ⅩⅢ 生まれて初めて見た。

複数種類聞こえていたサイレン音は、やがて大きく、その数も多くなっていったが、次第に鳴りを潜めていった。遠くから聞こえていた銃声もまた、いつの間にか消えていた。騒動が沈静化しつつあることは書店の中からも分かった。


書店の中から、避難していた人々が次々と出てゆく。


「そろそろ、大丈夫かな――?」


司がそう問うと、熾子は曖昧な顔をしてううんと唸った。


「多分――もう大丈夫なんじゃないかと思うけど。」


俯いていた玉子が顔を上げた。


「みんな外に出ていっていますし、大丈夫だと思います。それに――司も早く病院に行かなきゃ――。傷口もまだ消毒してないし。」


そうだね――と司は同意の声を出す。


「司――起き上がれる?」


司は上半身を起こし、左膝を立てた。右足にはまだ痛みがある。


「うーん。やっぱ駄目っぽい。」


熾子は玉子に目を遣った。


「じゃあ、とりあえず二人で運んでいきましょうか。」


玉子は踌躇の表情を見せたものの、ええとうなづいた。


二人に抱えられ、司は起き上がる。


運んでいる途中、熾子は司の海老に不思議そうに眼を遣った。


「それにしても――その海老は何で取れないわけ?」


「私にも分からないの――。どういうわけか、頭に載せてる限りは逆立ちしたって落ちないの。」


入口に近づき、外を窺う。警察官たちが交通整理を行っていたり、手錠をかけられた暴徒たちが護送車に乗せられたりしている。あちこちではまだ焔が燃え残っていた。通行人たちは不安そうな顔をしていたが、もはや身命しんめいに危険のあることは起こりそうにない。


三人は外へと出る。


司は、似たようなことが一年前の春休みにもあったような気がした。


「とりあえず――どこかに坐らせましょうか。」


熾子のその言葉に、玉子はうなづいた。


二人は周囲を見回す。植栽うえこみの手前には三十センチほどの高さのパイプが巡らされていた。ちょうど背もたれになるように街路樹も生えている。玉子はそこを目で指し、じゃあ、そこにと言った。


二人の手を借りながら、司はパイプの上に腰を下ろす。


ところで――と玉子は言った。


「司はお父さんに連絡したの? 家から出たまんまなんじゃ。――」


「あ――」


司は背筋が冷えるのを感じた。


慌ててバッグからスマートフォンを取り出す。時刻は二十時を廻っていた。しかも五件もの着信が父から入っている。


「ちょっと、お父さんに電話入れなきゃ!」


そう言い、父へと電話を入れる。耳に当てたスマートフォンの感触はいつもより冷たい。呼び出し音が一つ、二つと鳴り、父が出た。


「司、今どこだ?」


岩に触れたような、硬くて冷たい声であった。


「ごめんなさい。――今、アキバ。トラブルに巻き込まれて、周りがうるさくて着信に気づけなかったの。本当にごめんなさい。少なくとも、私は無事だから。詳しい事情は、今すぐ帰って説明するから。」


「ああ――なんか、アキバが凄いことになってるみたいだな。」


電話の向こうから、嘆くような声が聞こえる。


「あんま帰りが遅いもんで、何度も電話を掛けたんだよ。けれども出ないもんで、ちょっと探しに出ていたところさ。敦巻さんが変なデモに参加するかもって書いてあったから、その変なデモで検索もかけてみたよ。そしたら、アキバでどんちゃん騒ぎが起きてるって出たからさ――まさかと思って近くまで来てみたんだが。」


