Ω:RAVEN/オメガレイブン【完結済み】

零井あだむ

EPISODE:0 プロローグ


 ――いったい、どうしてこんなことになってしまったのだろう。


 真っ黒な夜空から雨粒が降り注ぐ、高層ビルの隙間と隙間。繁華街の表通りから外れた暗い裏路地。都会の迷宮の奥深くへと誘われるかのように、少女は走っていた。


 どうして、なぜ、なんで。頭の中に立て続けに浮かぶ疑問は解決を待たず、そのまま戦慄へと変わっていく。


 心臓がばくばく鳴っている。

 喉から心臓が飛び出そうで、口の中で唾液が粘ついている。


 足が棒のように疲れ切っているのに、止まることすら許されない。


 殺される、殺される、殺される。


 私はいったい、


 いつもの帰り道のはずだった。何も変わらない放課後。学校が終わって、友達と買い物をしていたらちょっとばかり遅い時間になってしまっただけなのに。


 何も変わらない一日のはず、だったのに。


「うわっ!」


 水溜まりに足を取られ、勢い良く転んでしまう。すぐさま立ち上がろうとしたがその直後、足首に鋭い痛みが走った。強烈な痛みに、夢を見ているのではないのだと嫌でも自覚させられてしまう。


 高校の制服はもはや泥水まみれの状態で、自分の力で立ち上がることすら出来ない。絶望感に駆られた少女は、思わず目を見開いて、


 迫り来る怪物の姿を、真っ向から直視した。


「――っあ」


 この街を恐怖のどん底に陥れている、連続無差別猟奇殺人事件。


 野生動物に捕食されたかのように損壊された死体だけが証拠として残る殺人事件。

その影に必ず見え隠れする怪物の影が、インターネット上でまことしやかに囁かれていた。未確認生物UMAだとか、遺伝子改造された生物兵器だとか、あるいは宇宙人に作られた侵略生命体だとか。その正体は日夜ネットの海で物議を醸し、ついにはSNSや動画サイトに怪物と事件の関連性を示す証拠映像までもがアップロードされ始め、たわいもないはずの噂話は次第に現実性を帯びていった。


 事件が起きる度、猟奇殺人と怪物の関連性は、その都度裏付けられていった。

 それでも、少女は噂話などひとつも信じてはいなかった。所詮は昼休みや放課後を賑やかす与太話に過ぎない。友達と面白がるネタのひとつとして、いずれどこかに過ぎ去っていく噂話に決まっている――そう思っていた。


 なのに、目の前で牙を剥くこいつは、一体何なのだろう?


「……あ、あああ」 


 悲鳴を上げようとしても、声が声にならなかった。


 怪物のしわがれた呻き声が、生暖かい初夏の空気を震わせる。


 ヒトの面影を有しながらも、その姿は人間と似ても似つかない。

 褐色の肌は潤いの欠片も無く乾燥し、爬虫類にも似た無機質な質感は人間のそれとはまるで違う。頬まで裂けた口蓋部にずらりと並んだ歯は牙と比喩するに相応しい鋭さを持ち、おまけに体表の全てを硬質な鱗が所狭しと覆いつくしていた。それでも二本の手を持ち、直立した二足で歩く所だけがどこか人間じみていて。


 それでもこれは、この怪物は、人間を喰っていた。


 少女は見てしまった。ほんの数十分ほど前の話。友達と歩いている途中、ふと横目で覗き見た路地裏。エアコンの室外機や生ごみで溢れたポリバケツが立ち並ぶその最奥で、人間を貪り喰らうを目にしてしまった。


「ねえ、どうしたの?」


 そう不思議がる同級生の声も聞こえないほどに、唖然としていた。


 錯覚とは思えないほどのおぞましさだった。地面に四つん這いになりながら、ヒトに似た「なにか」が人間を食らっていた。白濁した両目を虚空に向け、既に事切れた人間の死体を啄んでいる「そいつ」はゴミ捨て場で残飯を漁るカラスのように、下腹部から引き摺り出したはらわたを無我夢中で啜っていた。


 少女の視線に気が付いたかのように、そいつは素早く振り向いた。

 見てしまった。


 爛々とした眼光と目が合ったその刹那、恐怖の絶頂は一瞬にして訪れた。


 少女は腹の底から悲鳴を上げて、その場から逃げ出していた。


 こんな感覚生まれて初めてだった。まるで心の内側まで覗かれたような気持ち悪さが急激込み上げ、脳の奥深く、本能的な部分から「逃げろ」と命令されているような気がした。だから走った。生存本能が命ずるままに、息が切れるまでひた走った。


 しかし捕食者は、見つけた獲物を最後まで逃がさない。

 地面にへたり込んだ少女を見下ろす、身長二メートル超えの怪人。

 姿無き都市伝説が、現実と化した瞬間だった。


 噂話がSNSやインターネット上で拡散していくにつれて、誰が名付けたか、いつしか怪物はこう呼ばれるようになった。


 ――レイブン。


 闇夜に現れし怪人。

 ヒト型の異形。人間社会に垣間見える都市伝説の怪物。


 この怪物は、ヒトを喰っていた。

 誰にも見つからず、狡猾に気配を殺して、人間社会の裏側でこの怪物はヒトを食らい続けた。街を恐怖に陥れた連続猟奇殺人事件の犯人が、次の獲物はお前だと、理性を持ち得ない鳴き声で甲高くせせら嗤う。怪物は――レイブンはその異形のあぎとを大きく開き、手負いの獲物を前に昂った声を上げた。


