第7話

「■k■な……i■un■……いく■……」


 泡立つ声音。人の声ではないと断ずれる声であったが、アンナは確かに聞き取る。“いくな”、と。


「おお、意識が戻り始めたか。流石は永倉殿の教え子。優秀だ」

「ギ、ぎ■■……あ、まかす。や、た、がらす!! ヤタガラスッッ!!」


 咆哮と共に背中に生える、八枚にもなる緋火色金の剣翼から、先程操車場の三分の一を吹き飛ばした赫い刃が精製される。それも一つではない。瞬く間に十振り。数えている間に更にもう二振り。まだ増え続けている。それら全てが東條と甘粕へと向けられていた。


「そんなものを放てば操車場どころの騒ぎではなくなるというのに、まったく。だが、いいぞ。お前は英雄に至る傑物であると確信した。計画の仕上げが楽しみになったぞ」


 危機的状況だというのに、男は一切笑みを崩さない。むしろより笑みを深める余裕すら見せて、実に楽しげな素振りで妙法蟲聲經ネクロノミコンページを捲っていく。


 やがて、彼が手を止めると、じわり――東條と甘粕の輪郭が滲みはじめた。それを見たアンナは焦燥に駆られる。彼らが妙法蟲聲経ネクロノミコンと共に消えようとしているのがわかったからだ。


 後一歩踏み出せば、失ったもの全てを取り戻せる。

 妙法蟲聲経ネクロノミコンさえあれば、家族にもう一度会える。


 頭の中ではわかっている。だけど、なのに、彼女の足は動かない。目の前に突き刺さった刃に縫い付けられたのか。それとも血反吐を吐いてなお、引き留めようとする悠雅の紅蓮の眼差しに絡め取られたのか。


 そうしているうちに東條達の輪郭が完全に崩れる。虚空へと溶けだしているような印象を覚える光景だった。


「ハハハ、次会うまでに二番目物を終えておきたまえ。ではな、青年。それに英雄殿。そして、巫女殿も」


 その言葉がアンナの鼓膜を打つ頃には、既に東條たちの姿は失せていた。

 残されたのは一人の少女と老爺、そして、怒りの矛先を失った一匹の修羅。


「■■■■■■■■■!!」


 修羅は姿失せた宿敵に吼える。

 背負った剣翼を天へ地へと更に伸ばし、新たな刃を精製し始める。数え切れぬほどの刃の軍勢を前にアンナは一気に青ざめた。

 刃の脅威にではない。暴走する祈祷いのりによって破裂した皮膚から吹き出る血しぶきと目に見えるほどの色濃い霊力にだ。


 この調子ではいつ失血死してもおかしくないのだが、それ以上に霊力の放出量が尋常ではなかった。霊力が漏れ出ている状況が長く続くのは非常に危険だ。霊力の枯渇はそのまま精神の死を意味する。精神が死ねば考えることも、喋ることも出来なくなる。

 アンナは生ける屍となった彼の姿を想像して、どうしようもなく怖くなった。


「私の、せいだ……」


 赫い円光を仰ぎながらアンナは唇を噛んだ。自分が攫われ、悠雅が必死になって救い出そうとして、そのまま彼は堕天した。にも関わらず、妙法蟲聲經ネクロノミコンを目にしたアンナは、血みどろになった彼を忘れて東條の元へ向かおうとした。そんな自分がアンナは悍ましくて仕方がない。


