第12話 唇が柔らかい人


 翌朝目を覚ました石原の第一声は『なんで俺ハダカなの?』だった。

「知るか。勝手に脱いでたぞ」

「風邪引くだろ、なんか着せろ」

「はぁ?気付いたときにタオルケットかけたが」

 それは今は足元で丸まっていた。

「っていうか、なんで俺がそんな母親みたいなことせねばならんのだ」

「ってか、なんで佐々木居るの」

 俺はため息をついた。

「お前がフラれた、寂しいってタクシーで泣いて俺を引き留めた」

「マジか」



「…ごめん」

 二人で、近所のバーガーショップへ行った。石原のおごりで朝飯を食うことになったのだ。

「俺、そんなことお前に言ったの」

「うん。二股って。相手の男は大学のトモダチとか言ってた」

「そこまで言った?…俺、酔ったらやべぇな」

 何をいまさら。

「あのさ、これまでも佐々木に酔っぱらって送ってもらったじゃんか、そん時、なんか言っちゃまずいこと言ってない?」

「…うーん…まずいことは言ってないと思うが」

 正直、何がまずいことか分からないし、石原の本当にまずいところは発言では無く行動だ。

「お前は自分が服を脱いだことも覚えてないんだろう」

「…うん」

「今まで、トラブルになったことはないのか」

「え?今まで?どんな?」

 どんなって言われても…。

「た、例えば…持ち帰ってしまったりとか…」

「女子お持ち帰り?そういうのは無いなあ」

 男は?と訊きたかったが、とても訊けなかった。昨日の夜を想像させるようなことは言えない。


 河川敷の見えるカウンターで、俺は大きめの鳥が川にやってきたのをぼんやりと見ていた。

「ここ、いいな」

「え?この店?」

「…うん」


 石原は男だから好きになるもんじゃない。

 石原は記憶が無いから好きにしていいもんじゃない。

 今隣に座っている石原は、俺の友だちだ。

 昨日の夜の石原は、つまりは知らない人も同然だ。

 夜の石原よ、さらば。

 コーヒーを飲む石原を、横目で見た。

 朝日に白い肌が輝いていた。職場ではあまり思わないのだが、綺麗な顔だと思った。

「佐々木…」

 石原も、外の景色を見ていた。見ながら言った『佐々木』は昨夜の『ささき』とは違うものだ。

「ん?どうした」

「ありがと」

 あの柔らかい唇が動いて俺に礼を言った。

「俺、確かに最近あいつと会ってなかったけど、やっぱショックでかくて」

 ああ…彼女のことね。

「これまでも色々あったけど…でもやっぱ本当に終わっちゃって、今めっちゃしんどい」

 そっか。

「何年もすげぇ好きで」

 …そっか。

「高校の時から頑張ってて」

 あ。

 石原の、その綺麗な頬に涙が転がった。


 昨日、あのままで終わって良かった。

 本当に良かった。

「お前がさ、朝部屋にいて、すげぇ助かった」

 …うん。

「今一人無理だし」

「うん」

 いつもより小さく見える石原に、俺は一つアドバイスをした。

「あのさ、今日、お前実家帰れ」

「え?」

「近くまで一緒にいってやるから」

「遠いしヤダ」

「明日も迎えにいってやるから、泊まって来い」

「…フラれて実家帰るとか、馬鹿じゃん」

「そういう馬鹿なことをちゃんとやっとけ」

 今日の夜はさすがに俺も付き合えないし、男女関わらず今こいつが妙な奴と過ごすことになったら怖い。

「電車で三時間くらいでいけるか」

「帰るなら車で帰る」

「今日は危ないからやめとけ」

 そう言ったら、石原がちょっと笑った。

「お前って冷静だな」

「他人事だから」

「冷てぇヤツ」

「俺は冷たいんだよ」

 俺は、冷たいんだよ。ものすごく。



 そんなことがあってから、石原は『結婚も絶対にしないし、人と付き合ったりもしない、もう俺は欲望を金で解決する』と言い出した。

 まあそれはそれでアリなんじゃないの、と返したら『冷たい』と言われた。

 酔った石原の守りは、いろんな意味で注意が必要だったが、さほど苦にはならなかった。あの日の夜の苦しさを思えば、大抵のことは平気だった。

 酔った石原のエスカレートはその疲れや悲しみに比例していて、とにかく唇に執着があり、納得いくまでキスをすれば眠る。

 この六年間で、俺と石原は何度も唇を重ねた。

 それを俺だけが覚えていて、石原は全く覚えていない。

 石原が動かなくなったら、そっと部屋に転がして帰る。そうやって適当にあしらうのにも慣れてしまった。



 傷付いて、もう誰とも付き合わないと言っている石原に、新しい出会いがあればいいのになとは思っていたのだ。

 石原が夢中になるような女とか、ちょっと強引で石原に迫って落とすような女とか、まあ、どちらでもいいんだけど。

 まさか石原に誘われてコロリと落ちた男、それもかなりひ弱そうな年下の男が、健気に迫るという展開は考えていなかったな。

 それでも、後藤が真剣なら任せたい。

 石原は有り得ない、といった様子で否定しているが、ここ数年で最も真面目に石原を好きになった後藤に、俺は期待しているのだ。石原が、後藤の片付けた部屋を気に入ったのも良い徴候だと思う。

 後藤はハッキリ言って本当にひ弱だし、石原にも俺にも絶対に体力で勝てないのだが、気が強いことはだんだん分かってきている。六年先輩の俺に暴言を吐き、やんわり断ったであろう石原に、何度も食らい付くガッツがある。

 問題は、俺が後藤から目が離せなくなってしまったことだ。

 後藤を本気で応援しているのに、もし二人が付き合うようなことになったら、妙な気分になる気がしている。

 寂しさ?

 とにかく、今のこの感情を、俺は『後藤への興味』としておくことにした。後藤も『研究者的なアレ』と言っていたから。

 それでしばらく過ごすことにする。

 後藤のことを好きになったわけじゃないということにしておく。


 六年前の俺とは違う判断をして突き進む後藤の行く末が、気になるだけなんだ。

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