帝都斬魔夜行 ―聖皇姫編―

蜂蜜 最中

第一章『聖皇姫編』

序幕『明け色の天女』

第1話

「呑気なもんだ……」


 露台バルコニーの手摺に寄り掛かり、彼は呆れ返った様子で呻いた。


 ざんばら髪を後ろで束ねた隻眼の青年。紅蓮の輝きを湛える右方の目は、刃を想起させるように鋭い。

 身に纏うは濃紺の袴に浅葱色の羽織。足には英国産の編み上げ革長靴ブーツ

 腰には拳銃と長脇差。背には身の丈近い、馬鹿に大きな赫銅しゃくどうの大刀を担いでいる。

 廃刀令が発せられて五十年近く経つにも関わらず、堂々と帯刀しているその若者の名は【深凪悠雅みなぎゆうが】。とある武装警備会社に席を置く剣士である。


 悠雅の目は、硝子ガラス越しに舞踏会場ダンスホールを見つめている。煌びやかな集飾電燈シャンデリアが見下ろす先には、蓄音機から流れる円舞曲ワルツに乗って優雅に踊る、華族たちの姿。礼服と色とりどりの煌麗服ドレスが咲き乱れるその様子は華やかなりし大正の世を体現するかのよう。


Do you want to dance踊らない?」


 ぼうっと光の園を見つめ続ける彼に、赤茶けた髪の毛の少女が声をかけた。欧州から来た企業令嬢なのだが、彼はやけに困った顔を見せる。


「あー、えっと……のー、いんぐりっしゅ、とーく?」


 ご覧の通り英語が堪能でない故、何を言われているかすらわからなかった為だ。


「What?」


 悠雅の辿々しい英語に小首を傾げる彼女の横から、硝子杯グラスを片手に小柄な少女、【辰宮瑞乃たつみやみずの】が顔を出す。

 濡れ羽色の髪を切り揃えた彼女は、瞳の色と同じ翠玉エメラルド装身具ブローチを胸に煌めかせ、薄紅色の煌麗服ドレスを翻し、白人の少女を窘める。


「彼は英語が喋れないのです。余り虐めないでくださいませ」

「あら、そうなの? ごめんなさいね、お侍さん。でも、辰宮家のお嬢様がわざわざフォローを入れに来るなんて、どこの良家の子息なの?」

「これが良家の子息に見えるのなら、病院に行くことを勧めますよ」

「それって日本流のジョーク? 面白いわね」


 白人の少女は心底楽しそうに腹を抱えて大笑いする。日本人は冗句ジョークがわからないと聞いていた彼女だったが、思いの外刺さって、中々悪くない、なんて思ってしまったのだ。


「じゃあ、どんな御関係なの? 私とっても気になるわ」

「ただの仕事仲間ですわ」

「ふぅん」


 何やらニヤニヤと、楽しんでいるというよりか、からかうみたいに少女は口角を上げた。


「なんでしょう?」

「いいえ、ただ辰宮家の令嬢は男に靡かないって界隈じゃ有名だったから。男じゃなくて女が好き、なんて噂もあったくらいだし」

「あら、意外とそうかもしれませんよ?」

「それも日本流のジョーク?」

「さあ? 事実かどうか試してみますか?」


 クスリと瑞乃が薄く笑むと白人の少女は「嘘をつくのは下手なのね」なんてからかい、そのまま手を振り去っていった。


「あの人、日本語喋れたのか」

「当たり前でしょう。この国で商売しようっていうんですから」

「確かに」

「ところで、困っていた貴方を助けた私への労いの言葉は?」

「そうでした。ありがとうございます、助かりました」


 悠雅が頭を垂れると、瑞乃は大きくため息を吐いて露台バルコニーの手摺に身を預ける。そんな彼女の肩に悠雅は浅葱色の羽織を掛けた。風邪を引かぬようにとの心遣いだ。それを受けた瑞乃は少し頬を緩めた。