「ごめんなさい。――けれども私は無事だし、今からすぐ帰るから。」


「いいよ。どうせこっちも今アキバにいるから、迎えに行くよ。具体的に、今どこだい?」


司は、現在いる場所の詳細を父に伝える。


「よし――分かった。今すぐ行くから。」


「うん、ありがとう。」


そう言い、司は電話を切った。


「迎えに来てくれるって。」


よかった――と言い、玉子は微笑む。


そしてふと、足元に転がっているものに目が留まった。手のひら大の小瓶であり、ラベルにはハングルが書かれている。気にかかって、その文字を読み上げた。


「グク――ッポン?」


「あ、それ『Gukppongグッポン』じゃん。」


熾子は呆れたような声を出した。


「韓国の飲み物なの?」


「安い焼酎だよ。『グク』は『国』という漢字、『ッポン』は『ヒロポン』の『ポン』。呑んだら無条件愛国主義者になるよ?」


司は小首をかしげる。


「愛国覚醒剤ということ?」


「まあ、何かに覚醒するっていう意味では合ってるかもね。」


何かとは何であろう。司はしばらくその意味を考えた。


そして、怒りは麻薬だという代美の言葉を思い出した。


「熾子さん――」


ふと聞こえた声に顔を上げると、玉子は目を伏せつつも、顔を熾子に向けていた。その表情は苦しそうであり、悲しそうでもあった。


「今日は――その――ありがとうございました。」


司を助けて下さって――と玉子は言う。


「そして、先週は――」


玉子の声を遮り、ううん、と熾子は言う。


「いいの。どうせお互い様なんだから。叩いたのは私なんだから。」


玉子は目をまるくしていたが、やがて、そうですかと言った。


「熾子さんは――これからどうするんですか?」


今度は熾子がきょとんとする番であった。


「これから?」


「探したい人がいたから、ここまで来たんじゃないんですか?」


「あ――」


熾子はその紅い瞳を下へと落とす。


「私は――もういいよ。恐らくは見つからないと思うし、ひょっとしたら何かの見間違いだったかもしれないし――。間違ってなくても、あの騒ぎならひょっとしたら死んでるかもね。」


ゴムを擦り合わせるような、きゅっきゅという音が聞こえてきたのはそのときであった。どうやら鳥のき声のようだ。


顔を上げると、何メートルか離れた街燈の上に、からすほどの大きさの黒い鳥が止まっていた。腹部は白く、黒い羽にも流線型の白が流れている。そして、尾は扇子のように長かった。


「――かささぎだ。」


司は感心して呟く。


「生まれて初めて見た。」


そうなの――と熾子は問うた。


「だって、日本にはあんまいないんだもん。」


物珍しさから、司はしばしかささぎに見入っていた。けれども、それもあまり長い時間のことではない。かささぎはその流線型の白に彩られた翼を拡げ、街燈から羽ばたき、そして急降下してきた。司のほうへと一直線に飛んできて、頭の海老を素早く咥えた。


「あっ――!?」


頭の上の重みが消える。鵲は素早く南のほうへと飛んでいった。


「待て! 泥棒鵲どろぼうかささぎ!」


鵲の飛んで行ったほうへと、司は力なく左腕を伸ばす。しかし、言うまでもなくどうすることもできなかった。鵲は夜空の中へと消えた。司はただ、ぽかんと口をあけたまま虚空を見つめるしかなかった。


なんと貪欲な鵲であろうか。しかし、どうせ海老は毎日替えている。海老の表面には山葵わさびが塗ってあるし、あんなものを食べてしまったら、鵲もいつかの玉子と同じ顔をするに違いない。


夜空から地上へと視線を落とす。


ふと、歩道の向こうから歩いてくる二人の男の姿が目に入った。一人はドラえもんのように太っており、もう一人は痩身でマッシュルームみたいな髪型をしている。特に前者の格好は異様であった。頭には小型の旭日旗を二つ挿し、「主催者」と書かれた襷を垂らしている。


マッシュルーム頭の男の視線がこちらを向いた。


そして、どういうわけかぎょっとしたような顔となった。


踵を返し、一目散に逃げ始める。


間髪を入れず、その背後を熾子が追いかける。


熾子の足は――男よりも遥かに早かった。駆け上がるようにぴょんと地面を蹴ると、男の背中へとドロップキックを喰らわせた。


갸악ギャアッ!」


悲鳴を上げ、男は地面へ倒れた。


地面へ着地すると同時に、熾子は空かさずその腕を引っ張り、背中の上に覆いかぶさって十文字固めを決めた。


やっぱりヨクシ・お前かノヨンニャ!」


「熾子! もうギブイジェ・ハンボク! ギブギブハンボガンボク!」


韓国語で何事かを叫びつつも、男は手足をバタバタとさせる。


太った男が二人へと駆け寄る。


「お、おい! 一体何事なんだよ!」


司はそれを、ただ遠巻きに眺めていることしかできなかった。玉子と視線を交わす。やはり玉子もきょとんとした表情をしている。そして司の前で背を向けてしゃがみ、乗っかって、と言った。


