Ⅰ‐Ⅱ 玉子さんを探そうとは思わないんですか?

玉子が住むマンションの前に着いたときは、少し息切れがしていた。


昇降機エレヴェーターに乗り、玉子が住む階まで昇った。


空は既に暗くなりつつあった。西には茜が淀んでいる。


その部屋の前に立ち、インターフォンを鳴らす。


しばらくして、はい、と玉子の母親の声が聞こえてきた。


「あ、遅くにすみません――寿です。玉子さんはおられますか?」


玉子ですか――と訝しがるような声がした。


「玉子なら、十分ほど前に貴女と出かけたはずですけど?」


「えっ――?」


予想外の答えに、しばし困惑した。


「あの――どういうことですか?」


「どういうことも何も、今日は貴女たちと出かけるんでしょう? 少なくとも、私はそう聞いていますけれど。今日は、寿さんや鈴木さんと夜から映画を観に出かけてくる――って。それから、色々な処で遊んできて、十一時頃に帰るから、晩御飯はいらないって。」


どうやら、玉子はまた何か嘘をついているらしい。


「私――そんな約束なんかしてませんけど?」


しばらくしてから、そうなんですか、と素っ気ない返事があった。


「あ、あの――私、どうしても話したいことがあったので、さっき玉子に電話をかけたんです。それで、玉子は電話に出たんですけれど、電車の中だからあとにしてって言われて、切れたんです。けど――どうも電車に乗ってるようには思えなかったんで、どうしても気になってここまで来たんですけれども。――」


「じゃあ、かけ直したらどうですか? 電車の中にいたんだったら、通話がはばかられるのも当然だと思いますけれども。」


その冷たい返答に、司は違和感を覚えざるを得なかった。


「あの――玉子さんのことが気にかからないんですか?」


「気にかかるとは?」


冷たい風が司の頬に吹きかけている。


「だって――玉子が私と出かけただなんて、嘘ですよ? 多分、代美とも一緒にはいないと思います。それに、夕方に出かけて十一時まで帰らないだなんて、あまりにも遅すぎると思うんですけれど。」


軽く溜め息を吐く音が聞こえた。


「確かに――どこに出かけてるんでしょうねえ。まあ、そのことについては、帰って来てから問い詰めて叱ってあげますから。」


その無関心そうな対応は、司をさらに混乱させた。


「玉子さんを探そうとは思わないんですか?」


「探すって――どうやって探すっていうんです? 娘がいなくなりましたから探して下さいと警察にでも連絡するんですか? どうあれ、十一時には帰ってくるわけですから、そのあとで問い詰めたほうが誰にも迷惑はかからないじゃないですか。」


確かにそうではあると思った。しかし、この妙に落ち着いた態度は何なのであろうか。普通ならば、もう少し驚きそうなものであるが。まさか、玉子は本当は家の中にいるのではないかとも思った。


「それでは――私は家事があるので、そろそろいいですか?」


踌躇いがちに、はいと答えると、通話の切れる音がすぐにした。


司は呆然としたが、やがてとぼとぼと昇降機のほうへ向けて歩き始めた。空は暗く、地上には星よりも明るい光が瞬き始めている。


あの、娘に対して無関心そうな態度は何なのであろうか。司はそれが気になって仕方がなかった。ただし、それが怒ったときの玉子の態度とやたらと似ていることを考えれば、やはり親子なのであろう。


先ほどの会話の内容を仮に信じるとして――。


玉子は今どこにいるというのであろう。司や代美はもとより、親にまで秘密にしてまで出かけなければならない処というのは――一体どこなのか。しかも、出かけたのは日没前であり、十一時になるまで戻らないという。


――秘密の彼氏でもいたとか?


しかし、それは玉子のイメージにそぐわない。


――まさか、援――。


それはさらにイメージからかけ離れていたし、何よりそのような想像を行うこと自体が、友人に対して失礼であるような気がした。


昇降機に乗り、一階まで降りてゆく。身体が軽くなったような感覚の中で、玉子が行きそうな処――このような時間帯に出かけるような処について想像を巡らせる。


昇降機が停まり、扉が開いた。


マンションから出て、ふと司は玉子の言葉を思い出した。


――五月にさ、都内で大規模な日韓断交デモがあるんだって。


ほら。


――けど、こんな画像を掲げながらこんな日にやるなんてね。


そのデモについては、司もいつのことか呟器で目にしたことがある。ネット上でちょっとした盛り上がりとなっていたからだ。参加者は、そのときだけでも七百人近くいたように思う。その人数の多さが、なおのこと司の心を冷淡なものとさせていた。


――それでも。


あのデモが開催されるのは、恐らくは今日だったのではないか。そう考える根拠が司には一つあった。


司は立ち止り、スマートフォンを取り出して検索をかけてみた。デモに特設のホームページなどはなく、ただ主催者の男の呟器がその役割を果たしているようだ。


間違いがなかった。


司の記憶どおり、開催日は今日であった。開催時刻は日没と同時であり、それはおおよそ十八時半ごろであるという。出発場所は淡路公園であり、都内を一周して元の場所へと戻ってくるという。解散予想時刻は十時半であるとのことであった。


――いや、そんなまさか。


司は何度もそのつぶやきを読み返した。玉子の家から淡路公園までは徒歩で行けない距離ではない。開催時刻および解散時刻は、玉子が家を出た時間とも、帰ってくる時間ともおおよそ一致する。何より、こんなデモに参加することは親にも友人にも言えない。


――充分にあり得るか。


玉子のイメージにそぐわないものでないばかりか、何よりも玉子自身がこのデモのことを気にかけていたのである。


西の空では、今まさに茜が消えかけている。


――行くだけ行ってみよう。


司は Rhein のアプリを開き、父に向けてメッセージを打ち始めた。


「ごめんなさい。ちょっと帰るのが一時間ほど遅くなるかもしれません。玉子が変なデモに参加するかもしれないので、ちょっと探して止めてきます。一時間して、見つからなかったら帰ります。」

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