「今夜は引き上げますか?」

「いいえ、仕事は果たしますよ」


 口を尖らせて瑞乃は高踵ヒールで床を蹴る。華族の人間としてこの場に招かれた瑞乃であるが、彼女には悠雅と同様に警備会社の人間としての役割もある。

 彼女の目は柔らかな光が漏れる舞踏会場ダンスホールの中へと向けられる。正確には、その中で躍歩ステップを踏む白人の少女たちへと。


 ここひと月ほど、連続して白人の少女が攫われる事件が起こっている。その下手人への対処に駆り出されている二人は、こうして白人の少女が集まる盛り場へと赴いたわけだ。


「現れませんね」

「ここには現れないのかもしれません」

「ここで待ち伏せた方が良い、と提案したのは悠雅さんじゃないですか」


 鼻を鳴らしてそっぽを向く瑞乃は「本当はこんなところ来たくなかったのに」なんて、口を尖らせる。


「二人で見回ってる方がとても有意義です」

「ですが、彼らを放置することは出来ません」


 悠雅は瑞乃の大きな目を見据えて。

 彼はどうしても弱者を見放すことが出来ない。それが彼の崇敬する師の教えだから。


「私、貴方の元雇い主ですよ?」

「それでもです」

「幼なじみなんですよ?」

「それでもです」

「酷い人」


 瑞乃は機嫌悪そうに、それでいて少しだけ口元を緩めて硝子杯グラスを傾ける。


「それ、三鞭酒シャンパンですよね?」

「いいえ、シュワシュワする葡萄充汁ぶどうジュースです」

「飲み過ぎないようお願いします」


 やれやれ、と悠雅は致し方なく見なかったことにした。するとそこに「おお、瑞乃嬢。ここに居られましたか」と、やけに芝居がかった声が降ってきて、同時に瑞乃の顔から表情が失せる。その無の顔からは、またか、の三文字が容易に見て取れた。


「このような寒空の下にいては風邪を引いてしまいます。さあ、どうぞ中へ」


 椿油で髪の毛を固めた肉付きのいい男がかつこつと革靴を鳴らし、瑞乃の前で恭しく頭を垂れる。どこぞかの良家の嫡男であろうその男は細めた目の端で悠雅へと視線を移す。


「まるで修羅のような尊顔の御仁だ。護衛としては最高の人材だが、瑞乃嬢の隣に置くには不適格かな」


 嘲り、そのまま流れるような所作で瑞乃の肩にかけられた羽織を払い除けた男は彼女の肩を抱く。その瞬間、悠雅は空気が凍てつくのを感じて息を飲んだ。


「触らないでいただけます?」


 氷点下の突入した声音でその手を払い除けた彼女は「わたくし、気安く女の体に触れる殿方が好きではありませんの」と、いやに綺麗な笑顔を湛える。


 淑女優先レディファーストの文化が浸透しつつある世の中。こう言われてはぐうの音も出ない。

 男は顔を引き攣らせ、舞踏会場ダンスホールへと引き下がっていった。


「余り敵を作るような発言は控えられた方がよろしいかと」

「あの程度ですごすごと引き下がるような男、敵になりません」

「ひょっとしたらお嬢の未来の旦那になる方かもしれないんですよ?」

「有り得ません。家の為に結婚だなんて死んでもごめんです」


 忌々しげに語る瑞乃は空になった硝子杯グラスを強く握る。華麗なる一族の闇は深い。それを短期間ながら間近で見たことのある悠雅としては、彼女の気持ちもわかってしまって、それ以上正論を述べることはできなかった。とはいえ、見過ごせぬ発言もあって「死んでも、とか言わないでください」と、咎めるように彼は言う。


「そのくらい嫌ということです。でも、気をつけます」


 目を伏せて項垂れる瑞乃は、払い落とされた浅葱色の羽織を拾い上げる。


 その瞬間、つんざく悲鳴が響き渡り、顔色を変えた彼女は露台バルコニーの手摺から身を乗り出して辺りを見渡す。


「いた」


 既に視線を飛ばしていた悠雅は、短く呟くと露台バルコニーから飛び降りた。時を同じくして瑞乃の瞳も、敷地の外へと逃れる悲鳴の主たる少女の姿と、闇の中に蠢く影を視認する。