言われるがまま司は玉子に負ぶさり、熾子の元へ近づいた。


「熾子! 一体何が――!?」


熾子は十文字固めを解き、立ち上がる。男は、地面に手を突いたまま「アヤアヤ」などと言い、背中をさすっている。その様子を、熾子は冷めた視線で見下ろしていた。


「こいつだよ、私の元彼。」


唖然として口を利けなかった。目の前のこの男が――あの噂に聞くキムチ男言語三級だというのか。なぜこんな処にいるのだ。


太った男もまた、驚愕の視線を熾子へ送っていた。


「えっ、じゃあお前が噂のキムチ女?」


「誰がキムチ女だっ!?」


男は怯んで黙り込んだ。


再び元彼へと視線を下ろし、熾子は問う。


「お前は一体何でこんな処にいるんだ? しかも嫌韓デモで演説してなかったか?」


「ああ、いや、あのあの、そのだな――」


視線を左右に泳がしつつ、元彼は立ち上がる。


「俺さー、ちょっと日本旅行に来てたんだよ。そしたら、そこにいるデモの主催者と意気投合しちまってだな――それで、面白そーだったし、参加してみることにしたんだよ。」


熾子は元彼の頭をバッグで思いっきり引っ叩いた。


アホかパボニャ・お前はノン!」


殴られた頭を上げる間も与えず、胸倉に掴みかかる。


「面白そうだから같은ガトゥ 理由로ニユロ 嫌韓데모에ヒョマンデモエ 參加하는チャムガハヌン 놈이ノミ 있겠냐イッケンニャ!」


太った男が熾子の前に手をかざし、止めにかかった。


「ま、まあまあまあ! こんな処で痴話喧嘩なんかしてもしかたねえぜ! とりあえず落ち着こうよ! な?」


まるで汚いものに追われるように、熾子は胸倉から手を放す。


その様子をぽかんと見つめていて、司はふと口を開いた。


「熾子って、日本語のときと韓国語のときじゃキャラ違くない?」


今度は熾子が狼狽を見せる番であった。


「あっ、いやっ、えっ――そうかな?」


「あ、あのあの、あのっ――」


キムチ男言語三級さん――と玉子は言う。


玉子はバッグから大学ノートとサインペンを取り出し、白紙のページを開いて、呆然としている彼に差し出す。


「ファンです――サインください。」


しばらくして彼は納得した顔となった。


「おう、いいじぇ。こういうときのために練習してたんだ。」


彼は大学ノートとサインペンを受け取った。熾子は額に手を当て、非常に大きな溜め息を吐いた。ノートとペンが返されたとき、そこにはやけに洒落た文字で「怒れる嫌韓女子高生 たまちゃんへ キムチ男言語三級」と書かれていた。


クラクションの音が聞こえた。


振り返ると、一台の軽自動車が徐行しながら司の元へと近づいてきているところであった。軽自動車は司のすぐそばへと来て止まった。運転席のドアが開き、和服を着た人物が降りてくる。


ちょうど極道映画に出てくるような――。


「司――あんま親に心配かけるもんじゃないよ。」


司は項垂れ、再び謝罪の言葉を出す。


「――ごめんなさい。」


あっ――と太った男は声を上げる。


「お前、あの寿司屋のアンチ野郎!」


「おや?」


父は冷めた視線を男へと向ける。


「貴方がたは、いつかの迷惑なお客さんじゃないの。一体全体、何が起こってるっていうんだろうねえ?」


「親御さんなの?」


熾子から問われ、うんと司は答える。


「私のお父さん。」


熾子は軽く目を見開き、瞳を上下させてその人の全身を眺めた。


「お――おとう――?」


「お父さん、こちら、例の韓国人の金熾子さん。」


熾子へと手をかざし、司は紹介を始める。


「何だか色々と騒動に巻き込まれちゃって、今は脚も怪我してる状態なんだけど、熾子さんと玉子のお陰で助かったの。」


「はあ――。大丈夫なのかい?」


「うん。とりあえず大丈夫っぽい。」


「まあ――それならよかったが。」


寿司男は熾子へと向き直り、軽く笑みを作った。


「初めまして、寿ことぶき七五三男しめおと申します。司の父です。以後、お見知りおきを。」

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