幕間
魔人と英雄
「――つまらん国になったものです」
悠雅たちが東京駅の地下をさまよっていた頃。
浅草に並ぶ木造の楼閣の一つ。その最上階に構える、とある一件の料亭にて一人の陸軍将校が
「私の目には今、この国が灰色に見える」
薄く燻る煙を睨んで忌々しげに口にするその男は、窓辺の鴨居に腰かけて蜂蜜酒を掲げると、灯篭の光が蜂蜜酒にじんわり滲んだ。落ちてくる光には黄金色が染み込んでいて、夕日を眺めているようだった。
五十年前に明治維新を経て、徳川の世は滅んだ。
新時代の幕開け。文明の夜明け。大日本帝国の黎明。
閉塞していた徳川の世からようやく脱却できたはずなのに、結局海外の顔色を伺うばかりでこの国の本質は何一つ変わっていなかった。
「戊辰戦争と日露戦争の時は良かった。あれぞ日本男児の本懐だと思いませぬか、大将閣下?」
「戦争を良かったなどと宣うな馬鹿者。それに私はもう軍属ではない」
問われた老爺は将校を一喝して冷酒を煽った。腰には打刀と長脇差を挿し、草履を履いて、一人幕末に取り残されたような時代錯誤の装いをしている。
そんな老爺は将校を
「束の間の平穏の尊さをお前は理解しておらん」
「皇国最大の牙である貴方が何を仰る。閣下と乃木大将閣下が挑んだ旅順攻囲戦での武勇は、今でも私の中で憧れなのです。私も皇国軍人としてかくあるべきと思ったものです」
「受け継ぐのはその心だけでいい。
「そういう訳には参りませぬ。我らは貴方がた先人に学ばねばなりません。外つ国は優しくない。我が国はもっと牙を育てるべきなのです。育てなければならんのです。日英同盟もいつまで続くかわからない。
「だから兵器や
「不服しかありませんよ。かつての
「それでその第一歩が、この惨状か?」
老爺が視線を将校から外して辺りを見回す。彼の視界には真っ赤に染まった壁、襖。そして、虚空を見つめたままピクリとも動かない血塗れの男達が血の海に沈む姿が見えた。そのどれもが顔も名も通った大貴族や皇軍や政府の高官たちであった。
「こんなことをして何になる?」
「無論、改革です。そして、この国を本当の意味で強い国にする」
「お前一人の手で何が出来る。人の力は偉大だが、人ひとりの力は脆弱極まりないものだ」
その言葉に対して男は口の端を尖らせる。
「できますとも。なぜならば、私にはこれがある」
男が取り出したるは薄汚れた一冊の本と豪奢な調度品。
書の方は滑らかな装丁をしていて丁寧に作られてあるが、黒ジミからはその年季を感じさせる。
そして、調度品の方は大粒の宝石と金細工で飾り付けられており、書とは打って変わって煌びやかで、ただの
どちらもそのテの好事家に売りつければ、それなりの額が付きそうな代物であるが、その書と調度品へと注がれる老爺の視線はいつか立った戦場でのそれであった。
「
「流石、お耳が早い。
邪悪に笑む将校は自慢げに語る。
「甘粕という男は中々優秀な男でして。目を付けて来た甲斐があったというもの。この二つに、“尊き巫女の血”が揃えば全てが
「そんな話はどうでもいい。貴様、この国を魔界へと変える気か?」
「魔界などではありませんよ。私が作るのは
「ならばよし、やはり貴様は私の敵だ」
「貴方なら、そう言うだろうと思っていました。しかし、たとえ、貴方であってもこの
「国とは人だ。その人を蔑ろにした国に未来はない」
「蔑ろになどしておりませんよ。むしろ人を尊んでいる。それ故に事を起こすのです」
「貴様の自己満足に他者を巻き込むなッ!!」
一閃。白刃が煌めく。その刃は将校に向かって放たれて、しかし、その刃は虚空を切った。
その場にいたはずの将校の姿はそこに無く、彼の声のみが残響する。
『
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