 上顎と下顎の間に、粘り気にある唾液がねっとりと糸を引く。口腔内から漂う腐臭が、都会の生温かさと合わさって、思わず吐き気を催した。鳥肌が立つほどに凄まじい嫌悪感を覚え、少女は反射的に怪物から顔を背けた。


 本能が、自分の中の根源的な部分が、この怪物を拒絶している。


 全身が小刻みに震えていた。暗い空から降り注ぐ冷たい雨が、恐怖に駆られた少女を無慈悲にも追い詰めていく。


 せめて恐怖から逃れたかった。自分の人生が、こんなおぞましい怪物に喰われて終わってしまうだなんて、思いたくなかった。


 誰か、助けて――誰にも届かない声を胸に殺して、ぎゅっと目を瞑った。


 絶望の瞬間。

 が、いつまでも最期の時は訪れなかった。

 代わりに聞こえたのは、怪物の絶叫だった。

 

 驚いて、瞼を開いた。

 何が起きたかは、良く分からなかった。

 

 ただ、目の前にて放たれたのは刃の一閃。

 天空から舞い降りし影が、怪物の右腕を切断した。


 「――え」

 

 正直、理解出来なかった。

 今しがた自分を喰い殺そうとしていた怪物が、切断された右腕を抑えて悶え苦しんでいる。苦痛混じりの咆哮が、雨夜の空間を震わせた。

 

 ――そして、もう一体。

 

 

 右腕を肘から切断され、怪人は大声をあげて激昂する。その目の前に立ち塞がるもう一体の怪人が、前傾姿勢から緩やかに、上半身を起こした。


 その全身は、真っ黒な鎧で覆われていた。


 蛍光灯の蒼白い光に反射した表皮は鴉羽の如き黒に輝き、雨露に艶めいて濡れていた。昆虫や甲殻類のそれに似た有機的な特徴、加えて幾重にも甲殻が織重なった隙間に見え隠れする灰褐色の肉体が、前傾姿勢のシルエットを生物的に印象付ける。


 体躯の程は成人男性の身長と同じくらいか、あるいはそれ以上か。少女を襲った怪物とは明らかに違う姿、しかしヒトに似たカタチながら、確実に人間とは違う異形ということだけは共通している。


 ――レイブン、なのだろうか。


 西洋騎士の兜に似た頭部から覗く、琥珀色の眼光が睨みつけた。

 右手に生やしたブレード状の甲殻から滴る赤黒い体液は、それこそが怪物に傷を与えた得物であることを示していた。強固な体組織すらも一刀両断する漆黒の刃が、蛍光灯の人工的な光に反射して煌めきを放つ。


 暗闇そのものが騎士の輪郭を形取ったかのように、確かに黒き怪人は、少女を守護するかたちで、自らが敵対するものの前に立ち塞がった。


 レイブン対、レイブン。異形と異形が向かい合う路地裏に、不規則な雨音だけがまばらに響いていた。奪われた獲物を再び喰らおうと細い目で睨みつけるのは蜥蜴姿のレイブン。しかし現れた漆黒の騎士は、その場にへたり込んでいる少女を護るかのような姿勢で、傍に立っていた。


 獣じみた振る舞いの中に、どこか感じる理性の片鱗。

 先に動いたのは、蜥蜴姿のレイブンだった。


 しかし再び右腕のブレードが閃きを放った刹那、黒きレイブンの刃が、既に蜥蜴姿のレイブンの右胸を貫通していた。心臓を狙った一撃。予備動作すらも見えない神速の踏み込みが、正確無比に急所を穿つ。口元から僅かな断末魔を漏らし、蜥蜴姿の怪物は、アスファルト上の濁った水溜まりに倒れ伏した。


 再び、都会の夜に沈黙が訪れた。

 雨粒がコンクリートに跳ねる音に加えて、黒きレイブンの呼吸音が聞こえる。

 自らが仕留めた怪物の姿を見下ろし、降りしきる雨の中、黒き怪人は何も言わず、その場に立ち尽くしていた。


 戦いは終わった。残るは黒き怪物の姿のみ。


 正体は分からない。自分を護ってくれたのか、それともただ敵対する相手を殺しただけなのか――あるいは、次の獲物は自分なのか。黒きレイブンは、騎士の兜に似た頭部から覗く黄金の瞳で少女を一瞥した。


 ――ごくり、と生唾を飲み下した。


 黒きレイブンは少女に一切手は出さず、最後まで沈黙を保ったまま、彼女の目の前から消え去った。動作を目で追いきれないほどのスピードと驚異的な跳躍力で、ビルの非常階段から屋上を伝い、そして都会の闇の狭間へと消えていった。


 恐怖と緊張から解き放たれた瞬間に、どっと疲労が押し寄せた。雨で濡れたコンクリートの壁を背に、少女はその場で深く溜息を吐いた。


 何気なく、少女は自分の両手を見た。確かに自分は生きている。怪物に殺される寸前だったのに関わらず、こうして無事でいられるのは、あの黒い怪人――レイブンに助けられたおかげなのだと思うと、改めて奇妙であり、不気味な恐ろしさも覚えた。


 遠くからサイレンの音が聞こえる。誰かが通報してくれたのだろうか――緊張の糸が切れてしまったせいか、意識をこのまま保ち続けるのが難しかった。


 少女は薄れゆく意識の中、思い出した。


 ――そういえば、噂話には続きがあった。


 怪物を狩る怪物。

 この町に暗躍する影の騎士。

 レイブンを殺すレイブン。


 漆黒の鎧を持つ都市伝説の怪人。

 


 路地裏に赤い光が明滅し、次第に警官の足音が近づいてくる。

 少女の意識は、ここで途切れた。

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