「先行します」


 彼はそれだけ言い残して一気に駆け出した。

 門まで五十メートルほどある距離をものの二、三秒で駆け抜けた彼は大通りへと飛び出す。そんな彼を迎えるのは木と煉瓦と鉄で作られた摩天楼で埋め尽くされた帝都の街並み。

 星空は無数の空中回廊ブリッジで鎖されているが、無数にある街路灯のおかげで明かりに困ることは無い。


 悠雅は逃げ惑う西洋人の少女と、黒い影が路地に入る様を目撃する。彼は煉瓦の道を思い切り蹴り、その背中を追った。


 夜の帝都は弱肉強食の世界。非力なる者が出歩けば理不尽な暴虐に晒される。


 武器を持たない者は生きてゆけず。

 禁厭まじないを持たない者は抗うことができない。

 祈祷いのりを持たない者は絶望に染まる。


「――させてなるものかよ」


 悠雅は街路灯を踏み台に、逃げ惑う少女と彼女を追いかける影の間を遮るように飛び込んだ。


「そのまま真っ直ぐ行け。辰宮の媛が保護してくれる」

「Thank you!!」


 何度も躓きつつその場から去っていく西洋人の少女の背中を流し見て、彼はうんざりした様子でため息を吐く。


「夜通し騒ぐからこうなる」


 やれやれと零しながら、彼は悪辣なる影へと視線を向けた。


 黒い外套と黒い仮面で全身を黒一色で埋めつくした、三メートルを超える巨漢。巷では黒外套くろがいとうなどと安直な名で呼ばれるその怪人は、全身から強烈な異臭を漂わせながら、くちゃくちゃと気味の悪い音を仮面の下で奏でる。


「逢い引き相手は食らったのか」

「テケリ・リ、テケリ・リ」


 鳥類に近い、奇怪な鳴き声を上げる黒外套は肩を揺さぶっている。その様子はまるで笑っているようにも見えた。


「やりたい放題やって、笑うか。小悪党。覚悟は出来ているだろうな?」


 彼は許さない。無辜の民に牙をむく者を絶対に許さない。彼は英雄を目指す者。邪悪を決して許しはしない。



 悠雅が一歩、また一歩と近づく。

 それに合わせて黒外套もまた近づく。



 紅蓮の独眼。狩猟者の殺意。


 それに対するは、


 闇よりも深い漆黒。捕食者の殺意。



 そして、二つの殺意が激突した瞬間、岩盤が裏返る。


 黒外套は街路灯を小枝のように片手でへし折るとその膂力を以て、凄まじい速度で投げつけてきた。

 風を切って一直線に飛来する街路灯。常人であれば直撃した時点で四肢は吹き飛び、肉体は木っ端と化すであろうその殺意の塊を身を逸らすことで回避する。


「落とし前、付けさせてもらうぞ」


 静かに怒りを燃やす彼は、背中に背負う極大の刃を握る。


「やるぞ、アマ公」


 悠雅は犬歯を剥き出しにした、怒気に満ちた顔でその刃を抜き放つ。


 あらわになる一振りの赤茶けた赫銅しゃくどうの大刀。姿形は辛うじて剣という形をしているがその実、鉄塊という呼び名の方が合っている様に思える。それ程までに重く大きい。


 刃紋はもんしのぎつばつか、刀にはあって然るべきなもの無く、ただただ馬鹿でかい刀身と肉厚な刃になかごが付いているだけで完結している。申し訳程度に巻かれた滑り止めの麻布だけが唯一の装飾として存在を主張していおり、文明発展めざましき二十世紀には似つかわしくない武装である。