「御身の責任ではない」

「……え?」


 新八の言葉に酷く情けない声が滑り落ちる。


「あれが裏返ったのは東條英機と甘粕正彦が原因だ。御身が責任を感じる必要はない」

「でも、悠雅は、だって、私を助けようとして……」

「あれは自らの意思で裏返ったのだ。御身を救いたい、そう思う一心で。だから、気に病むな。それでも、気に病むというのなら――力を貸せ。あやつを止めるぞ」

「どうやって?」

「御身はあやつの元に行って思い切りド突くだけでいい」

「ド突くって……」

「もう話している余裕はない。とにかく走れ!!」


 新八がアンナを突き飛ばした瞬間、赤黒い円光が一際まばゆく輝き、一斉に刃が射出される。一振りだけでも五〇ちょう(※町=ほぼヘクタールと同等の面積)はあろうという広大な操車場の三分の一を吹き飛ばす威力を秘めた緋火色金の刃が少なくとも千は下らない量、放たれた。

 このままでは操車場どころか帝都自体が吹き飛んでしまう。そう思い、自身の不甲斐無さを嘆くアンナは一杯に拡がる刃の群れを仰いだ。雪雲に覆われていた空は血の様に赤く染まり、終末を想起させる。


「鬼道発現――雲散無消うんさんむしょう


 神言しんごんが紡がれた声がして、空は瞬く間に美しい白銀の軌跡に塗り潰される。それが老爺の手にしていた白刃の色だとアンナが気が付いた時には、飛来する筈だった赫い刃、その全てが打ち砕かれていた。


「あれで大事な息子のようで孫みたいなものなのだ。だから、頼む。死なせたくない」


 焦燥を帯びた背を見て、アンナは再び唇を噛んだ。


(腐ってる場合じゃない。今は、あのバカを助けることに集中しなきゃ……!!)


 アンナは決意を固めるように拳を握り締める。


「ド突くって気絶させればいいわけ?」

「そうだ、意識を落として強引に霊力の流れを断て」

「わかった!」


 彼女は今度こそ走り出す。純粋に、悠雅を助けるために。同時に再度緋火色金んl刃が群れを成して飛来する。それを新八の手にする手柄山氏茂てがらやまうじしげが一つ残らず切り払う。


 祈祷いのり禁厭まじないを問わず。ありとあらゆる霊力による力を消滅させる祈祷いのり。いわゆる異能殺し。それが英雄、永倉新八が有する祈祷いのりだった。

 その力は当然、暴走した悠雅の祈祷いのりが生み出す緋火色金の刃にも効果覿面こうかてきめんで、触れるだけで消滅させていく。しかし、単に異能殺しの力を持っているだけでは視界が紅に染まる程大量に出現する刃を迎撃することは出来ない。凄まじい速力で移動しながら、天から降り注ぐ雨粒一つ一つを切り払うかの如き精密作業を可能にする技量と胆力が必要だった。


「大暴れしおって。随分強くなったじゃないか。だが、お前の目指すものは、こんなものではないだろう!!」


 怒鳴る新八に身を委ね、赫い堕天使の元へとアンナは走る。

 罪悪感もある。しかしそれ以上に、もう家族や友人といった大切な人達を失いたくないという思いが強かった。


「死なせない。アンタには言いたいこと、山ほどあるんだから!! だから――」



 大きく踏み込む。右腕を限界まで伸ばす。赤黒い円光が放つ熱にも怯まず、真っ直ぐ思い切り飛び込んで、アンナは彼の胸倉を掴む。


「――目ぇ覚ませ、このクソバカ!!」


 アンナ、渾身の頭突きが炸裂する。目から火花が散り、鈍い痛みが脳を揺さぶった。

 悠雅の背負っていた巨大な剣翼が次々と、音を立てて崩れ落ちていき、彼自身も操車場にそのまま倒れていく。


「悠雅!!」


 アンナは咄嗟に彼を抱き留め、ゾッとした。夥しい量の血液がアンナの服に染み込んできたからだ。霊力の過活動は収まったものの、未だ命の危険に晒されていることを改めて実感する。


「こんな所で死ぬんじゃないわよ」


 大切なものを失うのは、もう沢山だ。そう心の中で吐露するアンナは、黄金色の祈祷いのりを開陳する。

 此度は義理ではない。正真正銘、彼自身を想って。

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