次第に彼女は顔を上げて赤くなった目で私を見てきた。呼吸はまだ荒れているけど、涙は止まったようだった。

 そうして何度か瞬きを繰り返した。


「大丈夫…?お母さんとはぐれたの?」


「う、うん……。あの、今さっきまで、いたんだけど……。いつのまにか……」


 また彼女の目が潤いを帯び始める。私は焦りながらも撫で続けてあげる。


「うん、うん。えーと、それじゃあ……」


 どうすればいいのどうすれば!?警察に連れて行く?でもそうしたら不安がるだろうし。じゃあここで待っておく?でもこの子の家族が見つけてくれる確証もないし。じゃあ私が連れて行って家族を探す?でもそれで見つかるとは───。


 そんな私の思考の渦を断ち切るように、どんどん彼女の顔が歪んでいく。あああぁぁあぁっぁっぁああ!!!?


 だから私は──思いっきり抱き寄せてやった。こんな時の対処法なんてわからないから!ならやるだけやってやる!


 そうして彼女の背中をさすった。彼女の体は抱きつくと私にすっぽり隠れるほど小さくて、そんな体が小さく震えていることにも気が付いた。

 呼吸音が落ち着いてきたのを確認して、体を離した。そして彼女の目を見つめて───。



「───お、お姉ちゃんに任せて!?」



 何とも情けない言葉だったと思う。最後は少し上擦って、笑顔も引きつったような笑いだったんじゃないかと思う。それでも精一杯、お姉ちゃんみたいに笑ってみた。


 でも───彼女は笑ってくれた。頭上に広がる晴天のように、明るく笑ってくれた。



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