 刀剣にある美麗さの類いを一切排除して、何が何でも敵を叩き切るといった製作者の意図、執念を感じさせる。


『我が名は【天之尾羽張アメノオハバリ】である。貴様こそ何度説けば気が済むのだ? 大和の子ならば名を重んじよ』

「そりゃあ悪かったな。悪いついでに力を貸せ」

『それに関しては論ずるに値しない。それが私の存在理由だ。思う存分振え、‟神”よ』


 手にした極大の刃から響く壮年の男の声を聞いて彼は薄く笑い、赤銅の大刀を深く握りこんでまぶたを閉じる。

 己が祈祷いのりを開陳すべく、魂の輝きたる霊力を励起させ、神言しんごんを以て、世を言祝ぐ。


「――輝きは北にあり、切っ先は南を見ゆ。戦塵に走る剣閃一つ。死は別離を生み、私とお前の天を分かつだろう。私の生きる場所とお前の生きる場所を分かつだろう――」


 それは解言。封じたものを解きほぐす言の葉。

 それは祝福。ここにあらわれたる神威の調べ。

 それが神言しんごん現世うつしよに降臨せし覇道の唄。


 いのる。

 いのる。

 いのる。

 いのる。

 いのる。

 いのる。

 いのる。

 いのる。


 それのみを願い祈る。

 魂を満たす祈祷いのり堰堤かきを破り、溢れだす。


「鬼道発現、‟壊刀乱摩かいとうらんま”」


 その赫刃しゃくじん。そして、それを振るう者とは即ち、神である。


 神言しんごんの結びと共に、影が差した。霊力の胎動を気取った黒外套が放置されていた自動車を投げ付けたのだ。

 しかし、赫銅しゃくどうの斬光が瞬くと同時に自動車は細切れに切り裂かれ、地に落ちた。

 煉瓦の道に落ちた車の残骸は、どれも真っ直ぐ。豆腐でも切ったかのように、切り口鮮やか。


 ――現人神あらひとがみと呼ばれる超人が、この世には存在する。彼らは自己の願いから生まれる、祈祷いのりという超常の力を振るう。


 悠雅もその一人であり、彼の有する切断の祈祷いのりはどれほど硬い丈夫な金属であっても、それが物体であるなら切断せしめる祈祷いのりであった。


 尋常ではない光景に、本来人を脅かす側の黒外套はたじろぐ。しかし、悠雅は手心を加えることは無い。

 悠雅は間髪入れずに緩慢無く斬りかかる。が、黒外套は身を翻すことでその剣呑なる凶刃を回避する。続けて、思い切り飛び退き、その名の由来である黒い外套を取り去った。


 外套の下にあったのは黒くてらてらと光沢のある皮膚。街路灯の明かりを受けて七色に輝くそれは、重油や焦油タールに近い。そして、何よりも目を引くのは身体中に浮き出る無数の眼球と口であろう。


 常人が視認すれば即座に発狂するであろう、その姿は正しく魑魅魍魎の類と言い切ることができよう。


「いよいよ本性を現したか」


 しかし、悠雅は微塵も臆することなく怪物と対峙する。瞬間、黒外套の肉体が沸騰するように泡立ちながら肥大化を始めた。

 やがて、黒外套は通りに並ぶ摩天楼を超えるほどの巨人となって、悠雅を踏み潰さんと前進し始める。


 黒外套が進む度、煉瓦造りの道が踏み砕かれた。相応の重量を持っていることが伺える。さながらダイダラボッチとも呼べる姿だ。しかし、悠雅に引く様子はない。

 天之尾羽張を構え、むしろ今にも飛び出さんと前傾姿勢を取る。


 莫大な質量を相手に剣一本で立ち向かうなど、一般的な思考を持つ人間ならばまずやろうとは思わない。もしくは、やろうと思ってもできない行為だ。

 しかし、彼と天之尾羽張、そして彼の祈祷いのりがあれば可能になる。


 呼吸を一つだけ零し、彼は跳躍する。


 彼は英雄になりたい。ならなければならない。英雄たる者、敵に屈してはならない。魔を切り伏せなければならない。


「斬る」


 赫銅しゃくどうの斬光が走る。音はない。黒外套が突き進む音も、奇天烈な鳴き声も、呼吸の音すらも。

 直後、真っ二つに斬り開かれた黒外套の体は、弾け飛んだ。


 皇紀二五七八年。西暦一九一八年、大正七年十二月しわす。歪つなる帝都には今宵も魔に満ちている。

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