第3話 決意と夢とロマン

灼熱のアスファルトの上を、真黒いワゴン車が疾走していた。

千葉は、スモークガラス越しに太陽を仰いだ。


1年前の夏。

九十九里 片貝海水浴場。

波打ち際で、楽しそうに妻と娘が砂の山を作ってる姿を思い出していた。



照りつける太陽の下、潮騒が安藤に歌うように話しかけていた。


我は海の子白浪の

さわぐいそべの松原に

煙たなびくとまやこそ

我がなつかしき住家なれ


安藤も小さな声で歌った。


生れてしおに浴して

浪を子守の歌と聞き

千里寄せくる海の気を

吸いてわらべとなりにけり


高く鼻つくいその香に

不断の花のかおりあり

なぎさの松に吹く風を

いみじき楽と我は聞く


この時の安藤は、実に穏やかな表情をしていた。

丸眼鏡の下は、決意と夢とロマンが満ちていた。


太平洋の大海原。

神奈川県茅ケ崎海岸。


この日、歩兵第三連隊の教官であった安藤は、下士官候補者を連れ水泳訓練に来ていた。

宿泊は、近くの茅ケ崎小学校の校舎を借りた。

厳しい訓練ではあったが、血気盛んな若さ溢れる候補者達の英気を養うのには最高の環境であった。

ちょうど学童達の夏休みの時期であり、隔離された生活を送っている候補生達と子供達の交流も目的の一つでもあった。

当時、このような水泳訓練はとても考えられないことだった。第一、訓練費など支給されてはいなかったからだ。しかし、安藤は自らの信念で思い切って連隊長であった後のマレーの虎、山下奉文に掛け合い許可を得て実施に漕ぎ着けた。山下も、少ない訓練演習費から経費を捻出してくれた。これは、山下が安藤の人格に一目置いていた現れだったかも知れない。

安藤は、足りない費用を夏季手当の全額をつぎ込んだ。妻 房子はこの夫の行動に呆れながらも誇らしく感じていた。


爽やかな海風。

海に沈む赤く燃える夕日。

それを背にした、安藤が日に焼けた真黒い顔をした候補生達に語り出した。


「諸君は 今の不況にあえぐ日本の状況をどう思うか? 諸君のほとんどは 農村漁村の子である 今や諸君の親は掛けがえにない働き手を国に取られ 困り果ててるのだ 諸君らは月々支給されている僅かな給金のほとんどを実家に送金している それでも足らず 諸君らの姉や妹達が 次々と遊郭に売られて行く それなのに 権力の座にある政治家 役人 高級軍人達の大半は 敢えてその現実から目をそらし自己の私利私欲にのみ走っている 果たしてこんなことで良いのか!」


安藤の声が、潮騒をつんざいた。


「庶民は この状況に胸を痛め 情勢の根本的な変換を願っている 今や 庶民は昭和維新の断行をひそかに望んでる しかし 我々の準備はまだ出来てなし 木も熟してはいない 我々が決起する時は完全なる成功が見込める時期である」

その時、勢いよく一人の候補生が手を挙げた。

「質問!」

「何だ?」

「その時期とは何時なんでありましょうか?」

安藤は少しの間をとって呟いた。

「そうだな・・・」

候補生が続けた。

「明日にも 私の妹が売られそうなんです! 昭和維新は何時でありますか!」

別の候補生が口を開いた。

「私の母は食うものがなく 餓死しました! 昭和維新は何時でありますか!」

別の候補生が叫んだ。

「私達も参加出来るのでしょうか!」

候補生達は、安藤を見つめた。

安藤も、候補生達を見回した。

皆、凄まじい気迫を滾らせた表情であった。


この時、改めて安藤は昭和維新の断行を決意した。



千葉が呟いた。

「果たして木は熟しているのか・・・」


決起、前年の春。

三重県宇治山田駅のホーム。

滑り込んできた電車から、スーツ姿の千葉が降り立った。

小さな旅行用カバンを手にぶら提げたそのいで立ちは、まるで一泊二日で出張に来たサラリーマンの様であった。


桜が満開の伊勢路。

次々と男達が集まって来た。

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